カルタの賭博性が高まり社会問題が生じると、度々幕府の禁令にあう。
そんな中で新しいカルタが次々と考案されていき、やがて「花かるた(花札)」が生まれる。
【 花札の誕生 】
18世紀中後期、田沼意次が幕政の実権を握った時代、賭博かるたは空前の大ブームとなる。
禁令をかいくぐって、貴族から武士、庶民までがこれに打ち興じるようになった。
(田沼による商業資本と癒着した賄賂政治は大変な不評を買い、やがて失脚。)
1787年、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、
カルタの流行に終止符が打たれる。
この改革(商業資本抑圧、社会福祉・農村政策推進)の中で
教育系のかるた(歌カルタ・いろはカルタ等)以外の賭博用かるたが全面禁止されたため。
これにより、天正カルタ、うんすんカルタを始め賭博に使用されたカルタは
製造・販売を禁じられ、表面上姿を消すことになる。(地下で密かに生き続けていくが。)
そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、
幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」である。
賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託した。

「花札」の原型と言われる「花鳥合わせカルタ」。
四季の花鳥を取り合わせた、児童用の教育遊具。
賭博カルタが全面禁止された時、歌かるた等と
一緒に生まれた。(後に花札へ→)
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「花かるた」「花合わせ」「武蔵野」と呼ばれた「花札」。
既成の賭博カルタの「12種×4枚=48枚」を転換させ
「4種×12枚=48枚」とした。日本の
花鳥風月をモチーフにしたデザイン。
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「花札」について
明治に発行された「日本遊技法大全」には「花かるた」の章始めにこう書かれている。
「花かるたは、その趣向の詩的なること、その組立の科学的なること、その遊び方の精緻なることに
於いては世界の室内遊戯界に於いて、恐らくはその比を見ぎる所のものであって、
或いは、我が国の国戯として大いに誇示すべきものと思うに、惜しい哉、かの卑しむべき
賭博の用に共するので、心あるものは、これを見て眉をひそむるようになった。
此の可憐な名花を、早く汚泥の中から救いあげたく思う者は、
決して己一人ではないであろう。」(少し現代語訳。)
「花札は、あらゆる点で世界に誇れる、美しくも精緻な室内遊技の傑作である。」との事だが、
確かに、デザインは今になっても古びずむしろ前衛的ですらある。
闇の凄みを感じさせる不気味さ・艶やかさは、花札の宿命を象徴しているのかもしれない。
遊び方の要素も深い。
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1841年、江戸藩政末期、水野忠邦による「天保の改革」が始まる。
早くも賭博に使われていた「花札」は役人の目に止まり、「江戸花札骨牌禁止令」発令。
1853年、黒船来航。上陸したペリーは開国を要求。これを幕府は翌年受諾。
1868年、江戸幕府崩壊、明治維新(富国強兵・殖産興業・開国など近代化へ)起こる。
明治初年、新政府は幕府に続いて、賭博用カルタ(花札も含む)販売を禁止した。
文明開化により西洋文化の流入。この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。
西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ない。
明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、
1885年(明治18年)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになる。
この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始める。
また、1889年には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開された。
この時期に、京都の歌留多職人、山内房治郎が「任天堂骨牌」を創業する。
【 骨牌税法による危機 】
明治政府は道徳教育を推し進めた。そのため享楽(快楽に耽ること)を罪悪視する
環境が形成されていく。そして「愛国いろはカルタ」等国粋教育的なものが生み出される。
また、「富国強兵策」が始まると、1902年(明治35年・日露戦争直後)、
日本政府は戦費調達のため、(同時に大流行した花札の製造販売を抑制する意図もあり)
「骨牌税法」を施行し、花札などに税金を課すことになる。
これにより花札の小売価格は2倍に跳ね上がる(価格が20銭・税額も20銭)ことになる。
これはカルタ業者にとって販売禁止令に等しいものだった。
京都を中心とした全国のかるた製造業者は課税に猛反対したが、政府の方針の前に聞き入れられず、
結局、京都だけで5千人ものかるた職人が失職した。
この「骨牌税法」施行以降、全国のかるた業者は次々と店を閉めていき、
東北など地方の業者は激減、大正、昭和に入るとほぼ全滅する。更に
1940年(昭和15年)、太平洋戦争中に出された「奢侈品製造販売制限規則」で
国民の戦意高揚に効果のない遊興具(花札も含まれる)は厳しく販売制限されることになる。
これによってかるた製造の本場であった関西地方の業者も致命的大打撃を受け、
結局存続できたのはごくわずか、京都に数件残っただけだった。
その中で生き残ったのが「任天堂骨牌」だった。
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