任天堂のフィロソフィー

ソフトウェア体質



    山内社長は言う。「ファミコンが出来たのは任天堂という企業の体質に由来する。」 そしてそれは「ソフトウェア体質」である、と。それはどんなものなのか?



【 かるた屋の商い 】


江戸時代、カルタが流行し始めると、それに合わせてカルタ職人も増えていった。 また、カルタが社会に蔓延し様々な害が生じ始めると、徳川幕府は幾度も禁令を出した。

カルタは賭博品として禁止される。が、職人たちは生き延びるために商いを続けていかねばならない。 そこでどうしたか?禁令が出ると、別の図柄の「新しいカルタ」を作り、 指定された禁制品とは違うものと主張して販売したのだ。それを禁令の度に繰り返した。

江戸時代には幕藩体制が敷かれてていた。江戸幕府を中心に、全国の藩(諸大名の領地)が その地域の監督・取り締まりを行っていた。かるた職人達はこれも利用している。

例えばある藩で「このカルタは賭博品である、以後販売・使用を禁ず」との禁令が出る。 すると用意しておいた他の地方用の絵柄の木版を刷って、別のカルタとして販売した。

この繰り返しの果てに「花札」が創出される。



数標付きのウンスンカルタ 数標を自然に転化した花札

「花札」は、賭博系カルタが全面禁止された時、 それらの象徴であった数標を消し、それを日本の四季・花鳥風月に託したもの。 カルタ職人と博徒達が厳しい取り締まりの目をごまかすために 創意工夫して作り出した(賭博カルタの)巧みな偽装品でもある。


カルタ職人たちは、常に禁令と隣り合わせの中で、商いを続けるために別の版木を用意し、 手を変え品を変えカルタを変態させたりして、商売を存続させていった。

危機意識を持ちながら「絵柄で商う」ことを前提に常に別の木版を用意しておき、 次から次へと新しいカルタを創出し売り続けることで、会社を存続させてゆく・・・。

任天堂には、こうした江戸時代から続く歌留多屋の体質が染み付いており、 それを山内社長は「ソフトウェア体質」と呼んでいるのではないか。

「ハード(もの)」が先に立つのではない、「ソフト(方法・仕組み)」、 こそが存続への命綱だったのである。




かるたの版木

ニンテンドウ64





【 山内社長の言葉 】


こういった歴史のスケールで考えると、山内の言葉は非常な重みを帯びてくる。

「次世代ゲーム機とは一体なんなのか?私にはよく分かりません。 本来、ソフト主導のマーケットであるテレビゲーム市場では、 次世代なんて言葉はそもそもおかしいのです。」

「ユーザーがゲーム機に求めているのは独創的な楽しさやおもしろさなんです。 それはソフトなんです。だからユーザーはハードを仕方なく買う。 この原理は前からそうだし、今もそうだし、将来もずっとそうなんです。」

山内は、任天堂がカルタを扱っていた時代から経営を引き継いだ。 娯楽品は、ソフト(遊びの方法・アイディア)こそが命であることを その経験則から知っていた。 ハードはソフトを売るための前提にすぎない。ハードを普及させソフトで儲ける、 この仕組みを軌道に乗せるため、山内は原価すれすれで「ファミリーコンピューター」を作らせる。

任天堂は「カルタの木版」を「ファミコンのカセット」に託す形で ファミコン商売に転用したのではないか。それは明らかに"かるた屋の商法の発展形"である。




かるたの地方札いろいろ

ファミコンとカセット

「かるた」は地方別に様々な種類の絵柄・詩歌が用意されていた。 任天堂はこれを巧妙に利用・売りさばくことで存続できた会社。 山内はハードとソフトを切り離す必要のある「ファミコン」に於いても、 "ソフトで売り続けること"を念頭に周到な計画をたてた。



創業者・山内房治郎は卓越したアイディアマンだった。故に 任天堂は厳しい時代を生き抜くことが出来た。 現社長・山内溥はその血を色濃く引いている。



    "ソフトウェア商売"、そう宿命づけられた任天堂は、 幕末・明治・昭和とかけて消えていった 歌留多職人たちの怨念を背負っていると考えていい、と私は思う。





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