
「色彩文化の流動性と普遍性」
色は、遥か昔から当たり前のように私たちの周りにある。空や大地、草花や動物・昆虫など全ての自然環境の中に、色はずっと氾濫し続けているのである。
しかし色は、自然としてただそこにあるだけではなく、例えば今から1万数千年前の旧石器時代にスペインのアルタミラやフランスのラスコーなどの洞窟で赤色や黒色の顔料を使った壁画が描かれたり、また古代日本においては水銀朱で墓を彩色するなどというふうに神的シンボルとして色は宗教的にも使われていたことなどからもわかるように、色は人類の文化の発展と共に、記号化されて意味付けをされたり、感情表現の手段や、宗教的な意味付けを持つものとして認識され、道具として扱われるようになっていった。
そしてさらに経済的な発展が進み貧富の差が表れ始めると、今度は色は権威の位置付けとして、つまり差別の手段として使われるようになる。その代表例としては、日本においては冠服の色で地位・身分を表した推古天皇11年(603)の「冠位十二階の制」が有名であろう。また、ある限られた高貴な身分の人間だけが使用することを許され、平人の使用は禁じられていた色という意味の「禁色」も、西はヨーロッパの「ロイヤルパープル」から東は中国・日本の「黄櫨染」「黄丹」「深紫」など、世界各地にその事例が見られる。
そして近代においては色はイメージ伝承の手段として使用され、また色彩学や色彩調和論など色彩に関する科学的な研究も進み、色彩の心理的効果など色の持つ社会的意味や機能的役割、公共性など環境への配慮から配色などを考えて使用されるようになっている。
また、現代の情報化社会においては情報の伝達がリアルタイム化し、色彩文化もファッション等と同様に同時世界化している。そして、それによって色彩文化のグロ−バル化も進み、ファッションや芸術・食文化など様々な分野で異文化の色彩感覚が受け入れられ、私たちの色彩感覚も日々変化しグローバル化していっていると言えるだろう。
この、色彩感覚が国境を越え画一化しているかのように思える現代においても、しかし色彩文化の歴史から見ると、色彩の扱われ方は各文化において様々であることがわかる。例えば日本とヨーロッパの染色による色彩文化を比較してみると、日本の色彩文化の特徴は渋さを持った色を好む「混色」の文化であり、ヨーロッパの色彩文化の特徴は日本とは反対に混色を禁じ、鮮やかでくすみの無い色を好む「原色」の文化であると言える。
それはどういうことかと言うと、まず、身体構造的なことを言うと当然のことながら人間は、誰しも色を見るときは眼を使うものである。そしてその眼は、「色」という感覚を起こす光線が眼に入る時に、光線の入り口である瞳孔の周囲の虹彩が働いて瞳孔を拡大・縮小して奥へ通す光を調節し、奥の網膜に与える光の刺激の量を調節する、というつくりになっている。つまり眼の虹彩はカメラに例えるとシボリの役割を果たしているのである。
しかしそういった眼の光量調節の働きを完全に果たすには、瞳孔以外の部分からは外部の光が入ってこないようにしなければならない、という条件がついてくる。なぜなら、もし瞳孔の開かれたところ以外の部分からも光が入ってきてしまうと、いくら虹彩を絞って瞳孔を縮小したつもりでも、網膜はそれ以上の光を受け取ってしまっていることになるからである。そのため人間の虹彩は、瞳孔以外から入ろうとする光を遮るために、メラニン色素という暗褐色の色素を有している。
このメラニン色素は、太陽の刺激から身を守るために虹彩以外にも頭皮や皮膚にも含まれているため、太陽の照射が強く照射時間の長い地域で発達・進化した人種の眼や頭髪の色は黒か褐色、皮膚の色もメラニンの色を帯びて濃くなり、反対に太陽に恵まれない地域の人種はメラニンの量が少なくてすみ、碧眼・金髪・ピンクの肌色になると言われている。
そして日本人の虹彩の色はおそらく全員、黒褐色である。一方、「ヨーロッパ」と言われる地域は広域に渡るため、ヨーロッパ人の虹彩の色は南部の人間の黒褐色から北部の人間の淡青色まで様々ではあるが、日本人に比べれば圧倒的に色素の薄い虹彩を持っている人が多いことは疑う余地は無いだろう。
日本人の黒い眼は、その濃いメラニン色素の働きで瞳孔以外の部分から光の刺激が入ってくることをかなりの精度で遮断できると言われている。そのためより細かく色に反応することができ、色のデリケートな違いがわかるため、「渋さ」や「くすみ」などの曖昧な色を見分けることができるのだと言う。一方、色素の薄い青い眼は、黒い眼ほどの遮光率は持たないため、網膜は瞳孔で絞った以上の光の刺激を受け取ってしまうこととなる。それゆえ色の細かな差異を認識するのが黒い眼に比べて難しくなり、曖昧な色よりもはっきりとした色合いを好むようになったのだと言われている。
次に、これらのことを歴史的な染色事例から検証すると、まず日本での染色文化が完成されたと思われる時代は飛鳥・天平の頃であると言われている。仏教文化の伝来と共に中国から染色の技術が伝わり、日本人はこれを模倣し、染料の種類・その名称・染色の方法などの多くを中国に習ったのである。そして日本はその後、ただ中国の模倣をするだけではなく、その染色文化を土台とし、さらに日本独自の新しい染色を見出し、日本独自の色彩文化を築き上げていったのである。
例えば平安初期、嵯峨天皇の弘仁11年(820)に制定された天皇の正式袍に用いられる「黄櫨染」という色は、中国においても同名で天子の服とされているのだが、しかし中国において「黄櫨染」はヤマクワの木を染料とした「赤味の黄色」であるのに対し、日本の「黄櫨染」は中国のそれと同名でありながら、櫨の木(黄色)と蘇芳(灰汁媒染・紫色)の二種類の染料を混色して染め上げた「濃い赤茶色」という、中国のそれとは少し異なった色合いであると言われている。
このように、日本人は中国から伝わった染料や色名を利用しながらも、色そのものに関しては、日本独特の色彩感覚に合った新しい色を作り出していったのではないかと思われる。そしてその日本独自の新しい色は、仏教だけでなく八百万に神を見出す神道などの影響にもよる自然同化型の文化的風土による美意識・感性から生まれたもので、それらの色は象徴的に「しぶさ」「(わび)さび」「粋」などと表現され、トーン分類の名称に当てはめると「グレイッシュトーン」(灰みの・濁った・地味な、等のイメージの色調)に該当する色が最も多いと言われている。これは要するに「渋い色」と言われる色のことなのだが、この「渋い色」は、植物染料による染色を何度も繰り返したり、又は何色かの色を混色させることによって色の層が重なり独自のカラーニュアンスが現われ、色調に灰みを感じさせる「渋い色」となるのである。
合成染料などが無かった昔の染色では、植物・動物・鉱物などの天然の資源から色を取り出す天然染料による染色が行われており、その天然染料のほとんどは植物染料であると言われている。特に日本では、動物・鉱物を材料とした染料よりも植物染料の方が種類も多く、主流であった。しかし植物染料を主体にした染色では、今日の合成染料のようなあざやかな色は容易には得られず、また一度の染色で目的の色が得られるわけではないので何度も繰り返して染め出さなければ濃い色は得られなかった。そうして大量の染料を使用し、何度も繰り返し時間と手間をかけて染め上げた色は、濃い色になると同時に、色の層の重なりによる「渋さ」という独特のカラーニュアンスも含んだ色になるのである。
また、天皇の平常の袍色である「青白橡(麹塵)」という色が紫草による青紫と刈安の黄色とをうまく混染して灰色味をもった淡緑色を染め出しているように、一つの色に適当な補色を加えて色相を複雑にし、それによってできる灰色によって色を落ち着かせて「渋さ」を出したり、鮮明な緋色を作るために支子の黄色の下染めに蘇芳(明礬媒染)の紅赤色を上掛けして染めたりと、日本の染色文化は「色を重ねて染める」ことに積極的である。
それを象徴するかのように、日本における禁色は混色によって作られた色であることが多い。それは例えば前述した「黄櫨染」や「青白橡(麹塵)」や、支子の黄色の下染めに紅花の紅色を上掛けした鮮やかな赤橙色である「黄丹」、さらに黄丹に染色方法が似ている深支子・浅支子(紅花と支子の混染)なども禁制とされた。また、何度も繰り返し染めなければ得ることのできない濃い色も禁色とされることが多く、特に、高貴な人を表す色であり、また染料も高価であった紫草の根を大量に使った濃い紫色の染色である「深紫」や、高価な紅花を大量に使った濃い紅色の染色である「深紅(韓紅花)」は禁制の対象となった。
一方、ヨーロッパの色彩文化は日本とは反対に、混色を禁じた文化であると言われている。なぜならそれは、古代ギリシャのプラトン以来の長い間、光や色彩は神の創造による根源的な性能であり、人間が物質を混ぜ合わせて作るべきものではないと考えられていたからである。中世社会において、いかがわしい職業の筆頭にあげられたのは染色職人であったと言われているのは、人工的に色を変えるということは神への冒涜であるという当時の通念を物語っているものであると言えるだろう。そのため初期ルネッサンスの頃までは、混色によって新たに色を作り出すことは神への冒涜であるとして避けられていたのである。
しかしそのような混色を避けるという文化のため、ヨーロッパの色彩文化は混色に頼らず自然から出来る限りの色を拾い出そうとし、結果として他の地域に比べてはるかに多い種類の天然染料・顔料などの自然の色素材を見つけ出すことが出来たと言われている。
そしてまた混色を嫌うという文化は、「純粋な色」を求めるということにつながっていく。前述したように色素の薄い眼を持った人が比較的多いであろうヨーロッパ社会では、必然的に明瞭性を持った色彩が求められていたのでないかと思われる。そういった身体的要因も手伝って、色を混ぜた時に出来る独特のくすみ・渋さなどが無い神が創った自然に咲いている花の色のような鮮やかな色彩を求め、よりそれに近い純粋な美しい色を、つまりは「原色」を求める文化を築いていったのではないかと思われるのである。
その色彩感覚は、17世紀の終わりにニュートンがスペクトルを発見して以後のヨーロッパで脚光を浴びることとなった色彩の科学にも反映されているように思える。18世紀から19世紀にかけての色の三原色の理論や、補色関係の理論、配色調和論などを見ると、どれも「はっきりと違いがわかる色」が使用されているのである。
20世紀に発表されたムーンとスペンサーの色彩調和論においては、配色が調和的であるための条件の一つとして「配色される二つの色の差があいまいでないとき」ということを挙げており、つまりはあいまいな色合いは不調和の原因となるという説を唱えている。この説は「渋さ」という茶色や灰色の混ざった微妙な色合いを良しとする日本の色彩感覚には当てはまらないところがあり、これらの明瞭性を重視した色彩感覚はヨーロッパ特有の色彩文化の現われであると言えるだろう。それはつまり、はっきりとした色・鮮やかな色としての「原色」を求める色彩文化なのである。
それは近代における合成染料・顔料の発見・開発にも影響を及ぼしている。19世紀頃にヴォークランがクロームからの析出に成功して開発した「クローム・イエロー」という黄色は、絵具としてゴッホの「ひまわり」に使用されたことでも有名である。他にもクロームの水和酸化合物である「ビリジャン」という緑色などもこの頃に絵具の色として登場し、それまではそのような鮮やかな色が出せる絵具が無かったために茶褐色のように描かれていた風景の草木の色を、自然のままの鮮やかな色で描くことが可能となったのである。
ヨーロッパの色彩は、中世までは神の創った自然の恩恵であったが、その自然の色彩に憧れることで自然の鮮やかな色彩に対する欲求が培われ、科学技術の発展と共に人間の意志のままに色彩を人為的に統御することができるようになったと言われている。そのため色彩が工業技術の産物となり、有力な商業手段として活用されるようになった最初の地域はヨーロッパなのである。このようにしてヨーロッパにおいて化学的に開発された人工的な色材は後に日本にも輸入され、国際化が進む現代社会の色彩文化において、無くてはならない物となっているのである。
また、ヨーロッパにおいても、日本と同じく紫色は高貴な色とされていた。その理由としては紫色を出せる天然染料の種類が他の色よりも少ないことなどから、紫色は貴重な色とされていたからであると言われている。ヨーロッパにおける紫色の染色方法は、地中海沿岸に生息する巻貝の一種であるプルプラ貝を使った貝紫という動物染料の染色方法が有名であるが、この紫色はローマ皇帝・シーザーがその権威を民衆に知らしめるために、この貝紫で鮮やかな紫色に染めたマントを作らせ、それを見た民衆は、この見たことも無いくらい鮮やかな色彩をも支配した皇帝に対し畏敬の念を抱いた、という伝説があるほど貴重な紫色であった。それは、1着の染め物に必要とする貝の数は約30万個にものぼると言われ、限られた天然染料を用いて鮮やかな濃い紫色を染めるためには莫大な財力や権力が必要であったということと、この染料となる貝の汁は、鮮やかな黄色から緑青に変わり、その後で赤紫に変わるため、紫色は「色の中の色」とみなされていた、という紫色の貴重性があったからである。そして、この貝紫を使い古代ローマやビザンチン帝国の皇帝の色とされた「ロイヤル・パープル」と呼ばれるヨーロッパの紫色は、日本の紫草を用いて染められた紫色である「本紫」に比べて赤味が強く、鮮やかなビビットトーンの紫色であり、ここにも鮮やかさを求めるヨーロッパの色彩文化が感じられる。
以上の事からわかるように、ヨーロッパにおける色彩はより純粋な色・くすみの無い鮮やかな色を求める傾向にあると言える。一方、日本は混色によって色に深みを出して茶色や灰色を漂わせることにより感じる「渋さ」を求める傾向にある。
日本の色彩文化における染色の価値観は、手間と時間とをかけて何度も色を重ねて染めるということに重きを置いたものであり、それはつまり異なった色を重ねて様々な色みを含んだ味わいの深い色を作り出す「混色」や、何度も植物染料による染色を繰り返したり混色することによって色相が複雑になって生まれる「渋さ」を良しとする文化であると言うことができるだろう。
そしてその日本人の色彩感覚は、西洋化したと言われている現代においても受け継がれているように思われる。明治以後、文明開化により日本文化は様々な分野において洋風化し、全ての面で科学的なものへの傾斜を強めることとなる。それは色彩においても言えることで、染料や顔料なども従来の天然材料を主体にしたものから、化学的に作られた合成染料などの人工材料に変わっていった。そしてその人工的な色材の発色は、それまでの天然材料特有の質的な渋さを失って、華やかさ・鮮やかさ・透明さを身上とするものであった。このように明治時代以降、世相の変化と共に日本の色彩も目まぐるしく西洋的傾向を強め、染色なども欧米諸国のものを真似し、日本の染料の主体は鮮やかな色を簡単に染め上げる合成染料へと移り変わっていったのである。
だがしかし、前述したように精度の良い眼をもった日本人の色彩感覚では、そういった西洋人の好む「わかりやすい色」だけでは、やはり満足できなかったのではないかと言われているのである。例えば、現代ではもはや合成染料が主流になっているとはいえ、伝統工芸などにおいては相変わらず天然染料での染色が良しとされ、また「草木染め」などの教室が開かれたりと、天然染料の色彩に未練は捨てきれないように見受けられる。また、合成染料を使用する際にも、日本人の色彩感覚に合った色合いが検討され、落ち着いた色合いを作り出すこともされている。染料以外の例では、高画質・色彩表現の豊かさをアピールするために日本の伝統色をとりあげた新型テレビのCMや、数年前に発売された日本の伝統色に似せた渋い色のインクを用いた和色シリーズのカラーペンなども、たとえ今の私たちが他の分野と同じくグローバル化を謳いながら西洋諸国の色彩文化を追いかけている真っ只中にいるとしても、やはり日本独自の色彩感覚は捨て切れていない証拠なのではないだろうか。
様々な分野での異文化交流が当たり前のように行われている現代において、色彩文化のグローバル化もまた、起こりうる当然のこととしてとらえられているだろう。そしてそれは国境を越えた色彩環境文化の形成へと発展することも予想され、環境の一つとしての色彩の扱われ方が世界共通化することで、画一的な人工環境やライフスタイルの類似化・人工色による色彩環境の平均化などにつながってしまい、それぞれの風土に合った色彩文化が失われ、均一化した色彩の世界になってしまうのではないか、と危惧する声もある。
しかし日本の色彩文化が独特の「渋さ」を捨てきれていないように、たとえグローバル化が進んでも色彩感覚はやはり文化によってそれぞれであり、色彩文化は、そう容易く染め替えられるものでは無いように思える。
グローバル化が進む世界に生きているからといって、それまでの文化を捨てて均質化へと向かうだけが選択肢では無いだろう。特に色は、色と色との微妙な差異を見出すことで無限にその種類を増やすことができるのだから、私達はこの精度の良い黒い眼で自文化の色彩と異文化の色彩の両方を見つめることによって、よりたくさんの素晴らしい色彩を得ることができるようになる、という選択肢もあるのではないだろうか。
≪参考文献≫
上村六郎著 『色と染』(毎日新聞社)
長崎盛輝著 『色・彩飾の日本史』(淡交社)
福田邦夫著 『色彩調和論』(朝倉書店)
社団法人 全国服飾教育者連合会(A・F・T)監修
『色彩能力検定対策参考書 1級編』 『同 2級編』 『同 3級編』(株式会社A・F・T企画)
桑原美保・宇田川千英子著
『色彩検定対策予想問題集 1級/色彩検定 重要用語 要点整理1級』(早稲田教育出版)