任天堂のフィロソフィー

天地の果てに  −天と道−  <承>  <転>  <結>



任天堂を直解すると、「天に任せる会社」となる。 この"任天"−天に任せる−という言霊に、独創の源泉があるとしたらどうか。

そもそも、任せるところの「天」とは何か?







【 古代インドの神々 】


「天」とは元々、サンスクリット語の「デーヴァ」(輝くもの)、 古代インド神話に登場する善悪多様な神々のこと。 遙か昔のインド人は、壮大な空想力と幻想力で、太陽や月、 雷や風雨といった自然現象を神格化し、それらを総して「デーヴァ」と呼んだ。

紀元前5世紀、釈迦が生まれ、修行の果てに悟りに達し、仏教が誕生すると、 それが広まる中で、太古の神々デーヴァは、 "仏法の守護神"としてその世界に吸収され、 同時に神々の住む世界"天界"を意味するようになる。

今、私たちが使っている「天」とは、サンスクリットの仏典が中国に渡り、漢語に翻訳された折、 古代の中国人によって「デーヴァ」から意訳されたものである。



釈迦は、厳しい修行を経て、菩提樹の下にやってきた。 静かに坐して孤独な瞑想に入り、49日後、不動の境地、悟りに達する。

後に説法の場で、「悟りとは何か?」と弟子に問われたブッダは、 しばし沈黙し、一輪の花を持ち上げて、ただ微笑んだ。

この話は、後に日本で発展する"禅"に大きなヒントを与える。






【 中国と天 】


中国で文字が発明されたのは、紀元前16世紀、殷の時代と言われる。 これは、鳥なら鳥、馬なら馬と、その姿形やイメージをかたどった象形文字であった。 やがて硬い骨に刻まれたり、青銅器に彫られたりする内に徐々に洗練されていき、 秦代にその形が定まったとされる。

現在、世界中の文字は、アルファベットに代表される表音文字である。 これは音を付けた文字を並べて意味を与える( s, k, y = skai = 天空 )もので、 個別の文字にさしたる意味はない。

対して漢字は、現存する唯一の象形文字である。 そのため文字は複雑で、その数も万を超えるが、一字毎に確たる意味を持ち、 それを創った人の視点や思想を反映して、深い宇宙観を含むこととなった。





「天」は元々、人間の脳天を表す絵文字であった。 やがてその延長として、人の頭上をどこまでも覆う空、長いライン「――」をつけて、 広大な"天空"を表すようになる。

雄大な平原で生活する中国の人々にとって、頭上全てを覆い尽くす"天空"は、 人が仰ぎ見るよりほかない王者の如き存在だった。太陽も月も、雨や雷も、 星々の巡りに至るまで、人々は"天空の意志"によって運行されていると信じて、畏れた。

古代中国の人々にとって、この"天空"こそ最高のゴッドだったのである。






このゴッドたる"天空"を「天」と呼び崇拝したのが、殷を滅ぼした周の人々であった。 彼らはここに、「帝」(総括者)という言葉を併せ、「天帝」(宇宙の総括者)という尊称を授け、 そして秦の国王に神秘的な力を付加するため、結んで一つの理念を与えた。

曰く、天帝は、この地上である「天下」に、その御子「天子」を、聖人君子として降された。 我らが君主・周王こそ、その天子に他ならぬ。天子たる周王は、 天帝に代わって地上の全権をあずかり、万民を統率するのだ―――

そう信じて、尊大な中華思想というものもでてくる。



中華思想

「中華」と言うと中国を想起しますが、この言葉は国名を指すものではありません。 「華」は"文化の先進"を、「中」は"世界の中心"を意味しますので、 中華思想とは、その地に生まれた特権民族として、 世界に冠たる文化を生み、それによって世界を統率していくという考え方です。

黄河文明以来の優れた文化は、周辺アジア諸国を平伏・同化させ、中国人に尊大な意識−自文化中心主義−を植え付けました。そして彼らは、周辺民族を低劣な野蛮族(夷)と考え、 「華夷秩序」を組み立てます。中国が文化を生む父、朝鮮が兄なら、日本は末っ子に当たるのです。

漢字も、哲学・宗教、技術工芸も、この華夷秩序に沿って、日本へ伝わってきます。






【 天と道 】


強大な権勢を誇った周王朝の力もやがて弱まり、 中国は春秋戦国という長い戦乱の時代に入る。 国や人心の荒廃は広がり、庶民の中からは次第に、国家安泰を希求する声が高まってくる。

その求めに応じて、人のあり方を説く多くの思想家が出てくるのだが、 その代表が、「孔子」と「老子」である。


孔子は秩序を重んじよと訴えた。 天が上に、地が下にあるように、全てのものには上下前後の法則がある。 それに則り、君と臣、親と子など上下の人間関係を大切にするべきだと。

そして個々の人々に、仁(愛情)と 礼(秩序)によって身を修めよと訴えた。 さすれば「終身斉家治国平天下」、個人が身を修めれば自ずと家庭が治まり、 家庭が治まれば国が、ひいては世界が治まると。

孔子にとって"天"は、その倫理の主宰者たる厳格な父権であった。



囲碁

碁盤は、儒教的な秩序立った世界観。
道の生む陰陽二気が相互に絡み合う。



対して老子は、天の上に「道(タオ)」をおく。 道とは"天地を司る力"のことらしい。人には理解できないが、万物を生み出す根源だと言う。

そして彼は、人に"無為自然"であれと説いた。 世の退廃と混乱の元凶は、知識や道徳といった人為的な文化にある。 それら一切の計らいを捨てよ。 赤子に帰り、無知無欲となって、自然に任せよ。さすれば自ずと争いは消え、天下は治まると。

老子の「道」は自然の妙用。宇宙に流れる摂理に任せよと。





自然のままを活かそうと教える老子の教えは「道教」となって、不老長寿を求める神仙思想や、 占い、気功、武術など、庶民の生活文化の中に溶け込んでいった。

秩序を重んじる孔子の「儒教」は、時の為政者に都合が良いとして、 国家政治の中に組み込まれていく。 君子が王となり、王が有能な家臣を各地に派遣し、家臣が愚かな人民を治める、 これが国民に最も安泰をもたらす方法なのだ―――

こうした思想の終着点に、秦の始皇帝による全中国の統一がある。





任。「人」に「壬」(=軸に糸巻=妊婦の象徴)を合わせた文字。 人が重荷を背負うこと、大切なつとめを引き受けること。 思うままにさせる・まかせること。






【 秦の始皇帝 】


ヨーロッパ全体とも比較しうる広大な中国。 民族も言葉も文字も異なる八百の国がひしめくこの中国を、 史上初めて統一するのが、秦の始皇帝である。

春秋戦国時代、七カ国にまで統合された中国、その一つ、西の辺境に位置するのが秦だった。 周の属国として苦難にさらされた秦だが、その弱体化を見るや、 大胆に革命を行い、その国力を増大させていく。

秦には代々、実力主義、現実主義の伝統があった。 たとえ他国の物だろうと拘らず、良いものは積極的に活用するのだ。 この体質が優れた人材や思想を集め、やがて法家思想(法を定め断行する)に基づいた 中央集権国家に生まれ変わるのである。

後に始皇帝を名乗る王子「政」が生まれるのは、その百年後、紀元前259年のことであった。



統一後の領地



紀元前246年、父の死によって、弱冠13歳の政が王位に即くと、秦は圧倒的な力を見せ始める。 「諸国を打ち破り、天下を統一できるのは、自分しかいない」と考えた政は、 天才的な手腕を発揮して、秦を強大化させていく。

政によって高度に組織化された秦の軍隊は怒濤の進撃を見せた。 そして前230年、隣国・韓を滅ぼすのを皮切りに、 十年足らずの内にライバル六カ国を次々と打ち破り、 前221年、遂に全土を征服する。

ここに秦帝国が誕生した。




中国を掌握した政は、まず最初に全土を一つの方式でまとめることを目標とした。 文字はもちろん、通貨や度量衡(長さ・容積・重さ)など、 各地でバラバラだった単位を一つに定め、全土に標準を規定した。

更に車輪の幅を決め、道路を整備し、各地の物流を活発化させた。 法律を広めて厳しく行い、古い書物を焼き払って思想も統制した。 政はこうして諸国の垣根を取り払い、中国の物質的・精神的統一化を図ったのである。



分銅・ます・半両銭
統一された分銅(重さ)、ます(容積)、通貨



そして政は、古い封建的な地方分権の体制を壊し、 秦帝国を頂点とした群県制の中央集権体制を全土に敷いた。 そして全中国の権力が一つに集中されるシステムにした。

その最高権力者が「皇帝」である。 皇帝は、法に基づいて自ら国政を決定し、 群・県に分けた全土に役人を任命・派遣し、各地の万民を統治する。

中国全土、あまねく世界に君臨する「皇帝」となった政は、秦帝国が 「万世にいたるまで窮まりがないであろう」と宣言した。




「朕は始皇帝なり」



皇帝の称号

全土統一の偉業を達成した秦王・政は、 「これまで使われてきた王という称号は自分にはもはや相応しくない。 世界をあまねく支配する君主に相応しい、全く新たな呼び名を創りださねばならぬ」と考えた。

この時彼がオリジナルに創った称号が「皇帝」である。 皇は「光輝く」、帝は「総括者」の意で、古代中国の伝説に存在する帝王「三皇・五帝」の 名を合わせ独占する形で「皇帝」と号し、地上唯一の絶対君主と位置づけた。

この「皇帝」は、中国を一つにまとめる求心的存在として、 中国国家理念の最上位として、以来、20世紀清朝最後の皇帝・溥儀まで受け継がれる。






全土統一を果たした始皇帝は、晩年、ひたせまる死を恐れて、不老不死の薬を求めた。 そして 「東海上の蓬莱島に不死の仙薬がある」という古い伝説を信じ、 三千人の童男童女・技術者を探索隊として東の海へ派遣した。

しかしその帰りを待つことなく、始皇帝は49歳で他界する。

天才的指導者を失った秦帝国は、わずか三年で崩壊した。 討伐軍によって王城は焼かれ、宝物は奪われ、王族はみな惨殺された。 かの探索隊も、結局仙薬を入手できず、空手で帰国するのを恐れ、何処かに定住したという。






五世紀頃、朝鮮から日本に渡り、京都盆地に移り住んだ"秦氏"とは、 その名が示す通り、秦王の血を引くと称する豪族である。 そして彼ら秦氏は、この未開の盆地に高度な文明基盤を築き、 平安京遷都への影の立役者なった。


彼らは不老不死の願いを、"京都"という都に託したのだろうか。








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