戦後の連絡船
H型
石狩丸(初代) 十勝丸(初代) 渡島丸(初代) 

W型(第11青函丸以降)
第11青函丸 第12青函丸  北見丸  日高丸(初代)

S型(洞爺丸型)
洞爺丸 羊蹄丸(初代) 摩周丸(初代) 大雪丸(初代)

旧十和田丸・檜山丸・石狩丸型(洞爺丸台風被災船代替)
十和田丸(初代)−石狩丸(2代) 檜山丸(初代) 空知丸(初代) 


*****H型*****

H型とは・・・
戦時末期、日本本土と朝鮮半島間に列車航送の計画が持ち上がり、その航路(博多−釜山)用に設計された7隻の戦時標準船の一種(W型の改良)である。 特徴として、外海航路用に設計されたことから設計段階で船尾扉が装備されていたことが上げられるが、終戦により計画が頓挫。 その後戦災により船舶需要が逼迫していた青函航路に配属されることになり、若干の変更(船尾扉の撤去など)を施し就航した。 H型の「H」とは「博釜(Hakuhu)航路」の頭文字から取ったものである。  現在、その博釜航路にはJR九州・韓国国鉄のジェットフォイル 「ビートル」が就航している。


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石狩丸(初代)

(客載車両渡船・後に車両渡船)

就航   1946年 7月23日
改造   1958年 (デッキハウス撤去)
終航 1965年 9月30日(耐用年数切れ)
旅客定員 (3等)約350名
船体色
総トン数 3146.32トン(就航時)/2913.08トン(1958年旅客設備撤去)
建造所 三菱横浜造船所
船名識別表示 I/SCAJAP-No.I038/COALSINE 就航時JWSZ・終航時JIZE
終航後の状況 1965年11月27日、三菱商事に5318万円で売却されその後スクラップになった。

十勝丸

十勝丸(初代)

(車両渡船)

就航   1948年 4月7日
海難沈没   1954年 9月26日
復元就航   1956年 8月31日
終航 1970年 3月31日
船体色 黒 →黒白ツートン【写真は防雷設備試験設置時のもの】
総トン数 2911.27トン
建造所 三菱横浜造船所
船名識別表示 /SCAJAP-No./COALSINE JGUD
終航後の状況 戦時標準船のH型ではあるがこの船の発注は戦後である。
就航直後の'48年秋のアイオン台風により寸断された山田線(岩手県)
の車両輸送などにより活躍した。'59年の洞爺丸台風では59名の船員の
殉職者を出したがその後浮揚。車両甲板より上を全喪失するものの
飯野重工舞鶴造船所で復元工事を行い再度青函航路に就航。
終航時には津軽丸形の活躍する中、青函航路最後の蒸気タービン船と
してその役目を終える。終航後は室蘭に回航されスクラップとなった。

Oshima

渡島丸(初代)

(車両渡船)

就航   1948年 7月26日
終航 1965年 8月31日 (耐用年数切れ)
船体色
総トン数 2911.81トン
建造所 三菱横浜造船所
船名識別表示 /SCAJAP-No.P039/COALSINE 就航時JDZQ・終航時JIZE
終航後の状況 終航後、1965年9月4日に津軽海峡で危険物搭載貨車投棄実験に使用されたがその後暫く
函館港内に係留されていた。同年11月19日5000万円で久保忠義氏に売却される。

*****W型(第十一青函丸以降)*****

W型とは・・・
W型は戦時輸送力増強ため徹底的に簡易化された構造の連絡船であり、第1船は第五青函丸である。
このうち、ここでは戦後就航した第十一青函丸以降のW型船について紹介する。これらの船は
終戦直後から就航を開始した戦時標準船であり、北見丸、日高丸については戦災により輸送力の
低下していた青函航路の輸送能力の回復のためG.H.Q.の許可を得て建造続行された青函航路用
の車両渡船である。W型の「W」とは貨物を意味する英語の「Wagon」の頭文字を取ったものである。



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第十一青函丸

(車両渡船/改造後・客載車両渡船)

就航   1945年 10月 9日
客室新設 1946年 9月 (デッキハウス船)
海難沈没 1959年 9月26日
旅客定員 (3等)333名
船体色 黒 【写真は旅客設備設置後】
総トン数 2850.71トン(就航時)/3142トン(1946年旅客設備新設)
建造所 浦賀船渠
船名識別表示 11/SCAJAP-No.S106/COALSINE JLLW
終航後の状況 就航当初から進駐軍専用輸送船として活躍した。
'54年9月26日に北海道を襲った台風15号により函館港内で沈没し、
船長以下90名の乗組員全員が殉職した。
その後東洋海事工業(株)により浮揚工事が行われ(5750万円)'55年10月25日、
同じく'54年の台風15号により座礁沈没、1175名の犠牲者を出した洞爺丸
と共に残存船体は一括売却にかけられ、東京の松庫商店が6310万円で落札。
吉岡海事工業所で洞爺丸と共に解体処分された。

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第十二青函丸

(車両渡船/改造後・客載車両渡船/再改造後・車両渡船)

就航   1946年 7月23日
改造   1958年 (デッキハウス撤去)
終航 1965年 9月30日 
旅客定員 (3等)約350名(1958年復元性向上のため撤去)
船体色 黒(後に白黒ツートン)【写真は就航直後のもの】
総トン数 3146.32トン(就航時)/2913.08トン(1958年旅客設備撤去)
建造所 浦賀船渠
船名識別表示 12/SCAJAP-No.S115/COALSINE 就航時JWEZ・終航時JHRC
終航後の状況 1965年11月27日、三井物産に5318万円で売却されその後スクラップになった。

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北見丸

(車両渡船)

就航   1948年2月27日
海難沈没 1954年9月26日(洞爺丸台風により沈没) 
船体色
総トン数 2928.10トン
建造所 三菱横浜造船所
船名識別表示 /SCAJAP-No.K244/COALSINE 就航時JQGY・終航時JDSQ
終航後の状況 終戦後の貨物輸送の要として建造された船であったが、'54年の洞爺丸台風では
港外に踟躊したものの葛登支灯台沖で横転沈没。水深52mの海底に没した。乗組員70名が殉職。
その後、'54年11月より一年近くをかけ船体浮揚作業を行ったが損傷著しいことから
復元を断念。海底の未揚物については'57年4月25日に函館の富士サルベージが
515万円で買い取り、引き揚げられた残存船体は沈没から6年後、'60年4月12日
函館の宮坂商店が2780万円で落札、解体された。

日高丸 日高丸(初代)

(車両渡船)

 

就航   1948年 10月22日
海難沈没 1954年 9月26日
復元就航 1956年 4月1日
終航 1969年 9月20日
船体色 黒(後に白黒ツートン)【写真は復元後のもの】
総トン数 2932.01トン
建造所 浦賀船渠
船名識別表示 /SCAJAP-No.H121/COALSINE JQLY
終航後の状況 北見丸と同じくW型の日高丸は青函航路の貨物輸送に活躍した。
洞爺丸台風の際、激浪により汽缶室に浸水。函館港外に沈没。
乗組員56名の殉職者を出した。
その後浮揚、復元され新造貨物船渡島丸型の登場まで再び青函航路の
貨物輸送に従事した。1970年2月18日広島県の協和商会に7125万円で売却。

*****S型*****

S型とは・・・
終戦後、戦災により輸送力の低下していた青函航路は輸送能力の回復のためG.H.Q.の許可を得てi
W型共に建造された青函航路用の客載車両渡船である。
S型の「S」とは戦災沈没まで青函航路の客載車両渡船の代表格であった「翔鳳丸(Shouhou-Maru)」の
頭文字を取ったものであると言われる。 また、「海峡の女王」と言われ始めたのもこのS型からである。

洞爺丸台風後はその教訓から下層客室窓の水密化、車両水密扉の設置などで改良が加えられている。
写真を見ても窓の大きさなどで台風前後の区別を付けることが可能である。



洞爺丸

洞爺丸

(客載車両渡船)

就航   1947年11月 21日
海難沈没 1954年9月26日
旅客定員 (1等44. 2等255. 3等829 合計1128名)
船体色
総トン数 3898.03トン
建造所 三菱神戸造船所
船名識別表示 TO/SCAJAP-No./COALSINE 就航時JTAP・沈没時JBEA
沈没後の状況 終戦後の本格的な旅客輸送能力回復の切り札として登場した船であった。
沈没直前の昭和天皇の行幸の際にはお召し船として選ばれたこともあるが
'54年9月26日に北海道を襲った台風15号により七重浜に座礁沈没し、
1175名の旅客・船員の犠牲者を出し、タイタニック号以来と言われた
海難史上稀なる大惨事になり、この台風は本船の名前から「洞爺丸台風」
と、呼ばれるようになった。
その後、岡田組により浮揚工事が行われ(8960万円)'55年10月25日、
同じく台風15号により沈没、船員全員が死亡、行方不明となった第11青函丸
と共に残存船体は一括売却にかけられ、東京の松庫商店が6310万円で落札。
吉岡海事工業所で第11青函丸と共に解体処分された。

羊蹄丸

羊蹄丸(初代)

(客載車両渡船)

就航   1948年5月 1日
終航 1965年 7月18日
旅客定員 (1等44. 2等255. 3等827 合計1126名)
船体色 黒(後にライトグリーン)【写真は洞爺丸台風前】
総トン数 3896.17トン
建造所 三菱神戸造船所
船名識別表示 /SCAJAP-No.Y062/COALSINE 就航時JTCP・終航時JBIA
終航後の状況 航路近代化の中2代目羊蹄丸にその道を譲り、終航後は下関に廻航され係船。
その後三菱商事に売却された。

摩周丸

摩周丸(初代)

(客載車両渡船)

就航   1948年 8月27日
終航 1964年 10月26日
旅客定員 (1等44. 2等257. 3等797 合計1098名)
船体色 黒(後にライトグリーン)【写真は台風前】
総トン数 3782.42トン
建造所 浦賀船渠
船名識別表示 /SCAJAP-No.M112/COALSINE JLXQ
終航後の状況 1964年11月20日に下関に回航。66年1月25日に久保忠義氏に6730万円で売却。

大雪丸

大雪丸(初代)

(客載車両渡船)

就航   1948年 11月 27日
終航 1964年 8月31日
旅客定員 (1等44. 2等255. 3等843 合計1144名)
船体色 黒(後にライトグリーン) 【写真は台風後】
総トン数 3885.77トン
建造所 三菱重工神戸造船所
船名識別表示 TA/SCAJAP-No.T277/COALSINE 就航時JTBP・終航時JQQX
終航後の状況 64年9月29日に下関に廻航され、66年2月9日に 三洋商事に7138万円で売却され、
その後ギリシャに転売、エーゲ海で連絡船として第二の人生を送った。

エーゲ海でカーフェリーに改装され(エンジンはディーゼル化)
ソル・フリン(Sol-Phryne)という名前でギリシャ−キプロス−シリア間にて運航されていたが
1988年2月15日にパレスチナ(PLO)側からチャーターされイスラエル・ハイファ港に向かって
難民130名を輸送する直前、イスラエルの特殊部隊によってキプロスのリマソール港にて
燃料タンクを爆破され航行不能に陥るもその後復帰。
【※ソース
Anti-Shipping Activity Messages (ASAM)より】

セルビア紛争の最中、1991年12月6日武器輸送の疑いでアドリア海で攻撃を受け沈没



*****(旧)十和田丸型*****

(旧)十和田丸型とは・・・
洞爺丸台風で沈没した船舶の代船として造船技術審議会の勧告を入れ、2隻の車両渡船、
1隻の客載車両渡船を発注した。ここでは便宜的に「旧十和田丸型」と呼称してるが
この呼び方は国鉄の正式なものではないことを付け加えておく。  これら3隻の特徴として、
青函航路初のディーゼル機関搭載型であり、航路無煙化の先駆けとなった船である。
また、洞爺丸台風の教訓から船尾扉が最初から装備されていた。


Towada1 十和田丸(初代)(客載車両渡船)
Ishikari2 石狩丸(2代目)(車両渡船)
就航 (十和田丸) 1957年 10月1日
終航・係船 1966年 10月1日
船名変更 1966年 10月21日
就航(石狩丸) 1967年 5月6日
終航 1977年 3月18日
船体色 ライトグリーン(十和田丸)/藍(石狩丸)
総トン数 6418.59トン(十和田丸)/5397.59トン(石狩丸)
旅客定員 (十和田丸) 就航時 (旧2等【新1等】470名・旧3等【新2等】1000名) 
建造所 三菱神戸造船所  
改造所 函館ドック
マスト船名識別表示 (十和田丸)/(石狩丸)
船名識別表示  /COALSINE JJZR
終航後の状況 洞爺丸台風で沈没した洞爺丸の代船として建造された青函航路初のディーゼル客船である。
しかし、建造後7年で津軽丸形が就航し速力の劣る十和田丸が ダイヤ編成の支障となることから
一旦係船されたが、輸送力増強のため貨物船として改造され、船名も「石狩丸」(2代目)に変更し
青函航路に復帰。その後、空知丸型の終航まで青函航路の貨物輸送に活躍した。
終航後は鉄鋼不況の最中、77年7月21日に共和商会に3333万3千円の安値で落札され
その後韓国でスクラップとなった。

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檜山丸(初代)

(車両渡船)

就航   1955年 9月16日
終航 1976年 7月1日
船体色
総トン数 3393.09トン
建造所 三菱神戸造船所 
船名識別表示 /COALSINE 就航時JWSZ・終航時JIZE
終航後の状況 青函航路初のディーゼル船と云うこともあり、その機動性を生かし'66年の東北・奥羽本線の災害の際
川崎−函館間をフェリーとしてトラック輸送を行い、翌年の室蘭本線の災害の時には室蘭に仮設の可
動橋を設置し青森−室蘭航路で貨車の輸送を行うなど航路外での活躍が目立った。
終航後、鉄鋼不況の最中の77年7月21日に3307万円で日商岩井に売却された。

空知丸

空知丸(初代)

(車両渡船)

就航 1955年 9月18日
終航 1976年 2月27日
船体色
総トン数 3428.27トン
建造所 浦賀船渠
船名識別表示 /COALSINE 就航時JWSZ・終航時JIZE
終航後の状況 檜山丸と同型船であり、災害の際は檜山丸と共に緊急輸送に携わった。
終航後、76年8月28日に6300万円で池田静氏に売却された。

参考資料など:
・ありがとう青函連絡船(中西出版)
・さようなら青函連絡船(北海道新聞社)
・青函連絡船−栄光の航跡(北海道旅客鉄道株式会社)
・鉄道連絡船一〇〇年の航跡(古川達郎・成山堂書店)
・青函連絡船史(青函船舶鉄道管理局)
・洞爺丸海難史(青函船舶鉄道管理局)
・北海道新聞バックナンバー
・鉄道ピクトリアル492号(88年3月号)
・羊蹄丸(東京都)
・摩周丸(函館市)
・八甲田丸(青森市)
・大雪丸(長崎市)


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