-2148-

資治通鑑巻第六十八

翰林学士兼侍読学士朝散大夫右諫議大夫知制誥判尚書都省兼提挙万壽観公事上護軍河内郡開國侯食邑一千三百戸賜紫金魚袋臣司馬光奉敕編集

後学天台胡三省音註

漢紀六十起強圉作噩(丁酉),尽屠維大淵獻(己亥),凡そ三年。

孝獻皇帝癸

建安二十二年(丁酉、217年)

1春,正月,魏王である曹操が居巣に軍し居巣県,廬江郡に属する,春秋の巣國である。宋白曰く:今は軍を為すことなど無い,本もと巣県之鎮を為すこと無かったことから,曹操が呉を攻めんとして,此に於いて築城したが,功が無かったため而して退いたのである,因号無為城。濡須水の上壖の地に臨み,秦、漢は居巣と為したが,春秋のころは但だたんに巣とだけ名づけられていた,辞有詳略耳。考異に曰く:孫権伝では,曹公は居巣に次いで,濡須を攻めたが,並んで去冬(去年の冬)に在ったことになっている。今は魏武紀に従う。孫権は濡須を保ち,二月,曹操は進んで之を攻めた。孫権が保った所というのは<者>,十七年に築いた所である濡須塢のことだろう也。

初,右護軍の蔣欽が宣城に(駐)屯しており,宣城県は,丹陽郡に属する。賢曰く:故城が今の宣州南陵県の東に在る。蕪湖の(県)令である徐盛が蔣欽の屯吏を収めて,表して之を斬った。蕪湖県は,丹陽郡に属する,春秋でいう呉鳩茲之地である。宋白曰く:以って其の地は卑しく,水を畜えているが深くはなく,而して蕪藻が生えている,故に曰く蕪湖なのである。孫権が濡須に在るに及び,蔣欽と呂蒙が諸軍の節度を持っていた,(それなのに)蔣欽は徐盛之をことごとに称えた。孫権が之を問うと,蔣欽曰く:「徐盛は忠にして而して勤強であります,膽(胆)略を有し,器用好,

-2149-

万人督(万人に督たるものです)也。今大事は未だ定まっていないのですから,臣は当に國を助けて才を求めるべき,豈に敢えて私恨を挟んで以って賢(才)を蔽うものでしょうか乎?」孫権は之をとした。

三月,曹操は軍を引きつれて還ると,伏波将軍の夏侯惇、都督の曹仁、張遼等二十六軍を留めて居巣に駐屯させた。晉志に曰く:光武の建武初め,四方を征伐するにあたり,始めて督軍御史を置いた,事が竟わると,罷めた。建安中,魏武が相と為ると(丞相となると),始めるに大将軍を遣わして之を督させた,二十一年,夏侯惇に命じて二十六軍を督させたのが是である也。蕭子顯曰く:漢の順帝の時に,御史中丞の馮赦が九江の賊を討ったおり,揚、徐二州の軍事を督した。何、徐の宋志は(由来を)魏武に起つものと云い,王珪之職儀は(由来を)光武に起つものと云うが,並んで非ずである也。孫権は都尉の徐詳に令して曹操に詣でさせると降らんことを請い,曹操は使いを報い脩好すると,重ねて結婚のことを誓わせてきた。降,戸江翻。使,疏吏翻。好,呼到翻。重,直龍翻。孫権は平虜将軍の周泰を留めると濡須を督させた;平虜将軍,蓋孫氏創置。朱然、徐盛等が皆部する所に在ったが,以って周泰が寒門であったため,服さなかった。寒門とは,出た所(出身)が微であること(権勢のない家柄であること)を言う也。孫権は諸将と会すると,大いに酣楽を為し,周泰に衣を解くよう命ずると,孫権手から自ら其の創痕を指さして,楽,音洛。創,初良翻。問以所起(その傷跡が生じた由来を問うた),周泰は輒ち記昔戦処以対。畢わると,復服さ使めた;孫権は其の臂を把むと流涕して曰く:「幼平よ,周泰,字幼平。卿は孤<わたしの>兄弟と為って,為,于偽翻。戦うこと熊や虎の如くして,不惜軀命(命を投げ出すことを惜しまず),創<きず>を被ること数十となって,被,皮義翻。膚<ひふ>は畫を刻まれたかの如くである,孤は亦何をか心して卿に以って骨肉之恩で待(遇)しないことあろうか,卿に以って兵馬之重を委ねないことあろうか乎!」周泰伝:孫権は宣城に住んでいたおり,忽略不治囲落。山賊が卒として至り,孫権が馬に上り始めたところ,賊の鋒刃が已に交わった。泰投身権(周泰は身を投げだして孫権を救いだし),身は十二創を被った。是日,微泰,権幾危。又従って黄祖を討ち,曹公を拒み,曹仁を攻めたが,皆功を有した,故に之を委ねたのである。坐が罷むと,住駕,使泰以兵馬道従,坐,才臥翻。道,読みは曰く導。従,才用翻。鼓角を鳴らし鼓吹を作らせ而して出た;楽纂曰く:司馬法では:軍中之楽は,鼓笛が上と為る,之を聞く者を壯勇とさせ使ませ而して楽和む;細絲、高竹は用いる可からず也,悲声は人を感じさせるのを慮るからで,士卒が之で帰ろうと思わせてしまう故である也。唐紹曰く:鼓吹之楽は,以って軍容を為させる。昔黄帝が涿鹿で功有ったとき,以って警と為した。劉昫曰く:鼓吹は,本もとは軍旅之音であって,馬上で之を奏した。漢より<自>以来,北狄之楽は,總めて鼓吹署に帰させた。余りは漢制を按ずるに,万人将軍が鼓吹を給わる。吹,昌瑞翻。是に於いて徐盛等は乃ち服したのである。

-2150-

2夏,四月,詔あって魏王の曹操に天子の旌旗を設けさせ,出入するに警蹕を称することとした。

3六月,魏では軍師の華歆を以って御史大夫と為した。華,戸化翻。

4冬,十月,魏王曹操に命じて十有二旒を冕じ,金根車に乗り,六馬を駕し,五時の副車を設けるようにとした。董巴の輿服志に曰く:金根車とは;輪は皆朱班重牙,貳轂両轄。金薄繆龍,為輿倚較,文虎伏軾。龍首銜軛,左右吉陽筩,鸞雀立衡。文畫輈,羽蓋華蚤。建大旂十二斿,畫日月升龍。駕六馬,象鑣鏤錫,金鍐、方釳,插翟尾,朱兼樊纓,赤罽易茸,金就十有二。左纛,以氂牛尾為之,在左騑馬軛上,大如斗。是為徳車。五時車,安、立亦皆如之,各如方色。白馬者,朱其髦尾為朱鬣云。所御駕六;余皆駕四。後従為副車。晉志:五時安、立車,亦建旗十二,各隨車色。立車則正豎其旗,安車則邪注。鍐,亡范[祖叢]翻。釳,許乙翻,鐵孔也。鍐,馬首飾

5魏は五官中郎将の曹丕を以って太子と為した。

初,魏王である曹操は丁夫人を娶ったが,子が無かった;妾の劉氏は,子の曹昂を生んだ;卞氏は四子を生んだ,丕、彰、植、熊である。王は丁夫人を母として曹昂を養わせ使めた;曹昂が穰に於いて死ぬと,事は六十二巻建安二年に見える。丁夫人は哭泣して節無かったため,曹操は怒って而して之を出し,卞氏を以って継室と為したのである。曹植は性が機警であり、藝能を多くし,才藻敏贍であったため,曹操は之を愛した。曹操は女<むすめ>を以って丁儀の妻にしようと欲したが,妻,七細翻。曹丕は丁儀の目が眇めであることを以ってして,眇者,一目小。之を諫め止めた。丁儀は是ゆえに<由>曹丕を怨み,弟である黄門侍郎の丁廙晉百官志:給事黃門侍郎,秦官也,漢以後並因之,与侍中俱管門下事,無員;及晉,置員四人。廙,逸職翻,又羊至翻。及び丞相主簿の楊脩と,臨菑侯である曹植之才を何度も称え,数,所角翻。曹操には立てて以って(後)嗣と為すようにと勧めた。楊脩は,楊彪之子である也。曹操が函を以って外に於いて密かに訪れさせたところ,尚書の崔琰は露版にて答えて曰く:露板とは,封じなかったということである也。「春秋

-2151-

之義では,子を立てるには長を以ってします。春秋公羊伝に曰く:嫡を立てるに長を以ってして賢を以ってせず,子を立てるに貴を以ってして長を以ってせず。長,知両翻。加えて五官将は仁孝聡明でありますからには,宜しく正統を承らせるべきです,将,即亮翻。この琰は死を以って之を守らんとするしだいです。」曹植は,崔琰之兄の女<むすめ>をとしていた也。尚書僕射の毛玠は曰く:「近くは<者>袁紹が以って嫡庶を分けず,宗を覆したため國を滅ぼしました。廢立は大事でありますから,宜聞すべき所ではありません。」東曹掾の邢顒は曰く:「庶を以って宗に代えるは,先世の戒めです也,願わくば殿下には深く之を察せられますよう。」掾,俞絹翻。顒,魚容翻。曹丕は人を使って太中大夫の賈詡に以自固之術(以って自ら之を固める術)を問わせた。賈詡曰く:「願わくば将軍には徳度を恢崇されて,素士之業を躬につけられ,朝な夕なに孜孜として,子の道を違えない,此の如きことこれ而已<のみ>です。」曹丕は之に従うと,深く自らを砥礪した。他日,曹操は人を屏して賈詡に問うたところ,屏,必郢翻。賈詡は嘿然として対さなかった。曹操曰く:「卿に言を与えたのに,而して答えない,何でなのか也?」賈詡曰く:「思う所に属有されておりました,属,之欲翻;下右属同。故に即ち対さなかっただけです耳。」操曰く:「何をか思うのだ?」賈詡曰く:「思ったこととは袁本初、劉景升父子のことです也。」袁紹父子の事は六十四巻六年、七年に見える;劉表父子の事は六十五巻十三年に見える。曹操は大笑した。

曹操が嘗つて出征したおり,曹丕、曹植は並んで送路側(路の側で送った),曹植は功徳を称述し,発する言には章が有ったため,左右は目を属すことになり,曹操も亦た焉<これ>を悦んだ。曹丕が悵然として自失していると,済陰出身の呉質が耳うちして語って曰く:「王が当に行かんとするにあたって,流涕す可きです也。」辞するに及び,曹丕は涕泣して而して拜したため,曹操及び左右は咸じて歔欷とした,済,子禮翻。歔,音虚。欷,音希,又許既翻。是に於いて皆は以って曹植華辞多かれ而して誠に心は及ばないとした也。曹植は既に任性而行(性を任じて而して行うと),自らを雕飾しなかったが,五官将は之を御すに術を以ってして,情を矯めて自ら飾ったため,宮人左右は並んで為之称説,為,于偽翻。故に遂に太子と為ること定められたのである。

左右の長御が卞夫人に賀(慶賀をしめ)して曰く:漢皇后宮有旁側長御。「将軍が太子を拝しました,丕為五官将,故称之為将軍。天下で喜ばないものは莫いようすです,夫人は当に府藏を傾けて以って賞賜すべきではありませんか。」藏,徂浪翻。夫人曰く:「王は曹丕を以ってするに年が大であることから<自>,故に用いて嗣と為したのです。我は但だ当になんの教導も無かったのにその過ちから免れたことを以ってして幸いなことと為すべきだけです耳,亦為すにあたり当に賜遺を重くすべきでしょうか乎!」遺,于季翻。長御は還ると,具さに以って曹操に語った,語,牛倨翻。曹操は悦ぶと,曰く:

-2152-

「怒っても容(顔色)を変えず,喜んでも節(節度)を失わない,故最為難(これこそ最も為すのに難しいことであろうよ)。」

太子は議郎の辛毗頸に抱きつくと而して言いて曰く:「辛君我がどれほど喜んでいるか知らないか(不)?」不は,読みは曰く否。辛毗以って其の女<むすめ>の憲英に告げたところ,憲英は歎じて曰く:「太子は,君に代わって宗廟、社稷を主<つかさど>者ではありませんか也。君に代わるならば,不可以不戚(不戚を以ってするは不可というもの);國を主<つかさど>るならば,不可以不懼(懼れざるを以ってするは不可というもの)。宜しく戚すべきであって而して【章:甲十一行本「而」作「宜」;乙十一行本同。】懼れるべきでありますのに,而しながら反って以って喜びを為すなんて,何をか以て能く久しからん!魏は其れ不昌ならん乎!」女子之智識,有男子不能及者。

久之(之に久しいこと),臨菑侯の曹植は乘車して馳道の中を行くと,司馬門を開いて出たことがあった。漢令乙:騎乘車馬行馳道中,已論者沒入車馬改具。又宮令:出入司馬門者皆下。是司馬門猶可得而出入也。若魏制,則司馬門惟車駕出乃開耳。曹操は大いに怒り,公車令が(そのことに)坐して死んだ。是ゆえに<由>重諸侯科禁,而して曹植の寵は日ごと(日に日に)衰えてゆくことになった。曹植の妻の衣は繡であった,曹操が臺に登って之を見たところ,以って制命に違えていたため,家に還して死を賜わった。以違制命罪植妻というのは,則ち当時には蓋し衣に錦繡するのを禁じていたのだろう也。衣,於既翻。

6法正は劉備に説いて曰く:説,輸芮翻。「曹操は一挙にして而して張魯を降し,漢中を定めたのに,降,戸江翻。此の勢いに因って以って巴、蜀を図ることをせず,而して夏侯淵、張郃を留めて屯守させると,郃,古合翻,又曷閣翻。身は遽して北に還りました,此は其の智が逮せず,而して力が不足したというのに非ず也,必ずや将に内に憂偪が有るが故のことでしょう耳。今を策しますに淵、郃の才略は,(わが)國之将帥に勝っておりませんから,を挙げて往って討てば,必ずや之に克つ可からん。之に克った日には,農を広げて穀を積んで,釁を観て隙を伺います,上は以って寇敵を傾覆し,王室を尊獎す;中は以って雍、涼を蠶食(蚕食)して,境土を広げ拓く可晉志に曰く:漢は周之雍州を改めて涼州と為し,以って地は西方に処したが,それは常に寒涼であったからである也。地勢西北邪出,在南山之間,南は西羌で隔てられ,西は西域に通じ,于時号為断匈奴右臂。獻帝の時に,涼州は何度も乱れた,河西の五郡は,州を去ること遠くに隔てられていたため,乃ち別に雍州を立てた。末には又古典に依って九州と為すと,乃ち令して関右は尽く雍州と為った。魏の時に復分けて以って涼州を為した。雍は,於用翻。

-2153-

下は以って要害を固守して,持久之計を為す可ものとなりましょう。此は蓋し天が以って我らに与しもの,時を失う可きではありません也。」劉備は其の策をすると,乃ち諸将を率いて漢中に兵を進め,張飛、馬超、呉蘭等を遣わして下辨に駐屯させた。下辨県は,武都郡に属する。賢曰く:今の成州同谷県である。師古曰く:辨は,音は歩見翻,又歩莧翻。魏王曹操は都護将軍の曹洪を遣わして之を拒ませた。

7魯肅が卒したため,孫権は従事中郎である彭城出身の厳oを以って魯肅に代え,o,音俊。兵万人を督させると陸口を鎮めさせた。人は皆厳oの為に喜んだが,為,于偽翻。厳oは固辞すると以って「樸は素より書生なのだから,軍事に閑せず」,閑,習也。発言は懇惻であり,至于流涕(涙を流すに至った)。孫権は乃ち左護軍で虎威将軍であった呂蒙を以って漢昌太守を兼ねさせて以って之に代えた。虎威将軍は,蓋し孫権が置いたものであろう。沈約志,曹魏は四十号の将軍を置いた,虎威は第三十四である。は厳oが以って実<まこと>に讓ったことを能くしたことだと嘉したのである。

8定威校尉であった呉郡出身の陸遜は定威校尉,亦権創置。孫権に於いて言いて曰く:「今を方ますに敵に克って乱を寧んぜんとしても,非不済であります;而して山寇の旧惡は,依阻深地。旧惡というのは,旧きより<自>惡を為してきた者のことを謂っているのである。腹心が未だ平らがないのに,以って遠き図るのは難しいものです,大いに部伍して,其の精鋭を取る可きです。」可大為部伍とは,精鋭を擇取することを言う也。孫権は之に従うと,以って(陸遜を)帳下右部督と為した。丹陽の賊帥である費棧が乱を作るに会うと,費,父沸翻,姓也。棧,士限翻。山越を扇動した。孫権は陸遜に費棧を討つように命じると,之を破った。遂に東の三郡から部伍すると,東三郡とは,丹陽、新都、会稽のことである也。強者は兵と為し,羸者は戸を補い,羸,倫為翻。精卒数万人を得た;宿惡が盪除され,盪,徒朗翻。過ぎる所は肅清されたため,還って蕪湖に駐屯した。会稽太守の淳于式が表して「陸遜は民人を枉取しておりまして,愁擾が在する所です。」としてきた言遜之所在,民人皆愁擾也。会,工外翻。陸遜が後に都に詣でると,言次するに,淳于式は佳い吏であると称えたため,孫権は時に秣陵を都としていた。言次,謂言論之次,猶今云語次。孫権は曰く:「淳于式は君のことを白したのに,而して君は之を薦めるのか,何でなのか也?」陸遜は対して曰く:「淳于式の意は民を養わんと欲しております,以ってわたくし遜を白したのは是ゆえです;若しわたくし遜が復た淳于式のことを毀すなら以って聖聴を乱すことになります,長ずる可きではありません也(この話を大きく生長させる可きではありません)。」孫権曰く:「此は誠に長者之事である,人(余人)を顧みても能く為さないところ耳。」復,

-2154-

扶又翻。長,知両翻。

9魏王曹操は丞相長史の王必を使って兵を典じさせ許中事を督させていた。魏王の曹操は猶漢の丞相を領して而して鄴に居ったため,故に王必を以って長史と為すと兵を典じさせて許を督させていたのである。時に関羽が強盛であったため,京兆出身の金禕は漢祚が将に移らんとするすると,乃ち少府の耿紀、司直の韋晃、司直,即丞相司直。禕,吁韋翻。太醫令の吉本、風俗通:吉,周尹吉甫之後。漢有漢中太守吉恪。吉本の子の吉邈、邈の弟の吉穆等と与して王必を謀殺せんとした,天子を挟んで以って魏を攻め,南から関羽を引きこんで援けと為そうとしたのである。

 

 

建安二十三年(戊戌、西暦218年)

1春,正月,吉邈等は其の党千余人を率いると,夜に王必を攻め,其の門を焼いて,王必を射ってその肩に中てた,射,食亦翻。中,竹仲翻。帳下督が王必を扶けて南城に奔った。許昌之南城也。天が明るくなるに会い,吉邈等の衆は潰えたため,王必は潁川の典農中郎将の厳匡と共に討って之を斬った。潁川の典農中郎将は許下に屯田していた。

2三月,有星孛于東方(星が東方にて没した)。孛,蒲内翻。

3曹洪が将に呉蘭を撃たんとするに,張飛が固山に駐屯し,声あげて軍の後ろを断とうと欲していると言ってきたため,断,丁管翻;下同。衆議して狐疑していた。騎都尉の曹休は曰く:漢の武帝が三都尉を置いた,騎都尉は其の一つである也。「賊が実に道を断とうとするならば<者>,当に兵を伏せて潛行させるべきだろう;今乃ち先に声を張って勢いをしめしている,此は其が能わざること,明らかである矣。宜しく其の未だ集まらざるに及んで,呉蘭を撃たんことを促さん,呉蘭が破れれば,張飛は自ずと走らん矣。」曹洪は之に従うと,進んで,蘭を撃破すると,之を斬った。三月,張飛、馬超は走った(逃走した)。情見勢屈,宜其走也。曹休は,魏王の族子である也。

4夏,四月,代郡、上谷の烏桓である無臣氐等が反した。是より先に,魏王曹操が代郡太守の裴潛を召して丞相理曹掾と為そうとしたことがあった,

-2155-

先,悉薦翻。掾,于絹翻。それは曹操が裴潛の代を治めた功を美しとしたからであった,治,直之翻。しかし裴潛は曰く:「わたくし潛は百姓に於いてと雖も,諸胡に於いては峻を為しました。今継いだ者は必ずや以ってわたし潛が為した治が厳しきに過ぎるとして而して事するに惠を加えましょう。治,直吏翻。彼らは素より驕りたかぶり恣にするものでありますから, に過ぎれば必ずや弛むことでしょう;既に弛んでしまってから,【章:甲十一行本「弛」下有「又」字;乙十一行本同;張校同。】将に之を攝するに法を以ってせんとする,攝,持也,整也。此こそ怨み叛くのが生ずる所由(ゆえん)となりましょう也。勢いから以ってして之を料<はか>りますと,代は必ずや復叛くことでしょう。」後魏の陸侯が高車を治めたが,裴潛と世を異なれ而して轍を同じくした。復,扶又翻。是に於いて曹操は裴潛を還すのが速かったと深く悔いた。後に数十日して(十日を数えると),果たして三単于が反問するに至った。曹操は其の子で鄢陵侯の曹彰を以って行驍騎将軍とすると,鄢陵県は,潁川郡に属する。驍騎将軍は,漢の武帝に於いて,李広が命じられたことを以って始まった。陸徳明曰く:鄢は,謁晚翻,又於建翻。漢書では「傿」と作る。師古に曰く:音は偃。使って之を討たせた。曹彰は少なきより射御し,膂力は人に過ぎるものあった。少,詩照翻。曹操は曹彰を戒めて曰く:「家に居っては父子と為るも,事を受けては君臣と為らん,動くには王法を以って従事することになる,爾は其れ之を戒めとせよ!」

5劉備は陽平関に駐屯し,夏侯淵、張郃、徐晃等が之と相拒みあった。劉備は其の将である陳式等を遣わして馬鳴閣道を絶たせたが,馬鳴閣は,今の利州昭化県に在る。徐晃が之を撃破した。張郃は広石に駐屯すると,広石,当在巴、漢之間。劉備は之を攻めたが克つこと能わず,急いで書をあてると益州から兵を発した(徴発した)。諸葛亮は以って従事で犍為出身の楊洪に問うたところ,楊洪は曰く:「漢中は,益州の咽喉です,犍,居言翻。咽,音煙。これは存亡の機会です,若し漢中無かりせば,則ち蜀もまた無からん矣。此は家門之禍というもの也,兵を発するに(徴発するのに)何を疑うのです。」時に法正が劉備に従って北行していたため,諸葛亮は是に於いて楊洪を表して蜀郡太守を領するようにした;事皆辦,遂に即ち真とさせ使こととなった。遂に之をして法正と代わら使

初め,犍為太守の李厳が楊洪を辟招して功曹と為した,李厳が未だ犍為を去らずして而して楊洪は已に蜀郡(太守)と為った;楊洪は門下書佐の何祗才策有しているとして挙げたが,漢制では:郡閣下及び諸曹はおのおの書佐を有し,文書を幹主させた。靈帝の光和二年に樊毅復華下民租口算碑載其上尚書奏牘,前書年、月、朔日,弘農太守臣毅頓首死罪上尚書,後書臣毅誠惶誠恐、頓首頓首死罪死罪上尚書,後繋掾臣條,属臣淮,書佐臣謀。

-2156-

楊洪が尚も蜀郡に在るなか,而して何祗は已に広漢太守と為った。是を以って西土では諸葛亮は能く尽時人之器用すると咸服したのである也。

秋,七月,魏王曹操は自ら将に劉備を撃たんとし;九月,長安に至った。

6曹彰は代郡の烏桓を撃つと,身は自ら搏戦し,鎧にいくつも箭が中ったが,鎧,可亥翻。中,竹仲翻。意気は益すます獅オた;勝ちに乗じて北に逐ったところ,桑乾之北に至って,桑乾県は,代郡に属する。宋白曰く:今の雲州から東すると桑乾に至る督帳すること一百五十里。孟康曰く:乾は,音は干。之を大いに破ると,斬首し、また獲生すること以って千を数えた。時に鮮卑の大人である軻比能が軻比能本もと小種鮮卑(鮮卑でも力の無い部族)であったが,勇健を以って貪らず,断法平端したため,は之を推して大人と為したのである。数万騎を将いてその強弱を観望していたが,曹彰が力戦して,向う所皆破るのを見て,乃ち服さんことを請うてきた,かくて北方は悉く平げられたのである。

7南陽の吏民は繇役に苦しんでいた,繇,読みは曰く傜。曹仁之軍に於いて供給するのに苦しんでいたのである也。冬,十月,宛の守将であった侯音が反した。宛,於元翻。南陽太守の東里袞と鄭子産が東里に居すと,支子が以って氏と為したのである。功曹の応余は迸竄して出るを得た;侯音は騎を遣わして之を追った,飛矢が交じりあって流れ,応余はわが身を以って東里袞に蔽さると,七創を被って而して死んだ,被,皮義翻。創,初良翻。侯音の騎は東里袞を執らえると以って帰った。時に征南将軍の曹仁が樊に駐屯して以って荊州を鎮めていたため,魏王曹操は曹仁に還って侯音を討つよう命じた。功曹である宗子卿が侯音に説いて曰く:説,輸芮翻。「足下は民心に順,大事を挙げたのです,遠近で風を望まないものは莫いのです;然るに郡将を執らえたのは,将,即亮翻。逆しまであって而して無益なことです,何でまた之を遣わさないのですか!」侯音は之に従った。子卿は夜に因って城して太守に従うと余民を治めて侯音を囲み,曹仁の軍が至るに会うと,共に之を攻めた。

 

 

建安二十四年(己亥、西暦219年)

1春,正月,曹仁は宛を屠ると,侯音を斬って,復た樊に駐屯した。復,扶又翻。

2初め,夏侯淵が戦して何度も勝ったと雖も,数,所角翻。魏王曹操は常に之を戒めて曰く:「将と為ら当に怯弱の時も有るべきだ,但だただ勇を恃むだけとなる可きではないぞ也

-2157-

将に当らんとするには勇を以って本と為し,之を行うには智を以ってして計るものだ;但だただ勇を任じるだけでは,一匹夫に敵するだけ<耳>と知るがよい。」夏侯淵が劉備と相拒みあうこと年するに及び,劉備は陽平から<自>南して沔水を渡り,山に縁して(沿って)稍も前にでると,定軍山に於いて営をむすんだ(軍営をむすんだ)。華陽國志に曰く:漢中の沔陽県に定軍山が有る,北は沔水に臨んでいる。法正伝に拠ると:定軍、興勢に於いて営を作った,則ち定軍山は正に興勢に在ったのである也。今按ずるに興勢山は洋州興道県の西北二十里に在る,沔陽の地里を去ること相遠い,当に華陽國志に従うべきである。考異に曰く:劉備伝に云うには:「定軍山に於いて営を勢作した」,法正伝ではこう作る「定軍、興勢」と。今は黄忠伝に従う。夏侯淵は兵を引きつれて之と争った。法正曰く:「撃つ可きです矣。」劉備は討虜将軍の黄忠を使って高みに乗じさせ鼓譟して之を攻めさせたところ,夏侯淵の軍が大敗したため,夏侯淵考異に曰く:夏侯淵伝に曰く:「劉備は囲みの鹿角を夜に燒いた。夏侯淵は張郃を使て東囲を護らしめ,自らは軽兵を将いて南囲を護らんとした。劉備は張郃に戦を挑み,張郃の軍は不利となった。そこで夏侯淵は兵の半ばを分けて張郃を助けたところ,劉備に襲われる所と為って,戦死した。」張郃伝に曰く:「劉備は走馬谷に於いて都囲を燒いた,夏侯淵が火を(火事を)救わんとして,他道に従っていったところ劉備と<与>相遇って,交戦することとなり,短兵が刃を接し,夏侯淵は遂に沒した。」今は劉備、黄忠、法正伝に従う。及び益州刺史の趙顒を斬った。趙顒は益州に刺となったのは,曹操が命じた所である也。夏侯淵の軍が敗れること既にしてから,顒も亦死んだ。顒,魚容翻。張郃は兵を引きつれて陽平に還った。広石より<自>陽平に還ったのである。是時は新たに元帥を失ったところで,軍中は擾擾として,為す所を知らなかった。督軍の杜襲は初め,曹操が東に還るおり,杜襲を留めて漢中の軍事を督させた。帥,所類翻。夏侯淵の司馬であった太原出身の郭淮とともに散卒を收斂すると,諸軍に号令して曰く:「張将軍は國家の名将であり,劉備が憚る所である;今日<こんにち>事は急である,張将軍に非ざれ安んずること能わない也。」遂に権は(淮は?)宜しく張郃を推して軍主と為すべしとした。張郃は出ると,兵を勒して陳<陣>を按じると,陳は,読みは曰く陣,下に同じ。諸将は皆張郃の節度を受け,心は乃ち定まったのである。明くる日,劉備は漢水を渡って来攻せんと欲した;諸将は以って寡敵しないため,水に依って陳を為して以って之を拒もうと欲した。郭淮曰く:「此では弱き示すばかりで而して敵を挫くには足らず,算に非というものだ也。水から遠ざかって陳を為すに如かず,引いて而して之を致し,(劉備らが)半ば済んだ(渡河した)ところで而る後に之を撃てば,劉備を破ることも可であろう也。」既に陳<陣>をかまえてみると,劉備は疑って,渡ってこなかった。郭淮は遂に堅守すると,還る心の無いことを示した;以って状(状況)を魏王曹操に於いて聞かせたところ,曹操は之をとして,使いを遣わして張郃に節を假すと,復た郭淮を以って司馬と為したのである。

3二月,壬子晦,日有食之(日食があった)。

-2158-

4三月,魏王曹操が長安から<自>斜谷に出ると,軍は要を遮って以って漢中に臨んだ。斜谷道は険しいため,曹操は劉備が邀截する所と為ることを恐れ,先に軍を以って要害之処を遮り,乃ち進んで漢中に臨んだのである。或いは云う:遮要とは,地名のことである。劉備は曰く:「曹公が来たと雖も,能く為すこと無いだろう也,我は必ずや漢川を有さん矣。」乃ちすると險で拒み,終に鋒を交えなかった。曹操は米を北山の下に運んだところ,黄忠が兵を引きつれて之を取ろうと欲し,期を過ぎても還らなかった。翊軍将軍の趙雲が数十騎を将いて営を出て之を視にくると,翊軍将軍は,劉備が創置した所である也。曹操が兵を揚げて大いに出てくるのに値した,雲猝与相遇,遂前突其陳(遂に前進して其の陣に突進すると),且つし且つ卻した。魏兵は散ったが而して復合わさり,追ってきて営下に至った,趙雲は営に入ると,更めて門を大きく開き,旗を偃して鼓を息つかせた。魏兵は趙雲(のところ)に伏(兵)が有ることを疑い,引いて去ろうとした;そこで趙雲は鼓を雷にして天を震わすと,雷,盧対翻。だ勁弩を以って後に於いて魏兵を射った。射,而亦翻。魏兵は驚き駭えると,自ら相い蹂踐しあい,漢水の中に堕ちて死んだ者は甚だ多かった。蹂,人九翻。劉備は明くる旦に自ら来て,趙雲の営に入ると,昨(日)の戦いとなった処を視て,曰く:「子龍は一身都が膽(胆)を為しているのか也!」といった其その膽(胆)が大きく,能く孤軍を以ってして曹操の大兵に亢しえたことを言う。

曹操が劉備と相守ること月を積み,魏の軍士の多くが亡んだ。亡とは,逃亡したということである也。夏,五月,曹操は悉く漢中諸軍を引きつれて出ると長安に還った,劉備は遂に漢中を有することになったのである。

曹操は劉備が北に武都の氐を取って以って関中に逼らんことを恐れて,武都,本白馬氐地。雍州刺史の張既に問うたところ,張既曰く:「可勧使北出就穀以避賊,前に至ったなら<者>其の寵賞を厚くすれば,則ち先んじた者が利を知ることになるわけですから,後ろは必ず之に慕うことでしょう。」曹操は之に従うこととして,張既に之を武都に使わせ,氐の五万余落を徙して扶風、天水界(領域)に出て居らせることになった。曹操は蓋し已に武都を棄てて而して有していなかったのだろう矣。諸氐は秦川に散居していた,苻氏が華(華夏)を乱すのは此より<自>始まる。

5武威出身の顔俊、張掖出身の和鸞、酒泉出身の黄華、西平出身の麴演等は,各々が其の郡に拠って,自ら将軍を号し,更めて相攻撃しあっていた。顔俊は使いを遣わして母及び子を送り魏王曹操に詣でさせて質と為すと以って助けを求めてきた。更,工衡翻。質,音致。曹操が張既に問うたところ,張既は曰く:「顔俊等は外では國威を假りておきながら,内では傲悖を生じております,悖,蒲内翻,又蒲沒翻。計が定まって勢いが足るようになれば,後に即ち反するだけでしょう耳。今方事定蜀,且宜両存而之,猶卞荘子之

-2159-

刺虎,坐收其敝也。(今事を方じて蜀を定めんとすれば,且つは宜しく両方を存らしめて而して之をすべきです,猶ち卞荘子が虎を刺した故事のごとくして,坐して其の敝を収めましょう。)」戦國策に曰く:卞荘子刺虎,管豎子が之を止めて曰く:「両虎が牛を食わんことを方ずるに,牛甘必爭,則ち大なるは<者>傷つき,小なるは<者>亡ばん。傷に従って之を刺せば,一挙にして必ずや両獲有らん。」荘子然之,果獲二虎。刺,七亦翻。王曰く:「!(よし!)」歳余して,和鸞は遂に顔俊を殺し,武威出身の王祕も又た和鸞を殺したのである。

6劉備は宜都太守で扶風出身の孟達を遣わすと秭帰から<従>北へ房陵を攻めさせ,(孟達は)房陵太守の蒯祺を殺した。張勃の呉録に曰く:劉備は南郡を分けて宜都郡を立てた,夷道、狠山、夷陵三県を領したものである。房陵県は,本もとは漢中郡に属していた。此郡は劉表が置く所のもので,蒯祺を使って之を守らせたのではないかと疑われる;否ならば則ち蒯祺が自ら立ったのであろう也。蒯,苦怪翻。養子である副軍中郎将の劉封を遣わして漢中から<自>沔水に乗じて下らせ,孟達の軍を統めさせた,劉封は,本は羅侯である寇氏の子であり,長沙の劉氏の甥である。劉備が荊州に至ると,未だ継嗣を有しなかったことを以って,之を養って子と為したのである。(劉封は)孟達と会うと上庸を攻めた,上庸太守の申耽は郡を挙げて降った。上庸県は,漢中郡に属する。賢曰く:故城が今の房州清水県西に在る。魏略に曰く:申耽は初め西城、上庸間に在った, 数千家を聚めると,張魯と通じた;又使いを遣わして曹公に詣でさせたため,公は其の号を加えて将軍と為すと,使って上庸都尉を領させた。降,戸江翻。劉備は申耽に征北将軍を加えると,領上庸太守とし,申耽の弟の申儀を以って建信将軍、西城太守と為した。西城県は,漢中郡に属す,劉備も亦分けて郡を為して以って申儀に授けたのである;唐為金州。

7秋,七月,劉備は漢中王を自称すると,沔陽に於いて壇場を設け,沔陽県は,漢中郡に属する。陳兵列(兵で陣をかまえで列をつくると),臣が陪位して,奏を読みあげ訖わると,乃ち璽綬を拝受して,王冠を御した。璽,斯氏翻。綬,音受。王冠,遠遊冠也。因って章を驛拜すると,假りていた所である左将軍、宜城亭侯の印綬を上に還した。左将軍及び宜城亭侯は,皆曹操が表して授かった所のものである也。上,時掌翻。子の劉禪を立てて王太子と為した。牙門将軍である義陽出身の魏延を抜(擢)して鎮遠将軍と為し,牙門、鎮遠は,皆劉備が創置した将軍号である。漢中太守を領させて,以って漢川を鎮めさせた。魏文帝分南陽郡立義陽郡,又立義陽県属焉;此在延入蜀之後,史追書也。鎮遠将軍,蓋備所創置。宋白曰:義陽,唐為申州,宋為信陽軍。劉備は還って成

-2160-

都を治めると,許靖を以って太傅と為し,法正が尚書令と為り,関羽が前将軍と為り,張飛が右将軍と為り,馬超が左将軍と為り,黄忠が後将軍と為って,前、後、左、右将軍は皆漢の官である。余りも皆位が進められたが差が有った。

益州の前部司馬である犍為出身の費詩を遣わして即ち関羽に印綬を授けさせたところ,犍,居言翻。費,父沸翻。関羽は黄忠の位が己と並んでいると聞いて,怒って曰く:「大丈夫終に(どうあろうとも)老兵と列を同じくせず!」として受拜を肯わなかった。費詩は関羽に謂いて曰く:「夫王業を立てんとするに<者>,用いる所は一つに非。昔蕭、曹は高祖と少小親旧でした,少,詩照翻。而しながら陳、韓が亡命して後に至ると;其の班列を論じたおり,韓が最も上に居ることとなりました,陳平、韓信が楚から<自>而して来たこと,韓信が王となったのに而して蕭、曹は侯となった,故に曰く韓は最も上に居ったと謂うのである。ですが未だ蕭、曹が此を以って怨みを為したとは聞きません。今漢中王は一時之功を以ってして,漢室を隆崇せんとしています;然りながら意之軽重については,寧んぞ当に君侯と斉しかるべきものでしょうか乎!言うに劉備は以って一時黄忠と関羽を班させ使めたが,而して意之軽重については則ち此に在るのではない。曹操は嘗つて関羽を表して漢壽亭侯と為した,故に之を称するに君侯と為したのである。且つ王と君侯とは譬えるならば一つの體の猶くでありまして,休みを同じくし戚を等しくして,禍福は之を共にするものでありましょう;愚かしくも君侯に謂いますが官号之高下、爵祿之多少を計って意を為すは宜しからざることです也。僕は一介之使いでしかなく,使,疏吏翻。命を銜えて(運ぶだけ)之人です,君侯が拜を受けないというなら,如是便還(是の如かれば還らんことを便じるだけですが),但相為惜此挙動(ただ此の挙動について互いに惜しむしだいです),為,于偽翻。恐らくは後悔を有するだけとなるのではないでしょうか耳。」関羽は大いに感悟すると,遽即受拜した。

8詔あって以って魏王曹操の夫人である卞氏を王后と為した。

9孫権が合肥を攻めた。時に諸州の兵が淮南に戍していた。魏は漢の九江郡を改めて淮南郡と為していた。揚州刺史の温恢は兗州刺史の裴潛に謂いて曰く:「此の間に賊が有ると雖も,然るに憂うるには足りず。今水潦が方じて生ぜんとしているが,而して子孝は軍を懸けながら,遠き備えを有していない,曹仁は,字を子孝という,時に征南将軍と為っていた。県は,読みは曰く懸。関羽は驍猾であるから,政として征南(将軍)に変有るやもと恐れている耳。」驍,堅堯翻。已に而して関羽は果たして南郡太守の麋芳を使って江陵を守らせ,将軍傅士仁に公安を守らせると,関羽自らを率いて樊に於ける曹仁を攻めた。曹仁は左将軍の于禁、立義将軍の龐徳等を使って樊の北に駐屯させた。曹操は以って龐徳が自

-2161-

漢中から来たりて帰したため,故に号を進めて立義将軍としたのである。八月,大霖雨があり,漢水が溢れ,地を平らげること数丈となり,于禁等の七軍は皆沒した。于禁は諸将と高みに登って水を避けたところ,関羽が大船に乗って之を攻めに就いたため,于禁等は窮迫して,遂に降ってしまった。降,戸江翻;下同。龐徳は隄(堤防)の上に在って,甲被り弓持ち,箭不虚発(箭は発しても虚しからず),射てば必ず中るなり也。龐,皮江翻。被は,皮義翻。平旦より<自>力戦し,日は中を過ぎるに至って,関羽の攻めはいや益し急くものとなった;矢は尽き,短兵で接すことになったが,龐徳は戦うにあたり怒りを益し,気は愈壯であった,而しながら水が浸すこと盛んとなったため,吏士は尽く降ってしまった。降,戸江翻;下同。龐徳は小船に乗って曹仁の営に還ろうと欲したが,水が盛んなために船が覆り,弓矢を失って,独り船を抱えて水中に覆っていたところで,関羽が得る所と為ったのであるが,立ったまま而して跪かなかった。屈伏していないことを示したのである。関羽は謂いて曰く:「卿の兄は漢中に在る,魏略曰:徳従兄柔在蜀。我は卿を以って将と為そうと欲している,早く降らずに何をか為そうとするのか!」龐徳は関羽にして曰く:「豎子,何ぞ降れなどと謂うのか也!魏王は帯甲百万,威は天下に振われている;汝の劉備は庸才にすぎん耳,豈に能く敵しえよう邪!我は寧ろ國家の鬼と為るも,賊将とは為らんわ也!」関羽は之を殺した。将,即亮翻。魏王曹操は之を聞くと【章:甲十一行本「之」下有「流涕」二字;乙十一行本同;孔本同。】曰く:「吾は于禁を知ること三十年,操收兵兗州,禁即為将。危うき臨んで難に処すにあたり,処,昌呂翻。難,乃旦翻。反って龐徳に及ばないなど、何意ったであろうか(どうして思えたことであったろうか)邪!」そうして龐徳の二子を封じて列侯と為した。

関羽は樊城を急攻した,城は水を得たため,往往として崩壞せんばかりとなり,衆皆恟懼した。恟,許勇翻。或るひとが曹仁に謂いて曰く:「今日之危うきは,力めて支える所に非,関羽の囲みが未だ合わさざるにあたり,軽船に乗じて夜にまぎれて走る(逃走する)に及ぶ可きでしょう。」汝南太守の満寵曰く:「山の水は速やかで疾きもの,其の久しからざるを冀いましょう。聞くに関羽は別将を遣わしておりそれは已に郟下に在るとか,満寵は汝南太守と為っていた,曹操は曹仁を助けて樊城に駐屯するよう令していたのである。郟県は,潁川郡に属する。師古に曰く:郟,音夾。晉地理志では,襄城郡に復た郟県が有る,蓋し東漢では省かれ而して魏、晉で復置された県であろう也。許より<自>以南では,百姓は擾擾として,羽所以不敢遂進者(関羽の以ってする所敢えて遂進する者とてありません),恐らくは吾其の後ろに掎しているだけでしょう耳。掎,居蟻翻。(であるなら)今若し遁去してしまえば,洪河以南は,國家が復有することには非ざるものとなりましょう也洪河とは,大河のことである也。君は宜しく之を待つべきです。」曹仁曰く:「!(わかった)」乃ち白馬を沈めて軍人と盟誓し(盟約宣誓すると),沈,持林翻。心を同じくして固守した。城中の人馬纔は数千人,城で沒しない者は数板ばかりとなった。城の高さは二尺で一板を為す。関羽は船に乘って城に臨むと,

-2162-

立って囲むこと数重となり,重,直龍翻。内外が断絶された。関羽は又別将を遣わして(曹操側の)将軍の呂常を襄陽に於いて囲ませた。荊州刺史の胡脩、南郷太守の傅方は皆関羽に於いて降った。水経註:漢の建安中に,南陽の右壤を割いて南郷郡を為し,荊州に属させた。

10初,沛國出身の魏諷には惑衆才(衆を惑わす才能)が有り,鄴都を傾け動かしたため,魏の相國である鍾繇が辟して以って西曹掾と為していた。此は魏の相國府之西曹掾ということである也。滎陽出身の任覽は,与諷友;同郡の鄭袤は,袤,音茂。鄭泰之子であったが也,ことごとに任覽に謂いて曰く:「魏諷は姦雄である,終には必ずや乱を為さん。」九月,魏諷は潛めて徒党を結び,長楽衛尉の陳禕と鄴を襲わんことを謀った;楽,音洛。禕,吁韋翻。未だ期に及ばずして,陳禕は懼れて而して之を告げてしまった。太子の曹丕は魏諷を誅し,連なって坐死した者は千人を数え,鍾繇も坐して免官となった。

11初,丞相主簿の楊脩は丁儀兄弟に与して曹植を立てて魏の嗣と為そうと謀ったため,脩為漢丞相主簿,操官属也。五官将の曹丕は之に患わされ,そこで以って車に廢簏を乗せて内に朝歌の(見)長である呉質をいれ,之と謀をした。長,知両翻。楊脩は以って魏王曹操に白したが,曹操は未だ推驗に及ばなかった。曹丕が懼れて,呉質に告げたところ,呉質は曰く:「無害です也。」明くる日,復以ってするに簏に絹を載せて以って入らせることにしたところ,楊脩は復た之を白したため,推驗されたが,人がいなかった;推,按也。復,扶又翻。曹操は是ゆえに<由>焉を疑うことになった。其の後曹植は以って驕りまた縱としたため疏んじられるに見えた,曹植は車に乗って馳道の中を行くと,私ごとで司馬門を開いて出たため,既に罪を得ていたのである矣;曹仁が関羽に囲まれる所と為ると,曹操は曹植を遣わして曹仁を救わせようとしたが,而して曹植は醉っていたため命を受けること能わず,是に於いて益すます疏んじられるに見えたのである。而して曹植は故より楊脩と連なり綴って止まらず,楊脩も亦敢えて自ら絶とうとしなかった。毎当就植慮事有闕,忖度操意,忖,寸本翻。度,徒洛翻。豫作答教十余條,門下に,「教出する,問われた所に随い之に答えよ」と敕したところ,是に於いて教が裁出されたときには,答は已に入っていた;曹操が其の捷きことを怪しんで,推問したため,始めて(そのことが)泄れた。曹操も亦以って楊脩が袁術之甥であったことから,之を惡んでいたため,惡,烏路翻。乃ち楊脩を発すると(摘発すると)前後して言を漏泄して教え,諸侯と関を交えたとして,以脩豫作答教,謂之漏泄;与植往来,謂之交関諸侯。之を収めて殺してしまった。

12魏王曹操は杜襲を以ってして留府長史と為すと,関中に駐めた留府を関中に於いて置いたのは<者>,以って蜀に備えたのである也。関中の営帥である許攸は帥,所類翻。此

-2163-

又一許攸,非自袁紹来奔之許攸也。部曲を擁して帰附せず,而して慢言有ったため,曹操は大いに怒ると,先ず之を伐ろうと欲した。臣の多くが諫めて「宜しく許攸を招き懷かせ,共に強敵を討たせるべきです;」曹操は刀を横にして於,与膝同。色を作って聴かなかった。杜襲は入って諫めたいと欲したが,曹操は逆に之に謂いて曰く:「吾が計は已に定まれ,卿は復言すること勿れ!」復,扶又翻。杜襲曰く:「若し殿下の計が是であるならば邪,臣は方じて殿下が之を成すのを助けましょう;若し殿下の計が非であるならば邪,成さんとしていると雖も,宜しく之を改めるべきです。殿下は臣に逆らわんとして言うこと勿れと令していますが,何待下之不闡乎!」闡,開也,大也,明也。操曰:「許攸は吾に慢(驕慢)である,如何で置く可きか!」置,捨也。杜襲曰く:「殿下は許攸について何如なる人だと謂いましょう邪?」操曰:「凡人だ也。」杜襲曰く:「夫賢だけが賢を知り,惟聖だけが聖を知るものです,凡人が安んぞ能く凡人に非ざるを知りえましょうか邪!今を方ずるに豺狼が当に路にあり而して狐狸が先んじる是としているのです,人が将に殿下は強きを避けて弱き攻めていると謂おうとしています;(そうであるならそれは)進んでは勇を為さず,退いては仁を為しません。臣は千鈞之弩というのは,鼷鼠には機を発する為さず;万石之鍾というのは,莛撞を以ってしては音を起てないと聞いています。三十斤で鈞を為す。千鈞之弩とは,其の重きことを言う也。鼷鼠は,小鼠のことである也。説文に曰く:螫毒を有する者のことである。或るいは之を甘鼠と謂う。陸佃埤雅に曰く:鼷鼠というのは<者>,甘口にして,人及び鳥獸を齧るが皆痛くない。博物志に云うことには:鼠之最小なる者のことである。本草が説くところでは鼷鼠は極細にして,卒見す可からざるものだという。四斤[鈞]が石を為す,石は,百二十斤である也。莛は,草莖のこと也。東方朔曰く:莛を以ってして撞鍾する。是は皆<みな>力や勢いの重い者は,不以軽觸而発動(軽々しく動くことをしない)ことを言うのである也。鼷,音奚。莛,音廷。撞,直江翻。今區區之許攸など,何をか以って神武を労するに足るものでしょうか哉!」曹操曰く:「!(わかった)」遂に許攸を厚く撫したところ,許攸は即ち帰服した。

13冬,十月,魏王曹操が洛陽に至った。

14陸渾の民である孫狼等が乱を作り,陸渾県は,弘農郡に属す,秦、晉が陸渾之戎を此に於いて移したのである。宋白曰く:陸渾は,河南府の伊陽県の地である。師古曰く:渾,音胡昆翻。県の主簿を殺すと,南して関羽に附かんとした。関羽は孫狼に印を授けて,兵を給わったため,還ってきて寇賊と為り,許より<自>以南は,往往として関羽に遙応し,関羽の威は華夏を震わせた。夏,戸雅翻。魏王曹操は議して許から都を徙して以って其の鋭を避けようとしたところ,丞相軍司馬の司馬懿、西曹属の蔣済が曹操に於いて言いて曰く:

-2164-

「于禁等が水に沒する所と為りましたが,これは戦攻之失には非,國家大計に於いては未だ損なうことを有するに足りないというものです。劉備、孫権は,外では親しんでいても内では疏んじあっておりますから,関羽が志を得ようとすれば,孫権は必ずや願わないことでしょう也。人を遣わして孫権に其後を躡するよう勧める可きです,江南を割いて以って孫権を封じんことをお許しください,そうすれば則ち樊の囲みは自ずと解けましょう。」曹操は之に従った。

初め,魯肅は嘗つて孫権に以って曹操が尚も存するのだから,宜しく且つは関羽を撫輯して,之に与して仇を同じくすべきであり,失う可きではないと勧めた也。呂蒙が魯肅に代わって陸口に駐屯するに及び,以って為すに関羽は素より驍雄であるから,兼之心を有しているにちがいなく,驍,堅堯翻。且つ國の上流に居るのだから,其の勢いは久しくしておくこと難しいとして,密かに孫権に於いて言いて曰く:「今征虜(将軍である孫皎さま)に令して南郡を守らせ,孫皎は時に征虜将軍と為っていた。潘璋には白帝に往かせ,此は即ち甘寧が拠った楚関之計である也。蔣欽には游兵万人を将いらせて江を循として上下させ,敵に応じて所在させましょう,そしてこの呂蒙は國家の為に前(進)して襄陽に拠ります,為,于偽翻。此の如くすれば,何曹操を<於>憂えんか,何ぞ関羽を<於>頼まんか!且つ関羽の君臣は其の詐力を矜って,所在するに反覆しておりまして,以って腹心として待(遇)す可からず也。今関羽が未だ東に向うを便じない所以とは<者>,以って至尊(たる吾が君)が聖明であるにくわえ,この蒙等が尚も存すからです也。今の強壯の時に於いて之を図らず,一旦にして僵仆してしまったなら,また陳力を復さんと欲しても,其れ得らることでしょうか邪!」僵仆は,謂わば死ということである也。復,扶又翻。孫権曰く:「今は先ず徐州を取って,自広陵以北,皆徐州之地。然る後に関羽を取ろうと欲しているのだが,何如か?」対するに曰く:「今曹操は遠く河北に在って,幽、冀を撫集しておりまして,未だ東顧する暇がありません,余りの【章:甲十一行本「余」作「徐」;乙十一行本同。】土<領地>の守兵については,聞不足言(言うまでもないと聞いています/聞けば言うまでもなく),曹操は天下之勢を審らかに知り,此が熟する慮っている矣。此は兵法が謂う所の「城には守らない所が有る」ということである也。往けば自ずから克つ可ことでしょう。然りながら地勢は陸が通じておりまして,驍騎が騁せる所ですから,騁,丑郢翻。今日<こんにち>徐州を取ることを尊ぶに至ったとしても,曹操は後旬すれば(後れること旬日にして)必ずや来たりて爭うことでしょう,七八万人を以ってして之を守ると雖も,猶も当に憂いを懐くべきことです。呂蒙が自ら呉國之兵力を量って北に向かって以って中原を争うには<者>不足しているとするのは,そこが車騎之地であって,南の兵が便ずる所に非ざることを知っていたからである也。関羽を取って,長江を全うして拠る(長江に拠って全うする)に如かず,形勢は益張となって(益して漲り),守りを為すに易いことでしょう也。」孫権は之にじた易,以豉翻。

孫権は嘗つて其の子について関羽に於いて求昏を為そうとしたことがあった,為,于偽翻。関羽は其の使いを罵ると,昏(婚姻)を許さなかった;使,疏吏翻。孫権は是に由って怒ることになった。関羽が樊を攻めるに及び,呂蒙は上疏して曰く:「関羽は樊を討つも而して備えの兵を多く留めています,それは必ずやこの蒙が其の後ろを図るのではと恐れる故なのでしょう也。この蒙は病を有すこと常にしています,乞うらくは士を分けて建業に還らせることです,疾を治すということを以って

-2165-

名(目)と為しましょう,治,直之翻。関羽は之を聞けば,必ずや備えの兵を撤(兵)して,尽く襄陽に赴かせるでしょう。大軍が(長)江に浮かび晝夜(昼夜別たず)上(流)へ馳せ,上,時掌翻。其の空虚を襲うのです,そうすれば則ち南郡は下す可而して関羽は禽えられる可こととなりましょう也。」此の南郡とは,謂わば江陵のことである。遂に病が篤くなったと称した。孫権は乃ち露檄をもって呂蒙を召して還らせると,露檄とは,関羽を使て之を知らしめんと欲したのである。陰ながらこれと<与>計(略)を図った。呂蒙が下って蕪湖に至ったところ,定威校尉の陸遜が呂蒙に謂いて曰く:「関羽が境を接しているのに,如何遠下(遠く下ってくるのは如何せんとしてのことです?),後不当可憂(後ろは当に憂う可からざるものだとでもいうのでしょうか)也?」呂蒙曰く:「誠に(君が)来言する如くなのだが,然るに我が病は篤いのだ。」陸遜曰く:「関羽は其の驍気を矜っておりまして,人に於いて陵轢しております,轢,郎狄翻。始めに大功有ったため,意<きもち>驕り志逸していましょう,但だ北進せんと務めるのみとなっておりまして,未だ我らに於いて嫌っておりません;相病あると聞くこと有れば,必ずや(北進の兵を)益さんとして備えを無くしましょう,今其の不意に出たなら,自ら禽え制す可こととなりましょう。下って至尊に見えましたら,宜しく好んで計を為すべきです。」英雄之士が略を見る所は同じものである,蒙所以知其意思深長也。呂蒙曰く:「関羽は素より勇猛であるから,既にして敵と為すこと難しい,且つは已に荊州に拠ってしまっており,恩信が大いに行われ,兼ねて始めに功が有った,膽(胆)勢は益すます盛んとなっている,未だ図ること易からず也。」兵事は密なるを,陸遜之言は当に呂蒙之心であったと雖も,呂蒙は未だ敢えて容易には陸遜に之を言うこと為さなかったのである。易,以豉翻。呂蒙が都に至ると,孫権は問うてきた:「誰が卿に代わる可者だろうか?」呂蒙は対して曰く:「陸遜の意思は深長であります,思,相吏翻。才は重きを負うに堪えられます,其の規<はかりごと>と慮<おもんばかり>を観るに,終には大いに任す可ものです;而して未だ遠名を有しませんから,関羽の忌む所に非,無復是過也。復,扶又翻;下同。之を用いる若くなれば,当に外には自ら韜隱するように,内では形便を察するように令すべきです,そうすれば然る後には克つ可ことでしょう。」孫権は乃ち陸遜を召して,拜して偏将軍、右部督とすると,以って呂蒙に代えさせた。陸遜は陸口に至ると,書を為して関羽に与え,其の功の美しきを称え,深く自らを謙(遜)抑(制)すると,尽忠自託之意。関羽の意<きもち>は大いに安んじ,復嫌う所を無くし,稍<やや>して(備えに回していた兵を)撤兵して以って樊に赴かせた。果墮蒙計。陸遜は具さに形(勢)と状(況)を啓<ひら>き,其の可禽之要を陳べた。

関羽は于禁等の人馬数万を得たため,糧食が乏しくなり絶えた,そこで孫権のものである湘関の米を取した呉と蜀は荊州を分けて,湘水を以って界と為した,故に関を置いたのである。孫権は之を聞くと,遂に兵を発して関羽を襲った。孫権は欲令征虜将軍の孫皎と呂蒙に左右部大督と為すよう令しようと欲したところ,征虜将軍は,光武に於いて以って祭遵に命じたのが始まりである。呂蒙曰く:「若し至尊が征虜を以ってして能うものとするなら,宜しく之を用いるべきです;この蒙を以ってして能うものとするなら,宜しくこの蒙を用いるべきです。昔周瑜、程普が左右部督と為って,兵を督して江陵を攻めました,事

-2166-

決したのは周瑜に於いてであったと雖も,程普は久しく将たらんとして自ら恃み,将,即亮翻。且つ倶に是督したため,遂に共に睦むことなくなり,幾敗國事(幾らもなく国事が敗れんとしたのです/今にも国事は敗れんとするところであったのです),此が目前にあった戒めであります也。」事は六十六巻建安十五年に見える。幾,居希翻。敗,補邁翻。孫権は寤ると,呂蒙に謝って曰く:「卿を以って大督と為さん,孫皎には後継と為るよう命じよう可也。」

魏王曹操が漢中に出るや也,平寇将軍の徐晃を使わして宛に駐屯させると以って曹仁を助けさせた;平寇将軍は,蓋し亦曹操が所置したものである,沈約志を考えるに,四十号之数には在らず。于禁が陷沒するに及んで,徐晃は前にすすんで陽陵陂に至った。関羽は兵を遣わして偃城に駐屯させた,括地志:偃城は,襄州安養県の北三里に在る,古郾子之國である。徐晃は既に到ると,詭道をおこなって都塹を作らせると,其の後ろを截たんと欲していることを示したため,関羽の兵は屯を焼いて走った。詭道とは偃城之後ろに出て,長塹を為して通じさせたこと,故に曰く都塹という。徐晃は偃城を得ると,営を連ねて稍も前にすすんだ。曹操は趙儼を使って以って議郎として曹仁の軍事に参(加)させ,徐晃と倶に前にすすませたが,余りの救兵は未だ到らなかった;徐晃が督する所(の兵力)では囲みを解くには足らず,而して諸将は徐晃を呼びつけ責めると,曹仁を救うよう促した。趙儼は諸将に謂いて曰く:「今は賊の囲みは素より固まっている,水潦は猶も盛んであって,我らは徒らに単少を率いているだけで,少,詩沼翻。而して曹仁とは隔てられ絶たれており,力を同じくするを得ない,此挙適所以敝内外耳。当今は(今に当たっては)軍を前進させて囲みに偪<せま>り,諜<間諜>を遣わして曹仁に通じさせ,外に救いがあるのを知ら使,以って将士を勵ますに若かず。計ってみるに北軍は十日を過ぎない(距離にある/北からの増援は十日を過ぎずに来るだろう),(それくらの時間なら)尚も堅く守るに足れり,然る後に表裏(此方を曹仁とで)倶に発すれば,賊を破ること必ずならん矣。如有緩救之戮,余為諸君当之。」為,于偽翻。諸将は皆喜んだ。徐晃の営は関羽の囲みに距<はか>こと三丈の所にあり,地道を作って飛書を箭って曹仁に与えるに及んだ,消息すること数通であった。消というのは<者>,浸微浸滅之意;息者,漸生漸長之意。消息数通,則城内城外各知安否也。晃営迫羽囲如此而不能制,使呂蒙不襲取江陵,羽亦必為操所破,而操假手於蒙者,欲使両寇自敝,而坐收漁人、田父之功也。数,所角翻。

孫権は牋を為すと魏王曹操に与え,請以討羽自效,及んで漏れないようにと乞うた,令羽有備。曹操が臣に問うたところ,臣は咸言して宜しく之を密かにすべしとした。董昭は曰く:「軍事は権(謀)を尚ものです,期於合宜。宜しく孫権に応じるには密を以ってするとすべきですが,而しながら内では之を露わにすべきでしょう。関羽は孫権が上ってくると聞いて,若し還って自らを護れば,囲みは則ち速やかに解けましょうし,其の利を獲る便じることでしょう。両賊をして相対して銜持させ使可ければ,以馬為喻也。両馬欲相踶齧,既加之銜勒,両不能動矣,而欲之気未衰,相

-2167-

対銜持,則両雖跳梁,力必自敝。上,時掌翻。坐して其の敝えを待つことができましょう。祕したまま而して露わにしなければ,孫権をしてその志を得させ使める(だけの)こととなりますから,計之上というのには非というものです。又,囲みの中にいる将吏が救い有るを知らなければ,糧を計って怖がり懼れることになります。城中之糧を計って以って持久するに足らざれ,則ち心は怖懼を懐くということである也。怖,普布翻。儻<すぐ>れて他意を有すことになりますから,難を為すは小さくありません。難,乃旦翻。之を露にして便を為したとしても。且つ関羽の為人<ひととなり>は強梁でありますから,二城の守りが固いことに自らを恃んで[a],[a]江陵、公安のことである。必ずや速やかに退くことはないでしょう。」曹操曰く:「!(わかった)」即ち徐晃に敕して以って孫権の書を射って囲裏及び関羽の屯中に著させることとした,射,而亦翻。著,直略翻。囲裏では之を聞いて,志気は百倍し;関羽は果たして猶も豫けて去ること能わなかった。関羽は孫権の書を見たと雖も,江陵、公安の守りが固いことを自ら恃み,非権旦夕可拔(孫権が旦夕にも抜くことが出来るとは見ていなかった);又水勢に因って囲みを結び以って樊城に臨んだのは,必ず破らんとする之勢いが有ったからで,之を釋して而して去れば,必ずや前功を喪うものであった,此が其の猶も豫かった所以なのである也。

魏王曹操は洛陽から<自>曹仁を南に救い,下が皆謂うには:「王不亟行,今敗矣。」侍中の桓階が独り曰く:「大王以仁等為足以料事勢不也?」不,読曰否。曰:「能。」「大王が恐れているのは二人が力を遺していることでしょうか邪?」二人とは,曹仁、呂常のことを謂う也。曰:「然らず。」「然るに則ち何為すに自ら往かないのです?」曰:「吾恐虜多,而徐晃等勢不便耳。」桓階曰く:「今曹仁等は重囲之中に処しており重,直龍翻,下同。而して守死無貳者,誠に以って大王が遠くから為している勢いのためです也。夫れ万死之地に居っては,必ずや死爭之心を有するもの。内に死爭を懐き,外に強き救いが有る,大王が六軍を按じて以って余力を示しているのです,何をか敗れんことを<於>憂い而して自ら往かんと欲するのです?」曹操は其言を(然り)とすると,乃ち軍を摩陂に駐めて水経に拠れば,摩陂は潁川(郡)の郟県に在る,縱広は一十五里と。魏の青龍元年,龍が陂に<于>見えたとあり,是に於いて改めて曰く龍陂としたのである。前後して殷署、朱蓋等凡そ十二営を遣わすと徐晃に詣でさせた。

関羽囲頭有屯(関羽は囲頭に屯を有し),又四冢に別屯していた,徐晃は乃ち声を揚げて当に囲頭の屯を攻めるべきとしながら而して密かに四冢を攻めた。【章:乙十一行本「冢」下有「羽見四冢」四字。】欲壞,自将歩騎五千出戦;「自将」之上,有「羽」字文意乃明。晃撃之,退走。関羽は鹿

-2168-

角十重で塹を囲んでいたが,重,直龍翻。徐晃は関羽を追って,倶に囲みの中に入ると,之を破ったため,傅方、胡脩は皆死に,関羽は遂に囲みを撤して退いたが,然るに舟船は猶も沔水に拠っており,襄陽はまだ隔絶したままで通じなかった。

呂蒙は尋陽に至ると,其の精兵を中に尽く伏せて,,居侯翻。,盧谷翻。博雅曰:,舟也。白衣を使って搖櫓させ,商賈人の服を作り,賈,音古。晝夜兼行すると,関羽が所置していた江邊の屯候は,尽く之を收縛めた,是が故に関羽は聞き知ることなかったのである。屯候が收縛を被ったと雖も,麋、傅を使て叛心を無くさせていたなら,関羽は猶聞き知ること得らることであった也。麋芳、士仁は素より皆関羽が己を軽んじていることを嫌っていた,関羽が出軍するや,芳、仁は軍資を供給したが悉く相及ばなかったため,関羽は「還らば,当に之を治めるべきだ」と言い,治,直之翻。芳、仁は咸懼していた。是に於いて呂蒙は故の騎都尉であった虞翻に令して孫権は虞翻を以って騎都尉と為したが,謗ったことを以って丹陽へ徙された。呂蒙は請うて以って自らに隨わせたいとした,時に官爵が無かったため,故に故官と称したのである。書を為して説士仁に説き,成敗を陳べる為させたところ,說,輸芮翻。為,于偽翻。士仁は書を得ると即ち降ってしまった。降,戸江翻;下同。虞翻は呂蒙に謂いて曰く:「此は譎兵です也,謂わば呂蒙は譎計を以って兵を行わせたのである也。譎,古穴翻。に士を将いて,兵を留めてに備えておくべきです。」としたために士を将いて南郡に至った将,如字。麋芳が城守であったが,呂蒙が士仁を以って之に示したため,麋芳も遂に開門して出て降った。呂蒙は江陵に入ると,于禁之囚われを釋し,関羽及び将士の家属を得ると,皆之を撫慰し,軍中に約令した(約束・命令した):「不得干歴人家,有所求取。」呂蒙の麾下の士で,呂蒙と<与>同郡の人がいた,民家から一つの笠を取って以って官鎧を覆わせた;覆,敷救翻。官鎧は公のものであったと雖も,呂蒙は猶以って為すに軍令を犯したとし,郷里の故<所縁>を以ってして而して法を廢す可きではないとして,遂に垂涕して之を斬った。是に於いて軍中は震慄し,道にあろうと遺されているものを拾わなかった。呂蒙は旦暮に親近を使わして耆老に存恤させ,不足する所を問い,病を疾んでいる者には醫藥を給わり,飢えたり寒さにふるえる者には衣糧を賜った。関羽の府には財寶が藏<しま>われていたが,皆封閉して以って孫権が至るのを待った。藏,徂浪翻。

関羽は南郡が破れたと聞くと,即ち走って南に還らんとした。還,従宣翻,又如字。曹仁は諸将を会して(集めて)議したところ,咸<みな>曰く:「今関羽の危懼に因って,追って禽える可きです也。」趙儼曰く:「孫権が関羽の連兵之難を邀<むかえう>ったのは,邀,当作徼,徼幸也。難,乃旦翻。謂与曹仁連兵。其の後ろを掩い制さんと欲してのことですが,

-2169-

関羽が救いに還るのを顧みれば,我らが其の両疲に乗ずるのを恐れましょう,故より(孫権は)辞に順い效を求め,求效とは,猶求めて自ら效ることを言う也。或るひと曰く:巽順其辞以求成效。釁に乗じ変に因って以って利鈍を観ようとしているだけです耳。今や関羽は已にして孤迸しております,言羽失根本,而勢孤奔迸也。めて宜しく之を存らしめて以って孫権の害と為さしめましょう。若し深く入って追北すれば,孫権は則ち彼に於いて改虞しましょうから,将に我らに於ける患いを生じさせましょう矣虞,度也,防也;謂度羽不能為害,則改其防羽之心而防操,則必為操之患矣。王は必ずや此を以って深慮と為しましょう。」曹仁は乃ち厳(戒態勢)を解いた。趙儼之計,此は戦國策士の所謂両利にして而して之を倶存させる之計である也。解厳とは,兵を厳しくしている所を解いて,関羽を追うことを復しないことをいう也。是の後で陸遜が峽中に於いて劉備を敗れさせたが,兵を収めて而して還り,劉備を追うことを復しなかった,計は亦此に出ているのである。魏王曹操は関羽が(逃)走したと聞き,諸将が之を追いかけるのを恐れると,果たして曹仁に疾敕したがそれは趙儼が策した所の如くであった。

関羽は何度も人を使わして呂蒙と<与>相聞かせたところ,数,所角翻。呂蒙は輒ち其の使いを厚遇し,使,疏吏翻。城中を周游させ,家家に問いを致させ,或るいは書を手からして信を示した。羽の(使わした)人が還ると,私ごとで(皆が)相參じ訊ねあって,訊,問也。咸<みな>家門が恙無きことと,平時に於けるように待(遇され日々を)過ごすに見えていると知り,故に羽の吏士は心(戦う心)を無くしたのである。呂蒙が関羽を禽えた所以というのは<者>,之を攜いた而已<だけ>であった。恙,金亮翻。

孫権が江陵に至るに会うと,荊州の将吏は悉く皆帰附することになった;しかし独り治中従事である武陵出身の潘濬だけは疾と称して見えなかった,孫権は人を遣わして以って家に就すると輿にのせ之を致した,潘濬は面を伏せて席に著わされても起たず,涕泣<なみだ>が交わりになり,哀哽して自らに勝つこと能わなかった。著,直略翻。勝,音升。孫権は其の字を呼んでこれと<与>語りあい,潘濬字承明。慰諭し懇惻すると,親近を使て手巾を以って其の面を拭わせた。潘濬が起きると,地に下って拜謝し,即ち以って治中と為し,荊州の軍事について,一えに以って之に諮ることとしたのである。郝普、麋芳、傅士仁之呉に在るや,未だ聞く所有らず也,而潘濬所以自見者,与陸遜、諸葛瑾班,識者当於此而観人。武陵部従事の樊が諸夷を誘い導き,武陵を以って漢中王の劉備に附こうと図った。漢制では,州牧、刺史は諸郡を部し(掌握し),各々の郡は部従事を置く。は,冑と<与>同じである。誘,音酉。外白差督督万人往討之,差,初佳翻,擇也。督,将也。孫権は聴きいれなかった;そうして特に潘濬を召して問うたところ,潘濬は答えた:「五千の兵を以って往かせれば,以って樊擒えるに足りましょう。」孫権曰く:「卿は何以って之を軽ろんじられるのか?」潘濬曰く:「樊南陽の旧姓ですが,南陽之樊(氏)は,光武之母党である,故に之を旧姓と謂ったのである。頗る

-2170-

能く脣吻を弄すのですが,而して実<まこと>は才略など無いのです。今人以辨給観人才,何其謬也!吻,武粉翻。口邊曰吻。臣が之を知っている所以は<者>,樊は昔嘗て州人の為に饌を設けたのですが,為,于偽翻。饌,雛戀翻,又雛皖翻。比して日中に至るも,比,必寐翻。食は得る可からずして,而して十たび余りも自ら起って(準備の様子を見に行ったのです),此は亦た侏儒でして一節之驗めを観たものでした也。」侏儒は,優人,諧笑を能くするを以って寵を取るものである。其一節を観るとは,以って其の技を驗めるに足るということ。孫権は大いに笑うと,即ち潘濬を遣わして五千人を将いさせて往かせたところ,果たして之を斬って平げてしまった。孫権は呂蒙を以って南郡太守と為すと,孱陵侯に封じ,孱,仕連翻。錢一億,黄金五百斤を賜った;陸遜を以って宜都太守を領させた。呉録に曰く:蜀の昭烈帝は西陵に於いて宜都郡を立てた。即ち夷陵である也;唐が峽州夷陵郡と為した。

十一月,漢中王劉備が所置した宜都太守の樊友は郡を委ねて走り(逃走し),諸城の長吏及び蛮夷の君長も皆陸遜に於いて降った。長,知両翻。陸遜は(孫権に)金、銀、銅印を請うと以って初めに附いたものに假に授け,蜀将の・晏等や・,姓也;周有・父,楚有・尹。及び秭帰の大姓で兵を擁していた者を撃ち,皆之を破り降らせると,前後して斬獲、招納したものは凡そ万計を数えた。孫権は陸遜を以って右護軍、鎮西将軍と為すと,封を婁侯に進め,夷陵に駐屯させて,峽口を守らせた。婁県は,前漢では会稽郡に属し,後漢では呉郡に属した。范成の大呉郡志では:婁県は,今は之を崑山県と謂い,東北三里に村落が有って,婁県と名づけられている,蓋し古の婁県の治所なのだろう也。峽口は,西陵の峽口のことである也。宜都記に曰く:黄牛灘より<自>東して西陵界に入る,峽口に至ること一百許里。山水は紆曲しており,両岸が高山重嶂となっていて,非日中夜半,日月を見ず。

関羽は自ら孤り窮まったことを知ると,乃ち西して麥城を保った。荊州記に曰く:南郡の当陽県の東南に麥城が有る。孫権が使って之を(降伏するよう)誘わせたところ,関羽は偽降し,誘,音酉。降,戸江翻。城上に於いて幡旗を立てて象人を為すと,因って遁走したが,兵は皆解散してしまい,纔すること十余騎のみであった。孫権は先に朱然、潘璋を使って其の徑路を断たせていたため,断,丁管翻。十二月,潘璋の司馬である馬忠が関羽及び其の子の関平を章郷に於いて獲て,水経註:漳水は臨沮県の東にある荊山から出て,南して臨沮県之漳郷南を逕る,潘璋が関羽を禽えたのは此に於いてである。漳水も又当陽県を南へ逕,又南逕麥城東。之を斬り,遂に荊州が定まったのである。

-2171-

初,偏将軍である呉郡出身の全jは全,姓;j,名。上疏すると関羽は取る可とする之計を陳べたが,孫権は事が泄れるのを恐れて,寝かせて而して答えなかった;已にして関羽を禽えるに及び,孫権は酒を公安に置くと,顧みて全jに謂いて曰く:「君が前に此を陳べ,孤<わたし>が相答えなかったと雖も,今日之捷ちは,抑えるに亦た君之功でもある也。」是に於いて全jを封じて陽華亭侯とした。孫権は劉璋を以ってして復して益州牧と為させると,秭帰に駐めたが,未だ幾らもなくして,劉璋は卒した劉備が益州に入ると,劉璋を公安に于けるに遷したのである,今は孫権が得る所と為った。幾,居豈翻。

呂蒙は未だ受封に及ばないうちに而して疾み発した,孫権は館としていた所之側に於いて迎え置くと,所以治護者万方。時に加鍼が有ると,孫権は之が為に慘慼した。治,直之翻。為,于偽翻。何度も其の顔色を見ようと欲し,数,所角翻。労させ動かさせてしまう恐れ,常に壁を穿って之を瞻じ,見小能下食(少し食を下すこと能わるに見えると),則ち喜んで左右を顧み,【章:甲十一行本「右」下有「言笑」二字;乙十一行本同;孔本同;張校同;退斉校同。】然らざれ則ち咄唶し,咄,当沒翻,咨也。唶,子夜翻,嘆也。夜となっても寐すこと能わなかった。病が中瘳したため,為に赦令を下した,為,于偽翻;下同。臣は畢賀したが,已むと而して,竟に卒した,年は四十二であった。孫権が哀痛すること殊にしく,守冢する三百家を置くことと為したのである。

孫権は後に陸遜と<与>周瑜、魯肅及び呂蒙についてを論じて曰く:「公瑾は雄烈だった,膽(胆)略は人を兼ね,遂に孟徳を破って,荊州を開拓した,邈焉寡儔。子敬は公瑾が致すに因って孤に於けるに達し,孤と<与>宴語すると,便じて帝王之業を大略するに及んだのだが,此は一つの快(事)であった也。事見六十三巻五年。後に孟徳が劉jを獲た之勢いに因って,張言して方率すること数十万水歩して倶に下らんととしてきたため,張言者,張大而言之。孤<わたし>は諸将を普く請うて,宜しきとすべき所を咨問したが,無適先対;無適先対,猶言莫適先対也。適,音的。張子布、秦文表に至っては秦松,字文表。倶に言うことは宜しく使いを遣わして檄を修め之を迎えさせるべきですというのであったが,子敬は即ち駮言して不可ですとし,駮,異也;立異議以糾駮議之非。駮,北角翻。孤に急いで公瑾を呼ぶよう勧め,付任以,逆而撃之,此は二つめの快(事)であった也。事は六十五巻十三年に見える。後には吾に玄徳へ地を借りさせるよう勧めたと雖も,事見六十六巻十五年。是は其の一つの短であったが,

-2172-

それを以ってして其の二長を損なうには足りないのである也。周公不求備於一人,論語載周公語魯公之言。故に孤<わたし>は其の短を忘れて而して其の長を貴び,常に以って比すことケ禹を方ぜんとしている也。ケ禹は建策して以って光武の中興之業を開かせたが,而して其の後は赤眉を定めること能わず,故以肅比之。子明は少なき時には,呂蒙は,字を子明という。少,詩照翻。孤は劇易を辞さずと謂っていた,劇,艱也。易,以豉翻。果たして敢えて膽(胆)而已を有した;身が長大なるに及んで,長,知両翻。学問して開益し,籌略は奇至することとなって,以って公瑾に於けるに次ぐ可ものとなった,但だ言議の英発するのだけが之に及ばなかったのみである耳。関羽を取る図ったのは,子敬に於けるより勝るものであった。子敬は孤に書で答えて云うに:『帝王之起つや,皆驅除すること有り,羽は忌むには足らず。』謂うに関羽之強は,呉之驅除を為すに足るに適うということ也。此は子敬が内では辦ずること能わず,外では大言を為す耳<のみ>であったが,孤は亦た之を恕し,責めることを苟しなかった也。然るに其の軍の屯営を作るにあたっては,不失令行禁止,部界無廢負,謂部界之内,無有廢職以為罪負也。路にあって遺されたものが拾われること無くなった,其の法も亦美しいものであった矣。」

孫権が于禁と乘馬して併行したところ,併,読曰並。虞翻が于禁を呵して曰く:「汝は降虜ではないか,降,戸江翻。敢えて吾が君と馬首を斉<ひと>しくするのだ乎!」抗鞭して于禁を撃とうと欲したため,抗,挙也。孫権が呵して之を止めた。

15孫権が藩と称するや也,魏王曹操は張遼等の諸軍に悉く還って樊を救うよう召したところ,未だ至らぬうちに而して囲みが解けた。徐晃は振旅して摩陂に還ると,曹操は徐晃を迎えること七里,酒を置いて大会した;王は酒を挙げて徐晃に謂いて曰く:「樊、襄陽を全うしたのは,将軍之功である也。」といい亦た桓階に厚く賜って,以って尚書と為した。曹操は荊州の残民及び其の屯田が漢川に在ること<者>を嫌い,此の漢川とは,襄、樊の上下,漢水左右之地のことを謂う也。皆之を徙そうと欲した。司馬懿は曰く:「荊楚は軽く脆く易く動くものです,易,以豉翻。関羽が新たに破ると,諸為惡者(諸々の悪を為した者は),藏竄して(事態を)観望し,其の徙った者は,既に其の意<きもち>を傷つけられましたからには,将に令するに去る者は敢えて復還らなくてもよいとなさいませ。」操曰:「是也。」是後に諸亡者は悉く還って出てきた。

16魏王曹操は(上)表して孫権を票騎将軍と為し,假節とし,荊州牧を領させると,南昌侯に封じた。南昌県は,豫章郡に属する。票,匹妙翻。孫権は

-2173-

校尉の梁寓を遣わして入貢させると,又朱光等が遣わされて帰ってきた,朱光は孫権に獲られる所と為った,見は上巻十九年に見える。上書して曹操に於いて臣と称し,天命を称え説いていた。曹操は以って孫権の書を外に示して曰く:「是の兒は吾が著を爐火の上に踞らせようと欲しているのか邪!」著,直略翻。蓋し言うに漢は火徳を以ってして王たれ,孫権は欲使操加其上也。然操必以権書示外者,正欲以観心耳。侍中の陳等は皆曰く:「漢祚は已に終え,今日に適うに非。殿下の功徳は巍巍たりて,生が望みを注いでおりますから,注,猶属望。故に孫権は遠きに在って臣と称したのでしょう。此は天人が応じたもので,気は異なれ声は斉しきものです,殿下には宜しく大位を正されんことを,復何をか疑うや哉!」復,扶又翻。曹操は曰く:「若し天命が吾に在るならば,吾は周の文王と為らん矣。」文王は天下を三分して其の二を有し,以って殷に服し事えた。

臣である(この司馬)光曰く:教化とは,國家之急務である也,而しながら俗吏は之を慢<あなど>るものだ;風俗とは,天下之大事である也,而して庸君は之を忽れとするものだ。夫明智なる君子のみが,深く識長く慮り,然る後に其の益を為すことの大なることと而して功を収めることの遠きことを知るのである也。光武は漢が中衰して,雄が糜沸するに遭い,布衣から奮起して,前緒を紹恢し,四方を征伐した,日は給わるりずして,乃ち能く経術を敦,儒雅を賓延し,学校を開き広げ,校,戸教翻。禮楽を脩明したため,武功が既にして成ると,文徳も亦た洽<あまね>こととなったのである。継ごうとしたのは孝明、孝章を以ってすることであり,先志を遹追し,遹,述也,遵也。遹,音聿。雍に臨んでは老を拝し,経を横たえて道を問うた。公卿、大夫より<自>郡県之吏に于けるに至っては,咸<みな>経明行脩之人(経に明るく行いが修まっている人)が選び用いられ,行,下孟翻。虎賁士も皆孝経を習い,賁,音奔。匈奴の子弟も亦大学に遊(学)した,是により以って上に於いては教えが立ち,下に於いては(風)俗が成ることになったのである。其の忠厚清脩之士,豈惟取重於搢紳,搢紳,謂搢笏、垂紳,在朝公卿、大夫也。亦見慕於庶;愚鄙穢之人,豈惟不容於朝延,【章:甲十一行本「延」作「廷」;乙十一行本同;熊校同。】亦見棄於郷里。三代が既に亡んでより<自>,風化之美は,未だ東漢之盛者の若きものを有しなかった也。孝和以降に及んでは,貴戚が権をして,嬖倖が用事し,嬖,卑義翻,又必計翻。賞罰には章が無く,賄賂が公に行われ,賢愚が渾殽として,その是非が顛倒したのであるから,乱と謂う可きであろう矣。然るに猶も||不至

-2174-

於亡者,上には則ち公卿、大夫として袁安、楊震、李固、杜喬、陳蕃、李膺之徒が有って面引廷爭し,爭,読曰諍。公義を用いて以って其の危うきを扶<たす>けんとし,下には則ち布衣之士である符融、郭泰、范滂、許券V流れが有って,私論を立てて以って其の敗れを救わんとした,私論者,謂其不得預議於朝,而私立論於下,以矯朝議之失也。是こそ以って政治は濁ったと雖も而して風俗は衰えなかったということであった,治,直吏翻。觸を有して斧鉞を冒すに至って,僵仆於前(前にすすんで倒れ伏し),而して忠義は奮発されて,後に於いて継がれ起こるや,隨踵して(踵を引きずって)戮されるに就き,死を視ること(天や王などの大いなるものに)帰すが如しであった。夫豈特数子之賢哉?(夫どうして何人かの賢人にだけあった特別のことであったといえようか?)亦光武、明、章之遺した(王)化(の結果)であったのである也。当是之時にあって,苟くも明君が作って而して之を振うこと有ったなら,則ち漢氏之祚は猶も未だ量る可からざるものであったのだ也(漢王朝の命数は猶も未だ量りようのないほど長く延びていたはずなのだ)。量,音良。不幸にも陵夷頽敝之余り(余殃)を承ったうえに,それに重ねるに桓、靈之昏虐を以ってして,姦回を保ち養い,孔安國曰:回,邪也。重,直用翻。骨肉に於いて過ちあった;また忠良を殄滅すること,寇讎に於いて甚だしいものであった;そのため多くの士之憤りを積みあげ,四海之怒りを蓄えてしまったのだ。是に於いて何進が召戎したため(蛮人を召したため),董卓が釁に乗じ,袁紹之徒が従って而して難を構えたけっか,難,乃旦翻。遂に乘輿をして播越させ使むることとなり,乘,繩證翻。宗廟は丘墟して,王室が蕩覆し,烝民は塗炭して(塗炭の苦しみを舐めて),大命は隕絶した,復救う可からざることとなってしまったのである。復,扶又翻。然るに州郡が兵を擁して地を専らにしたのは<者>,互いに相呑噬せんとしたと雖も,猶も未だ嘗つて尊漢を以ってして辞を為したのではなかった。魏武之暴戻を以ってして強伉させると,伉,口浪翻。加有大功於天下,其蓄無君之心久矣(天下に於いて大功を有するのに加えて,其の君を無いがしろにする心を蓄えること久しきや矣),乃ち至って身を没して敢えて漢を廃して而して自立しようとしなかったのは,豈に其の志が欲しなかったものであったのだといえようか哉?猶も名義を畏れて而して自ら抑えただけなのである也。是ゆえに<由>之を観ると,教化は安んぞ慢<あなど>可きだろうか,風俗は安んぞ忽とする可ものだろうか哉!(そうではないのである。)

【ここまで通鑑漢紀六十】