任天堂のフィロソフィー


プレイングカード時代



    祖父の危篤を聞いて、山内家三代で初めての男の子であった山内博氏は急遽京都に戻ることになる。 そして彼は、(出奔した父に代わって)若くして家業を継ぐ。



【 22歳のボンボン社長 】


跡継ぎを遺言する病床の積良に、博は「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」と言い、 祖父はその条件を呑み、会社にいた山内家の従兄弟達を会社から退けた。

1949年(昭和24年)、祖父積良の他界によって、 孫である山内博氏が(早稲田大学を中退し)22歳の若さで社長に就任する。

任天堂骨牌は小さいながらも立派な全国ブランドである。 社内には、「こんなボンボンで大丈夫か」と冷ややかな空気が流れ、 就任早々社員100名以上のストライキに合う。

山内はそんな洗礼にもめげず、持ち前の決断の速さと楽観主義で危機を乗り切り、 「若いのになかなかやるじゃないか」との評価を獲得していった。

1951年、山内は社名を「任天堂カルタ」に変更し、高松町に本社機構を移す。 生産機能をそこに集中させ製法の現代化を押し進めると同時に、目障りな古参社員を首にした。


そして彼は大ヒット商品を生む。

1953年(昭和28年)、日本で初めてトランプの素材にプラスチックを採用、 その製造に成功したのである。 プラスチックトランプは高級でハイセンスなイメージも生み、大ヒットとなる。
今ではトランプはプラスチックが当たり前だが、当時としては正に革新的な商品だった。



1959年(昭和34年)には版権にうるさいディズニーとの交渉を成功させ、 「ディズニートランプ」を発売、子供向けトランプという新境地を開拓し、空前の大ヒットとなる。
TVとタイアップし大量のCMを打って宣伝したのも勢いづけた。
さらにプレイガイド(トランプを使用した代表的なゲームのルールや手品などのマニュアル本)を同梱。 これが思いがけなく好評であり、売り上げにも多大に貢献した。

これを機に、 「ハード」(カード・道具)に「ソフト」(キャラクター・遊び方)を 付属して売る方法を覚え、その重要性を知ることになる。


    トランプのイメージを変えたのは

    当時トランプと言えば、西洋のギャンブルに使う道具といった 花札に似た妖しいイメージがあった。
    山内は、プラスチック素材への改良、ディズニーキャラクターの採用、TVCMによる宣伝、 プレイガイドによる遊び方の啓蒙など、斬新な手法を多様に用いて、 トランプがもつ胡散臭いイメージを払拭し、大ヒット商品に育て上げた。



この間の1956年(昭和31年)に、山内はアメリカに渡っている。 世界最大のトランプメーカーである「USプレイングカード社」の視察が主な目的だった。
「どんな広大な敷地が現れるか」と、期待に胸を躍らせて車の窓から外を見つめていた 青年社長の前に現れたのは、ただのちっぽけな中小企業でしかなかった。 この時山内は、『カードを業にする限り、世界一でもこんなもんか』と、大きなショックを受ける。


1962年(昭和37年)、山内は任天堂を株式大阪証券取引市場第二部に 「ディズニートランプが売れていたのであまり深く考えずに」 上場。株価も900円前後まで上昇していく。

こうして任天堂は地方の有力企業へと名乗りを上げ、株主のためにも 家業であるカード会社から脱して成長を続けなければならなくなる。




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