任天堂のフィロソフィー

原風景から〜横井軍平〜



    横井軍平から湧き出るアイディアの源泉は、彼の血筋や体験にあると思われる。 彼の子供時代、そして学生時代まで、どんな環境で如何なる体験をしたのだろうか。

    ここでは、日本の歴史の流れと共にそれを見ていきたい。



【 横井軍平の生い立ち 】


1941(昭和16)年、横井軍平は、京都府で生まれた。 彼は四人兄弟の末っ子として、ごく普通の中流家庭で生まれ育った。 父親は市内にある製薬会社で役員を務めていた。

彼の祖父はたいへん手先が器用だったようで、 筆で米粒に「君が代」の歌詞を書いて、天皇陛下に献上したという話がある。 彼の手先の器用さは祖父から受け継いだようだ。



    1941年12月8日、日本軍がハワイ・真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まる。 翌42年6月、ミッドウェー海戦で日本艦隊は大損害を受け、戦況は一挙に傾き、 44年からアメリカ軍による本土爆撃、45年東京大空襲・沖縄占領、 そして8月6日広島に原爆投下、9日に長崎に原爆投下。日本は8月14日 ポツダム宣言(終戦の条件として領土制限・民主化促進)を受諾し無条件降伏。 同年日本は深刻な食料難を迎えた。



彼は子供の頃いやいやピアノを習わされた。4人兄弟の内最後まで残ったのは彼だけだったという。 このピアノを習う過程で、音楽・数学・自然科学の結びつき強く感じることになる。 彼のもの作り人生の源流には、このピアノ教育がある。理科の成績も良かった。

小学生の時、父親に頼み込んでOゲージの鉄道模型を買ってもらい、熱中する。 父親がきれい好きで、ジオラマを固定して置いておくと怒られたので、 苦心して模型のレイアウトを折り畳み式にした。 この頃の経験が後のもの作りに役立っている。

また、彼が子供だった時代はブリキの玩具などしかなく、自分で工夫して遊んだという。
紙粘土を捏ねるのに熱中して、休むのも忘れ、めまいを起こしぶっ倒れたこともあった。



    1940年代後半というのは、戦後の焼け野原の時代である。 食料難は少しづつ和らいでいくが、それでもまだ 闇市や闇取引は続いていた。 物不足→通貨の増加→物価の暴騰→極度のインフレという悪循環が発生した。 1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が勃発。日本は米国からの需要に応え、 武器・弾薬等の製造・輸出を始め、産業界は息を吹き返した。 この時の23億ドルの特別需要によって日本は活況を呈し、 休戦後も朝鮮復興による需要で景気が続いた。



中学の頃、模型屋で売っている角材を繋ぎ合わせ、伸び縮みする道具を自分で作った。 ガキ大将気質があったから、それを周りの子供たちに見せてびっくりさせて楽しんだ。
(アニメの中のロボットの腹開けパンチが、無意識のうちに参考になったのかも。)

中学〜高校の時、何でも玩具を持っている金持ちの友達が、 ピンポン玉を投げさせて、竹の物差しで打って面白がっていたのが印象に残っている。 (後の「ウルトラマシン」に)

また、この頃、昔から鉄砲に興味があったことから水中銃を作ったりした。 オモチャの鉄砲玉と違って、光線銃は狙い通りまっすぐ飛ぶので、魅力を感じていたから。

高校の時、二週間だけ柔道部に入部。自転車通学で足腰が強く、太っていて誘われた。 が、対校試合で思いっきり投げ飛ばされて、鎖骨骨折。それで柔道部を止める。

骨折が治ると、女の子にもてると思い社交ダンスを習う。彼は器用だったため、 難しいダンスでも巧い人のフォームの真似が簡単に出来、すぐにマスターした。



    1955年(昭和30年)〜57年に 「神武景気」と呼ばれる好景気が訪れる。 背景には、朝鮮復興資材の輸出、 MSA協定(日本の防衛力増←→アメリカから経済援助)、 世界的な好況などがある。また、1959年から 「岩戸景気」なるかつてない好景気に。日本は驚異的な経済成長を見せ、 白黒テレビ・冷蔵庫・トランジスタラジオ等が家庭に普及し始め、国民総生産は世界の大国と並ぶまでになる。 60年代前半は「巨人・大鵬・卵焼き」の時代。若者の「族」文化も。



大学時代に社交ダンスのコンペティションに個人出場、タンゴの部で二位に入る。 が、パートナーの女性達にもてすぎて本当に困り、ダンスを止めた。

クラブ活動は熱心ではなかったが、ボーイソプラノが美しかったので、コーラスをやる。

自動車が好きで、よく乗り回した。 当時の車には、ラジオしかなかったから、テープレコーダーをラジオに接続。 走行中音が歪むので、独自の機構を考えて改造したりした。

夏になると、友達と一緒に毎週京都から自動車を走らせて日本海へ通い、 スキンダイビングに夢中になった。もりを自分で作って、それで魚を捕ったこともある。

それでも、もの作りを始めると、誘いも断り、黙々と夜中まで熱中していた。



    1964年(昭和39年)10月、東京オリンピック開催。 日本は特需に沸いた。 1965年(昭和40年)、高度成長の歪みが生じ始め、一時的に不況に。 公害・住宅問題、経済摩擦などが起こる。 団塊の世代が台頭し、消費文化・ファッション文化の興隆。 家庭には、3C(カラーテレビ・クーラー・カー)が普及。 NHK朝の連続ドラマ開始。「鉄腕アトム」「ウルトラマン」も。 「大量生産大量消費」の好循環時代。



横井は、同志社大学工学部電気工学科に入学、電子工学を専攻する。 そして、1965(昭和40)年の卒業に際し、様々な会社を訪問して就職活動をした。
が、どこにも雇って貰えず、結局最後に、地元京都の花札製造会社任天堂に就職、 トランプや花札製造ラインで機械のメンテナンスを担当することになる。

設備メンテナンスの要員は彼一人という状態で、仕事もあまり忙しいわけではなかった。 暇を持て余していた彼は、工場に置いてある旋盤や機械を使って、もの作りを始める。

そして入社して数ヶ月後、山内社長に呼ばれてオフィスに出頭。
ここより、もの作り人生の本番が始まる。



    横井は後にこんな事を言っている。 「考えてみたら、今も子供のころも、自分で作ったもので他人が喜ぶ 姿を見るというのがいちばんの快感です。」






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