任天堂のフィロソフィー


エレクトロニクス産業へ(上)



    エレクトロニクスへ向けて、山内は1965年から理工系大卒者の採用を始める。
    当初は、地方の中小企業「カルタの任天堂」には理工系学生は来てくれなかったが、 努力の末徐々に増え、少しづつエレクトロニクス玩具が開発されていく。



【 横井軍平とハイテク玩具 】


最初のヒットは、花札の製造ラインで設備保守の仕事をしていた横井軍平がもたらした。
彼が暇つぶしに部署にあった機械で作っていた何気ない玩具に山内社長が目をつけ、
「任天堂はゲームメーカーだから、ゲームとして商品化しろ」と指示。

1966年(昭和41年)、それが「ウルトラハンド」(¥800円)となって売り出される。
テレビ宣伝もあって140万個も売れた。当時としては思いがけない大ヒットだった。


これを受けて山内は「開発部」を新設、横井を設備保守の仕事から開発部へ転属させた。
「君は電気設備の点検はいいから、新しい物ばかりつくれ」との社長命令を聞いた 横井は期待を裏切らないよう必死で猛勉強し、次々とアイディア溢れる新商品を開発していく。


1968年(昭和43年)、「ウルトラマシン」(¥1480)の開発・商品化。
電動でピンポン玉を発射する小型のピッチングマシンだがこれも大ヒット。 ジャイアンツV9の初期の頃でバッティングセンターの盛況もあり、3年で200万個を売り上げる。

またその3年後には潜望鏡を模した「ウルトラスコープ」(¥2980)を開発・販売。
TVCMは「車に乗った子供がスコープを使って前方の渋滞状況を眺めている光景」だったとか。 売れ行きは値段もあって前の2つには及ばなかったが、人気はあった。


横井氏の手掛けたウルトラ三部作
ウルトラハンド

「折り畳まれていたものが伸び縮みする『動き』が面白い。」
「アニメロボットの腹開けパンチ映像から無意識に」〜横井談。
ウルトラマシン

「昔友達がピンポン玉を投げさせて竹の物差しで打って 喜んでいた時の印象から」〜横井談。
変化球も色々投げられる。
ウルトラスコープ

子供たちは、高いところ−垣根や塀ー からレンズの向こうの別世界を覗き見したり、 隠れんぼやスパイ遊びに使った。



この間にも、任天堂とその開発部は様々な商品を売り出している。

日本グランプリでF1人気全盛期には、模型自動車を発射する「ショットレーサー」
ハイカラが世でもてはやされると、高級感を売りにした「シャルマントランプ」を発売、
自由恋愛の風潮が芽生える頃には、手を握って愛情度を量るマシン「ラブテスター」

時代のニーズに寄り添い、その隙間を埋めるかのような玩具を世に送り出した。




【 多角化経営へ模索 】


 この頃から任天堂は多角化経営の道も探っている。
 家庭用の簡易コピー機「コピラス」等事務用機具に始まり、
 文房具−定規やノート−、学生用の教材なども手掛け、
 フラフープが流行れば、「ヒップフリップ」なる運動具、
 果てはベビーカーなど育児用品も手掛けている。


しかしどれも失敗。しかも多額の資金を投入していた為、会社は借金の固まりで、
いつ潰れてもおかしくないギリギリの状態が続いていた。

そしてこの時山内は 『単純なアイディアで挑戦するのではなく、 全く新しい市場を切り開かなければ伸びることはできない』との 思いを強くする。



    後年、山内社長述懐す

    「この時ばかりは、生まれて初めて金の心配をした。 上場企業の経営者という体面上も、とにかく頑張らざるを得なかった。 それが結果的には幸いした。もし上場していなかったら 会社を潰していたかもしれない」。 ・・・子供の頃から金に困ることのなかった彼も金策に駆け回る。

    会社が存続できた根底には「花札・かるた・トランプ」といった 地味ながら安定した利益を上げる定番商品があったからだった。






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