任天堂のフィロソフィー

サードパーティと市場管理



    任天堂は初め、他のゲーム機メーカー同様ファミコン用ソフトを自社だけで独占して作っていた。 が、ソフトの不足感と他のゲーム機との差別化から、山内はサードパーティに参入を認める。 そしてその際、独自のライセンス供与制度で管理した。



【 アタリショックから 】


1982年末、アメリカで爆発的な普及を見せた「アタリVCS」の巨大市場が崩壊する。

ブームに便乗して多数のメーカーが参入、アタリ社はなんの歯止めもかけなかったから、 市場に質の低いソフトが氾濫、消費者は相次ぐ粗悪ソフトに呆れ果て、 遂に誰も見向きもしなくなった。 結果一時は30億ドルを越えていた市場が、一億ドル以下に急激に萎む。

商品として大成功を収めた「アタリVCS」の市場が突然 世の中から姿を消した。なぜか。

任天堂はこの疑問を深刻に考え、法律研究家らと検討を重ねた末、独自の技術や販売制度を考案し、 ファミコン市場を管理するためのシステムを作ることになる。



    山内の弁−ATARIショックに関して−

    「結局ね、ユーザーというのはすぐに飽きるんです。 最初は目新しくて、みんなが飛び乗ったんです。 ユーザーも最初はついてきてくれた。 しかしユーザーというのは、すぐに飽きますから。」

    「いかに一つのハードで、たくさんのゲームが遊べる、と言ったって、 どのゲームで遊んでみても、そこに新しいおもしろさや魅力がなければ駄目です。 それを私たちは見ていたわけですね。だから、市場がつぶれてしまったんです。」

    「例えば10のうち1つでも2つでも素晴らしいゲームがあれば、 それに需要が集中してマーケットを維持できるんだけれども、 何百種というソフトが出てきて、どれもこれも駄目だとなると、 ユーザーはそれこそ、あっという間に見放してしまうんです。 それが娯楽の世界です。」

    「テレビゲームなんて娯楽でしょ。生活必需品ならともかく、 テレビゲームは別にないから生きられないというものじゃないんんです。」

    「だから、ゲームなんてユーザーにとっては、いざとなったっらなくても 差し支えないということです。 おもしろくもおかしくもないゲームに、高い金を払って付き合う義理は まったくないでしょう。」




【 市場管理の思想 】


ファミコン市場で、アタリショックの二の舞は絶対に避けなければならない。
任天堂は「ハードメーカーがソフトの品質を維持し粗製濫造をチェックする仕組みを 作らなければ"アタリショック"は避けられない。」との考え方から、独自のシステムを創案する。

任天堂はまず商標に頼る。 『ファミリーコンピュータ、ファミコンは任天堂の商標です』。 これをファミコン関連の商品全て−パッケージ、カセットの裏、説明書、雑誌や書籍など−に 掲載し、商標を確立、ブランドでのただ乗り商法を禁ずる 「不正競争防止法」に訴えることができる。 (メーカーは任天堂の了承を得ずに「ファミコン」の名称を使えない)


更にサードパーティがファミコンソフトを製作するには任天堂とライセンス契約を結ぶ必要があるとし、 ライセンス供与に際しソフトメーカーに以下の3つの条件を約束させた。

    (1)ゲーム内容について任天堂の審査を受けること。
    (2)ソフト製作本数を(協議の上)年間1〜5本以下とすること。
    (3)ソフト生産は任天堂に委託し、その際、前金で製造費を支払うこと。

こうした受託生産方式に乗っ取り、厳しい条件の下、市場を管理するシステムである。


任天堂は、「商標による不正競争防止法」、後に開発された「キーシステム」のバージョン変更を盾に、 また、初心会(後述)による流通支配によって市場を守る仕組みを作った。



    初心会

    任天堂は、試行錯誤時代から組織化していた玩具流通会社の集合体「ダイヤ会」を 「初心会」と改め、その玩具ルートをファミコン・ファミコンソフトの販売に活用する。 「初心会」は任天堂と(玩具流通を担う)一次問屋の親睦団体で、初めはプレイングカード、後の 「ゲーム&ウォッチ」など商品を通じて、 大手50社以上の大流通組織として形成されていた。

    家庭用ゲーム機の販売はピーク時には玩具問屋の総売上の70%にも達したというから、 ファミコンが圧倒的なシェアを持つと同時に流通に於ける任天堂の支配力も強まった。





【 サードパーティに開放 】


任天堂が最初にライセンス供与をしたのは、 当時パソコンソフト大手「ハドソン」と、 業務用ゲーム機の最大手「ナムコ」だった。 両社は84年夏頃からソフトを売り出す。

ハドソンは「ナッツ&ミルク」に続いて出した「ロードランナー」が140万本の大ヒット。
ナムコも「ギャラクシャン」「パックマン」に続いて発売した「ゼビウス」が150万本を記録。

ハドソン・ナムコに続き、タイトー、コナミ、カプコン、ジャレコ各社が参入。 任天堂はこの六社までは初期ライセンス企業として優遇した。 (本数制限なし、自社ラインで生産可能等)

これら六社は、ファミコンのシェアの大きさに魅力を感じ、自社のソフト開発力をフル活用、 それぞれ得意分野であった業務用ゲーム・パソコンゲームの優れた移植を行う。

続々と発売される人気・優良ソフトが子供から大人、ゲームマニアまでを吸引し、「ファミコン」の売れ行きを加速させ、 1984年末の玩具商戦は「ファミコン」一色となった。


ナムコやハドソンの大成功を見てソフトメーカーが続々参入を希望を始める。 これを機に任天堂は「受託生産方式」に乗っ取った厳格なシステムを義務づけることになる。




    「任天堂はダビング業」

    この頃から山内社長は 「うちはメーカーではなく、"ダビング屋"だと思って下さい」と語るようになった。 "ダビング屋"・・・ソフトウェアを受託生産することで収益を得ている下請け企業・・・。

    任天堂はこの独自の仕組みを作り上げたことで、 リスクなしに莫大な利潤を得ることができるようになった。 任天堂の高収益の源泉はこの仕組みにこそあるのだ、ということか。




こうして任天堂は、アタリショックの二の舞を避けるため、 粗製濫造を防ぐシステムを構築し、その支配下にサードパーティを置き、 自らの利益構造を作り上げた。
(質の低いソフトも多かったから、品質維持というのは名目でもある)

サードパーティによる優良ソフトがファミコン人気を加速させる中、 任天堂の宮本茂は、ファミコンの能力を活かしたゲーム史に残る傑作を世に送り出す。





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