日韓拷問比較考1




ボルジア家の端役「というわけで、予告通り日本と李氏朝鮮の拷問を比較してみよう」
カオス・コントン(早く終わらないかなあ……)
ボルジア家の端役「もし御希望ならば、徹夜でやっても良いのだが、どうするか?」
カオス・コントン「い、いえ、そこまでは結構です、はい」【アセアセ】



神凪羽常「江戸時代の拷問というと、やっぱり三角木馬ですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「うーん……その意見には必ずしも賛同できないわね」
神凪羽常「えっ!? どういうことなんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「このテキストの作者は、江戸時代の拷問で三角木馬を連想するというのは、ちょっと短絡的だと思っているわ」
ボルジア家の端役「確かにな。1742年に制定された公事方御定書によって『公認』された拷問の一覧から、三角木馬は外されているぞ
神凪羽常「それじゃあ、江戸幕府が公認していた拷問って……」
エヴェリーナ・ミュンスター「公事方御定書の中で定められていた拷問は、次の4種類だけなのよ」

公事方御定書によって定められている拷問

(1) 笞打
 もろ肌を脱がせた上で囚人の腕をきつく縛り上げ、箒尻で力一杯囚人を叩く。
 この時点で音を上げて自白する囚人も少なくないらしい。

(2) 石抱
 笞打で白状しない場合、直ちに実行される。
 十露盤板[そろばん](真木)と呼ばれる板の上に囚人を乗せた上で縛り上げ柱に固定し、太股の上に大き目の石板を重ねていく。

(3) 海老責
 笞打・石抱で白状しない場合、体調の回復を待った上で実施される。
 囚人を後ろ手に縛った後、足とあごが密着するような体勢でくくり上げ、数時間放置。

(4) 釣責
 笞打・石抱・海老責で白状しない場合に実施される。江戸時代における狭義の「拷問」はこの釣責のみ。
 後ろ手に縛り上げた後、梁に吊るし上げた(当然足は地面から離れている)ままの体勢で数時間放置。
醍醐ソウジ「意外と少ないんですね……」
エヴェリーナ・ミュンスター「それだけじゃないわ。拷問の実施には山のように制約があったし
神凪羽常「えっ?」
ボルジア家の端役「拷問が行われるのは、殺人・放火など死罪となる重犯罪の被疑者に限られ、その上共犯者の自白や証拠品の確保などによって犯罪が立証されていることが必須であり、尚且つ拷問の実施には老中の許可が必要である。町役人が独断で拷問を行うことは、法制度上では禁止されていたぞ」
醍醐ソウジ「うーん……」
カオス・コントン「色々と律儀なことをやってたんですねぃ」
ボルジア家の端役「まだあるぞ。これは佐久間長敬の書き残した文章によるのだが、拷問を使わずに犯人から自白を引き出す吟味役を有能とする風潮が存在していたそうだ
神凪羽常「これだと『拷問しにくい環境が整っている』と言ってもいいじゃないですか」
ボルジア家の端役「確かにな。ただし、公事方御定書が適用される範囲は幕府の直轄地に限られているため、全国の諸藩では上記4種類以外の拷問が制度として実施されていた可能性は当然ながら存在するぞ
醍醐ソウジ「ふむふむ……」
神凪羽常「でも、ここまで制度面で抑止を掛けていたのなら、どうして拷問自体を無くすって話にはならなかったんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「それは当時の犯罪捜査が自白中心だったことが影響しているわ。江戸時代には現代のような科学捜査は無かったから、証拠として最も信頼性が高いのは自白ということになってしまうのよ。無論、本人達も自白中心主義の問題には気付いていたと思うわよ。そうじゃなかったら、拷問の実施要件を厳しくしたりなんてしないからね」
カオス・コントン「うーん……大変ですねぃ」
ボルジア家の端役「参考ながら、公事方御定書の制定前には、この4種類以外にも、駿河問い(作者注:手首と足首を背中側でまとめて縛り上げ天井から吊るす拷問)など他の拷問も実施されていたようだ。特に、キリシタンに対する迫害ではバラエティに富んだ拷問が発明され、あの手この手でキリシタンを転向させようとしていたぞ。作者が見聞きした限りでは、こんな拷問が実行されたと言われている」

●蓑で巻いた被害者に火を付け、その踊る様を『蓑踊り』と称する
●硫黄のお湯を被害者に少量注ぐ
●水牢に入れて数日間放置
●干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を逆磔にする
  etc.
カオス・コントン「うーん、ちょっと残酷過ぎて俺の趣味に合わないっすね。水牢での緊縛プレーはちょっとばかり萌……じゃなくて気になるところではあるんすけど」
ボルジア家の端役「いや、水牢は見た目とは裏腹にかなり残酷な拷問だったらしいぞ。肌が水を吸い過ぎてふやけてしまい、そのうちに破れてしまうぞ。年貢滞納者に対する拷問として用いられていたこともあったぞ」
カオス・コントン「うーん……」
エヴェリーナ・ミュンスター「水中大脱出のシチュエーションのネタにはなるかもしれないけど、長時間水に浸かったままになるのはゴメンだわ」
ボルジア家の端役「他に存在する珍しい拷問としては、6畳一間の座敷牢に数十人を詰め込むというのもあったな。時間が経つと、疲労と脱水症状で死ぬ人や下のほうにずり落ちた後踏まれてしまい圧死する人もいたそうだぞ」
エヴェリーナ・ミュンスター「幕末の頃に行われていた拷問ね、確か」
ボルジア家の端役「そうだな」
醍醐ソウジ(こ、怖いなあ……)
神凪羽常(真顔で話してますよ、この人達……)
ボルジア家の端役「どの国でも、宗教が絡んだ処刑や拷問は残酷なものになる傾向が見られるが、日本もそれは例外ではないようだな。ただ、日本のキリシタン弾圧は、ヨーロッパでの異端審問や魔女狩りとは少々毛色が違うから、この点には注意を払う必要があるな」
醍醐ソウジ「どういうことですか?」
ボルジア家の端役「日本でのキリシタン弾圧は、キリシタンを棄教させることが主目的だった点だ。そのため、キリシタンが拷問中に転向する旨を表明した場合、そこで拷問から解放されることになっていた。事実、拷問の結果棄教したキリシタンが数多く存在している」
醍醐ソウジ「だとすると、棄教しなかった場合には──」
エヴェリーナ・ミュンスター「火刑にしろ拷問中の事故死にしろ、命を落としてしまうことになったわ。命を落とすほうは『殉教』とか言って逆に喜んでいた可能性はあるけどね。拷問とはちょっと違う例になるけど、1637年に発生した島原の乱では、幕府軍総大将だった松平信綱による棄教と助命の勧告を無視し、2万人以上のキリシタンが命を落としているのよ」
ボルジア家の端役「確か、島原の乱で助かった一揆側の人間は、たった1人だったそうだな
醍醐ソウジ「宗教って怖いですね……」
ボルジア家の端役「拷問自体の良し悪しについては特に触れないが、自白や情報提供を強要する目的で実行される一般的な拷問や、悪魔との性交体験など絶対に有り得ない自白を引き出そうとしていたヨーロッパの異端審問と、江戸時代に行われていたキリシタン弾圧の一環としての拷問との間には、ちょっとした差が存在することだけは覚えておいたほうがいいぞ」
神凪羽常「そうですか……」



カオス・コントン「そういや、李氏朝鮮時代の拷問ってどんな感じだったんですか? そういう話だったでしょ?」
ボルジア家の端役「李氏朝鮮時代に行われていた拷問の一例としては、こんなものが挙げられるぞ」

●棍棒や笞による殴打
●骨の脱臼と屈折
●吊るし責め
●鋸を使用した拷問
  etc.
神凪羽常『骨の脱臼と屈折』? どういうのなんですか?」
ボルジア家の端役「いくつかレパートリーがあるのだが、最も有名な方法は、両足の親指と両膝を縛った後、縛られた両脛の隙間に木の棒を2本差し込んで反対方向に引っ張るというものだ。脛の骨が折れたり膝が脱臼したりするという、かなり痛々しい拷問だったぞ」
カオス・コントン「うっ……」
ボルジア家の端役「李氏朝鮮ではこの拷問のことを『チュリ』と呼んでいた。江戸時代の日本には存在しなかった拷問だ。ちなみに、この『チュリ』という拷問は、絞首刑の付加刑のようなものとして、死刑執行前に実行されることもあった
醍醐ソウジ「あと、上のリストにある『鋸』って、もしかして──」
エヴェリーナ・ミュンスター「具体的な記述が見つからなかったから、正確なところは分からなかったわね。でも、鋸の使い道ってぎーこぎーこする以外にあるのかしら?」
醍醐ソウジ神凪羽常「……………………」
カオス・コントン「せんせー、ちょっと怖いっすよぉ〜」
ボルジア家の端役「鋸を拷問で使用するという話は、日本では聞いたことが無いな。ただし、日本では江戸時代の前から、死刑執行の際に死刑囚に無用な苦しみを与える目的で、錆びた刀で首を鋸挽きにしたという記録が残っているぞ」
神凪羽常「えっ!? 誰なんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター前九年の役の当事者の1人だった藤原経清ね」
醍醐ソウジ「なるほど……」
ボルジア家の端役「ちょっと話が逸れてしまったので、朝鮮半島での拷問の話に戻すが、キリシタンに対する弾圧で過激な拷問が使われていたのは李氏朝鮮も同じだった。韓国には、朝鮮半島におけるキリスト教の歴史に関する博物館が立てられているのだが、その中に拷問器具やキリシタン弾圧を扱ったコーナーがあり、拷問具の一部がインターネットでも公開されている(12)。李氏朝鮮で使われていた拷問のことを知るには、なかなかいい材料になるだろう」
醍醐ソウジ「どの国にも、こんな資料を集める人はいるものなんですね……」
ボルジア家の端役「李氏朝鮮における代表的な拷問は上に説明した通りだが、他に付け加えるべきことはいくつかあるな。その1つが、上のホームページでも登場している大型の首枷だ。これは拘束具として使われているものだが、サイズがあまりに大き過ぎるため、牢内での日常生活には確実に支障が出てしまう。そういった意味では、拘束具であると同時に拷問具の役割も果たしていると言えるだろう」
神凪羽常「まるで、悪いことをした子供へのお仕置きの道具みたいですね……」
ボルジア家の端役「もう1つあるのだが、これは少々アダルトなネタになってしまうな」
カオス・コントン「うぃ、何ですか?」
ボルジア家の端役「これは作者の個人的見解なのだが、朝鮮では、日本と比較して緊縛術があまり発達していないのではないかという印象があるな」
エヴェリーナ・ミュンスター「確かに、言われてみればそうよね」
醍醐ソウジ「日本ではどうだったんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「世界で最も熱心に研究していたと言っても過言じゃないわね。その歴史は結構古く、日本で緊縛術というものが研究され、ある程度体系化されたのは室町時代の末期──言うなれば戦国時代の頃ね」
神凪羽常「何故その時期に?」
エヴェリーナ・ミュンスター「そりゃあ、必要性に迫られたからね。戦争で出た敵の捕虜や、自国内でスパイ活動に従事していた忍者なんかを確実に拘禁する必要があったわけだし」
カオス・コントン「くノ一の緊縛ですか……萌えますね〜」
エヴェリーナ・ミュンスター「江戸時代に入ってからも緊縛術の研究は続けられ、犯罪者を素早く捕縛する方法やら、縛られた人間の身分や地位などが分かるような護送用の緊縛術やらが発展していったのよ。江戸時代には、『捕縄術』という名称で、武術の一部として捕縛術や緊縛術が研究されていたわね」
カオス・コントン「いいなあ……」
醍醐ソウジ「身分毎に緊縛方法が違うんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「ええ。武士・農民だけじゃなく、僧侶や女性などに対する緊縛方法というのも個別に作られていたのよ」
ボルジア家の端役「日本では、縄による拘束術が極めて大きく発達したおかげで、逆に手枷・足枷のような木製・金属製の拘束具はあまり使われなかったな。江戸時代には手枷や手鎖は使われていたが、李氏朝鮮のように、大型の首枷を使用したという記録を見つけることはできなかったぞ」
カオス・コントン「縄で十分っすよ(ぐぐっ)」
エヴェリーナ・ミュンスター醍醐ソウジ神凪羽常「……………………」
ボルジア家の端役「…………さっきから色々と不穏当な言っているようだが、実験台になりますとPRしていると解釈して良いのだな?」【懐に手を入れる】
カオス・コントン「う、うにゃ〜、そんなことは誰も言ってないです〜」【ぶんぶん】
ボルジア家の端役「……さて、話を戻すが、朝鮮半島の場合、中国などと同じように、手枷・足枷などの木製の拘束具が使われていた点が特徴だな。先に出したキリスト教の資料館での展示資料からも、囚人を拘束する場合に、日本のように縄ばかりに頼っていたことは無かったことが容易に推測できる。例えば、死刑囚を護送する場面を描き出した人形があるのだが、縄を使って拘束していたのは囚人の手首だけであり、木の棒を併用することで囚人の逃走を防止していたようだぞ」
醍醐ソウジ「ふむふむ……」
カオス・コントン「つまり、江戸時代の市中引き廻しで女囚さんに施されていたような、見事な緊縛姿を拝むことはできなかったのですか……」
醍醐ソウジ(「見事」って一体……)「……まあ、そういうことになるんでしょうね」
エヴェリーナ・ミュンスター「日本での拷問と朝鮮半島での拷問について優劣を付けるのは、拷問そのものの道徳性を考えると極めてナンセンスな行為であるので避けておくわ。ただ、李氏朝鮮時代と日本の江戸時代の拷問の間には、色々と違いがあることはこれで分かってもらえるんじゃないかしら? 特に、大型の首枷と鋸は、両国の拷問を隔てる大きな材料の1つになっているわ」
カオス・コントン「うぃーっす」



ボルジア家の端役「あと、拷問とは直接関係無いが、李氏朝鮮時代の刑事制度については1つ重要なポイントがある。本編でも触れられるであろうことであるし、他の世界史コンテンツでも繰り返されている事柄なので、既知だといって面倒がる読者もいるだろうが、そこは我慢してくれ」
神凪羽常「何でしょうか?」
ボルジア家の端役牢獄の環境が劣悪だったという点だ。現代の先進国では、そこそこ綺麗に整備された刑務所や拘置施設が整っているのだが、李氏朝鮮時代の朝鮮には、そういったものは見られなかったな。当時の写真がこちらのページに掲載されているので、詳しくはそちらを見てくれ」
醍醐ソウジ「無茶苦茶酷いですね……」
神凪羽常「これが19世紀の写真なんですか? ちょっと信じられないのですが……」
ボルジア家の端役「1910年以降朝鮮半島を支配する日本は、拷問の問題だけでなく、この劣悪な牢獄の環境を立て直す作業も行わなければならなかったぞ。その一環として、現在のソウル市内に『近代的』な牢獄が建設されることになった」
神凪羽常「うんうん……」
ボルジア家の端役「1908年に完成されたその刑務所は、当時『京城牢獄』と呼ばれていたのだが、1912年には『西大門牢獄』、1923年に『西大門刑務所』と名前を改めている。一応、現在は公園になっており、専用のホームページも作られている」
醍醐ソウジ「見たところ、近代的な普通の刑務所という感じがしますね。こんなところでも拷問は行われていたんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「韓国の人は『拷問が行われていた』と考えているようね。『日帝による反植民地闘争の弾圧が行われた場所』とか『韓国のジャンヌ・ダルクこと柳寛順の殉死の地』とかいうように言われてるわ。刑務所跡地に作られた博物館の中には、当時の拷問の様子を記したコーナーも設置されているのよ」
神凪羽常「えーっと……あれ? このページ、こんなことが書いてありますよ?」

施設のご案内

(前略)

朝鮮総督府は1912年3月18日、朝鮮笞刑令を制定して同年12月30日、'笞刑執行心得’という笞刑準則を制定し、いわゆる合法的に極刑をかけることによって数多くの愛国志士たちを死に駆り立てた。

(後略)

出典:西大門刑務所歴史観ホームページ(http://parks.seoul.go.kr/independence/japaness/prison05_3.htm
エヴェリーナ・ミュンスター「あ、この部分は100%妄言だから聞き流して。他の部分は妄言とは言い切れないけど」
神凪羽常(今の一言で、数百万人を敵に回したような気がする……)
ボルジア家の端役「ちなみに、刑務所の内部画像は上記ホームページでも公開されているのだが、旅行好きの日本人が西大門刑務所を訪問した際に撮影した写真もあるから、そちらを見てもらった方がいいだろうな。世界史コンテンツの読者は説明文が『偏っている』と思うだろうが、そこは我慢してくれ」
醍醐ソウジ「拷問の是非はともかく、建物はそこそこ綺麗ですよね」
神凪羽常「当時の日本の刑務所も、大体こんな感じじゃないんですか?」
ボルジア家の端役「そうだろうな。韓国人案内役の説明によると、この西大門刑務所の設計者は網走刑務所の設計者と同一人物だそうだ」
神凪羽常「ふむふむ……」
ボルジア家の端役「で、ここでもう1回李氏朝鮮時代の牢獄の写真を思い出して欲しいんだが……落差の激しさは分かるな?」
醍醐ソウジ神凪羽常「……………………」
カオス・コントン「…………西大門刑務所の方がよっぽどマシじゃないですか……」
ボルジア家の端役「そうだな。現代の我々の基準から考えると、西大門刑務所の環境もいいものとは言えんな。だが、写真を見る限りでは、『文字通りの豚小屋』並みの極めて劣悪な環境が、普通に『不快』と呼べる程度にまで改善されている。そこは肯定的に評価すべきだろう。というか、これ以上の環境を当時の刑務所に求めるのは無理だろう」
醍醐ソウジ「それ以前に、牢獄や刑務所は快適な場所で『あってはならない』ような気がするんですけど……」



ボルジア家の端役「余談だが、この西大門刑務所は、1945年に『ソウル刑務所』、1961年に『ソウル矯導所』、1967年に『ソウル拘置所』と名前を次々と変えたもののずっと使われ続けていた。この西大門刑務所が最終的使われなくなったのは1987年のことだ。日本による植民地統治が終わってからも42年間はずっと使われていたわけだ」
エヴェリーナ・ミュンスター「それだけしっかりした造りだったというわけね……」



醍醐ソウジ「そういや、エヴェリーナさん?」
エヴェリーナ・ミュンスター「はい、何かしら?」
醍醐ソウジ「日本の植民地となっていた時代の、朝鮮での拷問はどういう感じだったんですか?」
エヴェリーナ・ミュンスター「ごめんなさい、すっかり忘れてたわね。それじゃあ、今から説明するけど、話はかなりややこしいのよ
醍醐ソウジ「どういうことなんです?」

〜以下、拷問編2へ〜




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