●理屈研究室
PDPの区切り
プロデューサー → リソースを集める
ディレクター → 制作進行
プランナー → 仕様の設計

ゲームの黎明期に上記の役割を同一の人間がやっていた期間が長かったため、
職種としての概念と、技能としての概念が混乱している事が多い。

仕様設計技術は、学問的に体系化されておらず専門教育機関も無く、
また、技能や結果の評価が難しい(売り上げはプロデューサーの責任)ので、
プログラミングやグラフィックデザインと同格の専門技術と認識されない事が多い。
「考える事は誰でもできる」と思われがちだが、それは「誰でもプログミングできる」
「誰でも絵が描ける」と同じ、程度問題の話である。松本零士の蕎麦打ちの話と同じ。

また、プランナーの必要性や作業内容は、作るゲームのジャンルや規模によって異なるので、
会社によってはそういう職種が無い場合もある。
実作業がPG寄りのスクリプターだったり、逆に海外だとレベルデザイナーとか更に細分化されたりしている事もある。

シューティングは競技性の揺り籠だった
・「隕石避け」から敵に反撃する「インベーダー」への進化をもって始まったシューティングですが、
ハードの能力とか市場の流れとかもあって、初期は色々な競技性がシューティングに集中的に盛られていきました。
・しかし、ハードの演算能力や表現能力の進化に伴い、盛られた競技性はシューティングから
それに適したジャンルの方へと純化・独立していきます。
シューティングは常に「座標移動で敵弾を避ける」という競技性が付随しているので、
そういう基礎ストレスが無いジャンルの方が、追加された競技性をより純粋に楽しめるからです。
例えば、「どんな順番で敵やその弱点を破壊するか?」はガンゲームへ、「状況に合わせて素早く自分の機能を切り替える」は
アクションゲームそして対戦格闘へと、卒業していった訳です。
・で、結局、シューティングの競技性には「座標移動で敵弾を避ける」が残されました。
「弾幕」シューティングは、そういう経緯の終着点なのです。
(倒す順番とか機能切替等の他の競技性も緩い形では残っていますが、
自機の残数に直接影響する程(間違えると即死とか)にはギチギチに縛っていません)

データを極限まで削る
■いまだに「グラフィック←→ゲーム性」というの変な切り分け方の二分法をする人を見かけますが、
すっきりした二分法にするなら「データ←→システム」とか「メタファー←→プログラム」でしょうね。
で、この「データ(メタファー)」の部分を「売り」にすると、量的にも、質的にも、そして外部資源を
巻き込んだ(キャラデザは誰々、作曲は誰々みたいな)形で、過当なインフレ競争を起こして、
最終的には採算の合わない焼け野原状態に行き着く訳です。
■では、逆に「データ(メタファー)」の部分を極限まで削るとどうなるのか?
回路上の電位差とか機械語の01とかは人間が意味を理解できないので、
最低、人間の言語形式か図形での画面出力ぐらいは必要でしょうねぇ。
となると、非リアルタイムの全てのゲームの競技性は、数学的問題(正解が非確定な確率論やゲーム理論的な問題も含む)に、
収束
しそうな感じ…単なる予想ですが。
ざる夫君の文章題を当てはめると、「○と△が全部で〜個。△は〜個。では○は何個?」みたいな感じ?
「○+△=X △=Y ○?」まで行くと、プログラム言語に近いですが。
一方、リアルタイム系の競技性は、鳩や猿でやる心理学の基礎実験みたいな物に収束しそう。
「ランプが付いたらすぐボタンを押して、基準値以内なら餌をやる」という類の奴です。
■つまり、「データ(メタファー)」の部分で勝負したくないのなら、
新しい数学的問題や心理学実験を思い付けば良いのでしょうか…?
■第三の道としては、データもシステムもゲームサイクルの上に乗っている情報に過ぎませんから、
そこではなく、土台であるサイクル経路:入出力を工夫するというのもあります。
つまり体感ゲームです。
でも、これも消費者の欲求のインフレとコストの戦いに行き着いてしまうんですけどね…。
■MITの教授がCEDECで「体感ゲームは任天堂の発明」と言ったのは、全く笑止千万でした。
「おっと、アーケードゲームをディスるのはそこまでだ。」と言いたくなりました。
「世の中は馬鹿の方が人口が多い」の法則を痛感しました。

「戦略」は「平等」の敵
■事業仕分けでの「マイナースポーツ…云々」の話題は、そんなに盛り上がらないで沈静化してしまいましたね。
人間社会のあり方の根本に関係する問題なので、もっと議論が盛り上がって欲しかったのですが。
「戦略的」とか「選択と集中」とか言えば聞こえが良いですが、選択されなかった側にとっては、
要は「リソース配分の『差別』」ですよね……僕がいつも糾弾している問題の。
■「資源は有限であり、マイナーなんだから配分もマイナーで良いという」という主張には、別に科学的合理性はありません
これを認めると「少数民族は少数なんだから便益の配分が少なくて(人数比例で)良い」という事になってしまいます。
(人数比例で1人当たりを均そうとしても資源や便益は指数的に集中してしまい、1人当たりの平等は実現されません。
地方交付税等の補正施策が行われるのはこのためです。)
■逆から言うと、基本的人権の「平等権」にも科学的合理性がある訳ではなく、無いが故に「自然権」という概念が発明された訳です。
となると、「マイナーだろうがメジャーだろうが、スポーツはその競技が生まれ時から平等であるのが天賦の権利である」
という愉快な主張がなされた場合に、積極的肯定もできませんが、否定もできないのです。
相互主義を持ち出しても「お前がマイナースポーツの競技者の立場だったら嫌だろ」と言われてお終いです。
付け加えれば「人は平等だがスポーツは平等でなくても良い」という理由も科学合理的に証明できません。
■経済学的には「(国際的)分業をする事で全体の益が向上する」という理論もありますが、
だからと言ってそれは「分業対象から外された作業(産業)が冷遇されて良い」事の正当性にはなりません。
「工業のために農業が犠牲になって良いのか!?」という農業の自由貿易問題はまさにこれですね。
(ちなみに「国家や公共団体ではない私企業であろうとも、構成単位に平等にリソース配分するのが当然の義務であり『自然権』である。
そのせいで倒産するなら、その産業は資本主義を卒業して国が援助すべきだ。」というのが僕的正義です。)
■結局、「何を単位として『平等』にするのか」や「全体益の総量向上のためなら、個別の益が減らされても良いのか?」という、
価値観や倫理観の問題なのでいくら議論しても論理的には結論の出ない話なのです。
だからこそ、国民を上げて「真の『平等』とは何か?」について話合う良い機会だと思ったのですが…。
まぁ、事業仕分け全体も「何が無駄で何が無駄ではないか」という点で同様の性格の物な訳ですが、
マイナースポーツの問題だと一番具体的で分かり易いかと思ったのですよ。
■なお、「静的平等」が計測困難ならば、「動的平等」という手もあります。
分配する物を厳密に均等分するのは諦めて、享受者の立場を動かす事によって平等「感」を実現するという奴です。
例えば、クイズ問題として有名な「二人の酒呑みが形の違うグラスで酒を2等分する話」ですね。
そこまでトリッキーじゃなくても、立場を順繰りにローテーションさせるとかも、平等「感」を実現します。
(但し、ローテーションは運用にコストがかかる場合も多いですが。)

ギャルゲーに於ける広義ゲーム性のグラフィック依存
■「ドリクラ」「ラブプラス」共にスマッシュヒットで、
今年はオリジナルギャルゲーの当たり年のようですね。
■で、グラフィックは棒人間レベル、音声やテキストは理解不能な言語にするといった、
「データ萌え」を極限まで削って「システム萌え」がどれだけ残るかの思考実験をしてみました。
…まあ、全然萌えない意味不明な物が出来上がりますね。
つまり「萌え感情はデータリソース起源」、もっと言えば「『意味』はデータリソースから発生する
と考える事ができそうです。
システムを削る逆方向の荒っぽい話をすれば、ゲームからぶっこ抜いたグラフィックや音声のみでも、
「萌え感情」を発生させる事が可能な訳です。
ゲームシステムはそれらに対する味付けや、組み合わせの触媒の位置付けという事です。
■さて、対比として2Dシューティングやアクションゲームの場合を考えてみると、
「究極タイガー」でよく言われたように、「グラフィックが○×でも面白い状態」がありうる訳です。
(厳密に言えば、プレイヤーは簡易な記号の動きからその『意味』を勝手に想像している)
それで、「燃え感情はデータ起源ではなくシステム起源」と言いたくなる所ですが、
ここで更にグラフィックを完全消してしまうと、面白くなくなるどころかゲームが成立しません。
それは「グラフィック上の位置関係」というデータの動的状態が競技性の核心にあるからです。
■一方ギャルゲーは、グラフィックを消したとしても、音声やテキスト等の他のデータが理解可能であれば成立します。
まとめると、ギャルゲーは広義のゲーム性(どういう部分が面白いのか)において、グラフィックの占めるシェアは大きいが、
核心部分はグラフィック依存ではなく、データであれば他の存在でも代替可能であるという事です。
逆に2Dシューティングやアクションゲームは、広義のゲーム性(どういう部分が面白いのか)において、
グラフィックの占めるシェアはそれ程でもないが、核心の競技性はグラフィック(画面情報)依存だという事です。
■あ、でも、よく考えるとADV系ゲームとリアルタイム系ゲームを比較しているだけかな…?
そもそも「ギャルゲー」って題材(素材)による線引きだから、「ギャルアクションとかはどうなるんだ?」って話にもなるし。


日本に於ける創造性の本道
■CEDECで稲船氏が「ユーザーをいかに喜ばせるかという創造性が云々〜」という表現をしましたが、それは大いなる誤りです。
そこには利他的な邪念が含まれており、それはサービス精神であって創造性ではないのです。
本来、創造性というのはあくまで利己的で自己完結的な物であり、周囲がそのマスターベーションを見て勝手に喜ぶのが本道です。
ましてや、他人を喜ばせるにために自分が好きではない物を作るに至っては本末転倒です。
逆に言えば、「喜ばせて良いのは同好の士だけ」な訳です。
ベルギー人のコピペではありませんが、それが日本に於ける創造の本来あるべき姿なのです。
それで、再生産のサイクルが成立しないというのなら、伝統芸能として資本主義市場の枠外で政府が保護すべきなのです。
「同好ではない士」を引き込もうとする任天堂が、どんなに売れようが非難されるのもこのためです。
(既に下の方で、「資本主義者vs物神主義者vs効用主義者」という形で論じていましたね)


志の無い会社ほど生存確率が高い
■少年誌の広告等で見かけて感心するのは、オリジナル路線でいまだに生き残っている、サクセスとグローバルAの存在です。
サクセスは業務用全盛期からの老舗ですからまあ分かりますが、グローバルAは、KCG青山で「青山ラブストーリー」が途中頓挫し、
その後KCEジャパンに吸収された後も「こいつら使えねぇ」と放り出された人達が、作った会社ですからねぇ…。
しばらく、コナミ流通の廉価ソフトの下請けをやっていたようですが、「マエストロムジーク」と「悪代官」を当てた以降は、
上手く隙間を突いた企画が得意になったようです……素晴らしい。
■で、何を言いたいのかと言うと、「志の無い会社ほど生存確率が高いのでは?」という事です。
「この新技術を世に問いたい」とか「こういう製品群を作るんだ!」という志ではなく、
「会社が潰れた」「会社から放り出された」というような実も蓋もない理由でできた会社の方が、
取り敢えず食べるためになりふり構わないので、生存確率が上がるのではないでしょうか。
(数値的なデータの裏付けが在る訳ではないのですが…)
リーダーシップ論で、リーダーが構成員のベクトルを同じ方向に揃える図解がよくなされますが、
こういう志の無い会社は「金儲け」の方向に全員のベクトルが揃ってブレが無い状態な訳です。
■もっとも、当然「どんなゲームを作れば儲かるのか?」という二次的な難問は生じますが。
ここで方向を迷うとデスマりますよね。
こういう時、「版権物」や「シミュレータ」は強いです。
売り上げの問題を棚上げして、元ネタを再現する方向にスタッフのべクトルが自然に揃いますから、迷いも無くなります。
この意味でも、オリジナル路線で生き残っているグローバルAは凄いと言えるでしょう。


「新スポーツの罠」に陥った「レッツタップ」
■「レッツタップ」のCMを見かけたのですが、あまり売れていないそうですね。
これはいわゆる「新スポーツの罠」にはまっているのだと思います。
「ゲームの都合で新しいルールのスポーツを発明して、それをゲーム化しても、
誰もそれに感情移入できなくて売れない」という奴です。
「レッツタップ」の場合、CMを見るとリモコンを置いた箱を叩く事に焦点が当たっている訳ですが
(そこが新規性だから当たり前なのですが)、それは現実世界の何らかの行為を表象する比喩ではなく、
新規性を求めるゲーム制作側の都合「だけ」で出現したものだから、
多くの人が理解・感情移入できないのも当たり前でしょう。
2chで「紙相撲をやらせろよ」という意見がありましたが、そういう感じ方の方が自然なのです。
「太鼓の達人」は「太鼓」の比喩だから、多くの人が理解・感情移入できるのです。
新操作系を考えるのは良いのですが、制作側のメタな都合が剥き出し過ぎるんですよね。
「戦場のヴァルキュリア」でも、「棒立ちシステム」をオブラートで包んで飲み込み易くする工夫が欠如していたし、
家庭用セガゲーの伝統なのですかね。
■もっとも、「レッツタップ」自身が比喩される対象の最初の現実存在になれば良いとも言えるのですが、
任天堂並の強力なプロモーションをかけてジワ売れさせなければならないので、なかなか難しい所です。


ローミングゲームのゲームデザイン思想
■ローミングゲームは「ゲームデザイン思想自体がオブジェクト指向型」だったのですね。
「ローミングゲームの自由度」の項では適切に当てはまる用語が思いつかなくて「発散型」と称しましたが、
オブジェクト指向についての本を読んで、「あ、これだったのか!」とポンと手を打ちました。
また、旧来のタイプのゲームデザイン思想は、「オブジェクト指向型」に対する「手続き型」に相当する訳ですが、
プログラミング言語についてではないので、場面の連続という意味で「シーケンス指向型」とでも称しましょうかね。
今更で少し気恥ずかしい話ですが。
■鈴Qは元々、フィクションメタファーに一切興味の無いシミュレーター指向の人間でしたから、
「シーケンス指向型」で始めた「バーチャRPG」が5年間迷走したあげく、
「シェンムー」にパラダイム転換されてようやく陽の目を見たのも、何となく分かる気がします。
明確に言語意識化されていないにしろ、鈴Qの脳裏には「オブジェクト指向的なものにしたらどうか」という感覚が
あったのではないかと憶測します。
■では、旧来のゲームが最初から全て「シーケンス指向型」だったかというと、
「ブロック崩し」等の原初の固定画面タイプの時は、そうでもなかったのではないかと考えます。
何故なら、「シーケンス指向型」的な思想傾向は面の積み重ねの部分にしか無く、
ゲームの主たる要素である各面の内容は、むしろ画面内の物(オブジェクト)と物(オブジェクト)の関連に主眼を置いた
「オブジェクト指向型」的な思想傾向の方が強かったからです。
(開発手法やロジックや使用言語の話ではなく、あくまでゲームデザイン思想の話です)
ゲームの「シーケンス指向型」な思想が強くなり始めるのは、敵が次々と画面外から連続的に出現するようになった辺り、
つまり見下ろし型2Dレースゲームや背景がスクロールするゲームが出てきたぐらいじゃないですかね。
(例によって僕は「ゲームは業務用が本流」主義なので、PCゲーム発達の流れは丸っきり無視しています)
その「敵の配置」が「場面の設計」になり、PCゲームのADVやRPGの流れと合流して家庭用となった時に
「ストーリー展開」と統合され、「シーケンス指向型」が完全に主流になったような気がします。
(パズルとかジャンルによっては影響を受けていないのもありますけどね)
で、その場面(シーン)の重要度が物(オブジェクト)の重要度を支配する(制作優先度を決定する)のが普通になり、
「ゲーム的に重要でもない机の引き出しの内部まで、なんでモデリングしなきゃならないんだ!」という、
「シェンムー」のアートデザイナーの漏らした不平につながっていく訳です。


シューティングの衰退の原因
このSHTの歴史についての記事、前半は上手く流れをまとめていて感心しながら読んだのですが、
後半に入って、いまだにSHT衰退難易度原因説を信じているのに驚きました。
真相は「SHTのゲーム性(メディア性・インタラクティブ性・競技性の総体)そのものが、
単位時間当たり快感量の点で他ジャンルより劣るようになったから」なんですがね。
言い換えれば、「感情移入とインカムの点で、他ジャンル(特に対戦格闘)との生存競争に負けた」という事です。
難易度の設定や調整というジャンル単体の問題ではないのですよ。
■更に言えば、難易度の高低と客の寄り付き・インカム・基板販売状況に相関関係はありませんでした。
難易度を下げても感情移入という間口は広がらないのです。
東方シリーズが、キャラクターに焦点を合わせたイオシスのFlashで初めてブレイクした事を考えれば、分かり易いでしょう。
この人に至っては罵倒している(笑)。


「メタファー」と「データ」の概念の整理
■最近「メタファー」と「データ」を主題にして似たような論理展開が続いているので、
両概念を整理してみます。
■「メタファー」は電気信号の流れ・状態遷移である「ソフトウェア」の上に、
人間がその意味を理解(解釈)できるようにかぶせた「意味の表皮」です。
■一方「データ」は、「駆動(状態遷移)させられる情報群」の事で、
駆動(状態遷移)を行う側の「システム(プログラム)」と対置する概念です。
■切り分け方の軸が違う訳で、「システム」「データ」の両方に、
「ソフトウェア」と「メタファー」の両面があります。
例えばテトリスの「1列揃ったら消える」システムにも、「一定変数群が同値→y座標値が同値→列」のように
「意味」を重層的に付加している「メタファー」部分があります(「消える」も同様ですね)。
■しかし、この二軸を直交させた場合の交差点が左下に偏り、第一象限「データでかつメタファー」部分が
肥大化しているのが現状なので、似たような話になってしまうのです。
例えば、プログラム的には同じタイミング判定ゲームでも、上にかぶさっているのが「マイナースポーツ」より
「人気スポーツ」が感情移入し易く、更にその人気スポーツの「ルール・システムのモデリングの差異」よりは
「実在のスター選手が登場するかどうか」や「最新の選手データか」の方が重要という類の話なのです。


同人ゲーム市場も焼け野原
■新さんの記事で面白い話題があったので。
「日本のゲーム同人の層の薄さは何故?」みたいな疑問が提示されていたのですが、
「ゲーム同人の層が薄い」と言うよりは「ゲームシステム同人の層が薄い」のであり、
僕はその原因は「我々はその段階を既に通過しているッッッ!!」という奴だと思います。
コミケはワンボードマイコンが出たぐらいの第21回から見ていますが、
ゲーム同人はPC8800やMZ-80等の個人用パソコンが出てすぐにチラホラ現れ始めたと記憶しています。
日本のゲーム同人も結構歴史があって、例えば音楽系同人よりも長いと思います。
(生楽器系のアマチュアはコミケに来ないので、音楽系同人が隆盛になるのはPCとMIDIの普及後)
だから層自体は厚いと思うのです。
同人とは別経路ですが、堀井雄二や中村光一もアマチュアコンテスト出身ですしね。
しかし、歴史が長いが故に、皆の目も肥え過ぎてしまい、システム志向の段階は終了してしまったので、
日本の家庭用市場と同様に、購買価値の中心がゲームシステムからデータに移行してしまったのだと思います。
つまり、同人ゲーム市場も既に焼け野原という訳です。
アスキーは「RPGツクール」や「3D対戦格闘ツクール」とかを作っている場合じゃなくて、
「新競技性ツクール」とか「新ジャンルツクール」とかを作るべきでしょう。(゚∀゚)
■また、価値の中心がデータに移行した上で、更に都合が悪い事に、同人誌やCGデータ集等の形で、
そのデータをバラ売りできる市場が先にガッチリ成立してしまっているのも大きいと思います。
何せゲームとして統合される前にデータをバラ売りした方が手っ取り早いですから。
こうなると、高価値が既に確立したデータを既存システムの上に乗せる事はよくあっても(「ひぐらしデイブレイク」等)、
「ゲームを組むために高価値のデータを新規に作る」という手順自体が稀少になってしまうのです。
(例外はノベルウェア系で、これは文章系が同人誌としては苦しいので、グラフィックを後から付ける事になりますが、
どちらにしろデータの塊でシステムの新規性を追求するタイプではありません…。)
つまり、日本はデータ同人の層が厚いが故に、システム同人の居場所が狭いと言えます。
同人ヒエラルキーの最上位は絵師ですしね。
ちなみに、データ志向なので、データを編集したりツールを作る職人系アマチュアの層も厚かったりしますよね。
(MikuMikuDanceの人とか)
■逆に諸外国のアマチュア(ゲームシステム同人)がまだ頑張れるのは、
  1、市場がまだそんなにスレていないので、ゲームシステムに対する興味がいまだ大きい。
  2、競合するデータ同人市場が確立していない(MOD文化とかはありますが日本の同人市場と規模を比べると…)。
の2点が大きいと思います。
「海外家庭用でオリジナルがまだ頑張れるのは、競合するメディアがTVと映画ぐらいしか無いため」と
似たような構造ですね。
これから海外市場が日本と同じような焼け野原になるかどうかは、文化の問題もあるので不明です。
ひょっとしたら、クールジャパンとやらが普及しちゃうとヤバイかも……?(゚∀゚)


外部資源の導入と人事政策
■TGS2008でも「あの誰々が○○を〜」みたいな外部資源の導入が相変わらず盛んなようですね。
「焼け野原」の項に引き続き、データ商売の二大問題の一つ、外部資源導入の件について。
■外部資源導入による技術力の停滞の問題は、経営学の古典的なテーマ「製品別事業部制組織と職能別組織」と似た感じがします。
(ここで言う「技術力」は脚本力やキャラクターデザイン力等をも含む内部資源生成能力全般)
外部資源導入は製品別事業部制組織と同様、製品の完成度が上がり短期的には収益が向上します。
しかし、これまた製品別事業部制組織と同様に、長期的には技術レベルの相対的低下をもたらすのです。
モルヒネ(医療麻薬)を打ってばかりじゃ自己治癒力が落ちて一向に治らない…という奴です。
■経営側として採りがちなのは、外部資源導入部隊と内部資源育成部隊を並立させるMIX戦略です。
会社全体としてはバランスが良いのでしょうが、スタッフの交代と継続のバランスの取れた人事ローテーションをちゃんと組まないと、上手く行きません、
人事が固定的だと、外部資源導入部隊はスタッフの労働市場価値を低下させた分を収益に転換しているような物ですから、
スタッフのモチベーションが腐ります(代表例:僕様ちゃん)。
かと言って、1作毎に毎回スタッフを換えていては非言語的ノウハウの蓄積・継承ができず、製品の完成度が上がりません。
知り合いの社長さんが「うちは社員達が倦まないように版権ネタを毎回変えている」と胸を張って言うのを聞いた事があるのですが、
それはそれで「うちのゲームの完成度は低い」と言っているのと同じ意味なので、あまりおおっぴらに公言して良い内容ではないのです…。
確かカプコンがどん底期に始めた、チームの半分ずつをずらして交代させていく(1人2作品作って別部隊に移動)ような、工夫が必要なのです。
■ま、ぶっちゃけ、ゲームシステムを盾に素人社員がメタファーを制作して、それを商品レベルに育て上げる自前主義こそが、
ゲーム制作の醍醐味であり、高付加価値・高技術力ひいては長期的高収益の源泉なのだから、空気を読んで、
「プロデューサーは外部資源を持ち込むなよ、ヴォケが!」「他メディアの専業専門家は入ってくるなよ、ヴォケが!!」
「消費者はそんな物を好むなよ、ヴォケが!!」「政府は産業政策で禁止しろよ、ヴォケが!!」という事ですよね。
職能範囲の重複を考えると、「外から入ってきて良いのは声優だけ!!」です。
(モーションアクターもギリギリ可かな?)


データ商売で焼け野原
■データをメインの売りにしていると、ユーザーもデータに対して対価を払っている感覚になり、
結局は焼き畑農業になってしまいます。
■データの量の観点から言えば、ユーザーの欲求の下方硬直性がボリュームのインフレを惹き起こし、
最終的には、採算が合わなくなってきてしまいます。
■データの質の観点から言えば、他メディアの版権や人気スポーツのゲーム化権を導入したり、
「キャラデザに誰々、脚本に誰々、音楽に誰々…」と外部専業プロを呼んできたりする、
「既に一定の価値(感情移入度や実用性)が確実な外部リソースを、いかに獲得するか」の競争に行き着いてしまいます。
(そうでなければ、かつてシステムが有効だった時期に価値を確立できた作品の続編やリメイクやスピンオフ)
■何故、新規に自前で価値の高いデータを作ろうとしないのかと言えば、そもそも人々の嗜好という官能的な問題が絡むため、
確実な方法が不明であり、コストをかけて作りこんでも高価値データが作れるとは限らないからです。
この事情はゲームだけではなく小説やマンガや音楽等の他の娯楽メディアでも同じで、
作家(データ実製作者)を次々に入れ替えて量産し、その中のいくつかが当たれば良いという体制を採る訳ですが、
ゲームは1作品当たりの制作コストが高いため、数撃ちゃ当たる方式はなかなかできないのです。
また、ユーザーの立場から考えても、新規データの価値を試すリスクは、
より安価なメディアで取る方が都合が良く、「ゲームでまず最初に…」というのはなかなか起こりにくいのです。
(この問題は何度も述べてきました。最近では「日本市場でのオリジナルゲームの論点」。)
よって、既に高価値の(or 高価値である確率が高い)外部リソースの導入競争にいそしむのです。
(あるいは、自社版権物の消耗競争……続編地獄という奴ですね)
そしてこれは純粋なゲーム制作技術の競争ではなく、資本やコネを使ったゲーム外の競争であり、
長期的には技術的停滞を招いてしまいます。
■だからこの問題は、いつまでもゲームシステムのみで勝負できる市場であるようにデータ勝負を禁止して、
業界全体で家庭用ゲーム市場を維持管理すべきだったと思うのです。
アダルトを締め出せたのだから、十分可能だったと思います。
逆に、締め出された側のエロゲーが、データゲームそのものであるのにもかかわらず、
小資本が故にボリュームインフレや外部リソース導入の問題を結果として回避しているのは、
皮肉な結果だと思います(でもやっぱり、外部有名原画師を招聘みたいなのが一部ありますし、
トゥーンレンダ以外の技術は停滞していますよね…)。
■とは言え、一度なってしまった物は元に戻せないので、対策を講じなければなりません。
「日本市場でのオリジナルゲームの論点」の項目では、メタファーを限り無く薄くする事を提案してみましたが、
「単位時間当たりの快感の強さ」の主要因がゲームシステムからデータに移行した現状では、
あまり高い「購買価値」を獲得できないという事も同時に述べました。
そこで今回は、量の問題も包含した形で、3つの対策を挙げてみます。
  1.自動生成
    最近話題になる事の多い方策ですが、量の問題は解決できても、単独では質の問題(消費者の好みの自動推測)は難しいでしょうねぇ…。
  2.ユーザーが作成
    MOD程度で終わらずに、「ユーザーがデータを作成する事自体を競技化」するぐらいのパラダイム転換が必要でしょう。
    「リトル・ビッグ・プラネット」がこの路線のようですが、デフォルトの50面を付けないぐらいの劇的な処置が欲しかった所です。
  3.ネット上データにフリーライド
    2の「ユーザーが作成」を大規模化した考え方で、ゲームではありませんが、要はグーグルのような立ち位置です。
    彼らのサービスは自前で第一次データを作成している訳ではありません。
    グーグルと同様に、ゲームでもユーザー達が作成しネット上に散在するデータをフリーで利用させて貰う訳です。
    上手くやれば(スパイウェアじみていますが)、自動生成の質の問題(消費者の好みの自動推測)の解決の糸口があるかも…?


小まとめ:日本の家庭用市場を狙う際の留意点(2008年現在)
■題材の選択は設計の新規性に勝る。
■題材の選択においては、新規性と市場との親和性のバランスが肝心。
■任天堂クラスのマーケティング力(資金量含む)が無い限り、カジュアル層を狙うのは難しい。
■日本のコア層を狙うには、中古サイクルへの対策が必要。例:通信協力プレイの推奨やネット認証等。
■オリジナルメタファーの感情移入市場での他メディアとの競合問題は、
ガチガチに定めた物語・設定等を強く提示する事はせず、緩めに留めて直接競合を避けるべき。
カスタマイズ機能等で感情移入済みのデータを持ち込ませる事を狙う方が無難。
但し、ユーザーへの完全な白紙委任はかえって障壁が高くなるので、雛形を複数用意する事が必要。
■やる事のテーマが絞られていて、当面の目的が絶えず提供されるのであれば、
主人公(プレイヤー)の最終目的は無くてもOK。
■日本人のリアルタイムの競技性に対するアレルギーは低下したが、相変わらず、
チクチクと何かを作り上げたり蓄積したりするフィーチャーを好む。
更にそれが通勤等の日々の隙間時間にできると、なお良し。
■コスト問題の攻略は、レベルの扱いをどうするかが肝。
■ボリューム問題は、やり込み要素・カスタマイズ要素の順列組合せ、あるいはMOD推奨等で、ユーザー側に投げるべき。
但し、バグ発生率が高くなるので、QAとのバランスも考えなければならない。


購買価値の変動要因
■購買価値とは、「手に入れるために支払っても良いと思う代償(額)」の事です。
値段を付けられないPricelessになると、「徹夜で並ぶ」とか「ころしてでもうばいとる」になりますが。
で、市場価格との関係が、購買価値≧市場価格になると、消費者の購買行動が発生します。
■市場価格は購買価値と比べるとあまり動きません。
新品の店舗販売の場合、固定費が大きいので定価販売が主流であり、
だぶついた時にワゴン行きになるのを除けば、市場価格はそれほど変動しないのです。
例外的に、ネット販売や中古販売だと、需要供給関係で滑らかに動いたりします。
■購買価値の変動要因は、まず内部要因と外部環境要因の二つに分けられます。
・内部要因は「期待される快感総量」です。
これは更に「単位時間当たりの快感の強さ」×「持続時間」×「期待係数」と表せます。
「単位時間当たりの快感の強さ」は「好み」、「持続時間」は「ボリューム」等の、ゲーム自体の実値の問題になります。
「期待係数」はそれらの実値を消費者が購入前にどれだけ予測できるかという、マーケティングの問題になります。
・外部環境要因は以下の3つが代表的な物でしょう。
 1.収入(可処分所得)
  マクロ的な観点で言えば「景気」でしょうか。
  これの増大によって、消費者のリスク許容度が上がり、同一ゲームに対しての「出しても良い価格」が上昇します。
  「需要曲線全体の右シフト」と言いたくなりますが、市場価格ではなく購買価値の話なので、微妙に意味がズレます。
 2.商品の供給量
  これの減少で惹き起こされるのが、限定品商法等での「レア度が高いと欲しさが増す」という奴です。
  これも「供給曲線全体が左シフトして均衡価格が上昇」と言いたくなりますが、それはあくまで市場価格の話であり、
  一消費者の内心の購買価値まで上昇してしまうのは一種の倒錯状態と言えます。
  本来は、世の中に沢山あろうが少なかろうが、一個人のその商品に対しての価値(効用)は変わらない筈ですが、
  周囲に流されない独立不羈の消費者は意外と少ないという事でしょう。
  また、希少性の場合とは逆に「周囲が持っているから自分も買いたい」という同調性のパターンもあります。
  (純粋な他者への同調ではなく、他者の購買を参考にした、快感総量予測の手間の省略の場合も含まれますが)
 3.代替財の存在
  これは、「同程度の効用が期待できる他の商品群が存在した場合に、購買価値は商品群の中で一番安い市場価格になる」という事です。
  「ネットでほぼ無料かつより速く同等の情報を得られるのに、速報性目当てに新聞や雑誌をわざわざ買うのは馬鹿らしい」という感覚ですね。
  まぁ、「他とは異なる付加価値を付けて差別化しろ!」という当たり前の結論になる訳ですが、この「同程度」というのがクセ者で、
  個人個人の感じ方によって競争の相手やその舞台である市場が変わってしまうのです。
  例えば、ゲームのような新品と中古の違いがあまり出ないデジタル商品において、発売後すぐにプレイする事に価値を感じない人は、
  購買価値が中古市場基準になり、新品を買わなくなってしまいます。
  つまり全く同一仕様の同一商品同士で競争しなければならなくなる訳です。


競技性の分類 〜 ビデオゲームと数学的「ゲーム理論」との接続点
■ビデオゲームの競技性を大きく分類しようとした場合、行為を判断/操作、
求められる要素を精度/速度に分けた、マトリクスが組めるのではないかと考えます。

__|精度|速度
判断| A | B
操作| C | D

(なお、「精度」にしているのは、正解/不正解の二択だけでなく、
「核心」(究極の正解点)からの距離を問うアナログな状況の場合もあるからです。)

■A象限を判断時の正解点の位置で場合分けします。
先ず、判断時に正解点の位置が確定している場合です。
例えば、クイズとかパズルです。
分類名としては、「」付きの「パズル」とでもしておきますか。
次に、判断時に正解点の位置が不確定な場合です。
これは、不確定性の様態で更に二つに分けられます。
一つは、意思決定者の判断とは無関係に正解点の位置が不確定な場合、つまり「ギャンブル」です。
そして、残るもう一つが、意思決定者の判断が正解点の位置に影響を与えてしまい不確定になる場合、
つまり「ゲーム理論」上の「ゲーム」です(一人プレイの場合はCPUが他の意思決定者に相当する)。
ここで数学での「ゲーム理論」に接続されます。

■上記3分類は定性的なものですが、現実の意思決定行為の全てが、
この3つにデジタルに分類される訳でもありません。
例えば、競馬・競輪・競艇・サッカーくじ等の公営ギャンブルの結果の不確定性は、
物理的ランダム性によるものではなく、他者同士間の「ゲーム」の横からの観察予測であり、
事前データによる予測可能性も多少あるため、「パズル」と「ギャンブル」の中間とも言えます。
■また、株式取引は、ミクロ視点では自分の売買で価格が変動するので確実に「ゲーム」と言えますが、
マクロ視点だと資金量による立場次第で性質が変わってしまいます。
機関投資家等の「大人」なら「ゲーム」プレイヤーになれますが、
一般個人投資家は「大人」同士の「ゲーム」に巻き込まれた(あるいは観察する)立場になり、
取引は公営ギャンブルに近い性格になります。
加えて、災害・戦争等の市場外要因による波乱という純粋な「ギャンブル」性も介入してきます。

■さて、ビデオゲームでは「選択肢に一長一短があって戦略性が〜云々」という類の事が良く言われますが、
選択肢に一長一短(トレードオフ)の性格を付与することは、上記の判断(意思決定)の「質」の分類、
言い換えれば「正解点の位置」には影響を与えません。
基本的に無関係です(例外は後述します)。
「ギャンブル」は当然無関係な訳ですが、選択肢がどんな物であろうと選択によって正解点が動けば「ゲーム」、
固定ならば「パズル」です。
では、どんな意味があるのかと言えば、先読みの計算を深くして、ストレス補償の快感を増やす事です。
また、空回りの計算も増える訳で、「考える」快感も増やします。
つまり、判断(意思決定)の「量」の問題な訳です。
この辺は「入門」でも言及しましたね。
■一方、判断材料となる情報の完全性については、判断(意思決定)の「質」の問題に大きく関わってきます。
「不完全情報」環境だと、「ゲーム」どころか「パズル」も、主観的には「ギャンブル」に大きく接近してしまいます。
極端な例を挙げれば、答を知らないクイズは、正解がランダムで決まるのと、主観的には同じ意味だという事です。
逆に「完全情報」環境で、かつゲーム展開の場合の数が有限である場合、そのルール構造によっては、
「ゲーム」は最善手が一義的に決まる「パズル」になってしまいます。
最終状態から最善手が逆算されてしまい、「ああ来たらこう、こう来たらああすれば必ず勝つ」と、
場合分けで必勝法を繰り返す「パズル」になってしまうのです(代表例:オセロ(リバーシ))。
ちなみに、この場合で選択肢に一長一短(トレードオフ)の性格を付与することは、最善手の算出計算を複雑化するので、
「パズル」的性格を弱める事になります(これが上記で言っている「例外」)。
「ゲーム」は「ギャンブル」と「パズル」の間にあり、情報環境の状態によって性質がどちらかに引っ張られがち
と言って良いかもしれません。


モデリングの一次体験
■初心に帰って作りたい物をつらつらと考えてみると、どうも断片的なメタファーのイメージばかりで、
なかなか具体的なゲームシステムの形に像を結びません(それも、自分に権力やリソースが回って来ない内に、
他人(社)が先に作ってしまって作り損ねて地団駄を踏んだという、後ろ向きなネタばかり…(´∀`;) )。
いや最初は、ぼんやりと日本向けFPSかな〜と思って強化プレイもFPSに重点を置いていたのですが、良く検討してみると、
コスト計算的に収まらないというか、コスト対策をするとFPSの本来的な魅力を失い本末顛倒な事になってしまうという、
解無し状態に陥るんですよね。もう少し市場が大きければなぁ……クマりますた。
■さて、作りたいシステムが無いというのは、根がミーハーな僕様ちゃんでも最近は、
「自分でも是非作ってみたい!」と思うようなシステムに出会っていないという事を意味します。
(まぁ、メタファーとは違って、システム設計は情動ではなく論理でするものですから、
そういう方向からの動機付けが起こり難いのも当たり前なのですが…。)
こういう「ゲームからゲームを作るのは良くない!」というもっともらしい意見も良く見受けられますが、
考えてみると、小説にしろ映画にしろ音楽にしろダイエットにしろ、ゲーム以外の体験から得られるものはメタファーだけなんですよね。
そこからモデリング(ゲームシステムの設計)を会得することはできません(例外は、最初から題材に競技性が組み込まれている、
既存テーブルゲームやスポーツや建築設計等の一次体験で、これらはシミュレートする事でゲームシステムが形成される)。
そう考えると、モデリング(システムの設計)の一次体験はビデオゲームであり、
ゲームからゲームを作る事にも正当性があるのではないかと考えるのです。
■でも、やはり題材の幅は広がらないですが。(´∀`;)
しかし、芸の肥やしじゃないですが、ゲームのメタファーのレパートリーを増やすために、
いろいろな娯楽を体験するというのは、本末顛倒というか不自然で潔くない感じがします。
また、「元々多趣味な人間がゲームを作るのが良い」というのも、人格差別で(・A・)イクナイ!!


題材問題において行われるべきAffirmative Action
■題材の問題は、技術の問題というより、多文化共生の問題だと思うのです。
それも多国間だけではなく、同じ国内でも異なる事物を好む文化が並存しているという。
だから、自由市場の調整機能に任せてはいけないのです。
開発・制作に注げる資源は有限ですから、市場原理に任せていたらマイナー題材は抑圧され滅ぼされてしまいます。
そこで、資源の分配のもう一つの手段、政治の出番でしょう。
本来は、メジャー題材のゲームに税を課してマイナー題材の制作者に分配するのが本道ですが、
それだと全体のパイが縮小してしまいます(直接税にしたり、課税前より買わなくなった人間に刑事罰に課せば良いのですが、
個人の購買行動の把握まで行くと行政コストがかかり過ぎです)。
そこで、逆に考えて、マイナー題材のゲームを新品で買った人は、その額だけ税控除が受けられるようにするのです。
何がマイナー題材かは、年度毎の売上数で機械的に決めれば、節税対策での購入が売上ランキングを見ながらの物になり、
題材別の売上が平均化されると同時に、パイ全体の底上げになるでしょう。
更に、買ったゲームを実際に遊ばせたければ、控除条件をオンライン認証してオンラインプレイを行う事にすれば、
ネットの普及率も上がって一石二鳥です。


ミドルウェアの価格
■日本で有料ミドルウェア群が普及しないのは、開発戦略以前に、絶対的な価格の問題が大きいような気がします。
20万ドル(1ドル100円として2000万円)というのは、相対的には安いのでしょうけれども(PS2の時に某ミドルウェアが3000万円とかで
「高過ぎだ!」と揉めて採用しなかった記憶がある)、今の日本市場の狭さを考えると絶対的には高過ぎでしょう。
あと一桁安くならないと、お話になりません
■日本市場では10万本に第一次の天井があるので、予め売上が10万本を越えると予測できるシリーズ物を除けば、
保守的に受注目標を立てるとしたら5万本辺りが妥当ではないでしょうか。
流通とハードロイヤリティーを除いた取り分を大雑把に2000円とすると(今となっては高過ぎるか?)、目標売上は1億円。
制作原価は、パブリシティのみでプロモーション無しとしても、目標未達リスクとかを考えて、最大8000万円ぐらいで抑えたい所です。
■となると、ミドルウェア代がその4分の1にも相当するというのは、とんでもない話でしょう。
と言うか、採用したとしたら残りは6000万円、1人月を75万円(発注側から見た最近の下請け平均)とすると、工数は80人月です。
こうなると、規模的にDSか頑張ってPSP/PS2レベルなので、元々採用する事がありえない訳です。
下請け側がダンピングして1人月60万円だとしても、100人月なので、Wiiレベル留まりでしょうか。
(ミドルウェア代を誰が払うにしても、1ゲーム当たりの価格なので、問題は変わらない)
■その点自己開発なら、最初のキャッシュフローは苦しいですが、制作原価を複数のゲームに分割賦課できるので、
「1ゲーム当たりいくら」と言ってくる外部ミドルウェアよりは安上がりになるのでしょう。
海外のミドルウェアベンダーとしては、単一ゲームの複数ハードでのマルチ展開を想定しているのでしょうが、
日本でのHDコンソール市場はペイが困難で、PCゲーム市場に至ってはもはや死んで埋葬済ですから。


ローミングゲームの自由度
■「GTA」にしろ「OBLIVION」にしろ、自由度が高いと言っても、本当に何でもできる訳ではありません。
システム的に、他のタイプのゲームと同様に、プレイヤーが採れる行動はいくつかに限られています。
では、どこが違うのでしょうか。
それは、プレイヤーがアクションを働きかける事ができる対象物に関する、ゲームストーリーの都合や倫理的な問題で設けてきた制限を
できるだけ緩めた事でしょう(逆に言えば、メインクエストの物語性が薄くなる)。
例えば、メインキャラやエネミーに対して行えるアクションが、モブキャラに対しても実行できる等です。
(もっとも、これもまた完全ではなく、イベントキャラの抹殺等のクエストに矛盾が出る行為は禁止されています)
そして、その対象物がリアクションを返し、プレイヤーや他の対象物が更に反応するという連鎖反応が超多重化して、状況変化が爆発します。
限定的分岐の超多重化が質の変化を呼び、予測困難な決定論的無秩序(コンピューター数学的な意味でのカオス)状態を生み出す訳です。
これが、現在のローミングゲームの「自由度」の本質でしょう。
■これらのタイプのゲームは「箱庭ゲーム」とよく呼ばれますが、「箱庭」という名前のイメージとは逆に、
設計思想的には「発散型」と名付けても良いかもしれません。
環境に物体群(キャラクターを含む)を配置し、それぞれ個別存在の挙動(アクション&リアクション)を法則(計算式)で規定していくと、
どのような状況・場面が得られるのだろうかという、結果が発散するシミュレーター的発想です。
上に「制限を緩めた」と書きましたが、思想的には「全物体に平等にアクションできて当たり前、むしろ個別制限する方が余計な手間」なのです。
これに対し、今まで典型的なタイプのゲームは、制作者が予め状況・場面群を想定し、そこから逆算してゲームの各要素を配置・構成していく、
「収束型」とでも呼ぶべき設計思想になっています。
「発散型」は「要素→場面」、「収束型」は「場面→要素」と、ベクトルの方向が逆な訳ですね。
(追記:↑の「ローミングゲームのゲームデザイン思想」の項で「オブジェクト指向型」と「シーケンス指向型」と命名し直しました)
■「発散型」は、全ての局面をシナリオの場合分けとして把握する事が不可能に近いので、バグが発生し易いです。
と言うか、原理的に判断基準にすべき理想型の場面・状況を前もって想定していないので、どこまでをバグと見なすのかという問題もあります。
極論すれば、「プログラム的に起こった事は全て仕様」とも言い張れる危うさを持っているのです。
最低限バグと言えるのは、同一ゲーム内の法則同士・クエスト同士での矛盾で進行が止まる現象ぐらいでしょうか。
自由度を上げる為にメインクエストの物語性を薄くしていますが、これは矛盾の発生をできるだけ抑制する意味もあるかもしれません。
■また「発散型」は、これまた原理的に、場所依存・イベント依存で難易度の波を設定・管理する事が困難です。
多分、プレイヤーの現状から割り出す、時系列管理ぐらいしか手は無いのではないでしょうか。


制作コスト問題の肝:レベル
■「世界樹」と「お姉チャンバラX」をやっていて、共通に強く感じたのは、
やはり「制作コストの6〜7割はレベル(ステージ)絡み」なのではないかという事です。
今までも、デザイナーさんの作業量という意味でのデータ生成のコスト問題は指摘されてきました。
しかし、レベルに絡むコスト問題は、単にデザイナーさんの作業量を意味するだけではなく、
表示エンジン(自動生成も含む)やリアクションやイベントを組み込むプログラマーさんの技術力や工数コスト、
競技性を左右するレベルデザインを担当する企画者のノウハウや試行錯誤のコストも含む、
一段階上の総合的なコスト問題パッケージだと思うのです。
逆に言えば、「レベル絡みのコストの攻略がゲーム制作コスト(採算)問題の要諦」なのではないかという事です。
■原理的に一番良い方法は、広大なレベルデザインを必要とするタイプ(主人公が見知らぬ土地を冒険するとか)を避け、
極力定型化した背景(固定画面ならなお良し)内で集中的にプレイヤーのスキルを判定する競技性にする事でしょう。
つまり、競技性にレベルデザインが強く影響しないタイプのゲームにする訳です。
例えば、「カドゥケウス」とか「世界樹」は非常に上手くやっています。
(実を言うと、僕も「R」以降は、レベル冒険タイプの競技性は極力忌避してきました)
Power Smash」の人が、選手作成に凄いコストがかかったという講演をしていましたが、
あれがもしレベル冒険タイプのゲームだったら、今頃「龍参」や「戦ヴァル」なみの戦犯に挙げられていた事でしょう。
■とは言え、往年のDECOのように固定画面ゲームばかり作っている訳にも行かないのが辛い所です。
となると、やはり焦点は、レベル(マップ)やオブジェクト(物体)データの自動生成ですかね。
ただ、個別パーツを組み合わせた迷路(順路)の自動生成は「CODED ARMS」を見ても分かる通り、
情景のバリエーション感の増強にはあまり貢献しない(更にランダム生成だと学習効果も阻害する)ので、
個々のオブジェクト(物体)の色(模様)と形までも自動的に生成できるようにするのが重要なポイントになるでしょう。
まぁ、突き詰めれば、計算以前に用意する初期データをどこまで小さくできるかの問題です。
「FAR CRY2」がこの路線を目指しているそうなので、注目したい所です。
プログラム的には、極力、個別のイベントプログラムやスクリプトを減らして、共通エンジンで処理できるようにするべきなのでしょう。
また企画的にも、レベル(マップ)が自動生成となると、刺激の配置の波とかの演出計画が立て難くなりますが、
時系列で配置する等の工夫が可能かもしれません。
あるいは、根本的なゲームデザインの思想の問題になりますが、「制作者が計画した場面の流れをプレイヤーに提供する」という
思想背景から脱却して、「各オブジェクトが法則通りの挙動を行い反応しあう事をシミュレートする」に向かうべきなのかもしれません。
(物語性を薄めて物語メディア市場での競合を避けるという意味もありますが、「何を持って不具合とするか」のQAの問題も派生します)
更に、半分ボリューム問題とかぶりますが、MODを奨励して、レベルデザインの負担をユーザーに振るという策も考えられるでしょう。


題材選択上の障害:資金量
■「題材と市場の親和性」が優先されると言った場合、ターゲット層が題材を選好すると同時に、
題材がターゲット層を選ぶ面がある訳です。当たり前の話ですが。
ですが、選んだターゲット層によっては、アクセス(露出→認知)という
マーケティングのアウトプット面での困難さが、追加で発生します。
具体的に言えば、任天堂が狙い開拓している、無関心層(シニア層やファミリー層)です。
彼らは自らの労力やお金を使ってゲームについての情報探索をしようとはしません。
となると、パブリシティだけでなく、製作側から強度のプロモーションをかけなくてはなりません。
(ダウンロードによる体験版とかも、あまり有効ではない)
彼らが目にするように、地上波TVのプライムタイムのスポット広告や、新聞の1面広告等を積極的に打つのです。
そして困った事に、それには莫大な金がかかる訳です。
DDR末期の健康路線や、任天堂脱サラ組のXAVIXが上手くいかなくて、WiiFitが大成功したのはこの差です。
結局、いつも通り、「任天堂はずるい」の結論に至る訳です。(´∀`;)
■という事は、やはり他社は従来のユーザー層を狙うべきなのか…?
■本質的には好みに合いそうなんだけれども、ターゲット層がまだ知らない/気付いていない題材を紹介するというのが、
一番(゚д゚)ウマーなんですけどね。
まぁ、「モビルスーツの性能の差が〜」じゃないけれども、題材が全てを決めるという訳でもないので、
なじみのある題材で違和感(マイナスの感情移入)を避けつつ、設計で頑張るという逃げ道があると信じたい所です。
(物語性の薄い題材で感情移入市場での他のメディアとの競合を避けるという手もあるかも…。)


日本市場と「モンハン」
■「モンハン」がゲーム全盛期のような売れ方をしていますが、やはり「遅れてきたDiblo」という二つ名の示す通り、
「PCゲームの壊滅による通信協力ゲームの普及の遅れ」という日本のゲーム市場の歪みからできたエアポケットを
上手く突いた事が大きいのでしょう。
そして、この事は、ゲーム内容が日本のユーザーにとって新鮮だったという事を意味するだけではなく、
協力プレイを普及させる事で中古サイクルの壁を打破できる」という事を意味しているのではないかと思うのです。
同じ瞬間に複数のソフトの存在を必要とするゲーム構造は、時系列での分散(複数回)利用の意味を低下させるからです。
(勿論シングルプレイもできるようにしておかないと、怒られてしまいますが)。
やはり、ゲーマー層向けゲームの、現状の10万本と30万本の二段階の壁は、中古流通によるものではないかと思うのです。
■一方、任天堂は、中古を利用する事を思いつきもしない無関心層=情報弱者をターゲットにする事で、
この壁を破ったのであった。(´∀`;)
■あと、コマンド戦闘じゃなくても、日本市場で受け入れられる素地がある事が分かったのは大きいなぁ…。


日本市場でのオリジナルゲームの論点
○日本市場でのオリジナルメタファーゲームの問題を整理すると、価格と内容の二つに集約されると思います。
○第一の障害は価格競合の問題です。
 小説・マンガ・TV等の他メディアや、中古品・ネット上の無料ゲーム・携帯アプリ・同人ゲーム等との価格競合状態になっているという事です。
 試し買いをしにくいし、内容が分かっても軽い気持ちで購入できず、心理的ハードルが高いのです。
 (丁度同じぐらいの価格帯のアニメDVDの売り上げ枚数が、家庭用ゲームと似ているのが興味深い所です)
 しかし、かと言って、家庭用ゲームは労働集約産業なので、値段を下げるのはかなり難しい所です。
 流通のコストをカットするDL販売ぐらいが一筋の光明でしょうか。
○次に、この価格の問題を乗り越えたとしても、次に内容(データの質)の問題に突き当たります。
 シナリオにしろグラフィックにしろ音楽にしろ、あるいは実用データにしろ、ぶっちゃけた話、「ゲームメーカー内の スタッフだけという素人集団で、他メディアでの専業専門家に勝てるのか?」という問題です(まぁたまに、 専業としても通用するぐらいのスタッフも紛れている事もあるのですが、それはスキーム的な問題ではありませんし…)。
・この内容の問題については、原理的に二つの解決法が考えられます。
・一つ目はメタファーを思いっきり薄くして(記号性を高くする)、素人が作ろうが専業専門家が作ろうが、 結果がそんなに変わらないようにする事です。「テトリス」とか「グンペイ」とかの類です。
 これの難点は、あまりユーザーが高い購買価値を感じてくれないという事です。「購買価値=メタファー作成にかかる手間の対価」 という感覚になってしまっているからです。消費者の単位価格当たりの要求ボリュームも増大していますし。
 あと、著作権が発生しない可能性もあります。「テトリン裁判」でゲームの著作権の源泉はメタファー部分にあるとの 判例が出てしまいましたから。
・二つ目は、下部構造であるシステムの形状に密接に噛み合うが為に、メタファーが独特な形態に規定されるようにして、 他メディアから持って来られないようにする事です。
 結局、非常に逆説的ですが、「オリジナルメタファーに競争力を持たせるには、他メディアに無いゲームシステムの部分に注力するしかない」という事ですね。
 と言っても、概念的な解決法で具体例がありません。
 出力が視聴覚限定だと、どうしても表層に他メディア発のメタファーデータを上乗せできてしまいますからねぇ。
 味覚・嗅覚も他分野の専門家がいるから、狙い目は触覚あたりですかね…。
○な〜んて言ってますが、最近の売り上げランキング等を見ていると、もはや、版権とかオリジナルとか言ってるレベルじゃないですね…。
 かつてのA級で5万ぐらい、がんばった作品で2万本強、普通は1万いったら御の字ですか。これでは、委託側も利益出ていないんじゃ…。


ダウンロード販売の諸相
ここの所「アイマス」の話題が多かったですが、冷静に考えてみると、販売実数は「R」とどっこいどっこいなんですよね。
 葉鍵のエロゲー移植や月型作品や「ひぐらし」の方が、よっぽど売れているという有様。
・でも、日本でも追加アイテム販売の額が一億超えたというのは、大きい意味があると思います。
 追加有料アイテムというアイデアは業務用でも結構古くから有り、アメリカでは当たり前のフィーチャーでした。
 しかし、日本では「同じ100円でどこまで頑張れるかを競う」というのが基本の感覚でしたから、まったく根付きませんでした。 日本人は制限付きプレイとか好きですしね。だから、基本料金無料でアイテム課金で儲けようとするネットゲームは日本ではどうかと思っていたのですが、 「アイマス」のようにゲームの有利/不利とは無関係の欲求方向で攻めれば、成立するのかもしれませんね。(ちなみに韓国では、まともな業務用ゲーム市場が発達せず、国策でPCゲーム市場の方が先に発達してしまったので、 アイテム課金ネットRPGが簡単に成立してしまいました)

アメリカでオリジナルメタファーゲームがまだ頑張れるのは、感情移入型娯楽市場で競合相手がそんなにいないという事が 一因ではないかと下でも述べましたが、それに加えて、家庭用の中古市場が未発達というのも大きい気がします。
 その代わりに、消費者→小売→メーカーという返品権が強いのと、レンタルが合法ですが。
 しかし、レンタル店へは複数の新品が入荷される(他のレンタル店との品揃え競争)ので、 早めに遊んでみたいと考える人数に対して、実際に売れる新品数の減り具合は、中古品市場が発達した場合よりは遥かに緩和されると思われます。
 つまり「試し買い」消費がまだ有効だという事です。
・一方、日本では、中古論争が華やかし頃「中古屋に売ったお金で新品を買う」という主張がなされましたが、 今ではもう、話題になったら「ちょっと、中古屋に探しに行ってくる」がデフォルトになってしまいました。「中古屋に売ったお金で中古を買う」状態です。
 中古での回転数分、メーカーの売り上げがダイレクトに減っている訳ですから、これは何とかしないと激しくヤバイです。
 殆どのユーザーが「試し買い」のリスクを負おうとはせず、様子を見て評判が良ければ中古を買うというパターンでは、 ブランドの確立していないオリジナルゲームの立ち上げ販売数は、自ずから少ない物になってしまいます。
・流通コスト削減や小ボリュームゲームの価格への反映以外に、この意味でも、中古品の存在しないDL販売は大きな意義を持っていると思われます。

ゆえに「Wii ware」を初めとするのDL販売の展開は確かに喜ばしい事ではあるのですが、いつの間にか課金の問題は解決されたのでしょうか…?
 僕はWEBマネーなるものを使った事がないのですが、そんなに一般的な存在になったのでしょうか?

中小メーカーの独自のデータ・技術・ノウハウの蓄積
◇1
・まぁ、考えてみれば、ハード屋さんがロジックを組む傍らで、方眼紙を塗ってキャラデザしていた 最初期段階から、一直線でデータは高度化・専門化・分業化の道を辿ってきた訳です。
 落ち物パズルが発見されても、そんなに巻き戻りませんでしたし。
 結局、ユーザーの欲求のインフレによって、データの制作は、メーカーの内製では済まない、 もしくは内製したらコスト(リスク)が非常に高くなる段階まできたのですね。
・チュンソフトの転落は、結構象徴的だと思います。
 直接的な原因は創立記念ソフトが3本とも大コケした事でしょうけれども、 制作体質というかビジネス構造にも根本的な原因があった気がします。
 それは、サウンドノベルやシレンシリーズ等の企画のバランス感覚で売ってきたという事です。
 言い換えれば、商品力は高かった反面、チュンでしか作れないデータを内部に蓄積できなかった事です。
 また、技術面でもチュン独自の物を持てなかったという事もあるでしょうね。
◇2
・最近「ACE」のCMを良く見かけたフロムについては、ある程度の独自データの蓄積はできていたと思うのですが、  生存競争が厳しくなると、やはりさすがに、本家にはかなわなかったという事なんでしょうかね。
 でも、幸せな事に技術の方に一応独自と呼べるだけの蓄積があったので、本家を受託して生き残る事ができたのでしょう。
・一方、グラスホッパーの「キラー7系シェーディング」の使い回しは、見苦しい感じがします。
 あれは、純粋な「技術」ではなく作家性のための「味付け」なので、既に味わいのある他の題材に使うと 齟齬を起こすためでしょうかね、「BLOOD+」とか。
◇3
・しかし、単に独自のデータ蓄積やノウハウ・技術があれば良い訳ではなく、それが市場のニーズと合致していないと なかなか苦しいのが難しい所です。
・例えばARTDINKは、「A列車」「アクアノート」「カルネージハート」等の独自のデータや技術を蓄積していたのですが、 それが家庭用市場のメインニーズとズレていたため、倒れるとは行かないまでも、版権物の受託制作で凌ぎながら、 たまに「A列車」を出すという状況になってしまいました。
 システムソフトも「大戦略」系のデータ・技術・ノウハウが相対的に市場価値が下がったため、開発部隊を切り離して 別会社にせざるを得なくなり、ついには「萌え萌え〜」等の迷走をする事になりました。
・逆にファルコムは、エロゲーに支配されたPC市場でいつ倒れてもおかしくなかったのですが、何とか土俵際で粘り続け、 ドメイン領域がRPGなのでPSPに移植する事で息を吹き返す事ができました。

海外と日本の感情移入型データ市場の現状の論点
・欧米で、オリジナルゲームが感情移入市場でまだ頑張れるのは、競争相手が映画かTVぐらいしかない上に、 その役者関係の肖像権が大変で、版権物の機動的展開がしにくいためでしょうか。
 ラノベ・マンガ週刊誌・TVアニメ等が洪水のように氾濫している日本では、ビデオゲームは感情移入市場での 価格競争力を失ってしまいましたが、欧米ではまだその段階まで行っていませんですから。
 それに加えて、彼等のフォトリアル嗜好もありますし、ハードの進化と上手くマッチしている面もあるのかも。
・日本の最近の感情移入型データ市場では、第一発信源としての同人ゲームの存在が興味深いです。
と言っても今の段階で成功と呼べそうなのは「月姫」「ひぐらし」ぐらいですが(「東方シリーズ」はコア人気があっても 弾幕シューティングなので商業レベルまで展開させるのは、かなり難しそうです…)。
 流通量から言えば浸透力は商業ソフトの足元にも及ばない筈なのですが、定価が1000円強なので消費者側の 試し買いの抵抗感が低く、コアユーザー間での口コミ伝播力が強かったのかもしれません。
 そして、その初動にネタ切れ気味の他メディア業界が目を付けて、マルチメディア展開が上手くハマると、 商業的にも大きくなりうるという事でしょうか。
 もっとも、同人ゲームも商業基準での経費計算をすると殆どが赤字だそうですし、成功例のノベルゲームは個人の才能が占める 割合が大きいジャンルなので、制作スキームとして参考になるという話ではありませんが。

「ゲーム性」概念の再整理
・「ゲーム」がありふれた一般消費財になるにつれて、「ゲーム性」という用語の意味も拡散してしまったので再整理しましょう。
狭い意味での「ゲーム性」は、「どんなルール・システムで、人間のどんな能力を測定するか → 競技性(「勝つ」)」で、
広い意味での「ゲーム性」は、「どんな魅力で、ユーザーを楽しませるか(金を払わせるか) → 娯楽性(商品性)」になります。
つまり、狭義だと設計上のターム(論点・用語)であり、広義だと企画上のタームになります。

「心理戦」概念の再整理
・「ライアーゲーム」がドラマ化されて、「心理戦」がプチブームになっているみたいなので、概念を再整理。
・一般に「心理戦」と呼ばれる物は大きく分けて、以下の三類型になると思われます。
・一番目は、勝負のシステム自体が、完全情報下の純論理的な物であったり、正しい肉体コントロールを行えば望ましい結果が出る競技の場合に行われる物で、相手の感情を動揺させ、集中力を乱す事により、ミスを起こさせようとする戦いの事です。例えば、囲碁・将棋・チェス等の盤外での舌戦等がこれに当たります。「ミス誘発戦」と言った所でしょうか。ミスが無ければ正解や最善手を選択しうる勝負システムに使用されます。
・二番目は、勝負のシステム以前に、その前提となる心理「士気」に打撃を与える戦いです。戦争で敵側に降伏を勧めるビラを撒いたり、膠着状態や緊張状態を長く続けて相手を精神的に疲労させる、いわゆる「神経戦」とも呼ばれるものです。相手に物理的な打撃を与える戦い「物理戦」と対照させる意味での「心理戦」ですから、「非物理戦」とでも言った所でしょうか。「ミス誘発戦」と異なるのは、狙いが相手のミスを誘う事に限定されておらず、それをも含むもっと大きな支援戦略という事です。よって、正解や最善手が存在する勝負以外の場合にも使用できます。
・三番目は、勝負のシステム自体の中に一定の長さの論理連鎖はあるものの、不完全情報下であるため、論理的帰結としての結末までの最善手が一義的に存在し得ない状況で起こります。プレイヤーは複数の論理の鎖の中から一つを選択しなければならなく、相手の論理選択を、欺瞞情報や感情操作等を駆使して自分に有利になるように誘導する戦いの事です。「選択誘導戦」と言った所でしょうか。「ミス誘発戦」と異なるのは、その選択に正解や最善手が存在するとは限らなく、勝負のシステムの中に心理的な駆け引きが食い込んでいる事です。今、プチブームになっている「心理戦」は、この「選択誘導戦」です。
・「ミス誘発戦」「非物理戦」「選択誘導戦」は共に「心理に働きかけて勝利を得ようとする戦い」という性質を持っているため、どれも「心理戦」として呼べてしまいます。ですが、心理は常に人間の活動に伴う物なので、この内包的定義は緩過ぎ、外延の具体性に欠けてしまうのです。

市場経済はゲームデザインの敵
・「Second Life」の記事を見かける度に、「ビデオゲームの分野では、なんでこんなに技術の進歩が遅いんだろう!!
と嘆息してしまいます。
「仮想空間で不動産売買を中心に経済圏を構築し、RMTを通して現実の通貨を吸収する」なんていうコンセプトは
1980年代末期にはもう考え付いていましたよ。ハビタットとか既にあったし。
あれから18年ぐらいかかって、ようやく実現化ですか…。
まぁ、僕の場合は業務用の基板にHD載せてネットワークで結ぶ事を考えていたので、コストとか耐久性とかの経済上の障害が
山積みで実現できなかった訳ですが。
市場での競争は技術の進歩を呼ぶと一般には考えられていますが、ゲームデザインの領域においては商品性を上げるばかりで、
技術の進歩に対してはブレーキをかけている面が大きいのです。
やはり市場経済はゲームデザインの敵と言えるでしょう。
・結局、今も昔もゲームデザイン上の最大の障害は、購買価値なのですねぇ。
「何に対して、どれだけのお金を払っても良いのか」という感覚は、まったく個人の嗜好・価値観によってバラバラですから。
制作者はゲーム性を自律的に構築できますが、購買価値については全く他律的でコントロールできまでせん。
ゲーム性を作る(設計する)事自体は難易度的に容易ですが、それが売れるかどうかは確かではないという事です。
強いて推測するなら、ユーザー層を彼らが育った文化環境でグルーピングするしかないですかねぇ。
・ゲームの存在がありふれた物になって、ゲームシステムの購買価値が下がった現在では、
データの購買価値が相対的に上がっています。
「版権キャラクター」というデータの付加価値は以前から発見されていましたが、
最近は「実用性」というデータの付加価値まで出現してしまいました。世も末ですね。

心理戦とビデオゲームの相性
・「怪物王女」絡みでググったところ、「人狼BBS」という興味深いBBSゲームに突き当たりました。
 リンク先にも書いてありますが、欧米では良く知られたパーティーゲームが元で、カードゲームも出ていて、結構人気があるようです。
・でも、こういういわゆる「心理戦ゲーム」って、何故かビデオゲームには馴染まない感じがするんですよねー。
 快感バランス的に、短期サイクルの「見る」「いじる」「勝つ」が全く無く、「考える」だけが超肥大化してしまっているからですかね。
・あと、テクノロジーというか、コンピューターの演算の必然性が、駆け引き構造の中核に存在していないのも、原因の一つのような気がします。
 通常の「ビデオゲーム」の「心理戦」だと、コンピューター演算を介在した駆け引き構造に対して、プレイヤーがお互いにどのような入力をするかを
読み合う形になりますが、この手のゲームだとプレイヤー同士が相手の脳に言語で直接入力してしまうから、コンピューターの介在する余地の無い
ダイレクトな「心理戦」になってしまいます。ぶっちゃけた話、人数さえ集まれば、紙と鉛筆が有れば成立してしまう感じです。
 まぁ、もっとも、「人を集める」部分にはコンピューターというかネットの介在する必然性が有りますが。
・逆に言えば、人間の計算そのものが駆け引き構造の中核だから、よっぽどのAIが作れないと、COMキャラクターを作れず、ひいては1Pプレイができない
という事ですね。
・また、商品(購買価値)という観点で考えた場合、ゲーム性にコンピューター演算が介在していないと、ユーザーに高い金を払わせるのは困難でしょう。
僕でも「1800円ぐらいなら試し買いしてもいいかな」ぐらいの価格感覚です。3800〜4800円ぐらいを払わせるには、ゲームシステムの購買価値が相対的に
激減している現在、人手では計算が追いつかないデータ量か、既に感情移入済の版権メタファーをかぶせる等のデータの質の勝負をかけるしかないでしょう。
・思い起こしてみれば、結局、カードゲームをビデオゲーム化して商業的に成功したのは、ゲームシステムより先にまずキャラクターがあった遊戯王だけか…。
(ムシキングはカードゲームと言って良いのか、ちょっと分かりません…。先に筐体ありきだったし。)

版権物を長期に専門的にやるべきではない理由
・版権物のゲーム制作は、たまにやる分には良いですが、長期にそれ専門で行う事はお勧めできません。

・第一に外部的な各種のしがらみがあるからです。
 原作者の意向やTV放映スケジュール、版元の承認のレスポンスの遅さ等に頻繁に振り回され、オリジナルには無い不条理なストレスがかかります。
 原作者に「こっちだって好きで作ってるんじゃねーよ馬鹿」と、言いたくなる事、請け合いです。

・第二に、制作意欲の問題です。
 会社としては一つの権利を取ったら、それをしゃぶり尽くし、出涸らしを叩いて粉末にして飲むぐらいまでゲーム化しようとします。
 しかし、作っている現場にとっては3作ぐらいが限界で、それ以降はネタも尽きて惰性になって制作意欲は激減し、苦痛に転換します。

・第三に、制作スキルの問題です。
 続編を延々と作らされるのは、オリジナルのヒットシリーズの場合でも有り得ますが、版権物で困るのは「蓄積されるスキルやノウハウの普遍性が低い」という事です。
 なぜなら、やればやるほど、その原作に適応・特化した物になってしまうからです。
 これは版権物が、「こういうノウハウを蓄積しよう」という統一的な技術戦略が先にあってからゲーム性の設計があるのではなく、「この原作をメタファーとした時に最も馴染むゲーム性は何か?」という優先順位で設計されるためです。
 かと言って、違う版権物を次々と渡り歩くのは、今までのノウハウを捨てて0から始める事を意味し、それこそいつまでも浅いスキルしか体得できなくなってしまいます。
 「版権」物はゲームシステムのジャンルでは無いですから。
 また、プロデューサー以外は外部への露出・交流も無い(禁止される)ので、人脈や技術交流もできません。
 つまり言い換えれば、現場スタッフの労働市場での市場価値を削って、それを収益に転換しているようなものです。

・第四に、評価の問題です。
 オリジナル制作部隊の同じ立場・業務内容の人間と比べて、社内でも社外でも低く評価されるという事です。
 たとえヒットしたしても、評価されるのは権利を取ってきたプロデューサーだけです。
 特に性質(たち)と始末が悪いのが社外の社会的評価で、制作のトップがそういう事が無い様に気を配っても、社外評価が社内の制作以外の部門にフィードバックされて、オリジナル部隊と境遇や待遇に、社内外で格差ができる事がままあります。
 これは決定的に制作現場のモチベーションを削いでしまいます。
 「版権の力を借りているから〜」という人もいますが、良く考えれば、スポーツゲームにしろ車ゲームにしろホトンドのゲームは、何らかの外部メタファーの力を借りているのですから、本質的な違いは無いのです。
 それに、そもそも自ら版権部隊への配属を望んだ人間以外は自己責任ではないし、高品質の物を作ってヒットさせても評価されないのなら、頑張る意味がありません。あるとしたら、職人としての自己満足ぐらいですかね。

 よく講話で用いられる話に「自分の意に沿わない作業であっても一生懸命やれば誰かがきっと見ていて、引き上げてくれる。」という阪急グループ創設者の小林一三の言葉がありますが、これは正しくありません。
 むしろ、一生懸命やって成功すると、更に同種の仕事が振られて、望まないキャリアがますます積み上がるという、負のスパイラルに陥るのです。
 結局、「会社の命令であっても、望まない仕事は一生懸命やるべきではない」のです。
 まぁ、良く考えてみれば当たり前の話で、「全ての会社に小林一三がいるなら、全ての会社が阪急グループ並みになってるよ!」という事です。

・という訳で、版権物制作で望ましいのは、以下の条件全てが満たされた場合のみでしょう。
 1.ゲーム制作担当者がその作品が好きで、どこに魅力があるのかを理解している。
 2.ゲーム制作担当者は本人が続行を望んだ場合を除き1〜2作程度で交替する。
 3.オリジナルで既に確立したノウハウを転用するプロジェクトである。
 4.原作者がゲームはゲームで原作とは別の作品としてゲーム制作者をリスペクトする。
 5.社内外でオリジナルと差別無く対等・同様に評価される。

「ブルードラゴン」のコケた要因
 「何かTVCMをたくさん打っているし、ジャンプでマンガ化して更にアニメ化して、
ついにはカードゲームを出すなんて、考え得る全ての手を尽くしているな〜。
これで、どれぐらい出るんだろう…?」と思っていたら、初動7万本(出荷ベースだと
10万本ぐらい?)ですか…。

 まぁ、ハードの普及数を考えれば装着率は良い方ですし、坂口もインタビュー等で
「10万本売れればOK」とか予防線張っていたそうで、実際、受託制作する側にとっては、
そう大したダメージでは無いのかもしれません。
 ゼルダですら14万本という市場環境ですから、「コケたどころか健闘している」と言いたくなる人が
いるのも理解できます。

 でもやはり、「ハードを爆発的に引っ張るキラーソフト」という一番最初の目論見の
観点から言えば、コケたと評価せざるを得ないでしょう。
 MS的には、あれだけリソースを投入したのなら、50万本ぐらいがペイラインだと思われます。
(今MSが言っている20万本は、対外的に現実的な数字を出さざるを得ないから出しているだけでしょう)

 で、そのコケた主な要因は3つあると思います。

  1つ目はメディア展開の順番。
 マンガ・アニメ・カード・ゲームの多重展開を、米軍になぞらえて僕は個人的に「エアランドバトル」戦術と
呼んでいるのですが、「ブルドラ」はその展開の順番を間違えています。
 まず、マンガ・アニメというミサイル攻撃・空爆で心理的障害物を徹底的に粉砕してから、
ゲームと言う機甲戦力で打撃を与えて、単価の安いカードという歩兵で占領していくのがセオリーです。
 「ブルドラ」はいきなり戦車で突っ込んだら反撃されたようなもので、その後に空爆しては効果は半減です。
誤爆で同士討ちをする危険性もありますしね(笑)。
 もっとも、このセオリーを突き詰めると、「ヒットしたマンガの版権物を作ってろ」という
ゲーム制作者にとってはイヤ〜な結論に到達してしまうので、あえて無視したのかもしれません。

  2つ目はブランド力の所在の勘違い。
 ぶっちゃけて言えば、「FF」のブランド力は、「FF」や「スクウェア」という名前にこそあるのであって、
「坂口」にあるのではないという事です。
 ちょっと前の広井王子やREDの勘違いと同じですね。サクラ大戦は「サクラ大戦」や藤島キャラにこそ
ブランド力の根源があるのに、勘違いしたプロデューサー達が広井王子やREDにゲームを作らせて、
コケまくった訳です。僕もトバッチリを受けました…嫌な思い出です(笑)。
 あと、「鳥山明」のブランド力も、もう磨り減ってしまっているような気がします。

  3つ目は旧態依然としたゲームイメージ。
 「いまだにこんなタイプのゲームをやる奴がいるのかよ?」という奴です。
CMを見かける度に、僕は画面に突っ込んでいました。
 もちろん過去のゲームを知らない子供は継続的に出現する訳ですし、ゲーム性そのものの出来は良いらしいので、
それで全くダメなゲームという訳ではないのです。少なくとも買って遊んだ奴が7万人発生したのですし。
 しかし、ハードを爆発的に引っ張るキラーソフトには、それだけでは足らないのです。
 全体的なゲームイメージとして、「他のゲーム機ではそれに近い娯楽性は存在しない」とユーザーに確信させるだけの、
画期的な新しさの提示が必要なのです。
 「RPGファンは期待していて下さい」なんて従来の枠組みで語っているようでは無理なのです。
少なくとも「RPGではない、FREEだ!」ぐらいのハッタリが欲しい所です(笑)。

 それでは、これから挽回できるのか?

 革新性に欠けているので、口コミのジワ売れというのは、あまり期待できそうにありません。
 ここで残された手は「サモンナイト作戦」しか無いでしょう。
 すなわち「本当はヒットしていないのに、ヒットしたと言い張って、続編を作り続けると、
周囲も不思議とその気になって、本当に売れちゃう」という作戦です(いや、サモンナイトは
2ぐらいで黒星キャラの存在に女性ファンが気付いたという要因もあるのですけれども)。
 多重メディア展開も、一作目には効果が薄くても、二作目以降には効果もあるでしょうしね。

任天堂の戦略についての再考
 Wiiも発売されたので、任天堂の路線について再度もう少し細かく考察してみます。

 彼らの問題意識は「操作に関するスキル格差が、新規客層獲得を阻んでいるので、
ゲーム市場が沈滞化した。よって、この操作のインタフェースを改善さえすれば
ゲーム市場は復活するであろう」
という感じでしょうか。

 一方、僕の考えは「ゲーム市場が沈滞化したのは、ビデオゲームという遊び自体が
コモディティ(通常消費材)化したからで、ゲーム市場を復活させるには、娯楽商品として
常に全体的にリフレッシュ(鮮度再生)し続け、飽きられるのを防ぐしかない」
です。

 では、具体的にはどうしたら良いのか? 

 この課題について、「メディア性」「インタラクティブ性」「競技性」の三分法で検討してみたいと思います。
(「ゲームデザイン入門」では三番目を「社会性」と呼んでいますが、語義的にイメージが薄く拡散しがちなので、
最近は「競技性」にしています。)

 「メディア性」
 この側面からのリフレッシュには、二つの方向からのアプローチが可能と考えられます。
 一つ目は、情報を伝える形式の品質改良という考え方です。
つまり、解像度とか発色数とか、CG演算能力とか、いわゆる「高性能化路線」です。
これはハードウェア進化のロードマップに乗れば良いので、価格の問題を除けば、
実施して行く事は容易です。というか、せざるを得ない既定路線とも言えます。
 しかしながら、受け手側の知覚能力にも限界があるので、この路線によるリフレッシュも、
そろそろ頭打ちになってきています。過去と同程度の画像の品質の向上・進化があったとしても、
それによって受け手が感じる価値の向上量は年々減少する、「限界効用の逓減」状態になっている訳です。
 二つ目は、伝達情報そのもののリフレッシュという考え方です。
ゲームがプレイヤーに出力する際に「インタラクティブ性」「競技性」の上に被せる「文化的メタファー」、
すなわち「ゲームはもはやメディアではない」の項で述べた「メタコンテンツ」を、
とっかえひっかえ更新して消費者を飽きさせないという事です。ぶっちゃけて言えば、
「同一ゲーム性で世界観やキャラクターや物語を乗せ換えていく」という手法です。
 これは「ゲームはもはや〜」の項で述べた通り、ゲームの心理的価格が高くなり、
生産者も消費者もリスクを犯せなくなった現在、出版等の単価の安い上流メディアを押さえている
企業グループのみが使える手です。
 また、完全に他メディア依存なので、これだけではビデオゲーム全体としては
ジリジリと縮小均衡に向かってしまうでしょう。

 「インタラクティブ性」
 任天堂が今攻めているこの方向性ですが、僕は最近、体感ゲームの出始めの頃の
業務用市場を思い出してしまいます。あの時も、テーブル筐体のゲーム性が煮詰まっていて、
沈滞状況を打破すべく、体感ゲームが登場しました。また、大型筐体だけではなく、
テーブル筐体でもトラックボールや人形コンパネ等の変態コンパネが花盛りでした。
 この「いじる」部分のリフレッシュ策ですが、操作入力に対するスキルも仕切り直されるので
(「競技性」の小規模なリセット)、ある程度の期間は鮮度が保てると考えられます。
 しかしながら、こうして業務用と比較してみると、家庭用ならではの限界点も見えてきます。
 それは、家庭用は入出力方法が長期間固定されてしまうという事です。
ハード的な「インタラクティブ性」のリフレッシュは、買い替えを意味してしまい、
飽きないように短い間隔で定期的行うのは、ユーザーの経済的に無理があるのです。
 例えば、入力に関して言えば、新しいコントローラーを次々と買わせる訳にはいきません。
せいぜい特定のソフトに同梱で1〜2回買わせるのが限界でしょう。
 また、出力は20年前と変わらずモニター等による音と映像だけです。
ちなみに、僕がEYE-TOYや剣神DQも余り高く評価できなかったのはこの出力の点で、
そろそろ新しいフィードバック方法が開発されてしかるべきでしょう。
今まで「コントローラの振動」まではありましたが、例えば、釣りゲームで魚の引きや重さが、
コントローラでの釣り上げ動作に対する抵抗力で表現されるぐらいの進化は欲しいものです。
Wiiのコントローラには、何か出力上の工夫がなされているのでしょうか?
 なお、ソフト的な「インタラクティブ性」のリフレッシュというのもある事はありますが
(仮想空間内の存在を、今までに無く新しく&気持ち良く操作させるプログラム)、
これは以下に続く「競技性」のリフレッシュにかなり近い物であり、思いつくのがかなり困難です。

 「競技性」
 この側面は、要は「画期的なゲームの切り口・ルール・システムを思いつけ!」という事です。
上記の体感ゲーム黎明期の例で言えば、あの時は体感ゲームだけではなく、「テトリス」が現れて
沈滞状況を打開したのが挙げられます。
 この「競技性」のリフレッシュの利点は、他の二側面と異なり、短い間隔で定期的に行う事が、
よっぽどの事が無い限り、ハードウェアの更新無しで可能だという事です。
これによって、ユーザーにとってはソフト以外の余計な出費が不要になりますし、作り手にとっても
その新しい「競技性」を展開・拡大していく過程での利益率が大きくなります。
 しかし難点は、なかなか思いつかないという事です。定期的に「テトリス」級の発明をしろと
言われても、電波はそうそう受信できる物ではありません。「メディア性」や「インタラクティブ性」の
定期的刷新は、企業戦略としてロードマップ通り進められますが、「競技性」の定期的刷新は
目標として掲げたとしても実現性が格段に不確実なのです。

 さて上記を踏まえ、各プラットホームホルダーの戦略を考えてみます。
 X360とPS3の戦略は「メディア性」の定期的なリフレッシュを踏まえた上で、「競技性」のリフレッシュは
ネット絡みで模索中という感じです。また、ハードの高性能化の一環として、計算能力の向上で
今までやれなかった新しい「競技性」の実現という路線も考えられなくもないのですが、
まだ姿は見えてきません(ウィル・ライトのアレはその後どうなったのでしょうか…?)。
 やはり何らかの形で「競技性」のリフレッシュが行われないと、ジリ貧になって行くと思います。

 一方、Wiiにおいては、まず入力面での「インタラクティブ性」のリフレッシュが行われました。
付随して、新しいコントローラをどれだけ使いこなせるかという「競技性」の小規模なリセットも
発生したので、最初の内は興味を引いていられると思います(何ヶ月ぐらい保つかは分かりませんが)。
 しかし、「インタラクティブ性」の更新の鮮度が落ち、新コントローラに対する個々人の操作スキルが固定され、
既存のゲームの「競技性」が一通り新コントローラに置き換えられた辺りで、分水嶺が来ると思います。
 冒頭に上げた、任天堂の考え方が正しければ、ここで新たな「競技性」のゲームが出現しなくても、
ゲーム市場は安泰で大丈夫という事になります。
 しかし、僕の考えが正しければ、「インタラクティブ性」の刷新の効果が沈静化した時点で、
「メディア性」の刷新すら無いWiiは、「競技性」の刷新が無いと、非常にヤバい状態に陥ります。
逆に、新たな「競技性」が出現すれば、そのバリエーション展開等でしばらくは大丈夫でしょう。

 そこで、僕が言いたいのは「インタフェースの刷新は、行為そのものとしては正しいのだけれども、
その目的を操作スキル格差の解消と考えるのは考えが浅く、その真の価値は、インターフェースの都合で
今まで実現できなかった「競技性」を新たに導入する事が可能になる
事にある」という事です。
 つまり、新たな「競技性」を考えるという困難な作業のとっかかりとして、インタフェースの刷新を
利用すれば良いという事です。

 この事のDSに於ける事例が「脳トレ」なのです。
あれはペン入力そのものの楽しさが受けた訳ではなく、ペン入力によって可能になった
新しい切り口の「競技性」が受けてヒットしたのです。
そうでなければ、もっと他のDSソフトも大ヒットして良い筈です。

ゲームはもはやコンテンツではない
 インパクト重視でタイトルを付けてみましたが、正確に言えば「ビデオゲームの核である『ゲーム性(競技性)』には、もはやコンテンツとしての商品価値は無い」という事です。いや、昔から繰り返して言ってきた事と同じですね。
 では、なんでまた繰り返して述べようと思ったかというと、DSの「お料理ナビ」のCMが繰り返し流されているのを見て、「ついにここまで来てしまったか!」と改めてショックというか感慨を受けたからです。DS「脳トレ」やPSP「地図」である程度の予感はあったのですが、ああストレートに来ますとね…。

 ざるの会を前から見ている人には耳タコ状態でしょうが、ビデオゲームは「見る:メディア性」「いじる:インタラクティブ性」「勝つ:競技性」の3要素で構成されています(「考える:思考反芻性」は派生的存在なので、ここでは置いておきます)。
 そしてこの中の「競技性」は、皆がビデオゲームの存在に慣れるにつれてマンネリ化した事、あるいは受け手の能力を評価・判定・選別して脱落者を生むという本質によって、そのコンテンツとしての商品価値を失っていった訳です。
 この結果どうなるかというと、ゲームのトレンドは「競技性」を薄めたり、完全に取り払う方向に向かうようになります。薄い「競技性」を「実用性」で埋めた「脳トレ」とか、「競技性」を完全に取り払って残りの二要素だけにした「お料理ナビ」のような「インタラクティブメディア」が、ラインアップに並ぶようになるのです。
 また、ゲームのメディア(容器)化の側面も強くなる訳ですから、キャラクターとか物語とか世界観などの、コンテンツの中のコンテンツ「メタコンテンツ」を乗せ換えて行こうという路線も増えます。

 そこで、ゲームメーカーとしては、このような現状にどう対処するべきかには、三つ方向性が考えられます。

 一つ目は、「競技性」を仕切り直してマンネリ状態を脱し、ゲーム性のコンテンツ的価値を復活させようという方向性です。
 当座では「脳トレ」や「お料理ナビ」等を出しつつも、任天堂が長期戦略的にはこの方向を向いていると言えるでしょう。
 ただ、任天堂は危機感は抱いているものの、この問題を「インターフェースの問題」に矮小化しているのが気になります。彼らが本気で問題の本質に気付いていないのかは確証は持てませんが、「競技性」をマンネリ化しないように刷新し続けるのは、「毎月、新スポーツを考案し普及させる」ぐらいの困難な命題なので、考え易いインターフェースの問題に焦点を絞ってわざと矮小化させ、問題に取り組んでいるのかもしれません(僕はWiiは玩具として一定数は売れるけれども、PS3と共倒れで国民的ゲーム機にはなれないで失敗するような気がしています)。

 二つ目は、「少なくともこれ以上飽きられる事は無い」という評価が既に確立している「競技性」、すなわち既存のスポーツのシミュレータを作る事です。ただ、シミュレートする対象は同一な訳ですから、他社と差別化して勝つためには、いかにプレイヤーの感情移入の対象である人気選手・人気チームの版権を取得して登場させるかの競争になりがちです。この競争は、以下の三つ目の方向と似た性格を持ちます。

 三つ目の方向性は、「競技性」の更新は置いといて、「メタコンテンツ」によるヒットを狙う方向です。まぁ、俗に言う「メディアミックス戦略」ですね。
 ここで問題なのは、ビデオゲームが「メタコンテンツ」の源泉(発信源)となるのはかなり難しいという事です。ビデオゲームは高額商品ですから認知普及力が弱いですし、また製作に人数と費用がかかるため、沢山の「メタコンテンツ」を作って市場の反応を見るという事ができません。だから、他のメディアで発生・成功した「メタコンテンツ」を受け取る下流製品の位置にならざるを得ないのが大多数です。
 逆に、「メタコンテンツ」の源泉になり易いのは、製作が一人や少人数で可能で、受け手がかなり安価に沢山の種類を受容し選択する事が可能なメディア、小説やマンガです。ここが上流で、これを押さえているのは出版社です。
 しかし、商業的には上流を押さえているだけではまだ不十分で、中流であるTVアニメ化が重要になります。無料かつ全国区であるTVアニメになるかどうかで、認知浸透力が桁違いに変わり、商売の桁もジャンプアップします。
 よって、理想は上流・中流・下流の垂直統合を目指すべきなのですが、業界を見渡した所、全てに強い(押さえている)所は見当たりませんね。棲み分け意識が強いのか、角川は下流が弱く、セガやバンナムやマーベラスは中流・下流は強いものの上流セクションがありません。スクエニは珍しく上流セクションを持っていますが、中流への展開力及び下流への戦略的連携が弱いです。「ハガレン」以降なかなか戦略的展開ができないようです。
 この垂直統合を最初に果たした所が、今後の日本ゲーム市場に於いて絶対的な強さを持つを思われます。


※余談1:「メタコンテンツ」の隠れ源泉として、アドベンチャーというかノベルゲームタイプのエロゲーとか同人ゲームとかの存在も考えられます。ニッチですが。これは共通のゲームシステムプログラムがゲームとは別に流通したおかげで、参入するのにノベルを書くだけに近い状態になったためでしょう。
※余談2:欧米市場は、「メタコンテンツ」の上流・中流が映画である事が多いのが問題です。このためEAが巨大化してしまいました。

「枯れた技術の水平思考」の限界
・DSやレボの仕様(特に入力インターフェース)の「枯れた技術の水平思考」的な工夫に関して、
短期的には好感を持っているのですが、任天堂、ひいてはゲーム業界の閉塞状況に対しての対策としては、
やはり単なる小手先の工夫に過ぎないと考えています。

・そもそも、問題の本質は、ビデオゲームという「遊びの構造」全体が
コモディティ(一般消費財)化している事にあります。
これだけの年月が経ち、若者達にとっても物心ついた時から存在すれば、
もう在って当然の存在で、この「遊びの構造」から希少性は完全に無くなりました。

・この状況下に於いて、任天堂は危機意識自体は持っているように見られますが、
まだその捉え方の枠組みが小さ過ぎるように、僕は感じます。
それは、社長等のプレゼンテーションやインタビュー記事を見る限り、
彼らが「問題は入力インターフェースだ」と認識しているように見受けられ、
そして、そのために、DSやレボの仕様の工夫の主眼が、「構造」の一部に過ぎない、
入力インターフェースの工夫の仕切り直しに留まってしまっているからです。
(もちろん、他の工夫も盛り込まれていますが、それらはあくまで余禄の位置にいます。)
そして、これは、かつてよく見られた「シューティングが滅んだのは高難易度のせい」
という主張と非常によく似た枠組みです。
確かにそこにも問題点はありますが、それを包含する構造全体が問題の本質なのであり、
その部分を問題の全体像として捉えるのは「問題の卑小化」です。
そこは、確かに木ではないけれども、まだ林であり、いまだ森全体を見ていないのです。
今必要なのは、ビデオゲームという「遊びの構造」全体の根本的な見直しなのです。
そして、それには「枯れた技術の水平思考」(だけで)は限界があります。

・もっとも、この閉塞状況は市場の消滅を意味するのではなく、ある程度の縮小の後、
映画市場のように一定の範囲内で市場規模が拡大したり縮小したりする状態に移行するものと思われます。
株で言えば、一定の高値と底値の間を波状に往復する、ボックス型の市場変動です。
そこに於いては、大作だけでなく、低予算の隙間作品、それこそ「枯れた技術の水平思考」で作った
小粋なハードやソフト群が、スマッシュヒットを複数回出して、市場を盛り上げる事も可能でしょう。
しかし、あくまでそれは、ロングタームの観点ではボックス内の波に過ぎないのです。
「枯れた技術の水平思考」でハードやソフトの工夫をしても、ボックスの枠を上方に突き抜けるのは、
かなり難しい(力不足)と考えられます。

・何故なら、「枯れた技術の水平思考」は「点(商品)」の開発手法だからです。
穿った言い方をすれば、ビデオゲーム出現前の玩具開発的な発想法です。
元々「枯れた技術の水平思考」は「枯れ」ている訳ですから、その突破口から戦果を応用拡大していく
後続の流れ(展開)を想定していません。単発か、良くて数発の後続で途切れてしまいます。
一方、このボックス(閉塞)状況を突破するには、玩具(あるいは遊び全体)にビデオゲームが出現したぐらいの、
情報流通の在り方にインターネットが出現したぐらいの、先端部がブレイクスルーした後に、
成果の応用が拡大していく「流れとしての革新」が必要なのです。
(希少性を取り戻し、新しい奔流を作る……それはもう既にビデオゲームではない別物なのかもしれませんが。)
つまり「枯れた技術の水平思考」は戦術のための手法であって、戦略の手法ではないのです。
玩具の時代や、あるいはビデオゲームが成長中の時は、「枯れた技術の水平思考」も有効でしたが、
今となっては、それだけでは天井のブレイクスルーは極めて困難だと思われます。

・ではどうすれば良いのでしょうか?
僕は、「成長中の技術潮流での水平思考」だと考えます。
ここで言う「成長中の技術潮流」とは、「萌芽」では早過ぎるが、
軍用や純粋技術としてはこなれ、民生に於いても業務用から個人用への転換が見え始めており、
しかし完全に「枯れて」いる訳でもなく、更なる垂直的な進化発展の余地と、
水平思考による用途拡大の可能性と普遍性が広がっている、単体ではなく流れとしての技術です。
加えて、この「技術」概念には、単にハードウェア技術だけでなく、ソフトウェア技術も含まれるし、
もっと上位でコンセプチュアルな「遊びの技術」(人間にとっての新しい「快感」の発見・発明)も含まれます。
コアの部分にはこれを据えるべきなのです。
そして、その周辺部を「枯れた技術」で固める事で、商品として実現(コストダウン)するのです。

・何か、都合の良い条件ばかり並べているようですが、
よく考えて見れば、「枯れた技術の水平思考」の代表例として採り上げられがちな、
ファミコンもゲームボーイも、これの実例です。
コア技術は、ハード的には「マイクロコンピュータ(プロセッサ)」、
ソフト的には「ビデオゲーム」という当時としての「成長中の技術潮流」であり、
モノクロ液晶等の「枯れた技術」は商品として実現(コストダウン)するための「手段」として
脇を固める存在なのです。
(ちなみに、ゲームを持ち運ぶというゲームボーイのコンセプトの発生そのものは、
「使用状況の転換」という極めてマーケティング的に「垂直」な発想と言えます)
またゲームではありませんが、ipodも、大容量&小型化HD(FlashMemory)と、音声映像圧縮技術、
ネットによるDL販売システム等を、コアの「成長中の技術潮流」とみなせば、
新市場を作り出す爆発的商品発生の共通条件を含んでいると考える事ができるかもしれません。

・最初に述べたように残念ながら「ビデオゲーム」は構造全体として、
完全に「枯れた」遊びの技術になってしまいました。
ゆえに、任天堂は、入力インターフェースの変更によるユーザーのエントリー障壁の
仕切り直しばかりを気にしていないで、遊びの構造全体を再考するべきでしょう。
そしてそれには、松下電機が脱松下幸之助イズムの中村改革で息を吹き返したように、
岩田集団指導体制による脱山内体制だけでなく、脱横井イズムも必要なのではないかと考えます。

次世代機と企画屋と「データ勝負状況」
・任天堂は内部仕様の詳細説明がありませんでしたが、
一応、コンソール次世代機の発表は揃った訳ですね。
・XBOX360とPS3については、「A4上質紙の面積が大きくなって模造紙になった」
というような感じがするばかりで、やるせない感慨を抱きます。
画面上に表現(実現)したいテーマ(志)がまず最初にある「内発表現型企画屋」であれば、
A4では面積的に描ききれなかった事が可能になり、理想状態に近づけてハッピーなのでしょうが、
僕のような(多分業界でも多数派だと思う…)「ソリューション(解決法)提示型企画屋」は、
白紙を前に途方に暮れるばかりです。考えるとっかかりが無い。
そもそも、「解決」は「問題の存在」が前提ですから、
ハード設計に問題や歪みが有った方が考え易いのです。
「問題」や「歪み」をアイデアでクリアして平らにする事に才能を発揮する訳です。
だから、バランス良く表現能力と計算能力が上がって「何でもできる」と、逆に「何もできない」のです。
かと言って、携帯電話アプリほど操作系に問題があるのは頂けないので、
程々にハード資源配分に偏りのあるDSぐらいがちょうど良いのかもしれません。
・もう一つ次世代機で危惧するのは、計算(表現)能力が上がって、
消費者の『データに対して対価を払っている』という感覚が
ますます助長されるのではないかという事です。
現状でも、企画者がスマートでイカしたシステムを考えても、
消費者はデータの価値が薄いと高い対価を払いたがりません。
例えば、シンプルシリーズもこの感覚を前提に成り立っています。
DSソフトの新機軸ラインも、この感覚に基づいた価格設定であり、
例外である「エレプラ」の価格が非難される訳です。
(「犬」はデータに価格力・説得力があるのでOK)
・また、現在のゲーム市場での最大の論点である「買う気にさせる動機付け」の点に於いても、
ビデオゲームの存在が当たり前になってしまった現状では、
「データ」が「システム」より圧倒的に心理的シェアを占めるようになっています。
(本質的には、消費者は「楽しめる時間=システム×データ」を意識しているのですが、
システムの変化では差が出にくくなっているため、データ勝負になってしまっているのです)
・データ勝負になると、労働集約が可能な大手が俄然有利で、
中小や個人では対抗できません(大手にとってもデータ偏重は利益率が下がるので、
あまり嬉しい状況ではないのですが…)。
また、企画屋は本来システム設計が自らの土俵であり、
自分ではデータを作らないので(作る人も一部にはいますが)、
如何に有力なデータ屋を連れてくるかという、
代理店系の人間が跋扈する、唾棄すべきプロデュース(人脈)勝負になります。
まさに、自分の脳だけが武器の個人企画屋には多重苦状況なのです。
・このような「データ勝負状況」を憂いたウィル・ライト御大は
「プロシージャルなデータ生成」という方向性を提示した訳ですが、
しかし、それはその計算式自体が希少で価値のあるデータな訳で
「それをどこから持ってくるのか?」の問題が解消されておらず、
救いにはなる確率は低そうです。
あとは、「要素の順列組合せによるカスマイズ」等の、
消費者自身にデータを生成させる道でしょうか。
MODという方法論はこの道の先にある存在なのかも知れません。

第三勢力「効用主義者」
・↓で「効用」という言葉を使ったので思い出しました。
「資本主義者」「物神主義者」(<説明は3項目下)の他に、
第三勢力として「効用主義者」という人達がいました。
「物神主義者」がさらに先に進んで達観したような、
「受け手が喜ぶ事自体が目的で(自らの喜びとする)、受け手が喜びさえすれば、
その生産物の内容自体には余りこだわらない」という考え方をする人達です。
小売業とかサービス業とかならこういう人達は最適なんでしょうけれど、
メーカーの開発(制作)部署にいる場合は、「物神主義者」にとって、
「そこまで悟りを開いているなら、こんな所にいないで、
宗教家にでもAV監督にでもなれよ! ヴォケ!!」
と罵倒したくなる存在になります。

ゲームに於ける「持続時間(賞味期間)」のウェイト
・作り手の感覚だと、価格は絶対的な「コスト+利潤」ですが、
買い手の感覚だと「効用」の相対的価値(相場)になります。
相対性については「比較対象がゲーム同士から一般的娯楽に
拡大している」と以前から述べてきたのでここでは割愛します。
・さて、この「効用」は、ゲームだと「どれだけ楽しめるか」すなわち、
「単位時間当たりの快感強度×持続時間(賞味期間)」になる訳ですが、
最近、「快感強度」より「持続時間(賞味期間)」のウェイトが極度に
上がっているような気がします。
・まず、受け手(ユーザー)の観点から言うと、
特に、子供層が「持続時間(賞味期間)」をかなり気にしているのが、
アンケート葉書等に現れていました。
まぁ、子供は、大人と比べてお金の価値が相対的に高いから
というのもあるとは思います。
しかし、比較的年齢の高いマニア層も「持続時間(賞味期間)」を、
最近は気にし始めている感触があるのです。
これは、不況で大人も財布の中身が厳しくなったのもありますし、
ゲームのネタが成熟(マンネリ)化して「快感強度」のバラツキが
なくなってきたためでもあるのではないかと考えています。
もっとも、「快感強度」は受け手の育ってきた環境等の主観的要素も
多大に影響するので、「持続時間(賞味期間)」の問題が話題として上り易い
という事もあるのかもしれません。
・さて次に、作り手側の観点です。
この「効用」が価格、ひいては「コスト+利潤」を上回っていれば、
その差が購買行動を引き起こし、利益が発生する訳です。
しかし、これが逆転すると消費者の不満が続出します。
特に「快感強度」は主観的影響を多大に受けるので容易に下がります。
しかし、一方、価格の方は絶対的な「コスト+利潤」をベースとしているので、
そうは簡単に動きません。特にゲームは労働集約的な製品なので、
なかなかコストダウンできません。しかも、データやシステム(アルゴリズム)の
使い回しをしようものなら、「手抜き」として非難されます。
他のゲームと比較されて「もっとも新規に作りこめ」と言われても、
「その売り上げだとコレが限界なんだよ、ボケ!!」と文句を言いたくなります。
そこで、比較的コストを上げずに「効用」を向上させる手段として、
作り手側もたどり着いた結論が「持続時間(賞味期間)」、
すなわち「やり込み要素」なのではないでしょうか。
「快感強度」を上げるのは、システムやデータの新規制作が必要になりますが、
これは、通常、かなりのコストがかかります。
しかし、新規データをそれほど制作せずに、既存データの順列組合せで
プロシージャルにゲーム展開のバリエーションを増やせば(ゲームシステムで
攻略経路を多重化すれば)、比較的コストを上げずに、
総量としての「効用」を増やす事ができます。
・これら、受け手と作り手の両者の都合が合致して、現在、
ゲームにおける「持続時間(賞味期間)」のウェイトが
高まっているのではないかと思います。

シーズ(種)とニーズ
・↓と書いた途端に、典型的な「物神主義」会社のチュンソフトが
救済吸収されますか…。
まぁ、直前の20周年作品群はあさって方向の神様を拝んでいた
みたいですが…。
・「物神主義」の観点に加えて、今回のチュンの経営難については、
シーズ(種)とニーズの問題も考えさせられます。
というのも、「物神主義者」の多くはシーズ(種)崇拝に陥りがちだからです。
それは、初期ソニーやホンダの井深神話や本田神話が英雄譚として、
プラスイメージで拡大再生産され喧伝されてきたからでしょう。
確かに、既知のニーズ領域に後から参入するのは、先行者がいて、
参加者も多く競争が厳しくて、利得も少ないし、競争に負ける場合も
多いのですが(例えば「ツキヨニサラバ」)、しかしなから、
播いたシーズ(種)の全てが芽を出すとは限らないのも、また事実なのです。
シーズ(種)製品が当たる(芽を出す)のは、そこに目に見えない隠れたニーズが
ある場合であり、大ヒット化するのは隠れているが故に競争者がいないからです。
芽を出すシーズ(種)=隠れたニーズ」なのです。
今までに無い実験的な野心作なら、何でも良い訳ではないのです。
・チュンの20周年作品群はシーズ(種)にこだわり過ぎて、
「そんなニーズはどこにも隠れていない」物を作ってしまったと思われます。
以前の「ローグにドラクエキャラを被せる→オリジナルキャラに移行」という
流れの時は、上手い具合にバランスを取っているなぁと感心していたのですが。
・ちなみに、僕も「物神主義者」です。
シーズ(種)については、崇拝というよりは、天然でそっちの方向に走ってしまう
(他人と違う事をやって人を驚かすのを好む)タイプです。
だからこの文章は自戒でもあるのです。

「資本主義者」vs「物神主義者」
タイプ1:ビジネスの手段としてゲームを作る。
タイプ2:ゲームを作り続けるためにビジネスを行う。
開発出身ではない既存大手の経営者・プロデューサーは大抵前者です。
彼らはビジネスが好きなのであって、その一段下の階層である手段や、
その内容については、それほどこだわりが無いのが普通です。
・ゲーム業界以外でも、似たような構造はよく見受けられます。
例えば、ホリエモンは前者で、ニッポン放送社員を代表とする
反ホリエモンのジャーナリズム陣営は、後者に当たるでしょう。
ホリエモンに限らず、孫や三木谷等の日本のベンチャー起業家は、
会社を大きくしていく事自体を喜びとする前者が多いそうです。
(それに比べれば、米国は後者の割合が結構大きいそうです。
ゲイツに対するジョブスの存在とか…。)
・ただ、最終的な生産物そのものや生産過程(技術)に対して、
こだわりを持ったり感情移入する後者のタイプ(「物神主義者」…
「物神崇拝」本来の意味とは異なる、僕の勝手な命名です)は、
前者のタイプ(「資本主義者」)の人間が嫌いなのです。
これは、前者が後者の事を理解し、パトロンに徹して現場に
口を出さなければ問題は顕在化しませんが、ビジネスが下降期に入り、
前者による後者への干渉が始まると、一気に事態が紛糾します。
しかし、かと言ってビジネスが回らなくなり、生産が継続できなくなっては
後者自身も困ってしまう事もまた事実です。
かくして、迷走(経営のデスマーチ)が始まるのですよ……カプンコ。

「ジャンル:心理戦」の必要十分条件
・一個下の考察だけでは、やはり必要十分にはなっていないようです…。

1.複数プレイヤー間で、互いに影響を与え合う意思決定を読み合って意思決定を行う。
2.その決定事項の実行のスキルを必要としない。
3.ランダム性の要素はなく論理的である。
4.ルールがある程度シンプルで、程々に「奥」が深い要素軸が複数。
5.意思決定のための情報はあるが、不完全情報のため意思決定が不確定的である。
6.不完全情報状況を補完する、プレイヤー間の公開・非公開の意思伝達手段があり、
そこで伝えられる意思は必ずしも情報として真である必要は無い。


確かに上記6条件は「心理戦」を行うための土台(環境)としては必要条件ではありますが、
これが整備されたからと言って、「心理戦」になるとは限りません…。
ぶっちゃけ、「心理戦」を行わず、「頭脳(論理)戦」でも戦う事が可能な訳です。
そこを絞る十分条件は、やはり、「感情」がキーになりそうです。
となると、十分条件は、

7.言語等の非暴力的手段を使用した、相手の感情の動きの推測・誘導で
不完全情報状況を補完して、意思決定を行う戦い。


という感じでしょうか…?(05/04/10に項目を再整理しました)
・議論が混乱するのは、「心理戦」という言葉には二種類の意味があるからでしょう。
一つは、暴力という物理的強制力を使用した「物理戦」との対比で用いられる「心理戦」。
もともとの本来の定義はこちらで、戦争で敵の戦意を挫こうとして情宣ビラをバラ撒いたり、
放送を行ったりする行為です。(「情報戦」と言ってしまうと、相手の情報を収集・分析する
ニュアンスも入ってしまう)
もう一つは、「論理」のみで戦う「頭脳戦」との対比で、「感情」の要素をも包含するという
意味で使用する「心理戦」(心理=論理+感情)です。
・新聞では「神経戦」というタームをよく見かけますね(笑)。
これは、後者の「心理戦」に「持久戦」のニュアンスが入ったもののようです。

ゲームジャンルとしての「心理戦」
・「心理戦」というゲームジャンルが成立するのかについて考えてみましょう。
・ゲーム世界での「心理戦」と一言で言っても、曖昧模糊としているので、
ざっと3種類ぐらいの概念に分類してみます。
1.「周辺手段としての心理戦」
2.「要素としての心理戦」
3.「ジャンルとしての心理戦」
1の「周辺手段としての心理戦」は、ゲームの駆け引き構造の外側で、
相手の感情を揺さぶって、相手の意思決定ミスの発生を狙うものです。
例えば「三味線:盤外での舌戦」とかです。
これは、ゲーム構造外の事象ですし、どんなゲームにも通用するぐらい
普遍性が高過ぎるので、「ジャンル」の問題からは除外するべきでしょう。
2の「要素としての心理戦」はゲーム構造の中に含まれるパーツとしての
「心理戦」です。単純に考えれば、これのゲーム全体における比率が高ければ、
3の「ジャンルとしての心理戦」が成立しそうな気がします。
しかし、良く考えると、「ゲーム」自体の狭義の定義が「お互いに影響を与え合う
意思決定の読み合い」ですから、文字通りこれは「心理戦」な訳で、
「全てのゲームは心理戦である」というトートロジーになってしまいます。
・そこでゲームや心理戦の定義を、もうちょっと世俗レベルのイメージにするべく
考えてみましょう。
・まず、相手の意思決定を読み合うという事ですから、相手がいて、
かつ自分も敵も意思決定(選択)を行う、対戦型である事は必要条件ぽいです。
クイズや連打ゲーム等の、一人のプレイヤーの能力を判定するタイプのゲームは
心理戦とは言えないでしょう。
(問題を出し合う「対戦型クイズ」というのも考えられますが、解答選択行為が
相手の問題内容をその場で変容させる訳ではないので、読み合いとは違います。
正答履歴から相手の得意ジャンルを推測する等の対戦構造が成立していても、
駆け引きが「出題→解答」という1単位内では収まっていません。
クイズという行為そのものではなく、上部の別のゲーム構造である「解答→次の問題選択」
という「クイズ問題選択ゲーム」が対戦を実現しているのです)
この対戦は対人が理想ですが、コンピュータが代役を務める場合も可としましょう。
但し、1対1以外の、1対多や多対多の構造で、競技者にコンピュータが
含まれると、「心理戦」の感じがしません。これは、コンピュータの擬似心理が
量をなすと、単なるプログラムというイメージが増大してしまうからでしょうか。
もっとも、チューリングテストではないですが、1対多や多対多構造においても、
どれぐらいの量のコンピュータキャラが混じっているかが非公開であり、
かつコンピュータの思考アルゴリズムが優秀であれば、
プレイヤーはこれを「心理戦」と感じるかもしれません。
・まぁ、それはともかく、では、対戦型であっても、
「対戦格闘」とかは「心理戦」と呼べるのでしょうか…?
「心理戦」の部分はあるけれども、丸ごと「心理戦」と呼ぶのには
抵抗がありそうですよね。
これは、意思決定を読み合った後の、選択を実行する際のリアルタイム性の
肉体的スキルが、勝敗に影響を与えてしまうからでしょう。
相手の意図を読んでいたのに、入力に失敗して負ける場合があっては、
「心理戦」とは呼べないみたいです。
選択を実行する際のスキルは不要」も条件の一つのようです。
・では、「選択実行のスキルを必要としない、相手の意思決定を読み合う対戦型ゲーム」が
「ジャンルとしての心理戦」の定義として必要十分かと言うと、
まだ少し条件が足りない気がします。
それは、囲碁・将棋・チェスを「心理戦」というジャンル分けをして
良いのかという問題です。
確かに、お互いの意思決定を読み合っているし、盤に駒や石を打つ行為自体には
ほとんどスキルを必要としません。
でも、「心理戦」というイメージとはズレる感じがします。
これらは、序盤では「戦法選択→準備進行」という極めて論理的で手続き的な展開になり、
相手の心理を読もうが読むまいが大勢に影響無く、かと言って終盤は選択の幅が
論理的に極めて制限されてしまい、これまた心理の読み合いの出番が無いからでしょう。
つまり、ルールがロジカル過ぎると、心理(選択)のブレが少なくなり、
それを読んでも当たって当然の世界になってしまうのです。
「心理戦」と言うよりは「論理戦」と言った趣です。
(ハイレベルでの勝負では、必然の連鎖である終盤に入る前に投了になるようですが、
中盤の勝負にしても、読みに穴が無いかとか、どちらが先まで読めるかが勝敗を分けるので、
論理の勝負な訳です)
だから、これらのテーブルゲーム群に於いて「心理戦」と言うと、
1の「周辺手段としての心理戦」がすぐに頭に思い浮かぶのかも知れません。
・どうやら、心理(選択)のブレが必要で、かつ、その決定の(あるいは相手が
それを読む)際には、論理帰結的に確定していてはダメなようです。
そこに、当たるかもしれないし、外れるかもしれない、不確定さが必要なようです。
但し、もちろんそれはランダムではダメで、論理的ではありながらも
完全確定的ではない、思考の流れ(勢い)によって決まらなければなりません。
(ランダム性があると、相手の意思決定を読む意味が無くなります)
となると、このような状況をもたらすには、不完全情報のゲームにする事が必要です。
上記テーブルゲーム群は、全ての手段・状況が両者に公開された完全情報のゲームで
あったため、ロジックに支配されますが、手札等の相手から見えない情報があると、
本人にとってはロジカルな選択でも、相手から見れば不確定になる訳です。
もちろん、お互い様なのですから、最初の「ロジカルな選択」も相手の情報が
足りないのですから、「不完全にロジカルな選択」になります。
(繰り返しますが、山札をシャッフルする等のランダム要素が入ってはダメです。)
・あと、逆の「完全に情報が無い」場合も、読みようが無くなるので、当然ダメです。
・では、まとめると、
「ジャンルとして心理戦」の定義は以下4項目を満たす事である。
1.複数プレイヤー間で、影響を与え合う意思決定を読み合って意思決定を行う。
2.その決定事項の実行のスキルを必要としない。
3.ランダム性の要素はなく論理的である。
4.意思決定のための情報はあるが、不完全情報のため意思決定が不確定的である。

・しかし、これで全部なのか…?
心理戦ゲームとして名高い「ディプロマシー」は完全情報臭いし、
心理戦と呼ばれるものでよく見受けられる「同盟・裏切り」の要素はどう採り込んだものか…。
まだ、絞込みが足りない感じがします。
う〜ん、「ディプロマシー」は、他のプレイヤー間の秘密条約があるため不完全情報という事かな。
となると、上記項目に5番目を付け加えるとすると、
5.不完全情報状況を補完する、プレイヤー間の公開・非公開の意思伝達手段があり、
そこで伝えられる意思は必ずしも情報として真である必要は無い。

という感じでしょうか…。
・え〜と、まだ条件があったです。
6.ルールがある程度シンプルで、程々に「奥」が深い要素軸が複数。
ルールがあまりに複雑だと、プレイヤーが計算できそうにないと諦めてしまい、
意思決定をランダムに選択してしまうので、マズいです。
読み合いにならなくなります。
だから、とっつき易いシンプルさが必要になります。
しかし逆に、極度にシンプルだと、不確定情報はあるとはいえ、
最善手がすぐに見つかって、こう着状態になる危険性もあります。
また、要素軸が単一だと、次の「奥」の問題にも絡んできます。
よって、「ある程度」という限定を付けています。
「奥」についても、当然「奥」が無いと、読み合うための手がかりが無く、
飽きてしまいます。
例えば、普通のジャンケンを連続でやっても、前の手と次の手の間は
完全に独立事象なので、読みようがなく、途中で飽きてしまいます。
でも逆に、無制限に「奥」があっても、「相手の裏の裏の裏の…」という
読み合いの連鎖が無限に続いてしまい、結局、読まなくても同じの、
五分五分の確率勝負になってしまいます。
奥が無限に深いのは奥が無いのと同じ。」な訳です。
では、どうするかというと、浅めの「奥」を持つ要素軸を
複数化して、裏読みの無限連鎖を避けつつ横に複雑化するのです。
いわば「奥」の面積を広げるのです。
「カイジ」の「限定ジャンケン」で言えば、カード枚数がジャンケンの
「奥」の「深度」をある程度付け、星と金と制限時間等の要素軸の複数化で
「奥」を「横」に広げているのです。

品質基準設定権の移行
・話題の日経ビジネスのクタタンPSP発言を読みましたが、
50%ぐらいの確率で、後ろめたさのまったく無い、
自分は正しい事を言っていると信じ切った、
本来の意味での「確信犯」ではないかと思いました。
・全く新しい商品が世に出た際、その中の一つの事象が
仕様なのか不具合なのかを線引きする基準を設定する権利は
製作(販売)者側にあります。
法に触れない限り、意図してやっている事は仕様になる訳です。
・しかし、その商品がシリーズ化する、あるいは他社が競合商品を
出して行くと、「期待される価値」基準が蓄積して行きます。
そして、いつの間にか線引きする権利が消費者の方に移っているのです。
・これは、いつ移行するという基準日がある訳でもないし、
またその基準が明文化される訳でもない、著しくファジーな事象であり、
その核となる「当然実現が期待される機能」(ある意味アフォーダンス?)も
極めて感情的・主観的なものなのです。
理系というよりは文系、自然科学というよりは社会科学の範疇の問題かもしれません。
・そして、この事は技術(製造)者には理解(了解)し難いことなのです。
特に、品質基準設定権が既に消費者に移行している事に気付いていない場合には、
「何わがままを言っているんだ、ユーザーどもは!」と腹を立てたりする訳です。
法的、あるいは技術者の拠り所である「論理」上は、彼らは正しいのですから。
・「消費者の目線で…」という単純で簡単そうなスローガンが数多くの企業で
掲げられますが、逆に言えば、その数が多い事は「実は非常に難しい」という事を
物語っているのではないでしょうか。
「商売の真髄は論理を超えた所にある。」

オンラインゲームの普及がもたつく原因
・最初にお断りしておきますが、憶測です。
統計的な数値がある訳でもないし、そもそも個々人の心の中の問題ですから。
・さて、家庭用ゲーム機でもPSOとかFF11とかモンハンとか出て、
ウン十万人のプレイヤーがネットにつながり、一応オンラインゲームも市民権を得たようです。
でも、やる人が結構重なっていて、今一つバッと広がっていない。
結局同じ人間の時間の取り合いになっている感じがします。
(スタンドアローンのパッケージゲームも時間の取り合いには違いないのですが、
一応「積む」というバッファがある訳で、オンラインゲームはダイレクトに影響が出る分、
過当競争になっている気がします)
・それで、このプレイヤーが増えない原因:「プレイ障壁」なのですが、
以前から声高に言われてきた通信費も競争である程度安くなってきた現在、
通信費以外にも、実は「勿体無さ」もあるのではないかと、思うのです。
これは何かというと、「わざわざ工事して線を引いて、毎月定額を払うネットのコネクタに、
ゲームしかできない家庭用ゲーム機を繋ぐのは勿体無い!」
という感覚です。
ネット社会も進行しているのに、その利便性を犠牲にして、コネクタをPCではなく、
汎用性の無い家庭用ゲーム機でふさぐのは、機会損失になると感じる訳です。
かと言って、ルーターを買ってきて分岐させるのも面倒臭い(通信事業者も嫌がる)し、
そこまでして、家庭用ゲーム機のオンラインゲームをしたいとは思わないのです。
その差込口は既にPCが占領しているのです。
・では、PCゲーム市場が壊滅している日本で、オンラインゲームを普及させるのには
どうすれば良いのかを考えると、「家庭用ゲーム機がPCにぶら下がる」のはどうでしょうか。
無線LAN等でPCにぶら下がり、PCを介してネットにつながるのです。
(PSPはもうPCやPS3にぶら下がるつもり満々らしいですが)
コンセント(電力線)通信がGOになれば、結構簡単に実現できるかも…。

「〜ならでは」の危険性
・僕を含めてゲーム制作が長い人間は、「〜ならでは」という発想をしがちです。
例えば、任天堂にDS企画を出す時にも、「2画面ならでは」という要素を要求されます。
先日、僕より制作歴の長い人と打ち合わせをしたのですが、彼も「〜ならでは」を含む
発言をしたので、はっとしました。
「〜ならでは」は過信すると危険なのです。
それは、突き詰めると、制作側の都合に過ぎないのです。
ユーザーはあまりそんな事を気にしていません。
その場、その瞬間が楽しければ、「〜ならでは」なんてどうでも良いのです、彼(女)らは。
ゲーム制作者は「『〜ならでは』が成立していないと、比較優位性のある他の製品に負けて、
ユーザーもそっちを選択するだろう」と考えがちなのですが、ところがどっこい(死語)、
ユーザーはそんな原理で購買行動をするとは限らないのです。
特に子供は、そんな事に考えが及んでいない場合が多々あるのです。
・かつて、僕も「PS2ならでは」を追求して仕様を設計した事がありますが、
子供ユーザーには不評でした。「そんな余計な事はするな」と。
(年齢がある程度高くて、ゲーム性主義的な人達には好評でしたが)
そして、「こんなわざとバランスを悪くしたクソゲーぽい物で良いのかな〜」と
内部でも危惧した製品の方が、ユーザーの評価が高かったのです。
その時に、ユーザーは時としてクソゲーである事の方を望む場合があるのを悟りました。
・というか、そもそも「カードゲームをTVモニターで遊ぶ」という企画自体が、
紙のカード「ならでは」の優位性を捨てる、変な話だったのです。
「紙のカードと同じ楽しさをビデオゲームでも楽しみたい」という子供の考え無しの
欲望の前には、「手軽で安価に本物が遊べるのに、何故に忠実なシミュレーターを
求めるんかい。それなら、紙のカードで遊べば良いじゃないか」という理屈は、
通用しませんでした。全くゴムタイな話です。
・なお、海外市場ではこの反省を踏まえ、素早く制作して、紙が正統として
認識される時間を与えずに投入するという戦略を採り(別に会社の方針ではなく、
僕が個人として考えて行動しただけですが)、巨大利益を獲得しました。
・話がそれましたが、言いたい事は、「〜ならでは」は
制作者が何か新しいアイデアを得るための手がかり、即ち、
あくまで発想のためのツールに過ぎないという事です。
これを忘れて「〜ならでは」を重視して商品コンセプトの中心に据えるのは、
ユーザー側はそんな事を求めていない場合も多々あるので、
危険な行為なのです。
結局、楽しければ何だって良いのです、ユーザーは。

「探す」という行為
・で、"ZOOO"をプレイしてて考えたのですが、ゲームでよく用いられる
この「探す」という行為自体は、純粋に取り出せば、それは単なる苦痛であり、
娯楽でもなんでもないのではないでしょうか。
・"ZOOO"においては「待ちを探す」→「発見」→「並び替える」→「消える」→…
というサイクルが回転する訳ですが、落ち物を含めて他のアクションパズルでも
「並び替える」の部分が若干変化した、似たようなサイクルをとると思います。
ここにおいて、実は「探す」は単なるストレスであり、その後の「発見」の喜びは
「探す」の負荷の補償の快感に過ぎないのではないかと思いついたのです。
(真夏に電話BOXに入ってうだった後、外に出て涼しく感じるたぐい)
ちょっと考えて見れば、「探す」事が娯楽であれば、「物を失くしがちな人は
毎日楽しくてしょうがない」事になりますから、当たり前と言えば当たり前です。
・もっと低レベルの次元で言えば、インタラクティブ性の快感「予期した状態が
予期したとおりに知覚されると快感」の原理が、触覚を経由しない視覚のみの領域でも
働いているのはないか、という事です。
「視線を動かした時に、あるべき物が見える快感」が日常から薄く存在し、
「探す」という行為は、これと正反対のマイナス状態になっている事を意味する
のではないでしょうか。
・では「宝探し」は娯楽ではないのか?
いや、「宝探し」全体では娯楽の要素もありますが、それは「発見」後に予想される
快感が非常に大きく、それを前払いで享受しているだけであり(いわゆる「皮算用」、
ビデオゲームで言えば「ゲームデザイン入門」における「仮想出力の快感」にあたる)、
純粋な「探し」の部分は単なる負荷なのです。
それは、好きでも何でもない物や嫌いな物を探す事が、楽しいかどうかを考えれば、
簡単に分かると思います。
・また、実際のゲームデザインにどう関係するのかと言うと、「探す」行為を
ゲームに取り込んだ場合には、「探す」ストレスを下げつつ、「発見」より後の
快感をいかに大きく用意できるかが、ポイントになるのではないかと思うのです。
リアルタイムパズル系の話に戻りますが、「探す」の比重が少なく発見後の快感が
相対的に大きい「テトリス」や「ぷよぷよ」に比べて、「コラムス」は「探す」ストレスが
大き目に入ってしまったのが、大ブレイクに届かなかった理由の一つではないかと、
今は思います(落ち物ブームだったので商売的には中の上ぐらいのブレイクはしましたが)。
"ZOOO"も「探す」ストレスが結構大きめですが、「並び替え」でエントロピーが下がる
快感と「消える」快感も割と大きいので、「さめがめ」レベルかなあという感じなのです。
ちなみに一番悪い例は、業務用「ウォーリーを探せ」で、「探す」ストレスが異常に大きく、
しかも「発見」より後の快感が無きに等しいゲームでした(開発ではなく業務用機器販売の
お偉いさんの発案なので、仕方ないと言えば仕方ないのですが…)。

ゲーム性の有効性は低下したか
・「ゲーム性の有効性は低下した」というテーマについて、
島国大和氏の日記を端を発して、色々な所で目にします。
僕は、ここ数年の実体験から、子供や女性等のまだまだ「ゲーム性」に
スレていない層には、依然としてゲーム性は有効だという感触を得ています。
彼(女)らは、プリミティブなゲーム性の付加(工夫)に
ダイレクトに反応していました。
そこで僕は、まだまだ「ゲーム性」は捨てたものではない、
というか「基本を忘れずに大事にせねば」と思いました。
普遍性はいまだ失われてはいません。
・ただ、ゲームの企画としては、もっと言えばエンタテインメントの企画としては、
「その商品に接触する前から客を楽しませなければならない」のが鉄則です。
お金を払う前から、お客さんを期待でワクワクさせなければならないのです。
電源を入れる前、いや買う前からゲームは始まっているのです。(→箴言0019)
そして、この接触前のフェイズでの「ゲーム性の有効性」は確かに低下しています。
接触後については、まだまだ普遍性を保っていますが、
遊ぶ前にその楽しさをユーザーに想起させるパワーについては、
ゲーム性はそれを失ったと言わざるを得ないでしょう。
・また、「口コミによるヒット」という事象は、昔からのゲームマニアや
コアユーザーには好意的に受けとめられがちですが、
企画の面ではあまり誉められた事ではないのです(ビジネス的には結果オーライ)。
接触前のフェイズに欠陥があった事を示しているのですから。
本来は「口コマズにヒット」(←偽日本語)が正しい姿(企画の理想型)なのです。
・ゲーム業界では、今まで、企画における仕様(ゲーム性)設計以外の部分を
単なる広告宣伝の問題として軽視・単純視してきましたが(マニアは嫌悪)、
これからは他の一般消費財商品と同様に、「如何に買う気にさせるか」という
接触前のフェイズの問題について、題材のリサーチ・選択等の
プロジェクトの立ち上げの段階から、流通・露出・販促等の下流端まで、
統合的・戦略的に考えて企画していかなければならない時代に入ったのです。

プロトタイピング手法のもう一つの利点
・そうそう、プロトタイピングの手法には、
もう一つの利点がありました。
それは制作(開発)しながら市場の動向に応じて
軌道を修正する余地がある事です。
ただ、これもデスマーチへの罠の可能性も
ある訳ですが。
・で、その罠を極力回避するために、
ゲームフィーチャーの独立モジュール化の話へと
進みそうな気配。

プロトタイピング手法の弱点
・外注制作への論考の中で、プロトタイピング手法を賞賛しましたが、
弱点が無い訳ではありません。
何と言っても、プロトタイピング手法はデスマーチ(デヌマーチ?)の
発生率が高いのが問題です。
・それは、サイクルを回し始める段階で作品のコンセプトや方向性が
まだ定まっていない場合、あるいは初期のサイクルの段階で
コンセプトや方向性が否定されてしまった場合に、多く発生します。
サイクルを転がしていく方向性を失ってしまった事態です。
こうなると、迷走しやすいのです。
・ウォーターフォール手法であれば、仕様作成の段階さえクリアすれば、
あとは粛々と制作していくしかないので、デスマーチは起こりようが
ないのです(仕様内に矛盾が発見された場合を除く)。
作品の質を問わなければ、制作の遅れは発生しても、迷走はないのです。
・プロタイピング手法をとるか、それともウォーターフォール手法をとるか、
あるいはどのような配分で2手法をMIXさせていくのか、
これもまた、「箴言0006:ゲームを作る事自体がゲーム。」の中の
一つのゲーム性なのです。

外注制作だとクソゲー率が高い理由
・「外注制作」の定義としては、ディベロッパーが自分の名前で
企画しつつも、実際の制作作業をしているのは下請け会社という
事象の事です。パブリッシャーとディベロッパーという、販売と
制作の関係は含みません。

・ここでの「クソゲー」は一般的イメージでいう所のものなのですが、
あいまいなので「表現クオリティがお話にならないぐらいのレベルであったり、
操作感が悪くてイライラするゲーム」と一応しておきます。
ゲームを通してのプレイ時間等の、ボリュームの問題はここでは含みません。

・さて、ディベロッパーが外注制作を行う理由は、大体以下の3つになります。
1.自社に内製部隊がいないため。
2.自社にその系統のゲームを作るノウハウが無いため。
3.内作だとコストが高くてペイしないため。
1と2の場合、最近では専門分野に特化した下請け会社に発注する事が
増えてきたので、クソゲー率が下がってきました。
それどころか、名作も生まれつつあります。
となると、問題は3です(1・2でも問題が皆無になった訳ではないのですが
とりあえず、話を単純化しておきます)。

・3は動機から言って、当然、内作より予算が少ない訳です。
予算が少ないと、当然、かけられる工数(人月)も少ない訳です。
で、工数が少ないと、納期に間に合わせるため、仕様を先に作ってから
一気に制作する「ウォーターフォール」の体制をとりがちになります。
また、クライアントの企画者は普通複数ラインを抱えており、
一つのゲームの制作現場に常時はりつく訳にもいきません。
となると、「仕様決め→発注→納品」という「ウォーターフォール」の
体制になりがちです。

・実は、制作予定期間がある域を越えると「プロトタイピング」の手法の方が、
結果的に能率が良いのですが、短期間制作の場合は「プロトタイピング」の
サイクルを何度も回す余裕がありません。納期がすぐ来てしまいます。
よって、クオリティが低くなりがちで、クソゲーが生まれがちなのです。

・では、なぜ、「ウォーターフォール」だとクオリティが低くなりがちなのか?
まず、考えられるのは「人間のやる事に100%は無い」から、
最初の仕様に見通しのミスが含まれてしまうという事です。
また、それを修正しようにも、「直している余裕が無い」や
「直すと仕様の他の部分と矛盾をきたす」という理由で、
修正できない場合もよくあります。

・と、ここまでが前置きで、実は、ここからが本題です。
しかし、各仕様が完全に統一性を保ち、そこにケアレスミスが
無い「ウォーターフォール」の場合でも、クオリティの低い
ゲームが生まれる事が多々あります。
それは何故か?
僕は、それは、「刺激の質を言語化しドキュメント化するのが困難だから」
なのではないかと考えています。
刺激の量や、それをもたらすゲームの構造については、言語化し
ドキュメント化するのは、比較的容易だと思います。
「量」は多ければ良いという一方向の基準ですし、
「構造」はそのままプログラム言語で記述されうるものです。
しかし「刺激の質」については、色み・反応時間・跳躍の軌跡等々、
パラメータの値として表現は一応できますが、そこに「質」として
人間の官能的価値判断を加えなければなりません。
そして、その判断基準を言語化し合理的に説明するのは困難です。
「ここのパラメータが2より3なのは、その方が気持ち良いからだ」という
何の理由説明にもなってない、説明にならざるを得ません。
また、逆に、その出力が実現した時の自分の感覚を前もって想定して
仕様(パラメータ値)を決める事は、非常に困難です。
これを容易に行うには、人間の快感法則が演繹的かつ定量的に解明されるか、
膨大な統計から帰納的に算出したデータベースが必要ですが、
それはまだまだ未来の話です。

・よって、「ウォーターフォール」の手法では「刺激の質」の低いゲームが
生まれがちなのではないでしょうか。
逆に言えば、「刺激の質」を向上させるため、
ひいてはゲームのクオリティを上げるためには、
「プロトタイピング」のサイクルを細かい部分から
ガンガン回して、「刺激の質」のチェックを積み上げていく
制作手法が一番適しているのではないでしょうか。
そして、細かい部分からサイクルを回して行くには、
企画者と実務者が常時接触している内作の方が有利な訳です。

物語者の器としてのゲーム
・物語の器ではなく、物語を語る人間に対する器としての
問題です(器というよりは乗り物の方が適しているかな?)。
・他のメディアと比較すると、物語者の生命維持というか
賞味期間が短いのではないかと、ふと思い付きました。
・再生産のスパンが長い上、物語以外の要素でも商品的に
失敗するリスクがある(システムは同じでストーリーだけ
違うゲームは飽きられる危険性がある)ので、一度沈む
(失敗だけでなく忘却の場合もある)と、再浮上が困難なのかも。
菅野ひろゆき(アーベル)や高橋龍也(プレイム)とか、今、
商業的に大丈夫なのでしょうか?
「久遠の絆」の人はどこに行ってしまったのでしょうか?

最近のオタ市場の動き
・とりあえず、コミケの主流勢力の変遷とかをみると、
単純に「男→女」ではなくて、前史を加えて
「無性→女→男→女」ではないかと思います。
「移行」というよりは「回帰」かと。
ジャンプでも今の「テニプリ」「HUNTER×HUNTER」の
遥か以前に、「C翼」「星矢」とかが今以上の規模で
女性を熱狂させていましたしね。
・ただ、いくら熱狂した女性の人口が多いと言っても、
最初の2段階「無性→女→」では、時代的に
一定規模以上の商業的市場を成立させる契機とか
手段がありませんでした。
映像機器にしろゲーム機にしろ、ソフトウエア市場の
前提となる、ハードウエアの普及の先頭にいるのは
男性マニアでしたし、当時は版元も2次3次と儲ける
スキームなど思い付きもしませんでしたので。

「総人口」と「題材力」
・もう一度整理してみましょう。
・まず、「題材」という存在があります。
ゲームの「世界観」や「キャラクター」等の「メタファー」と
ほぼ同じ場合もありますが、「題材」は根本的にそれらと分類の
位相(視点)が違って、「ゲーム化(ゲームとしてモデリング)される
前の生の素材」という概念です。だから、時には「ルール」や
「システム」も未分化の状態で包含するものです。
一般的に定義しようとすると、抽象的で回りくどくなりますが、
要は「野球ゲーム」における「野球」ような「ネタ」の事です。
(ちなみに「メタファー」はシステムの上に覆い被さっている、
「受け手に対する文化的インターフェース」という、ゲーム化
された後で切り分けられる概念です)
・大抵のゲームには「題材」があります。
そして、フィクションも現実世界に「存在」する虚構エンター
テインメントと考えれば、「題材」は現実に存在する事象です。
これは、人間が、作り手としては現実に存在しない(虚構としても
存在しない)ものを想像(創造)するのが苦手であり、受け手としても
現実に存在しない(知らない)ものに感情移入するのが苦手だからです。
「テトリス」ですら、薄めではありますが「ペンタミノ」や
「重力落下」という「題材(の断片)」を持っています。
「題材」の存在しない「純ゲーム」は、私の思い付く範囲では、
「GUNPEY」ぐらいです。
・で、「題材」には「題材力」というパラメータが想定できます。
「題材力」とは、その「題材」が認知された時に、どれくらいの人が
感情移入する(好きになる)かのパワーの事です。
この「題材力」がフルに発揮された時の人数が、以前述べた「総人口」
になると考えています。
「逆転裁判」シリーズの「題材力」は12〜15万人な訳です。
・「題材力」をフルに発揮させるには、ゲームデザインで「題材」の
持つ魅力・楽しさを極力損なう事無くモデリングする事です。また、
そこにゲームならではの面白さを付け加える事も可能(時には必要)
でしょう。そして更に、広告・宣伝戦略等の努力で認知率を上げる事も
必要になります。
・物凄い努力と物凄い幸運が重なれば、ゲーム側の人間の力で、
上記の「題材力」のフル稼動も可能でしょう。
しかし、「題材力」そのものの力を拡大する力を、現状のゲームは
持っていないと言えます。ゲームだけの力で「逆転裁判」シリーズを
ミリオンセラーにはできないのです。
これが、ゲームのメディアとしての弱点です。
ネットの一部で言われている、いわゆる「サブメディアの限界」に当たります。
・今まで何度か繰り返して言っていると思いますが、かつて一度だけ、
「ドラゴンクエスト」のみが、ゲームオリジンの力で「題材力」を
爆発成長させ、「ジャパニーズファンタジー」のイメージを世の中に広めました。
この時は、ゲーム自体が娯楽として新しくブーム状態で、なおかつ、
システムも世界観も、日本では一般の人が知らなく新鮮な物でありながら、
海外では定評がある物を、日本人が飲み込み易い形で紹介したものだったから
なのだと思います。(「遊戯王」もこの構造に近いですが、「題材力」の強化は
ゲームではなく、単価の易いマンガや紙のカードが担っています…)
・ブームが終ってしまっては、単価が高く価格競争力の弱いゲームは、
「題材力」を拡大させる力を持ち得ないのでしょう。
逆に言えば、今となっては、ほぼ無料か安価で全国の受け手がアクセスできる
日本でのTVアニメ、アメリカでの映画の、「題材力」の強さが際立つ訳です。
・以上のように、「何を題材にするか」はゲームデザイン上の最初の関門であり、
最重要課題なのです。これで100%取った時のパイの大きさが決まるのですから。
・また、「GUNPEY」のような「題材」の無い「純ゲーム」を目指すという道もあります。
「総人口」という限界が最初から存在しないのですから「零=無限」です。
もっとも、こういう「純ゲーム」は火星から電波でも来ないと思い付けないのが
悩みのタネなのですが(現実に存在しないものをモデリングするのですから)。

「作業ゲーム」と「娯楽ゲーム」の境界線
・変な用語ですが、ボクの感覚に沿う形で脳にポッと出てきたので、
その定義を探ろうかと。
発端は「メイド・イン・ワリオ」です。
40万本も売れましたが、ボクの周囲では、もう飽きて、誰もプレイしていません。
(ボクは「PYORO2」だけは、まだチョロチョロやってますが)
で、考えたのですが、「ワリオ」は何段階もクリア目標が提示されており、
かなり長い時間プレイしますが、その途中過程である「プチゲーム」は
かなりの割合で「娯楽ゲーム」ではなく、「作業ゲーム」だったのでは
ないかと思うのです。
「ストーリーの最後まで到達する」「図鑑を埋める」「全てのプチゲームを
一定水準クリアする」等の目標に追い立てられている間は無心にプレイします。
しかし、全目標をクリアした後、個別のプチゲーム達を極めてやろうとする
人間はボクの周囲にはあまり発生しませんでした(2chでもあまりいないみたい)。
つまり、「ワリオ」のプチゲームは、目的が無い限り、能動的に遊ぼうとする気になる
遊びでは無かったのではないかと。
こういう、スキル評価や目的の部分(「勝つ」要素)が無くなるか終了すると、面白く
なくなるのが「作業ゲーム」という概念です。
・逆に言えば、刺激の質がよっぽど不快でない限り、どんな行為でもスキル評価の
仕組みや目的(動機づけ)を作り、競争や対戦をやらせれば、人間は楽しく感じるのでは
ないでしょうか。
・一方、「テトリス」のようにスキル評価や目的という「勝つ」部分がなくても、
ついつい遊んでしまうのが「娯楽ゲーム」です。
ボクにとっての「PYORO2」もコレの性格が強いようです。
・で、まとめると、「勝つ」部分があれば大抵の物は遊びとして成立してしまいますが、
「見る」「いじる」「考える」快感も十分に用意ないと、「作業ゲーム」になってしまう
という事です。
結果や目的から切り離し、「やっている行為その物が本能的に楽しいか?」という事を
マメにチェックしないと「娯楽ゲーム」は生まれないのです。
・「だからどうした?」と言われると困りますが、まあ「作業ゲーム」になってしまった場合には、
「ワリオ」のように目的を大量に用意する必要がある、という事だけは言えるかもしれません。

跳躍的進化:量の変化が質の変化を引き起こす
・ネット辺境のここに来るぐらいの人なら、もう耳にタコ、目にイカ、
お腹いっぱいゲップゲップの話題でしょうが、HalfLife2の話です。
ただ、まったくゲームをしない特撮者・アニメ者もいると思うので、
そういう方はこのページの最下部のムービーシーン12をダウンロードして
是非ともストライダー君の勇姿をおがんで下さい。
ゲームの最先端はここまで来ますた。
・ここ最近「人間の感覚器の限界もあるし、ゲームの映像的進化ももう大幅には無いかな〜」と
思っていたのですが、見事に裏切られました(さすがに人間のモデル・テクスチャーは、
常日頃見ている物なのでまだまだ違和感がありますが)。ゲームに情熱を失い気味だったのですが、
久し振りにワクワクしてきました。「燃え」の予感。新しいPCを積極的に買う気が起きました。
・PS2発表の時によく言われた、データ型からプロシージャー型へという流れは、
結局PS2の能力不足で立ち消えました。しかし、海外PCゲームではガンガン突き進んでいたのですね。
日本のPCゲーム市場はエロゲーに占領されており、諸外国は占領されていないのは興味深いですが別の話。
・「技術的にどうよ」とか「業界的にどうよ」とか「ゲーム性的にどうよ」とかは、
あちこちで僕より詳しい人が語り尽くしちゃっているので、割愛します。
僕が一番に感じたのは「量の変化が質の変化を引き起こす」という事です。
多分一つ一つの物理計算は、日本の現場でやろうとすると、「やるのは大変なくせに、
プレイヤーはそんなの見ていないし、それで売り上げがどれだけ伸びるの?」という、
至極まっとうな費用対効果の議論になり、却下されてしまうでしょう。
そして、その主張は多分正しいです。
しかしプレイヤーは「見ているようで見ていないが、見ていないようで感じている」のです。
すなわち、漸進的な進化は認知できないのですが、それが一定量として集まって閾値を越えた時、
急に認知が可能になり、このHL2のような跳躍(リープ)的な質の変化が現れるのです。
・また、上記の費用対効果の議論から、普通(?)のプランナーがプレゼンや説得で
こういう「量→質」効果を意図したプロジェクトを立ち上げることはできません。
(というか、仕事は強制的に上から降ってきて、プレゼンという概念すらない会社の方が多いのでは?)
日本のゲームプロジェクト毎では大部分が自転車操業ですし、
特に最近は経営者が「コスト管理」を熱病に浮かされた(うなされた?)ように繰り返しますからね。
すぐに効果を確認できない、3〜5年の投資など普通は論外でしょう。時は金なり。
・だから、例外的に日本で同じような試みができるのは、長期的視点で戦略的行動を取りうるハードメーカーか、
権力者(会社に意識的に優遇された者)だけに限られるでしょう。
機会も初期条件も均等でないので、普通(?)の開発者にとっては、アンフェアな話ですね。
まあ、そもそも、この世には完全に公正な競争など存在しないのですが。

ゲーム制作費の下方硬直性
・最近のゲーム制作費の高騰の理由として、
よくハードの高性能化が挙げられる事が多いが、
それは真実ではない。
それは根源ではなく、むしろ結果の一現象面である。
また、「映像の高画質化・美麗化にかまけていて、
ゲームの本質をおろそかにするから、金ばかりかかるんだ」
という論調も全くの的外れである(ビジュアルとゲーム性を
対立したファクターとして捉えている時点で論外)。
根源は消費者の欲求の過大化である。
平たく言えば、贅沢になったという事である。
一つのゲームをシリーズとして進化させる場合、
プレイヤーのやれる事、またそれに対するリアクションの
バリエーションを増やさなければ、消費者は文句を言う。
後発のゲームは、先発のゲームより、ゲーム性の部分でも
ボリュームが無ければ評価を落としてしまう。
よって、仮にハードが高性能化せず、ビジュアルも進化しなかった
場合を想定したとしても、ゲーム性の中心部分によって、
制作費の高騰は避けられない運命なのである。
・とんでもなく新しいゲーム性を発見した場合は話は別。

ゲーム企画の範囲
・他の消費財と異なり、家庭用ビデオゲームの場合、
同じ消費者が同じ商品をリピート購入する事は殆ど考えられませんので、
「如何に買う気にさせるか」までを立案して始めて、家庭用ゲーム企画が完結したと言えます。
ゲームを遊んでいる間だけでなく、ゲームを買う前の消費者の頭の中(心理状態)を洞察し、
場合によっては操作する事もゲーム企画の内なのです。
まさに「電源を入れる前からゲームは始まっている」のです。
・昔はゲームである事自体が、消費者の購入前の脳内をワクワクさせていたので、
電源投入後の心理操作にだけ注力していれば良かったのです。
しかし、今はそれを忘れると「ただ出来が良いだけのゲーム」になってしまうのです。

日本と欧米のゲームプログラム技術格差
・かつて、家庭用ハードの処理能力がショボかった時。
日本のゲームプログラマさんは、「いかに重く煩雑な処理を行わずに、
それらしき外見を得るか」という「なんちゃって処理技術」を磨いていました。
それが、スマートで技術力のある証だと考えていました。
で、その時一方、欧米のゲームプログラマさんは、パソコンをメインフィールドに
処理速度や操作感の向上をそっちのけ(?)で、「現実の複雑な事象を真っ正直に
シミュレートする技術」を磨いていました、というか喜びとしていました。
で、家庭用ハードの処理能力が向上し、欧米のパソコンゲームプログラマが
家庭用ゲーム機に参入してきました。
これが、今の日本と欧米の技術格差を生んだ大きな原因です。
・あと、クリエーターである事を奨励・鼓舞するばっかりで、
エンジニアである事を推奨してこなかった、日本のマスコミ等の責任も大きいですね。
ゲームを作りたいのではなく、プログラミング道を極めたいというプログラマさんを
育ててこなかったツケです。
・まあ、もっとも、「現実の複雑な事象をシミュレート」したゲームより
マンガ的でアニメ的でスニーカー文庫的な快感記号世界をシミュレートした
「ジャパニーズゲーム」の方が、個人的には気持ち良くて楽しいですが。
何たって「現実はクソゲー」ですから、そんなものシミュレートしても
「クソゲー」ができるだけですし。

子供向け市場と文化的嗜好の分化
・子供は周囲からの文化の刷り込みがまだ薄く、動物により近いので、
国が違っても割と同じ方法論が通用し易いです。しかしティーン以上になると、
刷り込みも深く、文化的嗜好の分化が始まってしまっているので、
刺激の質を最適化するのは、育ってきた文化の異なる人間には難しくなります。
特に最近のハードは表現力が上がったため、刺激の質の文化的差異も
顕著に表現し分けられてしまいます。
現状の米国市場での日本メーカーの不調の原因は、
これが一番大きいと思います。
(逆に日本で海外製ゲームがなかなか売れない理由も)

ゲームデザインは単独では存在し得ない
・「ゲームデザイン」では、入力と出力を対応づける「ゲーム構造」と、
その上を流れる情報(刺激)の「量」と「質」を設計する。
(刺激の「配置」は「ゲーム構造」が規定する)
喩れば、「回路」とその上を流れる「電流」「電圧」を設計するような
ものだろうか。但し、電子回路設計とは異なり、「ゲームデザイン」では
受け手の人間の脳内の処理を想定しながらの、まるで写し鏡を見ながらの
設計行為となる。言い換えれば、人間の脳を部品として含めた「回路」を
設計する訳である。

・「ゲーム構造」の設計について、理論的にゲーム的な最適設計を行うのは、
特に難しいことではなく、むしろ容易である。だが、あくまでそれは
「ゲームとして」に最適なだけで、その良い悪いは、受け手の嗜好の問題である。
つまり「マーケティング」の問題に行き着く。これはビジネスデザインの
問題である。

・また、刺激の「量」も、理論的にはいくらでも多く設計できる。
ただそこには、ハードの処理能力や予算等の現実的な制約がかかってくるので、
種々の取捨選択、分かれ道が発生する。
ここを「同じ制限内でどれだけの量の刺激を盛り込めるか」という逆の視点で
考えると「生産性」の問題になる。そしてこれを更に突き詰めれば、
「プロジェクトマネジメント」の問題に行き着くのである。
これはもはやビジネスデザインの領域である。

・もう一つの、刺激の「質」についても、つきつめれば、「ゲーム構造」と同様に、
受け手の嗜好の問題になってしまう。
どの地域のどの層をターゲットに、どのタイミングで投入するかによって、
最適の「質」を選択しなければならない。
つまりこれも「マーケティング」というビジネスデザインの問題である。

・結局まとめると、ゲームデザインという「設計」の問題をつきつめていくと、
ビジネスデザインという「企画」の問題になるという事である。
(もう、お分かりだと思うが、ここでいう「企画」とは職種としての
「企画」が行う活動のことではなく、「プロデュース」の事である)
逆に言えば、「設計」は「企画」の意図を受けた部品である。
すなわち、ゲームデザインはビジネスデザインに従属する。
よって、ゲームデザインは単独では存在し得ない。

クロフォード&コスティキャン
・クロフォードとコスティキャンの論の共通のウィークポイントは
「情報が実際にどのように流れ、処理されるか」という、
内部動作構造への探求が薄い事だと思います。
彼らはTRPG・ボードゲームの世界から来た人ですし、
ビデオゲームに限った話をしている訳ではないので、
当たり前といえば当たり前の話ですが。
・ただ、TRPG・ボードゲームを含めたトラディショナルゲームと
ビデオゲームは、名前に同じ「ゲーム」が入っているだけで、
出自の異なる全く別種の流れだという事に、
彼らは気が付いていない気がします。
早期に流れは合流して不可分状態になりましたが、
誕生の段階では全く無関係の別物だったのです。
奇しくもコスティキャンが例として文中で挙げている
「電灯のスイッチを入れたら、電灯が点いた。これが楽しいかね?」
という問いに「楽しいんです!!」という返答こそが、
ビデオゲームの出自なのです。本来…、
「電源を入れるとモニターが点いた!快感!」→
「モニターに何かを表示できた!快感!」→
「入力に応じてモニター上の表示が変化した!快感!」→
「モニター上の表示物体を移動操作できた!快感!」→…
という流れがビデオゲームの発生の流れなのです。
しかし、もう初期のマイコン(PETとか)の段階ですでに、
トラディショナルゲームのルール管理や人間のプレイヤーの
代わりをCPUにさせようという流れが合流してきたため、
もうゴッチャになってしまったのです。
・あ、これでは、アクションゲームこそがビデオゲームの本道と
言ってるようなものか…(汗)。
・あ、そう言えば昔、SPIの第3時世界大戦(西ベルリン侵攻)物を
買った事があったっけ…。

統一理論メモ2
・設計・製造が良くても企画にバグがあると、
「ただ良くできているだけ」で売れないゲームになる。
・「いかに買う気にさせるか」が企画の一つの視点。
もう一つの視点である「いかに作るか」というコスト概念を
導入すれば、「いかに利益を出すか」という企画の本質となる。
・素材の仕入れが料理人の才覚の一つであるように、
もはや題材の確保もゲームデザインの領域にある。
・昔は、ゲームそのものが物珍しく、入れ食い状態だったので、
設計の新規性で競争する事で事足りており、企画にそれほど
関心を払う必要が無かった。

統一理論メモ
○企画 → 設計 → 製造 → 販売
○企画 〜 ビジネススキームの設定
・上位戦略における位置づけ
・題材(INのマーケティング)
・ハード(投入市場セグメント)
・投入経営資源
・相対評価性(競合関係性) 〜 企画の進化
○設計 〜 コストとクオリティの目標設定
・理論による構造
・感覚による素材
○製造 〜 コストとクオリティの目標実現
・運営(効率性と冗長性)
・設計へのフィードバック
○販売 〜 OUTのマーケティング
・価格
・プロモーション
・流通
・企画へのフィードバック

商品ライフサイクルと企画の進化
・ある商品ジャンル自体のライフサイクルが終端に向かって行く(革新性に基づく
魅力が薄れていく)につれて、企画や競争の一般性は高くなっていく。
同時に価格の価値尺度性も上がっていく。
(これはゲームだけに限らない事だと予想される)


第1段階
いかにそのゲームを面白くするか 〜 ミクロゲームデザイン(フィーチャーの企画)
同じゲームジャンル内での競争
製品開発戦略


第2段階
いかにそのゲームを選ばせるか 〜 マクロゲームデザイン(題材・システムの企画)
ゲーム市場内での競争
セグメント市場競争戦略
価格に比較尺度性の萌芽が見られる


第3段階
いかにそのゲームを買う気にさせるか 〜 マーケティング(商品の企画)
他の娯楽との娯楽市場内での競争
マス市場競争戦略
価格が相対的な価値尺度性を持ち始める


第4段階
いかにそのゲームで儲けるか 〜 ビジネススキームの企画
一般消費財との一般的競争
経営戦略
価格が絶対的な価値尺度性を持ち始める

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