ゲームセンターの片隅に咲いた妖しい華 脱衣麻雀
脱衣麻雀の歴史 その1
 

   脱衣麻雀の誕生は、1983年の「ジャンゴウナイト(日本物産)」から始まった。以来16年、さまざまな脱衣麻雀が我々の目と脳みそを楽しませてくれた。ここでは、ジャンゴウナイト以降、脱衣麻雀がどのように進化、発展してきたかを時間軸によって語っていく。
 

黎明期(1983年)
 脱衣麻雀の歴史、それは突然始まった。
 1983年の「ジャンゴウナイト(日本物産)」。これが脱衣麻雀の始まりだ。
 それは唐突に登場した。それまでの麻雀ゲームは「ジャンピュータ」「ロイヤル麻雀」などに代表される比較的普通の麻雀ゲームだった。テレビゲーム向けにアレンジされている点といえば、時間とともに持ち点が減っていき、長考を防ぐという点くらいだった。
 ジャンピュータから正常進化するなら、麻雀ゲームはより人間に近い思考システムを持った本格麻雀ゲーム、麻雀とトランプの中間に位置するカードゲームのようなもの(ジャンボウのようなゲーム)に普通なら行き着くのではないかと思う。事実、パソコンの麻雀ゲームはそういった進化をとげている。
 しかし、何をどうとち狂ったのか、「麻雀に勝つと女の子が服を脱ぐ」というとっぴょうしもないルールが組み込まれた。まさに脱衣麻雀は突然変異で生まれたのだ。
 しかし、このとんでもないルールはたいへん好評を博した。女の子(バニーガールというのが、当時麻雀ゲームがカジノゲームのイメージだったことを物語っている)のグラフィックは画面全体の1/6ほどのスペースにちょこっと描かれたもので、今見れば「脱衣麻雀」と呼ぶのもはばかられるような代物であったが、そんな程度の脱衣でも、継続プレイをさせるための「引き」としては非常に有効であることがわかり、これ以降ゲームセンターでは「麻雀」イコール「脱衣麻雀」となってしまったのである。

価値観の逆転(1984年〜1985年)
 脱衣麻雀の発明は麻雀ゲームを大いに活性化した。しかしあくまでも麻雀が主であり、脱衣は従であった。プレイヤーも麻雀で勝つことを目的とし、女の子にそれほどこだわってはいなかった。
 しかし、グラフィックボードの進化はこの主従関係を逆転した。1986年のリアル麻雀牌牌(アルバ)、セカンドラブ(日本物産)あたりから脱衣麻雀は変化していく。16色ながらアナログRGBにより肌色をきれいに出せるようになり、女の子がより一層魅力的になった。
 また、麻雀基板にも変化が出た。従来の基板はシューティングゲームやアクションゲームを作りやすいように、グラフィックは8×8ドット単位の「文字」で表現されていた(プログラマブルキャラクタジェネレータという)。これにより画面を高速に書き換えられるのだが、きめの細かいグラフィックを描くには適さない。
 そこで、1ドット単位で書換えができる(PCのグラフィック画面のような)ビットマップ画面を持った基板が作られた。この基板の開発により、1画面まるまる女の子で埋めることも、複数の女の子をひとつのゲームに登場させることも可能になったのである。
 余談だが、1986年にタイトーが発売した「スーパーQIX」は、当時余剰だった麻雀基板で作ったものだ。1ドット単位で書換え可能な基板の特徴が遺憾なく発揮されている。
 ともあれ、麻雀基板の発展が麻雀と女の子の価値を逆転するきっかけになった。そしてこの流れを確定する脱衣麻雀が、1987年に登場する。
 

雀豪レディ(日本物産/1983年)雀豪ナイトとほぼ同時期に出た黎明期の脱衣麻雀。3人麻雀なのは日本物産が関西のメーカーだからか。なお、この時すでに脱がせる女の子を複数の中から選ぶ仕様が確立されていた。ちなみに基板には1982年の刻印があるが、出たのは1983年だったはず。
 


リアル麻雀牌牌(1986年/アルバ)。看護婦・セーラー服といったコスチュームプレイの概念を組み込んだ脱衣麻雀。現在の水準から見れば稚拙なグラフィックだが、当時としては画面いっぱいに女の子を表示しているというだけで価値があった。
 


セカンドラブ(1986年/日本物産)アナログRGB基板を使って実写の女の子をデジタイズした意欲作。ただし、表示できる色数の関係から、あまり美しい画像ではなかった。そのためいちばん人気があったのはメグというアニメタッチのメガネ娘だった。
 
 

 

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