【じゅんぽろの日記 2003年】  To Home !過去日記indexたかぽろのささやきかたらい

   

3月30日(日) かなりウレシイぷれぜんと。*

今日、ジャイアンツ(よみうり)ファンの姉妹からこんな↓↓思いがけないプレゼントをもらいました。

すげーすげー。カープの選手約50人の応援歌と、公式応援歌が入っています。こりゃあすごい。よくぞこの品をプレゼントに選んでくれました。いいセンスしてます。でも、おそらく今年1年一度も1軍に上がらないだろうと思われる選手の応援歌まで入ってたりもして、サービス良すぎです。

さっきお風呂からあがったら、たかぽろが歌詞カード見ながら聴いてました。彼女は私にくれたはずなのに、やっぱりたかぽろの方が熱心に聴いてます・・・。じゅんぽろもしっかりおーえんするぞー。

ところで余談ですが、たかぽろは野球中継やスポーツニュースを見ながら野球チームの監督になることが日常茶飯事ですが、政治経済の報道を見ながら日本の首相になる姉妹もいます。教会っていろんな人がいて、ほんと楽しいです。(意味不明なオチ)

   

3月27日(木) 感謝のあふれる、長い一日でした*

今日は、じゅんぽろ兄の結婚式でした。嬉しい嬉しい一日になりました。都内の某ホテルで、挙式と親族お食事会がありました。

家族みんなが何年もの間祈って祈って待ち望んでいた、兄の結婚でしたから、感動ひとしおでした。兄が彼女といっしょに、結婚の誓約をしている後ろ姿をみながら、涙が出そうになりました。彼女も、彼女のご両親もとってもいい方たちで、兄は本当に神さまのあわれみを受けたなあと、しみじみ思いました。兄は毎週きまじめに主日礼拝を捧げるタイプのクリスチャンではないのですが、彼女とご両親が、結婚をきっかけにして神さまの話に触れる機会もできましたし、そんな兄も神さまはちゃーんと用いておられるなあと思います。

挙式は、じゅんぽろ母教会(じゅんぽろ家族の所属教会)の牧師先生が司式をしてくださいました。メッセージはマタイの福音書5章13節、「地の塩になりなさい」という所からでした。結婚生活に対する奨励のメッセージにとどまらず、「人間は誰でも神さまを必要としているのだ」ということを、ストレートに語って下さいました。列席してくださった皆さんの多くは、クリスチャンではありませんから、聖書の話を耳にするよい機会となって、本当に良かったです。

挙式後のお食事会は、新婦ご親族に、じゅんぽろ姉の家族&じゅんぽろたかぽろが、混ぜていただくという形で行われました。彼女のご家族やご親戚のみなさんとお交わりするよい時になりました。いや〜、フレンチのコース、おいちかったー。オードブルもパンも魚もお肉も・・・・おいしかったのでした、まじで。ひっさしぶりに、ちゃんとしたおいしいものをいただけて嬉しかったですうー。会の最後には、兄と彼女が仲むつまじく、フルートとハープの演奏をしてくれました。いやー、よかったです。彼女のご両親がとっても気さくな方で、たくさんお話させていただいて感謝でした。

・・・今までここには書いてこなかったのですが、じゅんぽろの父は今年のお正月からずっと入院しています。救急車で担ぎこまれて一命をとりとめ、3ヶ月間療養生活を送っていた父ですが、今日は入院してから初めて外出し、挙式のみですが参列することができました。その事も本当に感謝でした。本当に久しぶりに外の空気に触れて、父の兄弟や教会のみなさんにもお会いできてよかったです。牧師先生は、涙流して喜んでくださいました。「早く病院を出て、家に帰りたい」、と父は多少思うようになったようでした。外出中は身体のトラブルなども一切なく、無事に病院から行って帰ることができました。本当に、本当に感謝です。これまでお祈りいただいたみなさん、とりあえず今日まで、本当にありがとうございました。引き続き、お祈りに覚えていただければ幸いです・・・・

喜びもつかのま、お食事会終了後、たかぽろとじゅんぽろは新婦のドレスなどを返しに横浜の某ブライダルサロンへ車をとばしました。無事に任務を遂行後、「せーっかく横浜に来たんだからタダでは帰るまい」、と中華街へ車を向けちゃいました。中華粥、チャーハン、シュウマイ、ゴマ団子、そして母のおみやげに甘栗を買い込んでようやく家路に着いたのでした。

家に帰ってシュウマイを蒸し、お粥とチャーハンをあっため、チンゲンサイとお豆腐でスープ作ってたべちゃいました。いやーーー、これがまた、どれもこれもおいしかったのだわーーん。特にシュウマイは絶品でございました。さすが中華街。昼間フルコース食っといて、またこんなに食っていいんだろうかと思いつつ、ぺろりとたいらげました。

という、感謝感謝な、ながーい一日でした。朝早くからホントにごくろうさんでした>>たかぽろ

   

3月25日(火) 自分をチェックする基準  *

牧師先生のメッセージや、自分でやるデボーションを通して、このところ示されているみことば。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。ガラテヤ人への手紙6:14
私はすべてのことを、福音のためにしています。 コリント人への手紙T 9:23

「何を誇りとしているか」「動機は何か」

今の私にとってこの二つは、自分の行動や考えが神さまからズレていないかどうかを確認するための”チェック項目”になるんじゃないかと思っている。   


3月20日(木) 「それを使ってみるということによって、神様の力を皆さんがわかるようになる」  *

銀行ウーマンの姉妹から、いい話を聞いたのでさっそくシェアしたいとおもいます。

日銀前総裁の速水氏が、退任記者会見で素晴らしいことをメディアに向かって語っておられます。全文は非常に長いので、一部引用します。テレビでは、80分の会見のうち、1分ほどしか放送されなかったようです。残念なことです。でも、少なくともその会見の場にいた人たちは、速水氏を通して神さまの存在を聞いたのですから、それだけでも、本当にすばらしいことだとおもいます。

以下、「速水総裁退任記者会見」会見要旨の一部引用です。(答)が速水氏です。

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(問) 金融政策運営を司る上で、信仰はどのように総裁を支えたのか。下世話な言葉で言うと、イエス様の信仰は、金融政策の決定に役に立ったのか教えて頂きたい。また、今回退任するにあたり、私たちに送るお言葉を頂ければと思う。

(答) 私は、1945年、昭和20年からのクリスチャンである。家もそうであったし、もちろん母親もそうであった。クリスチャン・ホームで育ったということである。ただ、やはり戦争で兄が亡くなったり、父親も早く亡くなったり、いろいろな事があった。

    私は先程少し申し上げたように、「土の器」のように本当に平凡な使い勝手のない男である。神様がやってみろとベルーフ(職業)を与えるということは、こういう弱いもの──「土の器」──だけれども、それを使ってみるということによって、神様の力を皆さんがわかるようになる、というようなことをパウロが言っている。パウロほどの強いものではないが、心境はそのようなものであったと思う。その後ずっと、国会に400回近く行ったり、海外に行ったり、いろいろなことがあった。明日何が起こるかわからないといったこともあったり。そういう時でも、私は3つのことをいつでも口ずさんでいる。これは、キリスト教に関係のない方は、「何言っているんだ」という話かもしれない。

    極めて簡単に言わせて頂ければ、イザヤ書という中に、「怖れるな、私は汝とともにある」という言葉がある。「主、共にいます」ということ。これが一つであり、神様はいつでも私のそばに付いていてくれている。二つ目は、「主、我を愛す(Jesus loves me)」、これは、幼稚園の時に歌った歌だが、神様は私を愛してくれているということ。三つ目はやはり、「主、全てを知りたまう」、神様は、どんなことがあっても全てのことを知っており、全てを知った上で正しい判断を行い、正しい事をやっていれば、神様は守って下さるということ。そういう極めて単純な信仰を持って、事にあたって来たつもりである。

   

3月20日(木) もう *

戦争はやめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。

   

3月14日(金) 誕生日でした *

「小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」(黙示録19:5)

3月14日、0:00分に友人一家が私に宛てて送ってくださった、お誕生日メールによせられたみことばです。

わたしの洋服のサイズはSでもなくLでもなく、Mなんだけど、私も神を恐れかしこむ者の一人です。だから、神さまを賛美したいです。これからもずっと。この世でも、御国でも、ずっとずっと。

ずっと、ずっと。   


3月12日(水) 平安を得るために *

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ イザヤ書59:1−2

心にどうにも平安がない時は、周りで起こるできごとや人の言葉が原因なのではなく、神さまと自分をむすぶパイプの中が、自分の罪によって汚れてしまい、神さまから流れてくるもの(恵み?、愛?、霊?、油注ぎ?)がうまく流れないのが本来的な原因なのだ、ということには気がついていた。だが、その「罪」のなかでも「さばく」という罪が、いちばんやっかいで、気をつけなくちゃいけないものだということを、最近教えられている。

次のみことばに、この2週間くらいで何度も何度も触れた。

さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
マタイの福音書7:1−2

ここからは、牧師先生がこのみことばをもとに、解き明かしてくださった話。(でも、わたしのフィルターがかかっちゃってるかなー)

*****

人間の心は、神さまからの霊的な栄養(牧師先生は、「神さまからの油注ぎ」という言い方をしてた)を必要としている。肉体的に、お腹がすいて、栄養が足りなくなると、イライラしたり、精神的にも不安定になるのと同様に、心も栄養が足りなくなると、イライラしたり、落ち着かなくなったりしてくる。

じゃあ、どういうときに、心に霊的な栄養が足りなくなるのか、というと、罪を犯して悔い改めていない時である。

殺人とか姦淫とか、道徳的な罪ならば、すぐに罪責感がくるので、悔い改めやすい。でも、怖いのは気がつかない罪。その代表的なものは「さばく」という罪である。人をさばく行為は、罪責感が来ないので、罪を犯していると気がつくのが難しい。

さらに、「さばく」という行為は、嫉妬、憎しみ、恨み、自己憐憫、落ち込む、などに形を変える。「心の傷」も、そうである。

いずれにしろ、何かをさばいているままでいると、神さまは、私たちへの霊的な栄養の蛇口を閉めざるをえない。わたし達がさばいた分だけ、神さまは、霊的な栄養の流れを細くされる。その結果、私達の心は安定を失ってしまう。マタイ7章冒頭の聖句は、そのような意味である。

だから、思い当たる罪がないのに、なぜか心がざわついたり、イライラしたり、心が不安定な時は、(クリスチャンの場合は)、誰か(何か)をさばいていることを疑った方がいい。そして、早く悔い改めたほうがいい。

*****

と、まあ、そういう話。厳しいなぁ・・・と思ったけど、すごく納得。

このメッセージを初めて聞いた時は、私は長いこと心の落ち着きを得られなくてずっともがいていた。どうしてこんなに心がざわつくのか、全然理由がわからなかった。

でも、気づかされた。わたしは結局いろんなひとをさばいていたのだ。そのことを冷静に見つめた時、恐ろしくなった。私が人をさばき続けるなら、私は一生心の安定を得られることはないのだ。

祈祷会でこの話を聞いて、次の日の婦人会でも全く同じ事を聞かされ、今の私に本当に必要なメッセージだと確信した。

神さまの前に、さばいている罪を悔い改めた。不思議なことだが、心が軽くなった。

笑ったり、楽しんだりしながらも、いつも心の片隅でかさぶたみたいなものを持ち続けていた私だが、それもなくなった気がした。(つづく)

   

3月9日(日) 私は何も知らない *

今日の礼拝で、心に突き刺さった言葉。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 コリントT 8:2

知るべきことで、まだ私が知らないことがたくさんある。

知る必要がないから、神さまがわたしに知らせないこともある。

いずれにしても、自分が「知らない」者であることを思い、謙虚になって、神さまのことばに、人のことばに、耳を傾ける者でいたいと思う。

   

3月3日(月) -Saint Francis's Prayer for Peace 聖フランシスの祈り - *

Lord, make me an instrument of thy peace.
Where there is hatred, let me sow love
Where there is injury, pardon
Where there is doubt, faith
Where there is despair, hope
Where there is darkness, light
Where there is sadness, joy
O Divine Master
Grant that I may not so much seek
to be consoled, as to console
to be understood, as to understand
to be loved, as to love
For it is in giving that we receive
it is in pardoning that we are pardoned
it is in dying that we are born to Eternal Life.
Amen.

主よ、私をあなたの平和をもたらす道具としてください。
憎しみのあるところに、愛を
傷つけあうところに、許しを
疑いのあるところに、信頼を
絶望のあるところに、希望を
暗闇のあるところに、光を
悲しみのあるところに、喜びを
もたらす者となれますように

ああ、聖なる主よ、
許されることより、許すことを
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを
求めるものに、私をしてください

なぜなら、
人に与えるならば、自分も受けることができ、
人を許すならば、自分も許され、
死んだ時はじめて、永遠の命に生きることができるからです。
アーメン


3月1日(土) 十字架以外誇るものはありません *

主イエス様は 地上に降り
神の姿示して
人の罪をすべて背負い
十字架で死なれた

※主イエス様の 十字架だけが
 私達の誇り
 主イエス様の 十字架以外
 誇るものは ありません

主イエス様の 愛を知って
私は主を信じた
愛される喜びは
生きる力生み出す

主イエス様は 死に打ち勝ち
今も生きておられる
私たちも主と共に
永久(とわ)に生きる 御国で

("Great Is Thy Faithfulness"のメロディーにあわせて。訳詩ではありません)