【 カルタの歴史 】
いわゆる「花札」というのは元々「花かるた」または「花合わせ」と言われるかるたの一種である。
かるたは紙を使った遊びだが、その源流は2つあると言われている。
その1つが、12世紀頃(平安王朝時代)に、貴族の間(宮中の姫など)でもてはやされた優雅な遊び「貝覆い」と、その発展形「歌貝」である。

「貝覆い」は、両片(雄貝・雌貝)に分けた蛤(はまぐり)の貝殻を二手に分け、
貝の地模様から一対のものを探し当てる遊び。誰でも出来る。
|

「貝覆い」の発展形。貝の一片に歌の上の句を書き、
それに合うもう一片に下の句を書いたもので、「歌貝」と呼ばれる。
「歌かるた」の原型。
|
「かるた」のもう一つの流れが、16世紀半ば頃(安土・桃山時代)に
ポルトガルから九州へ南蛮渡来品(鉄砲・生糸・皮革など)と共にもたらされた「南欧文化のカード遊び」である。
(九州にキリスト教宣教師が滞在し活版印刷が行われていた等、条件も整っていた。)
「かるた」とはポルトガル語の「Carta」・・・いわゆる「カード」の事で、
その音が日本にそのまま伝えられたようだ。(後に「歌留多」や「骨牌」など日本語の当て字が生まれた)。
国産のかるたの第一号は、天正年間(1573〜1591)に九州は筑後・三池(城下町兼宿場町)で
南蛮かるたを元に作られた「天正かるた」と言われている。
やがて生産は公卿文化と紙漉きの中心地、京都に移る。
(当時「かるた」はまだ高級品であった)

ポルトガル、或いはスペインから輸入された「カード」。
48枚一組。日本でいう「南蛮かるた」。
16世紀半ばに南欧から輸入された。
|

西洋のカードを元に天正年間に作られた国産「かるた」。
後に「天正かるた」と呼ばれる。48枚一組。
絵柄は西洋風で、豪華なつくり。
|
カルタは手軽に持ち歩ける上、場所も取らないため、戦国時代・戦陣の武士たちの
骨休めに用いられた。が、やがて賭事に使われ始め熱中度が高まったため、
1597年(慶長2年)、四国・土佐の長曽我部元親は「博打歌留多諸勝負令停止」なる
掟書を出し、賭博を禁止している。
1600年に入り、戦国の世も治まり江戸時代安定期に入ると、
当初貴族や武士の社交として用いられたカルタは裕福な町民の元へ、やがて一般庶民の間へと広まっていく。
そして徐々に安いかるたが出回り始め、大衆娯楽となるにつれ、賭博性も高まっていく。
すると徐々に民衆の勤労意欲・生産力の低下、犯罪の増加など問題が生じ始める。
1648年(慶安元年)に、かるたの大流行を見た幕府は、かるた禁止令を発布。
この禁令により、天正かるたは地下に潜り(密かに賭博に使われ)、18世紀初頭に
西洋と日本とが混じり合った絢爛豪華な「うんすんカルタ」(75枚一組)に変身する。

南欧のタロットカード。トランプの原型。
22枚の大アルカナ(悪魔・太陽・審判・死など)と
56枚の小アルカナ(階級・元素など)の78枚構成。
|

うんすんカルタ。高級なつくり。
5種×15=75枚で一組、ゲーム内容は非常に高度で複雑。
粋で面白いが、遊べる人は現在100人ほど。
|
18世紀中期〜後期にかけて賭博用かるたは最盛の流行を見せる。
また幕府は、こうしたカルタの変化に対応して、幾度にもわたって禁令を出すこととなる。
1702年には、江戸で賭博禁止を徹底するために「博徒考察」の役を設けて取り締まった。
表面上禁止された賭博系カルタに代わって、詩歌を書いた「歌かるた」(後の小倉百人一首)や、
動植物・歴史・社会知識等を書いた「絵合わせかるた」、また、
ことわざやたとえを書いた「いろはかるた」などが生まれた。
これらは全て、賭博用のカルタと区別するため、名称や形などに違いを出した。

「貝歌」と「カルタ」が融合、江戸初期に生まれた「歌かるた」。
後の「小倉百人一首」など歌集や
物語中の詩歌を用いた教育的な遊び。
|

ことわざは地方によって違う。
例えば「い」では
江戸は「犬も歩けば棒に当たる」、
京都は「一寸先は闇」、
尾張は「一を聞いて十を知る」など。
|
こうしてカルタは幕府による禁令の目から逃れるため、
姿形を西洋風から日本風へと趣を変えながら、
名を変え、遊び方を変えて、生き続けていく。
|