任天堂のフィロソフィー

山内溥の選択(上)




    任天堂の飛躍的な成長は、山内溥社長の経営手腕によるものが大きいと思われる。 それを支えるのが、彼自身の類い希な先見力と本質を見抜く直感力である。




【 山内博の生い立ち 】


<家庭環境・時代背景>

1927年(昭和2年)11月7日、京都に於いて、父・稲葉鹿之丞(工芸家の息子)、母・君(きみ、積良の長女) との間に長男として生まれる。任天堂創業以来、山内家三代で初めての男の子だった。 博(後に溥と改名)と名付けら大事に育てられる。

博が5歳の時、父鹿之丞が山内家から出奔、行き先をくらましてしまう。 博は母親(離婚直後から子会社で働いた)からも離され、 祖父母の元で養育されることになる。 彼は、全国的な花札ブランド任天堂の御曹司として、厳しくも甘やかされ、 自由に伸び伸びと育つ。

1940年、中学に入った頃、太平洋戦争が始まり、 学徒動員令によって軍需工場で働く。 戦時中食料難の時期でも(祖母の蓄えで)米飯を食べられた。 監督官に米飯を持参し苦作業を免れた。 彼が徴兵年齢に達した頃、日本の敗戦色が濃厚になり、やがて終戦。

1945年、彼は早稲田大学法学部に入学する。 また縁談により、稲葉美智子と結婚。


<青年期にぶつかった出来事>

彼は大学生活を東京で送る。自由で贅沢な生活を謳歌している頃、 祖父積良が病で倒れ、彼は22歳で家業(社員100名程度のカード会社)の後を継ぐことになる。

彼の青年期に於ける一番大きなショックは、1956年(昭和31年)、 世界最大のカード会社「USプレイングカード社」への渡米視察での出来事だろう。 「業界最大と言われるだけに、さぞ大きな会社だろう」 と期待に胸を膨らませていた彼の目の前に現れたのは、ただの中小企業に過ぎなかった。___ 彼はそこで「カードを生業にする限り、こんなもんか」と落胆し、 カード(花札・かるた・トランプ)ビジネス環境の小ささ、狭さを思い知らされる。


<青年期に抱いた夢や希望>

渡米視察でのショックを期に、山内は、カード会社からの脱却を図り、模索を始める。 ここが重要な点で、そこいらの経営者ならカード市場の分限をわきまえて、そのままであろう。 しかし彼は若かったせいか、創業者房治郎の血を濃く引いているのか、 新たな道・可能性を切り拓く選択をする。 ここが、家業のカード会社が世界企業へと飛躍する分岐点となる。




    この後、山内社長の賭博にも似た経営、また「運」により、任天堂は地獄を見たり、 天国に昇ったりを繰り返しながら、80年代から一気に巨大企業へと歩みを進める。



【 試行錯誤から成功へ 】


娯楽用品が「必要不可欠でないもの」であり、浮き沈み(当たり外れも)の激しい 業界であることを知った彼は、 食品産業、タクシー・ホテル経営、教育・育児用品等、様々な業種に挑戦。 が、どれも失敗、この時ノウハウの重要性を身にしみて感じることになる。

結局、娯楽産業で再出発。会社に理工系を採用。横井のハイテク玩具がヒットを続けるが、 商品寿命が短く数年で消えていく。(また「販売価格」から「原価」を割出す考えに。)

70年代中盤にマイコン(Micro Computer)が安価になる。横井のマイコン内蔵携帯玩具 「ゲーム&ウォッチ」が爆発的ヒット。 が他社参入で市場が荒れ、ブームは数年で終わる。

そんな折り、山内は「アタリVCS」の成功を知る。 アメリカで77年に発売され、80年代に入ると爆発的に普及、 アメリカ全世帯の30%をも占め巨大な市場をつくった カセット方式の家庭用TVゲーム機である。 (が、82年末、アタリのゲーム市場は突如崩壊する。)

「ワンハード・メニーソフト」・・・1つのハードに無数のソフトという道が開けた。 山内は文字通りこの、商品寿命が長い夢のようなカセット式のテレビゲーム機に賭ける事になる。

NOAから「アタリショックさえ回避すれば巨大なビジネスになる」 との伝達を受け、山内社長は戦略を練る。 アタリVCSの大成功の背景には、(1)「ハード」と「ソフト」を切り離した事、 (2>ハードを前提として家庭に普及させ、ソフトで儲ける思想があった。 また、市場崩壊の背景には、自由市場によるソフトの粗製濫造があった。 (と彼は考えたと思われる)

山内は、「ゲーム&ウォッチ」の大ヒットで得た40億もの資金を カセット式家庭用ゲーム機の開発に投入。 ハードウェアの機能性を高め、値段を原価割れギリギリまで抑え、ソフトは宮本茂らが中心となり制作、 自社開発の業務用ゲームを移植する。家庭用ゲーム機戦国時代に現れた 「ファミコン」は、 その値段・機能性・良質ソフトにより軌道に乗り、 サードパーティに開放、市場管理システムによる支配下に置き、ゲーム市場を拡大・独占した。

これ以後は、後継機「スーパーファミコン」に流れを繋ぎ、 ファミコンとゲーム&ウォッチ互いの思想を融合させた 横井の「ゲームボーイ」が携帯用ゲーム市場を作り育成する。


    80年代からの任天堂は、山内社長の読み手が次々と当たり急激に成長。
    彼は横井や宮本らの才能を引き出し、任天堂を超優良企業へ築き上げた。






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