
夜の静寂、静かな月明かりに満たされて、ゆっくりと桜が舞う。
それをこんなに間近に感じるのも、もう何年振りになるだろう。
さくらは仰向けに倒れて、そんな事を考えていた。
身体中が痛んだけれど、それはひどく心地好い感覚。
桜吹雪を見上げる。
無性に笑いが込み上げる。
「あははははは…」
笑う。
涙が出る。
とても、気分が良かった。
ざあっ。
風が吹く。
桜の花弁が群れ、周囲に渦を作った。
ぬっと、大きな影が視界を遮る。
「立てるか、さくら」
「はい」
さくらは差し出された手を強く握り締め、起き上がる。
「相変わらず、気持ちの良い拳だな。…とても楽しかった」
その人は昔と変わらぬ真っ直ぐな視線で、微かに笑った。
「あたしも、楽しかったです…とても、とても」
暖かな月光に彩られた桜の舞に包まれ、さくらは全力で笑み、そして、泣いた。
「ありがとう、…リュウさん」
時は流れ、夏。
長い日照に強い日射、朝の日差しも主張が激しい。
その日和にうんざりしながら、さくらはいつものように自転車を走らせていた。
「やばいっ、遅刻だ」
吹き出る汗を気にも留めず、渋滞する車の群れをするするとすり抜けて、さくらは会社への道のりをひたすらに急いだ。
『ロシアの格闘王ザンギエフ選手が、40回目のタイトル防衛に…』
街頭のオーロラビジョンに映し出されるニュースには、あの頃闘った猛者の活躍が当たり前のように報道される。
「へえ、相変わらず負け無しなんだ」
さくらは横目にニュースを眺めつつ、少しだけ誇らしい気分に満たされる。
その時。
パパァァァァ!
けたたましいクラクションの音。
「あっ」
気付くと、迫り来る自動車。
「やばいっ!」
思わず身構える。
キキィィィィィ……!
長いブレーキ音が響き、そして止む。
「…ふうっ」
幸いにも自動車はさくらの目前、人一人分の位置で停止していた。
見ると、ニュースに気を取られているうちに、うっかり赤信号を突っ切ってしまっていたらしい。
「あちゃあ…またやっちゃったか…」
こんな失敗はいつもの事なのか、さくらは決まりの悪そうにそう呟き、頭を掻いた。
(しょうがない、とりあえず相手の人に謝っておこう)
そう思い、さくらは自動車の方へと向き直る。
がちゃり。
それに応えるように自動車の扉が開かれ、運転手が顔を出す。
そして…
「あなたっ、一体何を考えてらっしゃるのかしらっ!?」
降りてきた女性は開口一番、高らかに文句を吐き出したのだった。
「げっ、最悪のパターン」
サングラスをした長髪の女性は、これでもかと言うくらいに高そうな洋服、装飾に身を包み、高飛車な歩みでさくらに詰め寄る。
そう言えば、この車もかなり高そうだ。
「ご、ごめん、遅刻しそうなんだ」
あのタイプに捕まると、色々とややこしい事になる。
数々の失敗経験から即座にそう判断すると、さくらは慌てて自転車に跨り、
「さよならっ」
逃げるに如かず、大急ぎでその場から走り去る。
「あっ、お待ちなさい!…こらっ!」
サングラスの女性がそう叫ぶ頃には、さくらは物凄いスピードで遠くの曲がり角を曲がり、見事に姿をくらましていたのだった。
「春日野君、この伝票も頼むな」
「ああ、はいっ」
いつものデスクワーク。
上司から伝票を受け取り、またつまらない作業に埋もれる。
窓の外を見る。
もうすっかり花も散り、蒼い緑に生い茂る桜の樹々。
公園で闘ったあの日以来、さくらは再びトレーニングを始めていた。
別に、またストリートファイトに身を投じるつもりがあるわけでは無い。
ただ、あの闘いの時、さくらはくすみかけた魂が再び鮮やかに色付いたのを、確かに感じたのだった。
自分が自分で在る為に、在り続ける為に、さくらはトレーニングを続ける。
社会に埋没しかけている自分に焦りを感じているだけなのか。
気休めにしかならなくても、それでもさくらは技を磨く。
いつか、いつかまた輝くために。
「おうい、さくら君。君にお客だよ」
ふいに上司に呼ばれる。
「あ、はいっ」
「応接室に入れといたから、早めにね」
「はいっ、ありがとうございます」
誰だろう。
会社にまで来たって事は、結構大事な用事なのかな。
そんな事を考えながら、さくらは応接室の扉を開いた。
「ひっ」
中を覗くや、さくらは小さな悲鳴を洩らした。
さくらを尋ねた客。
それは、これでもかと言うくらいの高級品に身を包んだ、サングラスの女性。
「ふふ…、今朝はどうも」
その口より発せられる高飛車なイントネーション。
「は、はは…どうも…」
出来るだけ再会したくなかった女性との再会に、さくらはそれだけを言うと、引きつった笑いをその顔に浮かべた。
「あ、あの、朝はどうもすみませんでした…、いや、遅刻しそうだったんで、その、悪いとは思いつつも逃げてしまって、本当、ごめんなさい」
さくらはソファーに座るや、とりあえず思い付く限りに謝罪の言葉を並べた。
「あの、あの時に怪我とかしたんなら、おカネは払いますから…」
しかし、サングラスの女性は見下ろすようにさくらを見詰めるだけで、一言も発さない。
(まいったなあ…)
さくらは困り果て、頭を掻いた。
(やっぱり会社にも文句とか言って来るのかなあ…嫌だな、厄介事は避けたいよ…)
尚も頭を掻き々々、さくらは思索を巡らせる。
「ぷっ…」
その時、ふいに女性が息を洩らした。
「?」
「はははは…、あはははははは…」
そして堪え切れないように、サングラスの女性は高らかな笑い声を上げたのだった。
「え、え?」
さくらはわけが解らずに、ただ目を丸くする。
「あはははは…、ごめんなさいさくらさん、お久し振りですわね…」
女性がサングラスを外し、その素顔をさらす。
「え、……ええっ!?」
驚いた。
サングラスの下より現れたのは、氷のような鋭い眼。
こ、この眼は忘れない…っ。
今や神月財閥の若き総帥。
それはあの頃に技を競い合った、好敵手。
「かりんさん…っ!?」
「貴女を探していましたのよ、さくらさん」
かりんは不敵な笑みを浮かべて、改めてさくらを見据えた。
美しく成長した、懐かしい顔。
何年経とうとも曇る事の無い、誇り高き眼差し。
さくらは思った。
(結局…厄介事だったんじゃないか)
「リュウさんにお会いしたそうですわね」
安いコーヒーカップに注がれた安いインスタントコーヒーを口に付け、かりんは言った。
彼女が飲むと、いつものこのコーヒーも高級に見える。
さくらはぼうっとそんな事を考えていた。
「実は、ひとつお仕事を頼みたいと思いまして」
「え」
…お仕事?
「だってあたし、ここの社員だよ」
突然のかりんの提案に、さくらは呆けた事を言った。
「ふふ、そんな事は百も承知ですわ。私を誰だと思ってまして?」
「ああ、うん、そうだね、あはは」
独特の切り返しに、さくらは苦笑いを洩らす。
(この人、全っ然変わってないなあ)
そう言えばあの頃もこんな会話をしてたっけ。
その時も、毎度こんな苦笑いを浮かべていたような気がする。
さくらは久し振りに流れるこの滑稽な空気に、少し可笑しくなった。
「それで、お仕事って?」
「ええ、実はリュウさんを探して頂きたいと思いまして」
「…へっ?」
「具体的には、彼を追って旅に出て頂きたいのですわ」
「た、旅にって…」
やっぱり、厄介な…。
「だってあたしここの社員なんだよっ」
「だからそれは百も承知なんですってばっ」
聞くと、目的は例の秘密結社の総帥、ギルなのだと言う。
財閥の極秘書類を奪われたらしいのだが、その結社の所在が全く分からない。
そこで、リュウが所在を掴んでいるという情報がかりんの耳に入った。
しかし肝心のリュウが世界各地を放浪しているものだから、今度は彼の所在を掴むのが一苦労、というわけらしい。
「会社の方へは私が上手く話を付けておきますわ。さくらさんは明日から休暇を頂ける筈ですから、今日にでも出立出来ますわよ」
「あ、ああ、そうなんだ、はは………休暇ねえ」
そりゃあ休暇は願ってもないものだし、彼に再び会えるかも知れない絶好の機会は捨て難い。
でも…
「何であたしが行かなきゃ…別にリュウさん探すだけなら、かりんさんの部下の人とかでも全然構わないじゃないか」
「愚問ですわよ、さくらさん」
…ま、またそんな身も蓋も無い切り返しを…。
正に唯我独尊。
そんな彼女の姿勢に、さくらは体の力が思いっきり抜けて行くのを実感した。
「私も人の上に立つ人間、無能な方に無理なお仕事をさせるような愚態は曝しませんわ」
「そ、そうだね、うん」
さくらは観念した様子で、かりんの口上に相槌を重ねた。
「正直私がここに参りましたのは、直に今のさくらさんをこの眼で量る目的もありましたの」
「え」
突然に語られる真意に、さくらは目を円くする。
「ごめんなさい、気分を害されたのでしたら素直に謝罪致しますわ」
「ううん、別にいいよ」
「でも安心しましたわ、さくらさんはまだ力を失ってはいない…その眼に宿る光、あの頃と比べ何の遜色も無い…」
「…分からないよ、そこまでかりんさんがあたしにやらせたい仕事って、一体何なのさ」
「ええ。…さくらさん」
「は、はいっ」
ふと、かりんが真剣な表情でさくらを見詰める。
思わずさくらも姿勢を正す。
「また、ストリートファイトをして頂けませんか」
「……え…、ええええっ!?」
さくらは本気で驚き、そして思った。
(…この人と居ると寿命が縮まるよ…)
公園。
かりんの強引な手続きにより休暇を得たさくらは、勢いでその日の午後も早引けしていた。
普通のOLだったら絶対に許されない暴挙も、あのお嬢様の手に掛かれば簡単に済まされてしまう……何なんだ、あの人は…。
そんなわけでさくらは、木陰のベンチで何をするわけでもなく、ただぼうっと呆けた時間を過ごしていた。
(急だ、あの人はいつだって急だっ)
そう言えば昔も突然決闘を申し込まれたりしたっけ。
『春日野さくらさんですわね。私は神月かりん、いざ尋常に勝負なさいッ』
学校でも駅でも公園でもゲームセンターでも区役所でもお構い無しに決闘を…
「あ、頭痛くなってきた…」
その上、就職して(曲がりなりにも)真面目に働いてる人間を相手に、ストリートファイトをしろ、だなんて、滅茶苦茶にも程がある…。
「…ストリートファイト、か」
さくらは右手を見詰め、呟いた。
その手には、ぼろぼろの白い鉢巻が握り締められていた。
『リュウさんを追う方法が只一つあるとすれば、彼と同じフィールドに立ち、闘う事。戦士は強者を、強者は戦士を呼ぶ…少なくとも私たちは、この真実を知っていますわ』
もう無理だよ、あれから何年経ってると思ってるのさ。
『…大丈夫、さくらさんの眼に宿る輝きと力は、あの頃と遜色ありません。他でもない、この私が保証致しますわ』
あたしの輝きと、力…
「迷っているんだろうなあ」
静かになびく鉢巻にでも語るように呟く。
「リュウさん、強くなってた。まるで大きな山のよう…」
脳裏に映る、逞しい影。
「あれがリュウさんの道。闘いの業の極限を見極め、体現する、リュウさんの道」
だけど…
「じゃあ、あたしの道は…」
「はんッ、迷うだなんて貴女には似合わなくてよ!」
びゅんっ。
背後で風が鳴いた。
「はっ!?」
思わず身体を捻る。
びゅうっ。
直後、すぐ横を高い風鳴りを伴った蹴りが一閃した。
即座に飛び退く。
「な、何すんのさっ」
「ふっふっふっ…」
いつの間にかそこに居たかりんは、悠然と立ち、何やら不気味な笑いを浮かべている。
心なしかこちらを見る目が据わっていて、本気で怖い。
「あの頃から幾年経とうとも、私は未だ納得をしてはいなくってよ…」
「かりんさん…?」
「この日を何年待ったかしら…、また闘える日がやって来ようとは思いませんでしたわ…ふふふふふ…」
「あ、あのう…」
「さくらさん!」
「は、はいっ!」
さくらは思わず直立した。
「積年の因縁!今ここで決着を付けますわよ!」
「違う、違うっ!因縁なんか無いし、何より話が解らないっ!」
「問答無用!いざ尋常に…」
ああ、またこの台詞。……
「仕方無いなあっ」
さくらは腹を決め、手にした鉢巻を額に巻く。
「勝負ですわ!」
「おおうっ!」
(何でこうなるのさっ)
先手を打ったのは、やはりかりんだった。
軽い跳躍と共に放たれる左右の二連蹴。
(出遅れた)
辛くも防御は間に合ったが、さくらの体勢は大きく崩れ、やや仰け反る。
「はぁっ」
隙を逃さず、かりんが大きく踏み込み、さくらの腹部に掌底を叩き付ける。
「あうっ」
体重と突進力の乗った重い攻撃が直撃した。
「く、う」
「如何致しましたの、さくらさん!トレーニングを怠けていまして?」
小さく悶えるさくらに、かりんの高笑いが迫る。
機を逃さずにさくらを襲う連撃。
掌底、肘、蹴り…
流れるような攻撃。
その技の数々はどれも女性とは思えぬ重さと素早さがあり、さくらの防御の上からでも十分に威力を発揮するものだった。
(これは、きついかも…)
春にリュウと闘いはしたが、あの時は無我夢中で、戦略らしい戦略も持たず、ただ我武者羅に振舞っていた。
さくらにとっては今のこの闘いが、長い時間を隔てて、初の真剣勝負なのだった。
(勘が、まだ戻らない)
かりんに良い様に弄られながら、さくらは機を窺う。
その時、大胆に間合いを詰めたかりんが拳を繰り出した。
(…ここっ!)
さくらはその拳を見切り、素早く身を沈め、かりんの足を払いに行く。
「やァッ」
ざすっ!
(手応えあり)
そう思った刹那。
「ほほほほほほほほ!」
かりんの高笑い。
逆転する視界。
(えっ)
ざしゃあっ。
わけが分からず、衝撃が走る。
気付くと、いつの間にかさくらは仰向けに倒されていた。
強かに打った後頭部が痛む。
「やられたぁ…」
先程放たれた拳は囮、さくらは誘いに乗り馬鹿正直に繰り出した足払いを受け流され、身体を返されてしまったのだった。
「ほほほ、その素直な筋、昔と全然変わってらっしゃらないのですわね!」
「…でも、目が醒めたよっ」
さくらは倒れた姿勢から大きく身体を捻り、傍で高笑うかりんの足元へ向けて、再び蹴りを放つ。
「あっ!」
ふいを突かれ、かりんの右足が弾かれる。
さくらはその勢いで起き上がり、回転力をそのままにもう一回転、今度はかりんの横腹に思い切り回し蹴りを捻じ込んだ。
「ぎゃうっ」
防御は間に合わず、そのままかりんは後方へ後ずさる。
「今だっ!」
この間合い、そして絶好の隙。
さくらは両掌を合わせ、後方の腰の傍らに構えた。
(…撃てるかな、今のあたしに)
一瞬迷いが過る。
(…いや、撃てる!)
両掌が、光った。
「!!…あの光は…!」
さくらの掌が輝くのを見止め、かりんは咄嗟に防御の姿勢を取った。
「波動拳!」
さくらが迷いの無い眼を以って、強く両掌を前へと突き出す。
「くっ…!」
距離にして5メートル。
光は球となり、さくらの掌を離れる。
そしてそれは真っ直ぐに飛翔し、
バアァァン…ッ!
かりんへ衝突し、大きく弾けた。
「う、撃てた…」
弾けた球は光の粒子となり、かりんの周囲に舞う。
それを見て、波動を撃った体勢をそのままに、さくらは他人事のように目を円くして呟いた。
「く…相変わらず惚けた方ですわ…」
かりんは暫く波動を受けた衝撃に動けず、防御の姿勢を崩さなかった。
「それは心の力、貴女がさくらさんである限り、失われる事はありませんわ」
ゆっくりと防御を解く。
「…だけど本当に、強い力ですこと…」
防いだ両腕がまだ痺れる。
しかしかりんはさくらにそれを勘付かれぬよう、気丈に構えを取り直す。
「けれど二度は当たらなくってよ」
そして再度かりんが攻める。
「せいッ」
やや身を屈めた下段蹴り。
「ふっ」
さくらは後ずさり、防ぐ。
かりんは流れるように体を反転させ、再び下段へと蹴りを放つ。
「ここッ」
それを見極め、さくらは跳躍により蹴りを交わすや、身体を大きく捻り回転させ、かりんに蹴りを打ち込んだ。
「くあッ」
直撃に揺らぐかりん。
「…っ!」
着地したさくらはそれを見逃さず、脚と拳に力を込める。
「昇桜っ!」
反動で弾むように拳を伸び上げる。
リュウの持つ奥義を真似た、さくらの必殺のアッパー、昇桜拳である。
「…その技は忘れなくてよ!」
しかし着撃の寸前、かりんは待ち兼ねた様に身を翻し、紙一重で昇桜拳を遣り過ごした。
「あっ!」
そのまま拳は空を切り、跳躍するさくら。
(やばいっ)
「ぃいやあっ!」
その隙にかりんは渾身の威力を込めて、蹴り上げるような二連脚を叩き込む。
ど、どうっ。
素早く鈍い音が二つ。
「うぁっ」
さくらが小さい悲鳴と共に、更に真上に飛び上がる。
「とあぁぁぁぁあッ」
直後かりんも跳躍し、大きく身体を振り遠心力と体重を十分に乗せて、その腕を空中のさくらへと振り落とした。
ずだあぁんっ。
蹴り上げから叩き落しと上下に翻弄されたさくらは、受け身もままならず激しく地面へと叩き付けられ、まるで人形のように弾んだ。
「う、あ、あ」
強い衝撃に一瞬息が詰まり、喘ぐ。
(駄目だ、一瞬迷った!)
余りに長い休息はさくらの闘いの勘を鈍らせていた。
さくらはそれを身体に走る痛みと共に痛感していた。
「はあ、はあ…いかがかしら、さくらさん」
かりんの息も乱れる。
「流石にトレーニングと実戦を怠ったブランクは大きいようですわね」
(実戦…)
その言葉に、さくらが反応する。
(かりんさんは、あれからも闘っていたんだ)
「それが、かりんさんの道…」
「あら…残念ですわ。私がさくらさんを理解している程、さくらさんは私を理解なさってはいらっしゃらなかったご様子ですわね」
「教えて…、かりんさんは、何故闘い続けていられたの、何故変わらないでいられたの?」
仰向けに倒れながらさくらは、真摯な視線をかりんへと向ける。
かりんはその問いに、表情の不敵の色を強めて答えた。
「愚問、至極愚問。私は神月かりん、常勝の女帝ですわ。即ち、勝ち続ける事が私の存在意義」
まるで歌う様な語調でかりんは語る。
「私は変わりませんわ、だって変わる必要などありませんもの。私の理念は童子の如く単純、幾年と歳月が過ぎようとも、目前の障害全てを蹂躙し、吸収し、超越し続けて行く事。それはさくらさん、当然貴女に対しても同様でしてよ」
「変わらないなあ、本当に…」
さくらは苦笑した。
「…けれどさくらさん、貴女は私を変えましたのよ」
「えっ」
発せられた意外な一言に、さくらは驚く。
「あたしが、かりんさんを…変えた?」
「ええ、貴女は私に土を付けた。初めて屈辱を与えた。唯一心を揺さぶった…。
さくらさんの存在はどれだけあの頃の私に刺激を与え、そして私を変えた事か」
若干、かりんの表情が和らぐ。
…懐かしんでいるんだ、あの頃を。
さくらはこの女性の中にあった意外な、けれど不思議と違和感の無い感情に、深い親近感を覚えた。
「…私が貴女と出会った様に、貴女もリュウさんと出会い、そして変わった筈ですわ。さくらさん、その瞬間は全てに変え難い、尊い一瞬だったとは思いませんこと?」
今度はかりんが問う。
「うん、だから今のあたしが居る。あの頃の輝きが、今のあたしに力をくれてるんだ」
さくらのその答えに、かりんは満足げな笑みを浮かべた。
「恩返しですのよ…」
「え?」
突飛な一言に戸惑う。
「あの頃にさくらさんが下さった輝き。今も私を照らし続ける輝き。
その輝きを、今の貴女に再び取り戻して差し上げたいのです」
「え、え?」
さくらは起き上がり、改めてかりんを見詰めた。
かりんは少しだけ微笑んでいた。
「本当は、涙が出る程感謝しておりますのよ。
貴女は陳腐な優越感を覚えて悦に入っていた私に熱を与え、誇りを取り戻してくれた」
「かりんさん…」
かりんの笑顔が優しくなる。
さくらは、意外な筈のこの表情が、今はとても当たり前のような気がした。
「先程はあんな事を申しましたけれど、…結局私も変わりましたわ。
成長し、自立する事は、多くの責任と義務に身を縛られる事。
あの頃のように、いつまでも自由に輝いていたかった…」
「……かりん、さん」
「けれどさくらさん、貴女がこのまま社会に溶けて混じるなんて事、かりんは許しませんわよ。
夢想にも等しい絵空事、私は幸運にもそれを叶える力がありますわ。
闘ってらっしゃい、再び強者の中で拳を交えてらっしゃい。
その代わり、貴女の心にある迷いの霧が晴れたその時、再び私の前へ現れ、また闘って下さいますわね」
さくらの胸が熱くなる。
ほとんど拳でしか語り合えなかった少女時代。
あの頃の友は、こんなにも私を想ってくれていた。
「うん、約束するよ、かりんさん」
思う。
私はこの人の友情に応えなければならない。
さくらは凛々しく笑う。
「待っててね、あたしは、強くなる。
そして全ての迷いが消えた時、あたしは帰って来るよ、絶対に!」
かりんはさくらの目を見て当惑した。
強い光を宿す、戦士の眼。
それが一瞬、あの頃のさくらの姿と錯覚してしまったからだ。
かりんは瞳を閉じ、笑った。
「ええ、楽しみにお待ちしておりますわ…ずっと」
さわさわさわ。
夏の風が葉擦れの音を奏でる。
清涼なその響きが、暫しその場に流れた。
「…さあ、お喋りはここまでですわ。勝負はまだ終わってはいなくってよ」
かりんがさくらへと手を伸ばす。
さくらはその手を掴み、立ち上がる。
「うん…でも、遠慮はしないよ」
二人が、ゆっくりと手を離す。
「ほほ、返り討ちにして差し上げますわよ」
二人が、ゆっくりと構える。
――本当に、ありがとう。
そして、激しく、弾けた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…」
「ふう、ふう、……やりますわね」
「…か、かりんさんもねえ…」
約三十分後、二人は精魂尽き果てた様子で、仲良く地面に座り込んでいた。
「全く…、ろくなトレーニングもしていないと言うのに、何でこの私が勝てないと言うの…」
「ははは、才能かなあ…」
「…言うようになりましたわね」
結局、二人の勝負はつかなかった。
最後はかりんの掌底とさくらの昇桜拳の相打ちで、共倒れとなったのだった。
「この調子なら、大丈夫ですわね」
「そうだね…、少し自信が持てたよ」
「ふふ、ご報告を期待しておりますわ」
暫くしてある程度回復すると、ふらふらと二人は立ち上がり、そして頼り無げに歩き出す。
さくらは停めていた自転車に跨り、かりんは高級車の鍵を開ける。
「それじゃあかりんさん、またね」
「ええ、さくらさん。…今度はゆっくりとお茶でも楽しみましょう」
「そうだね…。美味しいお店に連れてってあげるよ」
そして互いに軽く手を上げて挨拶を交わし、さくらは自転車を走らせた。
「…あっ、さくらさん!」
突然かりんが叫んだ。
呼び止められたさくらは急ブレーキをかけ、振り返る。
「一つ忠告があるんでしたわ」
「えっ…な、何」
「さくらさん」
「は、はいっ」
「…もういい年なんですから、スカートにブルマーはお止しになった方が」
「も、もうあんな格好はしませんっ!」
月日は瞬く間に過ぎ行き、再び桜花の舞う季節が巡る。
いつかのあの公園には、今日も人が集まり、歓声が沸き上がる。
「斧刃脚ッ!」
「ぐ、ふッ」
必殺の二連脚が決まり、呆気なく相手は気を失った。
観衆から賞賛の声が満ちる。
その中で勝者は悠然と、気高く笑う。
「ほおっほっほ…、このかりんに勝てると思って?」
上品に手を口に添えて、常勝の女帝がそこに立っていた。
――強者は、戦士を呼ぶ。
いつしかこの公園は、各地のストリートファイター達が集う聖地と化していた。
「それで、次はどなたがお相手して下さるのかしら?」
かりんが高らかに挑戦者を問うた。
「へえ、盛り上がってんじゃん」
と、突然背後に気配を感じる。
「何者っ」
かりんは咄嗟に、振り返り様の肘打ちを放つ。
「おっ…と、ごめんごめん、驚かせたかな」
しかし相手はそれを難無く交わし、平然と言った。
見ると年の頃は高校生、もしくはもう少し上か。
長髪を一束に結った少女が、風船ガムを膨らまして立っていた。
「あんた、神月かりん?」
「ええ、いかにも」
かりんは警戒しつつ答える。
「一通り仕事が済んでね、帰りのついでに頼まれたから寄ったんだ。でも大変だったよ、奴等の組織力は話に聞いたシャドルー並、いやあ、もしかしたらそれ以上だったんじゃないかな。そんなもんを相手にしてるっつうのにあいつったら仕事を増やすんだもん、堪ったもんじゃなかったよ。あん時あの人が倒してくれてなかったら実際…」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい」
かりんは少し慌て、放っておくとどこまでも喋り倒しそうな勢いの少女を制した。
「一体何ですの?私には全く事情が把握出来ませんわよ」
「ああ、ごめんごめん。要するにさ、これよ」
少女が一束の書類を差し出す。
「これは…」
それは他ならぬ、組織に奪われた財閥の極秘書類だった。
「こ、これを何処で!?」
「ドコって…、組織よ、組織。ついでだし丁度良いからっつって、軽く頼んでくれちゃって」
「組織って、あなた…」
「ああ、あと、これね。何だか、まだやる事があるからってさ、少し遅くなるらしいよ」
「これは、手紙…?」
「それじゃあね。…あいつ、強くなったよ」
「あっ!?ちょっと…」
唐突に去る少女をかりんは呼び止めたが、少女は既に人込みに紛れ、その場から消え失せていた。
「何だったんですの…」
かりんは暫く鳩にでも摘ままれたような顔で人の群れを眺めていたが、ふと、その手に渡された手紙の存在を思い出した。
見ると、宛て名も差し出し人名も記されてはいない、無骨な手紙。
そのまま、裏返す。
「あら、…ふふふ」
そして笑った。
「粋な手紙」
かりんさんへ。
会えたよ。
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