
オタクな雑文 その十九
〜「ボケとツッコミ」について考える〜
| 「ボケとツッコミ」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?当然お笑いの「ボケ」と「ツッコミ」を思い浮かべる方が多いでしょうし、実際この標題もそのつもりでつけられています。しかし、「ボケとツッコミ」というのは単にお笑いだけに適用し得る考え方ではないのです。「ボケとツッコミ」の根本的な要素を理解する事で他の色々な創作をより深く理解出来るようになるのです。ここではその方法について論じていきたいと思います。
<1>「ボケとツッコミ」とは何か? まず、「ボケとツッコミ」が何であるかから話を始めたいと思います。まず、「ボケ」は常識の破壊で「ツッコミ」は常識の再構成だと言うことを認識して下さい。どういう事か、お笑いに当てはめて説明してみましょう。最初に「ボケ」が常識から外れた事を言います。それを「ツッコミ」がどれくらい常識から外れているか説明します。その事によって常識が一度は破壊され、再構成されることで笑いを生むのです。簡単な実例を挙げてみましょう。 (季節は夏という前提で) これが字面だけで見て実際に面白いかどうかはともかく、「ああ、こういうことね」と思ってもらえたと思います。まず、夏なのに「寒くなってきた」と言うことで「今は夏だから暑い」という常識を破壊しています。そして「暑いよ!今夏だよ!」という解説で「寒くなってきた」というのが常識から外れていた事が再認識され、改めて常識が再構成されるのです。ここで言う「常識」と言うのが何なのかというと、これは「ボケとツッコミ」の送り手と受け手の間での共通認識の事です。ですから、受け手の年齢層など次第でその「常識」は変わってくるのです。たとえば若者向けにドラえもんの物真似を取り入れた「ボケ」は共通認識として受け入れられやすいですが、高齢者には必ずしも受け入れられるとは限らない、と言う具合です。「ボケとツッコミ」の送り手側は、受け手側の常識がどこにあるのかをしっかりと認識した上で「ボケとツッコミ」を行わなければならないワケです。たとえば新宿駅前などの路上漫才で「少女革命ウテナ」などの超マニアックなアニメのネタでコントをしてしまう…などと言うのは受け手側の常識を全く考慮しない悪例中の悪例です(注:これ実話)。マニア仲間の間では「常識」であっても新宿駅前の路上では「常識」足り得ない、と言う事がちゃんと認識出来ていなかった、という事ですね。 さて、では「ツッコミ」が無い場合はどうなのか?いわゆるアメリカンジョークやボケっぱなし、一発ギャグと言った物がこれに当たります。これらは「ツッコミ」が無いのでなく、受け手に「ツッコミ」を要求するものなのです。アメリカンジョークはどこが常識から外れているか、お互いが認識している事が成立の前提ですし、ボケっぱなしも当然そうです。一発ギャグは大体があまりに常識から外れているので受け手が自分で再構成してくれるのです。例をあげるならば「カトちゃんぺ」とか「ガチョーン」のような日常あり得ないと思われる発声などがそうです。受け手は特に「ツッコミ」が無くても自力で「ボケ」のどこが常識から外れているか理解し、常識を再構成する事が出来るのです。 <2>お笑い以外に見る「ボケとツッコミ」 (1)「ボケ」に対して「ツッコミ」を入れる 「ボケとツッコミ」が常識の破壊と再構成だとすると、これはお笑いだけに見られる現象ではなくなります。フィクション全般に共通する「面白さ」は多くこの「ボケとツッコミ」の法則に従っていると言えます。たとえば、有名な所で「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがあります。一見平和な街に巨大な怪獣が現れ、主人公の少年が巨大ロボットに乗って戦う、というのが非常に大まかなあらすじとなります。本編自体は、申し訳ないけれど各自見ていただくとして、本編第一話に見られる「ボケ」と「ツッコミ」を列挙していきたいと思います。 「ボケ」 「ツッコミ」 これらがエヴァンゲリオン第一話における大まかな「ボケとツッコミ」です。挙げられている物から分かっていただけると思いますが、「ボケ」は非日常、「ツッコミ」は日常の描写になっています。例えば三項目のエヴァを見た主人公、碇シンジの反応について考えると、「秘密兵器のパイロットに何も知らない少年を起用」は非常識だし、「巨大ロボットを見た」ら驚くのが常識的な反応であると言えます。これは反応が笑いかスリルなどか、という違いは有れども、お笑いの時と同じく常識を破壊して再構成することで楽しませる効果があるのですが、同時に送り手が受け手に対して作品世界での常識を提示している場面でもあります。 フィクションの多くは我々の住む日常から外れた世界を描いています。ですからその世界の「常識」が我々の「常識」と同じであるとは限りません。ですから要所要所でその世界の「常識」がどういうものであるかを提示しなくては受け手が作品を理解する事が困難となってしまいます。ロボットアニメやヒーロー物で、最初に非日常に巻き込まれた主人公や一般市民が驚いて右往左往するのは、何も知らずに番組を見る視聴者の立場を代弁し、作品世界と言う常識が破壊された世界に、再構成された常識を提示する役割を持っているのです。 ここで悪い例を一つ。「蒼穹のファフナー」というアニメの第一話は、基本的にエヴァンゲリオンの第一話のスタイルを踏襲しているのですが、少々「ツッコミ」が甘い部分が見受けられました。大まかな「ボケとツッコミ」はエヴァンゲリオン第一話と同様と言って良いのですが、「巨大ロボットを見た」」時の主人公の少年の反応が何も知らずに見ている受け手の立場を代弁していない点が少々マズい部分でした。設定的には「何故か動かし方が分かる」という事らしいのですが、それならばそう言った「ツッコミ」が必要です。それまで我々と似たような日常しか過ごしていない少年がいきなり巨大ロボットを操縦するという非日常を受け入れてしまうと、受け手は置いていかれてしまいます。これは主人公以外の登場人物の少年少女全般に当てはまる事でした。 (2)「ボケ」に対して「ツッコミ」を入れない 前項とは逆に、我々の世界では非常識な事を「常識」として描く事でその世界の常識が我々の世界の「常識」と違う事を提示するという方法もあります。この場合、お笑いで言う「ボケっぱなし」や「一発ギャグ」に近くなり、受け手自身が「ツッコミ」を入れられる事が重要となります。例えば、描かれる日常は現在とさほど変わらないのに自動車が全部宙に浮いていたら「ああ、この世界はこういう世界なんだ」と説明されなくても受け手は理解する事が出来ます。しかし、同様に現代日本を描いているのに「国産車も全部左ハンドル」という細かい「常識の破壊」をしても、それは破壊を気付いてもらえず、「ツッコミ」も入れてもらえない結果になってしまいます。受け手が細かくても丁寧に汲み取る場合も有りますが、それに期待してはいけないのです。ですからこの場合は「ボケっぱなし」や「一発ギャグ」と同じく分かりやすい範囲で常識を破壊するか、跡形も無く破壊して受け手が容易に常識の再構成を出来るようにするか、そのどちらかにする必要があります。例えば「特捜戦隊デカレンジャー」という特撮番組の中では宇宙人は既に日常の存在として描かれています。番組の最初の方で少々の解説はありましたが、人間離れした宇宙人達を目の当たりにした時に登場人物がさも当然のように振舞う事でその世界の「常識」が我々の世界の「常識」と違う事が知らしめられるのです。 <3>「ボケとツッコミ」の描き方と読み方 「ボケとツッコミ」はフィクション全般を構成する大事な要素です。その価値が薄いのは一般的なドラマなどの非日常的な事象の無いタイプのフィクションに限られます。 多かれ少なかれ非日常的な要素を含んだ世界を舞台とするフィクションを製作する場合、送り手としてはどのように「常識を破壊」したいか、つまり「ボケ」たいかをまず明確にし、それがどれくらい「常識の破壊」を行っているかを示すためにどの程度の「常識の再構成」、つまり「ツッコミ」を提示すれば良いのかを考える必要があります。もし「ツッコミ」の総量を見誤ると常識は破壊されっぱなし、つまりワケの分からないモノとして受け手に認識されてしまいます。また、「ツッコミ」によって「再構成」された「常識」が受け手の持つ「常識」と違っていたらそれは「ツッコミ」としての用を成しません。送り手はターゲットとする受け手がどのような「常識」を持っているかをしっかり認識していなくてはならないのです。 一方、受け手はどうすれば良いかというと、特に何もする必要はありません。が、「ボケとツッコミ」が上手く機能していないコントや作品に出会った時、ちょっと頭を働かす事によって少しばかりイジワルな楽しみ方をする事が出来ます。お笑いだったら「ああ、今のネタはツッコミが常識を再構成し切れてないな」とか「あんなボケじゃどうツッコミ入れても再構成しようがないじゃねえか!」とか。それが作品ならば「受け手の常識と乖離してるのに常識の再構成が足りないなあ」とか「常識の破壊が些細過ぎて受け手に再構成を任せるには弱過ぎる」とか、普段は「つまらね〜!」としか言い様が無い場合でも違った楽しみ方が出来てお得…かもしれませんよ。 |