任天堂のフィロソフィー

ファミリーコンピュータ



    「ゲーム&ウォッチ」の世界的な大ヒットで資産を蓄えた任天堂。 やがてその力をアーケードゲームへ移行、「ドンキーコング」シリーズ、 「マリオブラザーズ」「アイスクライマー」「レッキングクルー」 「バルーンファイト」等ヒット商品を生んでいく。

    こうして任天堂はゲームのソフト・ハード両輪の力を養い、ノウハウを積み重ね、 そして新たな「マルチソフト型家庭用ゲーム機」の開発を始める。



【 アタリVCSの成功から 】


1977年にアメリカでアタリが発売した家庭用ゲーム機「アタリVCS」は 1980年代に入ると爆発的な大ブームを呼び、 82年までにアメリカで1500万台の普及を記録した。

それは「カセット式」を採用した家庭用ゲーム機で、カセットを変えれば また新しいソフトが遊べるような仕組みになっている。 任天堂の手掛けてきた「ソフト内蔵方式」ではない。

中途半端な機能性(弱い映像・音声表現)もあり 『こんなもん、日本では通用せえへん。』と低い評価をしていた 山内社長も、この大ブームを見て考えを変えることになる。



    1980年頃から日本・アメリカの玩具・家電メーカー各社が家庭用ゲーム機を相次いで発売 し、家庭用テレビゲーム市場は、戦国時代(乱立状態)を迎えていた。


      80年代初頭の主な家庭用テレビゲーム機
      発売時期製品名メーカーCPU(bit)価格
      81/07カセットビジョンエポック4bit13,500
      82/06インテレビジョンバンダイ16bit49,800
      82/09オデッセイ2フィリップス8bit − 
      82/10ぴゅう太トミー16bit59,800
      82/11ゲームパソコンタカラ8bit59,800
      82/11マックスマシーンコモドール8bit34,800
      82/11ダイナビジョンヤマギワ16bit34,800


    当時の日本ではパソコンが一般の人々に渡り始めた頃で、どの企業も テレビゲーム機のコンセプトにパソコンとの関わりを考慮に入れた。
    キーボードを付けたり、プログラムが組めたり、ゲームだけでなく 汎用性も持たせたから、それら「ホビー用パソコン」の 価格帯は4〜5万円が主流だった。




【 家庭用ゲーム機の開発 】


『少なくとも他社が一年は追随できないものを作れ。』
これが新たな「家庭用ゲーム機」開発に当たって、山内社長の与えた至上命令である。

これを実現するには、(競合各社と比較し)技術・価格両面で画期的でなければならない。
しかも山内が設定した目標価格は、9800円。それでいて機能でも他社を凌駕せよ、と。

新しい家庭用ゲーム機−開発コードは「ヤングコンピューター」−の ハードウェア開発は、開発二部部長、上村雅之が担当する。・・・徹底的なコストダウンと優れた機能性・・・。

上村はまず、他社のゲーム機を研究した。 どれも様々な長所があったがゲームに直接関係ない部分が多い。 彼は宮本茂らデザイナーを始め業務用ゲームの開発チームと協力し、 ゲームに必要なエッセンスを見極め、 それに必要な機能に特化させる事にした。

中央演算装置(CPU)は価格の面から8ビットに決定。 当時アップルコンピューターに使われていたCPUー6502を選択。 画像処理用のチップ(PPU)には専用ICを開発。色数・スプライト数・ 処理スピードの実験を繰り返しては修正し、最大数を決めていった。


    「スタジアム」

    この家庭用ゲーム機の開発者達はこれを「スタジアム」と呼んでいたという。
    「スタジアム」・・・家庭でいろんな人たちがいろんなゲームで遊べる競技場・・・。

    言い換えれば、「家庭用ゲームセンター」、ゲームセンターのゲームが遊べるゲーム機。
    そんなコンセプトに乗っ取り、ソフトウェアを軸にしたハードウェア開発が行われた。



1982年(昭和57年)、TV画面を256×240に分割、一つ一つのドットに54色の制御ができる 当時の業務用ゲーム機並のゲームを再現できるカスタムチップを開発。

チップ開発提携先の「リコー」と価格交渉。「納入価格2000円以内」には難色を示すが、
山内社長の『2年間で300万個の購入を保証してやりなさい』との言葉にリコーは要求をのみ、 15000円を切る本体価格が実現した。

筐体とコントローラーは、横井率いる開発一部が担当。 筐体には原価の安い赤と白のプラスチックを使ったデザイン、 方向指示パッドには、丈夫でコストの安い「十字キー」が採用され、 ボタンを2つ置き、 2つのコントローラーの内一方にはマイクロフォンを付けた。



      83年発売の主な家庭用テレビゲーム機
      発売時期製品名メーカーCPU(bit)価格
      83/03アルカディアバンダイ8bit19,800
      83/05アタリ2800アタリ8bit24,800
      83/07ぴゅう太ジュニアトミー8bit15,200
      83/07SC−1000セガ8bit15,000


    83年に入ると、ゲーム機の価格帯は2万円前後が主流を占めるようになる。
    しかし、トミーやセガはパソコンの概念から抜け出すことができなかった。
    バンダイは万全を期して「アルカディア(高速船)」を発売する。



1983年(昭和58年)5月、発売に先立ち、山内社長の初心会(問屋業者会)演説。

「この『ファミリーコンピュータ』と名付けた新しいゲーム機器の値段は、 一万四千八百円とします。実を言えば、この値段ではうちは大して儲かりまへん。 問屋はんにも十分といえるような儲けは確保できまへん。 ご不満はあるかと思います。けれどソフトの面白さで必ず台数が売れます。」



    ファミコン発売に於けるポイント

    ファミリーコンピュータ発売に於ける戦略。(アタリVCSに見習った部分も)

    (1)低価格設定・・・ハードは親が子供に買い与えられる程度の値段を目標に極力抑えた。
    (2)優れた性能・・・パソコン的な虚飾を一切排し、ゲームをする機能だけに特化させた。
    (3)ソフト重視・・・ゲームソフトを最も重視し、多彩で充実したラインナップを敷いた。
    (*ハードで儲けるのではなく、ハードを普及させソフトで利益を上げる発想・戦略)

    この時既に山内の頭の中には
    「ユーザーはソフトがやりたくてしかたなくハードを買うんです」ことと
    「ユーザーは常に新しいソフトを欲しているんです」という考えがあったと思われる。





【 ファミリーコンピュータ 】


1983年(昭和58年)7月15日、「ファミリーコンピュータ」発売。
同時発売ソフトは、「ドンキーコング」「ドンキーコングJR」「ポパイ」。 一月後には「五目ならべ」「麻雀」、更に 「マリオブラザーズ」が続き、 11月に「ポパイの英語遊び」、12月に「ベースボール」「ドンキーコングJRの算数遊び」

1984年(昭和59年)初頭から「テニス」「ピンボール」、 光線銃シリーズ「ワイルドガンマン」「ダックハント」「ホーガンズアレイ」、そして 初夏には「ゴルフ」等が続く。



ファミリーコンピュータのソフトウェア(1)
    マリオブラザーズ
(C)Nintendo

土管から出現する亀やカニを 床下から叩き転覆させる。 2人プレイの面白さを引き出した。
    ドンキーコングJR.
(C)Nintendo

マリオに捕まったコングを Jr.が助けに行く。鍵開けや ツルを使った昇降など デザインも良好。
     クルクルランド
(C)Nintendo

ターンポストを回りながら、 隠れされた金塊を探す。 敵は電波で気絶させる。 アイディアが秀逸。




バラエティに富む充実したソフトラインナップ−業務用の移植・対戦型・思考型ゲーム−で牽引し、 発売から半年で47万台、翌年には165万台を売り、独走態勢に入った。






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