任天堂のフィロソフィー


京都の一隅、花札屋



    任天堂の歴史は、日本の古都は京都より始まる。室町時代、 聖護院御殿(天皇の夏の御所)前にあった居宅を、明治に生きた一人の職人が買い取り、店を開く。



【 明治の古都、花札工芸家 】


任天堂の創業は1889年(明治22年)9月23日。
名高い工芸家であった山内房治郎氏(現在の山内溥社長の曾祖父)が、 「京都市文京区正面通り大橋西入る」−京都の北東部、平安神宮近く−の地において 「任天堂骨牌」を創立、花札の製造・販売を開始したのがその歴史の始まりである。



温厚な彼は森羅万象の魂を畏敬し、自然と懸命に闘い、「花札」という形へ昇華させた。

古くからの伝統技法に従い、ミツマタの樹皮を叩いてほぐし、粘土を少し混ぜ、それを漉いて乾燥させる。 そして出来た紙を成型し、何枚か重ねて厚く硬い板紙を作る。 自ら製作した木製の印刷器を押し当て、花札の輪郭を打ち出す。 そこへ合羽版を当て、開いた穴に花弁や果実で作った絵具を塗り付ける。

図柄が絵具で埋まっていくと、色彩豊かな絵−日本の季節感、自然感の組み合わせ−がとても美しく浮き上がる。 房治郎はその花札の裏に「大統領」の印を押して自分の花札の象徴とした。


彼の花札は京都と大阪で販売され、それらの地域では最も高い人気を誇った。 そして、花札がいつしか賭博場で使われるようになると、それに合わせて事業も大きくなる。 「大統領印」の花札がもつ色艶・打ち音は極道の気高い美意識に適ったし、プロの博打打ちは、 勝負の度に新しいのを下ろしたから、任天堂骨牌の花札収益はどんどん伸びていった。


しかし房治郎はここで満足せず、更なる事業展開を行う。
1907年(明治40年)、日本で初めて(2年前に外国から輸入されていた)トランプの製造に踏み切る。と同時に、販売市場の拡大化を模索する。

そこで目をつけたのが、当時全国的な流通網を持っていた国営企業「日本専売公社」(タバコ産業)だった。 タバコの箱と花札・カードのケースがほぼ同じ大きさだった事、 花札は主に賭博場で使われており、そこでは同様にタバコもよく吸われていた事、 なにかと都合がいい。

日本専売公社と交渉を成功させ、結果、任天堂骨牌の花札はタバコ流通に乗って全国で販売されることとなる。 そしていつしか「大統領印の花札」は全国的なブランドへ成長し、 花札を(賭場だけでなく)大衆の間にも広く浸透させていくことにもなった。

任天堂骨牌は初代房治郎が隠居する頃には日本最大のカード会社へと成長していた。


    「任天堂」社名の由来

    房次郎がつけた「任天堂」という社名、今となってはその由来は分からない。
    「一生懸命やるが、最後にはその成否を天に委ねなければならない」という意味だろうか。
    中国の故事成語「人事を尽くして天命を待つ」から取られたという説もある。

    現在の任天堂の社史には
    「人生一寸先が闇、運は天に任せて、与えられた仕事に全力で取り組む」と記されている。





【 二代目積良 】


房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかった。そのため娘の婿養子として、 −勤勉実直な青年−金田積良(改め山内積良)を迎え、跡取りとした。
1929年(昭和4年)、山内積良が任天堂骨牌の二代目社長に就任する。
彼は、家業の他に不動産業にも熱心で、京都は東山地区の土地を入手していく。


1930年当時の任天堂営業所正面
1933年(昭和8年)、合名会社「山内任天堂」を設立。
本店を鉄筋コンクリート構えの建物へ移した。

1947年(昭和22年)に株式会社「丸福」−卸専門の子会社−を設立。かるたやトランプの製造販売を始める。

同時に彼は、社内体制の近代化・合理化を行い、生産能率を上げ経営効率を高めた。 社員達は厳格な上下階層の中で、激しい業績争いにしのぎを削った。





【 念願の男の子誕生 】


積良と妻との間に生まれた子供も先代同様、娘ばかりだったため、 三代目の跡取りとして、長女の婿養子に−工芸家の家に生まれた−稲葉鹿之丞を迎え入れた。

1927年、鹿の丞と妻との間に男の子が生まれる。任天堂創業以来(山内家三代にして)初めての息子には、 博(ひろし)と名付けられた。

博が5歳の時、3代目として跡を継ぐはずだった父、鹿の丞が突如出奔(蒸発)してしまう。 博は母親からも離され、祖父母の元で育てられる。 博はおばあちゃん子で、なんでも好きなようにさせてもらった。 慣習に倣って厳しい教育も受けたが、跡継ぎとして甘やかされ、自由に伸び伸びと育てられた。 彼は生意気でひねくれてもいたが、新しい物好きで、好奇心旺盛な子に育っていった。

1940年、博が中学校生の頃戦争が始まる。彼は学徒動員によって軍需工場で働いた。
1945年、敗戦とともに、 博は「なんとなく遊びに行きたかったから」との理由で京都を離れ、東京は早稲田大学へ。 祖父が孫のために購入した渋谷の松濤(高級住宅街)の豪邸に移り住む。

学生生活は、勉強はそこそこに毎日のように遊びに出かけた。 ビリヤードに熱中し、月に数回はレストランでステーキを食べワインや酒を飲んだ。 京都の金持ち社長の息子として花柳界でも有名な彼は、贅沢で羽振りのいい自由奔放な学生生活を送っていた。

しかしまもなく転機が訪れる。祖父積良が病に倒れ危篤、死の床に伏す。
彼は急遽京都に戻り、三代目社長として家業を継ぐことになる。
彼がまだ若干21歳の時のことだった。





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