任天堂のフィロソフィー

ゲームボーイ



    80年代前半に世界中で大ヒットを飛ばした「ゲーム&ウォッチ」は 基本的に1台につき(内蔵された)1種類のゲームしか遊べなかった。
    (ユーザーは別のゲームを遊びたいと思ったらもう一台買う必要があった。)

    ソフト内蔵方式の「ゲーム&ウォッチ」から8年、 横井率いる開発第一部チームは、カセットによってソフトを取り替えられる方式の 携帯型ゲーム機を開発する。



【 携帯型のファミコン 】


(設計面はファミコンと同レベルで) 「ファミコン(14,800円)より安い値段で売り出す」
これがマルチソフト型携帯ゲーム機に課せられた至上命題だった。

携帯型だから、液晶モニターを取り付けなければならない。 この値段ではカラーは不可能だからモノクロに。液晶は「ゲーム&ウォッチ」の流れからシャープと協力して開発。

当初は「ゲーム&ウォッチ」に使った電卓用のTN液晶 (電卓を使うときに見やすいように、斜め下から見やすくなっている液晶)を採用した。 横井はシャープがTN液晶で作った試作品を見てOKを出し、 シャープは40億をかけて専用の製造工場を作る。

が、その試作品を見た山内社長は「なんだこれ。見えへんやんか。」と。 確かにこのゲーム機は「ゲーム&ウォッチ」より本体サイズがかなり大きいから、 プレイヤーは真正面かやや上から覗き込む格好になる。 この液晶では正面から画面が見にくい。

山内の「どうすんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや。」 との言葉に横井は絶望の淵に立たされるが、駄目でもいいからとシャープに依頼した (コントラストはいいが、表示スピードが遅い) 「STN液晶」が、思いがけず成功。

STN液晶は、正面からはっきり見える。スピードを優先するとコントラストが落ちるが、 人間の目が自然に補正してくれる。両方のバランス調整をして液晶モニターが完成した。



    山内の弁−モノクロにした理由−

    「カラー化が常識とされる時代の中でモノクロ商品を出して、 これは任天堂少しおかしいのと違うかといった見方がありましたね。 だから、あまり売れないんじゃないか、と。 しかし、この商品というのは、どこでもいつでも遊べるもの。 汽車の中でも飛行機の中でも、あるいは海水浴に行っても、 山に行っても、どこでも持ち歩きが出来て遊べる、それが狙いだったわけや。 そんな商品を作れば日本だけでなくアメリカでも、 あるいは他の世界の国々にも大きく売れるんじゃないかと思ったわけね。」

    「ところがカラー液晶というのは、今の技術では太陽の下へ来ると見えにくく なってしまう。さらに単三の乾電池を使って、モノクロの10分の1しか時間がもたない。 そんな商品は、そもそも携帯ゲーム機としてユーザーの満足を得ることはできない。」

    「だから任天堂は、ゲームボーイをモノクロ液晶にしました。」




携帯型ゲーム機の開発にあたり、横井はコスト削減のため削れるものは全て削ったが、
「あまり深く考えず、つけてもそうコストは上がらないし、 なにかそこで面白いゲームが出てくることが期待できる」という理由から 「通信機能」を付けた。
(お互いのゲームボーイ同士を通信ケーブルで繋ぐことでデータのやりとりが出来る。)

もう一つ、当初このゲーム機の電源はアダプターによる充電式を前提に開発されていたが、 山内社長の「外人は充電してまで遊ばない」という一声で電池式に変更する。

こうして、世界初のモノクロ(白黒)液晶ディスプレイ付き携帯型ゲーム機が誕生した。
(ゲーム機の名称は、コピーライター糸井重里が名付けることになった。)




【 ゲームボーイ登場 】


1989年4月21日、「ゲームボーイ」発売。12800円の低価格。
(単3アルカリ電池4本で35時間使用可能)

同時発売ソフトは 「スーパーマリオランド」「テニス」「ブロック崩し」
(ソフトの値段は2600円〜と極力抑えられた。)

ゲームボーイは子供にも大人にも売れた。そして世界中で販売された。 子供はどこでも遊べる魅力にすぐに飛びついたし、 サラリーマンやOLは仕事の合間に遊んで気分をリフレッシュした。



こうして任天堂は、「ゲームボーイ」という商品を軌道に乗せ、 (一家に一台の家庭用ゲーム機とはまた違う)、 一人に一台の携帯型ゲーム機という新たな市場を開拓した。



    ソニーの「Game Man」?

    当時、ソニーもゲームボーイと全く同じもの、 「液晶画面を使ったマルチソフトの携帯型ゲーム機」を 開発していました。そう考えると、確かにソニー然としたコンセプトのマシンです。

    ソニーは、携帯用トランジスタラジオや、携帯型カセットプレイヤー「ウォークマン」を 世に出していましたから、その流れで携帯型ゲーム機を開発していたのでしょう。

    結局、任天堂の「ゲームボーイ」の爆発的なヒットによって、企画は終わりました。




NOAの荒川は、当時業務用で大ブームを呼んでいたゲームソフトに目を付けていた。
そしてこのゲームの販売権を獲得、任天堂はゲームボーイ用ソフトとして開発する。



【 対戦型テトリス 】


横井は、ゲームボーイ向け開発に当たって「テトリス」を徹底的に研究し、 操作性を改良、新たなゲーム性を付加した。
それが「通信ケーブル」を活かした対戦のできるテトリスである。 プレイヤー同士がお邪魔ブロックなどで相手側を攻撃できる。
しかも対戦中に相手の画面を見ることができないから、 心理戦に似た独自の面白さを生み出した。


1989年6月14日、「対戦型テトリス」発売。 同時に「通信ケーブル」発売。
すぐに圧倒的な人気を得、「テトリス」と「ゲームボーイ」は、同時に大ブームとなる。

この2つはセットになって世界中で発売され、どこの国でも大ヒットになった。
(現在までに全世界で5000万台販売し、「ゲームボーイ」は世界共通語になった)

後に山内社長自身、
「テトリスというソフト。単純で分かりやすくて、子供から大人まで、男も女も 多くの人たちが楽しむことの出来るようなあのソフトが、ゲームボーイというハードウェアを 短期間のうちにここまで伸ばしていくのに貢献したことは間違いないわけです。」 と語っている。



ゲームボーイのソフトウェア
スーパーマリオランド
(C)Nintendo

スーパーマリオのGB版。 シューティングもあるなど面構成が凝っている。 (ルイージはいない。)
ゼルダの伝説夢を見る島
(C)Nintendo

ゼルダ世界が違和感なくGBへ。 アクションも操作性もストーリーも 見事に練り込まれたARPG。
星のカービィ
(C)Nintendo

吸い込んで吐き出すキャラクター カービィのデビュー作。 横スクロールのかわいいアクション。



「ゲームボーイ」の成功を見て、競合各社がカラー版の携帯ゲーム機を発売する。 セガ「ゲームギア」、アタリ「リンクス」、NEC「PCエンジンGT」等だが、 どれも普及しなかった。



    テトリス事件

    テトリスは最初、ソ連から、 イギリスの「ミラー社」が商品化権を取得した。 「ミラー社」は1987年にパソコン版テトリスを発売。 そして「ミラー社」から「アタリ社」が 権利を取得し業務用テトリスを、子会社「テンゲン」がNES用を売り出す。
    そして、「アタリ社」から「セガ」が日本版の業務用とメガドライブ用の権利を得、 「テンゲン」から「BPS」が、ファミコン用とパソコン用の権利を取得する。

    そんな折り、「ゲームボーイ」に「テトリス」が不可欠と考えた任天堂は、 「携帯型ゲーム機向け商品化権」を取得しようと、 ソ連に使者を送る。ところがこの時、実はソ連側が 携帯型は勿論、家庭用ゲーム機版の権利も売っていない事 (「ミラー社」にパソコン向けしか売っていない事)が判明、 直ちにNOAの荒川社長がソ連に飛び、両方の権利を数千万ドルで獲得する。

    これで煽りを食らったのが「アタリ社」と「セガ」で、 両社は取得していた権利がまがいものだと分かり、販売中止を余儀なくされた。 セガは「うちの調査が甘かった」ことを認めている。




横井軍平によって創り出された「ゲーム&ウォッチ」は「ゲームボーイ」へと進化を遂げ、 携帯性・マルチソフト型ゲーム機というジャンルを生み、新たな市場を開拓した。

そして後に、「携帯性」と「通信機能」を組み合わせた新しい遊びが発明されることになる。






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