春の暖かな日差しの中、ひらひらと桜の花びらが舞っていた。
窓際で頬杖をつきながら、彼女は何と無しにそれを眺めていたのだった。
「ああ、OLになんてなるんじゃなかったかな。」


さくらは、とある広告代理店に勤めるOLであった。
綺麗に纏まったショートヘア故か、まだ顔つきに幼さが感じられ、そのためこの会社の制服である堅苦しい紺のブレザーが、妙な違和感を感じさせる。
「ああ、今日も書類と睨めっこかあ。」
今日もさくらは、いつもの様に上司に申し付けられた仕事を(適当に)片付けていた。
彼女にとって毎日書類の処理に追われるこの仕事は苦痛意外の何物でもなかった。
もともと机に座ることでさえ彼女の性分では無い。
しかし、かと言って仕事もせずただ家でだらだらするというのは流石に問屋が卸さず、
渋々、高校卒業後は無難な企業への就職の道を選択したのだった。
…やりたいことが無いわけではなかった。
しかし、それは常識的に突飛で、流石の彼女も無理を重々承知せざるを得なかった。
夢見ることさえ自らに禁じ、誰にも話さず、
…ただ「社会人」としての責務を全うする…
そんな自分を保持する生活を、これまで続けてきたのであった。
ふと、さくらは何かの拍子に窓の方を振り向いた。
「あれ…?」
視界に桜吹雪が飛び込んだ。
近くの公園に植えられた桜が舞っているのだろう。
今年の桜は、特に激しく、華麗に、感情的に舞っていた……まるで、暑い、熱い夏を告げるかの様に。

ふと思う。
ああ、あの頃もこんな風だったなあ。

さくらの内に、尽きるほどに熱く燃え盛った少女の頃が蘇る。
ああ…楽しかったなあ。
こんなつまらないことの繰り返しの毎日なんか、及びもつかないほどに。
あの頃はとても輝いていたと、自分でも思う。
もう、あの頃のような力溢れる日々は来ないのだろうか。
……来るわけが無い……あの人が居ないのだから。
だから夢も捨てた。
これで良いのだ。
これが人生というものなのだ。

おおおおおお………!

突然何処かで大きく歓声が上がった。公園の辺りからだろうか。
「もう…少しは感傷に浸らせてくれてもいいじゃないの。」
折角の懐古の時間を邪魔され、さくらは少し不機嫌に呟いた。
歓声はまだ止まない。
「何なのよ一体……騒ぐのはいいけど、少しは人の迷惑も考えてよね。」
どこかで白けてしまったさくらは、仕方無い、といった様子で、再び仕事に戻るため重い腰を上げた。
ーその時。
空耳か、聞き違えか。
騒がしい喧騒の中に、一瞬だけ、あの懐かしい、逞しい咆哮が聞こえた。
「嘘」
思い出の余韻か。
いや、そうだとしても構わない。
さくらの内で何者かが彼女を急き立てた。
今この機を逃すと、一生後悔する!
「課長、ちょっと……、ちょっとトイレに行って来ますっ」
そう告げるや、さくらはオフィスを後にした。


我ながら恥ずかしい言い訳をしたものだな。
そんなことを考えながら、会社を飛び出し、公園へと走る。
聞こえてくる歓声は、更に騒がしさを増した様である。
急げ、急げ。
行き交う人の群れを交わし、赤信号を強引に突っ切る。
「ご免ねっ。」
急ブレーキを踏む車にそう叫び、いよいよ彼女は桜舞う公園へと飛びこんで行った。


桜の樹が立ち並ぶ大きめの広場には、かなりの数の人が集まっていた。
皆で何かを囲み、驚く程の盛り上がりを見せている。
「ごめんなさい、すいませんっ。」
さくらはその群れに、半ば体当たり気味に突入する。
物凄い人の密度だ……。
しかし、その中をどれだけ強引に進もうと、誰一人彼女に気付く者は居なかった。
…それ程までに彼らを熱狂させるものが、この先にはある。
人垣を掻き分けながら、さくらは胸が踊った。
嬉しい予感がする。

そして、それは現れた。


「とあァーッ!」
先ず見えたのは少女だった。年の頃は17,8辺りか。
下せば足元まではあろうかという長い髪を、旋毛辺りで結っている。
白いTシャツにジーパンという、至ってラフな服装。
少々風変わりではあるが、それでもまだ普通の女子高生に見えないことも無かった。
しかしその動きは信じられぬ程、軽い。
少女はこちらに背を向ける形で、何者かと対峙していた。
「えいやッ」
そう叫ぶや、少女は小さく跳び上がり鋭い蹴りを繰り出した。
…闘っている?
「ストリートファイト!」
さくらは思わず叫んだ。
少女の姿に、あの頃の自分の姿が重なる。
「何で!?何でこんな所で……」
言いかけたが、止めた。
思い出したのだ。
闘う者たちにとって、時と場所は問題では無いことを。
機が訪れれば、彼等は闘い始める……そう、かつて自分自身がそうであった様に。
「ああ、でも誰と闘ってるんだろう。これ以上は前に進めないしなあ。」
最前列は割り込む隙間も無い程である。
その後ろから間を縫って見ることしか出来ないために、断片的な像しか見えない。
少女の向こうにいる相手が確認出来ない。
「ああ、もう、どいてよう」


「あんた、一体どんな修行を積んできたってのよ!」
少女が連撃を放ちながら、うんざりした様に叫んだ。
「私だって、これでも学校では優等生なんだからねっ」
尚も少女の攻撃は続く。
しかし、相手の男は、そのことごとくを柔軟に捌いている。
しかし反撃は無い。
「噂に聞いた忍の里か……、いや、大した物だ」
「そう思うんだったら、何で私の技が通じないのよっ!」
少女は様々な角度から、数え切れぬ拳と蹴りを放つ。
しかし男の前でその全ては、まるで霞を相手にしているかの様に受け流されてゆく。
「どうした、忍の業はその程度か。」
「な、何ですってえ」
少女の表情が引きつった。
その隙を見逃さず、男は少女の腹部に足刀を叩き込み、吹き飛ばした。
「全ての技を以て挑まぬ限り、俺は倒せないぞ。」
倒れ込む少女に、男は悠然と言い放った。
「…上等じゃないのよ!そこまで言うんだったら、忍の業、その身体に嫌って言う位に叩き込んであげるわよ」
叫ぶと少女は軽やかに飛び起き、同時に地を蹴り高く跳躍し、再び男に襲いかかった。
「むん」
男は力強く半身に構えを取り、それを迎える。
「たあッ」
パン。
落下の速度に自らの体重を乗せた重い拳撃が、男に衝突する。
男はそれを防御した…が。
なんと攻撃はそれだけでは終わらず、少女は更に、続け様に跳び蹴りを男の胸に捻込んだ。
…空中2段!
男は意外な蹴りの直撃を受け、軽く後方によろめく。
「勝機ッ!」
少女は着地後、男の頭上へ再び跳び上がる…
タ、タン。
正に上から踏み付ける形で2発、蹴りを叩き込む。
「ぬおぉ…ッ」
男の上体が揺らぐ。
少女は、更にその反動で後方へ飛び退く…。
刹那。
少女から閃きが放たれた。
「いかん!」
男は何とか体勢を立て直し、後方へ跳ぶ。
トス、トストスッ。
今まで男が居た場所に何かが突き刺さる。
跳苦無…忍者が用いる手裏剣の一種だ。
「うえッ」
必勝を確信していた少女は、男にすんなり締めの攻撃を交わされ、驚愕に思わず声を漏らした。
「…甘いッ!」
男はそう吼えると、半身のまま両の掌を腰部後方へ構え、そして強く、前方へ突き出した。
男と少女は数メートル離れた位置にあった。
しかし、少女は空中でぎゃん、と小さく悲鳴を発し、更に後方へと吹き飛ばされた。


さくらは確かに見た。
闘いの全てを見ることは出来なかったが、一瞬だけ人の影から垣間見た、あの技。
限られた者が持ち得る、波動の力。
その時、ふと人垣が割れ、視界が開けた。
少女が倒れていたために、男の全貌が見えた。
桜吹雪の中、深紅の鉢巻がなびいている。
「ああ……、また会えた…」


「まだやれるか、いぶき。」
いぶきと呼ばれた少女は未だ起き上がれずに、軽いうめきを漏らしていた。
着地後態勢を整えきらぬ内に予期せぬ衝撃を食らい、もろにダメージを受けてしまったのだ。
「うええ、もう駄目だわ、降参…。」
野次馬の群れは大きく湧き上がり、辺りは拍手の渦に包まれた。
「起きれるか。」
「私のあの苦無を交わしたのは、百歩譲って、良いとして……何なのさ、あの技は…。」
男の手に助けられ何とか立ち上がったいぶきは、途切れ途切れに疑問を吐きつけた。
「あなた、忍者なのにそんな事も分からないの」
何処からか女が答えた。
「あれは波動の力。まだまだ勉強不足だね。」
少し驚いた様に、男が声の主を探す。
それはすぐに見つかった。
そこに、いつか見た眼差しが、舞い散る桜の中で微笑んでいた。
「また会えましたね、リュウさん!」


「いつ日本に?」
野次馬の掃けた、いつもの静かな様相を取り戻した公園。
さくらはあの後急いで会社に戻り、上司に有無を言わさぬ勢いで早引けを取りつけ、ついでに救急箱を拝借して再び戻って来たのだ。
勿論、上司は激怒して許可しなかったが、さくらもさくらで腹が痛いだの、頭が痛いだの言って、強引に会社を飛び出したと言うわけだ。
大丈夫だと言ういぶきに、半ば無理矢理気味に手当てを施す。
「痛い、痛いってば」
「駄目だよ、こんなに擦り傷作っちゃって。跡が残ったらどうすんの。」
流石に手当ては濃慣れている。
昔取った杵柄、と言ったところか。
「今日来たばかりだ。
ちょっとケンに呼ばれてな、何か頼みたいことがあるとか。
それでわざわざロシアから帰って来たんだが、…いきなり勝負を挑まれて。」
「あっ、そうだそうだ。いたいけな少女にこれだけの事をしたんだから、キッチリ責任は取りなさいよね。」
と、思い出した様にいぶきが食って掛かる。
「口も達者な嬢さんだ…、いきなり力ずくで情報を聞き出してやる、と言ったのはお前の方じゃないか。」
「いいじゃん、減るもんじゃ無し。私も卒業かかってんだからさあ。」
「ええと……、情報って何なのかなあ。」
さくらが割って入る。
「ああ、ギルとか言う男の情報らしいんだが……」
「水面下で世界の政治、経済を牛耳る秘密組織の総帥らしいんだよね、そいつ。
何でも、そいつが持ってるもんを奪って来てくれって里の方で依頼されたみたいでさ、
ついでだからそれが卒業の課題だって…無茶苦茶な話だよねえ、ほんと。
んで色々嗅ぎ回ってはみたんだけど、イマイチ居場所が掴めなくってさあ。」
「凄い話だなあ…。で、リュウさんなら知ってると思って?」
「そう、この人はこっちの世界じゃあ有名人だからね。
ギルはかなりの強者でもあるらしいからさ、格闘マニアなこの人だったら知ってるかなあ、なんて思ってね。
でも反則だよ、いくら伝説の人だっつっても、ここまで強いなんてさ。」
こうして話していると、ただの話し好きな女子高生なのに。
この世界って、相変わらず面白い人間が多い。
そう思い、さくらは少し可笑しくなり、吹き出してしまった。
「あれ、何か変な事言ったかな、私。」
リュウも少し笑っている様に見える。
「…奴の居る場所は知っている。俺もいずれは赴こうと思っていたからな。
しかし気を付けろ、奴の組織は半端では無いと聞く。」
「大丈夫だって。忍者の真髄は隠密活動よ。あんたなんかと闘うよりはかなり楽な仕事よ。」


日も傾き、周囲の景色が徐々に闇へと染まってゆく。
一通りの情報をリュウから聞き出すと、いぶきは軽く礼を言い、何処かへと去って行った。
「あんたも強いんでしょ?今度いつか闘おうね。」
去り際に、いぶきはそうさくらに告げた。
嬉しい…、さくらはまたこの世界に帰って来れた気がして、胸が熱くなった。
「まだ、闘っているのか。」
ふと、リュウが訊ねた。
「いいえ…、就職してからは、全然です」
「…そうか。」
リュウは残念そうに呟いた。
「ああ、そう。私の会社、ほんとつまらないんですよ。もう書類の整理ばっかやらされて…」
「そうか、大変そうだな。」

…おかしい。
話が、弾まない。
重苦しい空気が生まれる。
潰れてしまいそうな閉塞感を感じる。
こんな筈では…
少なくとも、昔はもっと楽しく会話が出来た筈だ。
そう、あの頃の私なら。
長い時間は、予期せぬ程に私達の距離を隔ててしまったと言うのか。
必死で話題を模索する。
…しかし、出て来るのは仕事の愚痴ばかりだ…。
ハッとした。
ー憂鬱な仕事まみれの生活ー、それを否定して、毎日を生きている。
しかし、それこそが今のさくらの全てになっていたのだ…。
…それが全て?
…………………沈黙が流れる。

風が吹いた。
リュウの鉢巻が、静かに揺れる。
……そう言えば、昔からリュウさん、いつも鉢巻を締めてたなあ。
闘いが終わっても、外すことは無かったっけ……
「あ…」
さくらはハッとした。
このひとが鉢巻を外さぬ、理由。
…自分が今の生活を否定し続ける理由。
「リュウさん」
少しだけ笑顔で、さくらは言った。
「ごめんなさい、少しだけ待っててくれませんか。」
さくらはそのまま何処かへと走って行った。
……今もまだ居るのだろうか。
あの頃の、私が。


暫くして、さくらは制服姿では無く、白いジャージに身を包み戻って来た。
拳に手甲を着け、額には汚れた白い鉢巻が巻かれている。
「お待たせしました。
さあ、闘いましょう、リュウさん!」
リュウの顔が少し和らぐ。
「出来るか、今のお前に。」
「分かりません、でも、確かめたいんです……本当の私を」
そして、さくらは目の前の男に飛び込んで行った。


(続く)

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