任天堂のフィロソフィー

千二百年の伝統 〜古代〜  中世  近代



    日本には、世界に類のない歴史を誇る王城都市がある。平安京遷都以来、 幾多の災禍を乗り越えた不死鳥都市・ 京都が辿った千二百年を見る。




中国唐の都・長安の設計図。
9里四方の正方形、縦横に伸びる18条大路は碁盤のイメージの現実化である。

日本古代王朝の都・平安京図。
長安をベースに日本風に改良。中央に朱雀大路を通し、右京・左京に分ける。




【 遷都の前夜 】


島国日本の中央部、3方を山に抱かれて山背盆地は存在する。 数千年前、此の地に京都人の先祖が住み始め、狩猟や釣りをして生活していた。 やがて5世紀頃、琵琶湖また瀬戸内海を通じ、大陸から秦族が渡来し、 大陸の高度な文化(建築・灌漑・農耕等)を伝え、 文明村落が築かれる。

その頃、日本の古代王朝は理想の都を求めていた。 中国の都城をモデルにして百数年、遷都を繰り返す過程で、 選地の理念は日本の風土に合うよう改善され、「四神相応」− 水路陸路に恵まれ、北方を堅固な山で取り囲まれた要衝の地−となった。

飛鳥京、藤原京、そして平城京、難波京を棄て、さらに畿内を北上、長岡へ。 長岡京が怨霊と洪水に見舞われ、僅か数年で棄てられると、 とうとう畿内最北、後方を山脈に抱かれた山背盆地が都城建設地に選ばれる。





【 平安京誕生 】


もうこれより北に都は造れない。 都城建設にあたって全土から優れた職人が集められ、 当時の先端的な科学技術が集成された。100年にわたった都建設の経験を活かし、 英知を結集、 古代の人々は、あらゆる情念を注ぎ込み、この都市に賭けた。

西暦794年、桓武天皇はこの地を(平和と安全を祈願して) 「平安京」と命名、新都に定める。 以来平安京は、千年以上にわたって日本の王城−文華の中枢−となる。


山河襟帯自然二城ヲ作ス「平安京」。 北に山並み(玄武)、東に鴨川(青龍)、西に大道(白虎)、 南に川から注ぐ池(朱雀)がある。「四神相応」に適う理想の都。

平安京は唐の長安をモデルに都を方形で囲み、整然と碁盤の目状に道路を敷設した。 北には王朝の中枢・大内裏を構え、中央に朱雀大路を通し、右京と左京に分ける。

都が整備され、ようやく落ち着きを見せ始めた平安時代中期、 藤原氏など公家(皇族・貴族)を中心とした政治が確立された。 また雑多な身分(僧侶・商人・芸人・乞食など)の人々が移入し、暮らし、働き、交流を始めると 政治都市から市民都市へと進展した。





【 天災・怨霊・宗教 】


しかし平安京は、ちっとも平安ではなかった。 特に庶民にとっては悲劇であった。都を造営する際、貴族らは 北山から大量の樹木を伐採し、中央に流れる川を無理矢理東へ迂回(→鴨川)させたから、 毎年梅雨になると(保水能力を失った)山から大量の水と土砂が流れ込み、 堤防は決壊、氾濫を起こし、町は水害に見舞われ、疫病が蔓延、庶民は飢饉に陥った。


菅原道真の怨霊


やがて政治が混乱。それに乗じて殺人を職業とする武士が出現し、 救済を説くはずの僧侶が武器を持ち始める。 仏教が荒れ果て末法思想が流行、怨霊を恐れた庶民は浄土信仰に、 貴族らは最澄・空海らによる天台・真言宗に救いを求めた。

時の王・白河上皇が、我が意に適わぬものとして「鴨川の水、双六の賽、山法師」 をあげたが、それぞれ天災、博奕による害、強大な権勢を誇った比叡山の僧兵を指す。

    平安中期の都は、庶民にとって不安極まりない凄惨な地獄絵図であった。




やがて平安時代も末期になると、平安京は『京都』 と呼びならわされる。ここに古代王朝時代は終焉を迎え、 中世・武家政権時代が幕を開ける。





【 源平の争乱 】


藤原貴族の力が衰え、政治は上皇(天皇の父)による院政へ移行するが、 醜い政争のなか天皇や公家の力が徐々に衰え院政が崩れ、逆に (それまで貴族に仕えていた)武士が台頭してくる。

これより京の都は、政権をめぐって戦乱の舞台となる。 京都に聳える朝廷、鴨川を挟んで六波羅に構える平家、関東から攻め上がる源氏、 町中が戦場となり、政治は更に混乱、群盗がはびこって死体が山と積み上げられた。

1156年の保元の乱で、とうとう武士が政治の表舞台に立つ。 ここより京都は、平治の乱やら1180年からの源平の争乱やら激しい戦乱に巻き込まれ、 足軽兵達によって町家は荒らされ、火で焼かれ、庶民は甚大な被害を受けた。


平安末期から、武士・皇族らの激しい政争が京都を舞台に繰り広げられた。
戦争の勝敗を重視した彼らは、寺院や町家を幾度も荒らし焼き尽くした。

平清盛の支配。それが過ぎると、木曽義仲が京都を荒らし回り、 壇ノ浦で勝利した源氏が1192年、関東に武家政権(鎌倉幕府)を開く。 これより京都と鎌倉を中心とする政治体系が始まった。

源氏から北条氏へ政権は移った頃、後鳥羽上皇による承久の乱(倒幕クーデター)によって、 京の町はまた散々焼かれることになる。これ以降朝廷の権力は弱まり、 700年以上武家支配が日本を覆う。


    武士の世に入っても、天皇の住む京都は最大の都として、文華の中枢としての地位を保った。 1338年、鎌倉幕府滅亡。室町幕府の創立で、再び政権が戻る。






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