初めて心療内科で診察を受けてから薬は欠かさないで飲んでいた。

しかし、何故だか様子は逆に悪くなっていっているような感じがする。
いつもそわそわとし、落ちつかず、とても眠い。
何かしたいような感じがするのだけど、何かしようとすると悲しくなる。

実はもう、この時点でスーパーに食事の買い物をしにいくこともできなかった。

交通事故以来、あまり車に乗ることができなくなってしまっていたせいもあってか、
どこかにいくということがとてもおっくうになった。
それに加えて、結婚前に購入した愛車を3ヶ月前に手放していたので
どこかにいくとなればバスか自転車。
ただでさえ交通の便の悪いこの県で、しかも当時は市内のはずれに住んでいたため
出かけることはかなり不自由で、友達もあまり来ることはなくなっていた。
というか、友達がくることさえ、気分が重たくなる一つの要因だったのかもしれない。

そんな中でたった一つの楽しみといえば、週のはじめに教会に出かけていくこと。
人間関係は特に楽しい事もなかったけれどまぁ、普通に仲はいいので苦痛ではない。
私が教会に通う一番の目的は、エホバの証人である義母のJW的教えから子供たちを弁護するため。
次に、私がものみの塔に書かれてある教えと教会の教えをわけて考えることができるようになるため。
その次に、やはりJW2である夫にキリスト教とエホバの証人の違いを少しでも感じて欲しかったから。
最終的には、エホバの証人である義母にエホバの証人を辞めてもらえるように、ずっと祈っていた。

普段、仕事で忙しくてはやくから寝てしまう夫も、日曜日だけは行動を共にしてくれた。
一台しかない車に加えて、遠くから単身赴任できていた男性の教会員の方を教会に連れて行くため、
早起きしてがんばってくれた。

私は、それが嬉しかった。
夫の心の中ではきっと面白くないのだろうなという事は薄々わかっていたけれど、気がつかないフリをしていた。
夫が朝から夕方まで教会にいるということはなかったけれどもそんなことはどうでもいい。
とにかく行き帰り、一緒にいられればよかった。

しかし、幾ら行き帰り同じでも家族が離れ離れに日曜日を暮しているのはおかしい。
小さなころ、私の父親は日曜になると朝っぱらからパチンコ屋へといそいそと出かけ、夕方になって帰ってきては
やれ、幾ら勝っただの負けただのを延々繰り返し、負けが込んで返ってきた時は必ず不機嫌で当たられた。
だから私はそんなかまってくれない父親がいやで、自分が家族を持ったら日曜日は必ず一緒に過ごそうと
心に誓っていたはずなのだけど、実際はそうではなかった。

結局何らかの宗教行事に参加し、家族はバラバラだ。
まぁ、教会に行くようになったおかげで子供たちはうるさいだの、あばれるなだの叱られる事がなくなっただけ
ましといえばましで、しかしこれでは自分が小さかったころと全く同じだ。
それだけでない。夫もかつてそうだったように日曜日はもしかすると悲しみとあきらめの中にあるのかもしれない。

どうせ家にいてもろくな所にも連れて行ってやる事もせずに叱ってばかりなら教会の方がいいに決まっていると
そんな風に感じがちだけどもしかすると子供は叱られながらでも私たちと一緒にいたかったかもしれない。
しかも、私と子供が教会にいくと夫は一人取り残されたまま。
これでは夫のその幼少のころ、父親が一人取り残されたまま夫と夫の母が集会に出かけていたのと全く同じ
状況じゃないか!

「悲劇な家庭だな。」そう感じていた。

夫と離れて教会に通う事。
私は神という存在を心から信じているので教会で神にふれる事はとても嬉しい。
しかし、夫と離れて過ごさなければいけないことは身が裂かれるようにつらい。
かといって教会に行かなくなったとしても、きっと夕方まで布団に潜りこんで眠り続け、
日がかげる頃おきだしてきてため息を一つつくのにはもう嫌気がさしている。

いったいどうしよう・・・・・

そんな思いも、ちょうどそろそろ限界に達してきていたのか、それとも考える余裕が断たれてしまったのか、
ついには教会に行くこともできなくなってしまったようなのだけど、それも、どうして、いつごろどのように
行くことができなくなってしまったのかという事は、今も全く記憶に思い出せないままでいる。


結果、どこにも出かける事のできなくなった私は健忘の中、1日1日を送る事になった。
1日いちにちは確実に過ぎ去っていっただろうに、思い出せないまま、いや、
死んだ状態で生きていたあの頃に自分は何を思っていたのか、今はまったくわからない。


ある日に、日記帳に『時間が分からない』とかかれてあった。
その当時、私は自分が過ごしている時を思い出そうとしても1時間前の事がすでに、どうしても思い出せなかった。
この手記の頃はちょうど初診から1ヶ月ほど経った4月の頃だったのだけど
もう、全く自分が何を考えていたのか覚えていない。

夫の話しによると、何だか夫の顔を見ても夫と分からず、
ずっと吸わないでいたタバコを買いにいったかと思うと、もう何年も前に吸っていたようなとんでもない銘柄を当たり前のように
買ったりとか、自分の家にいるのに他人の家のような感じで「ちょっとは掃除しなよ」といってみたりとか
わけわからないのオンパレードだったらしい。

ちょうどその頃、夫は仕事をやめたようなのだけど、やめた時のエピソードはうっすら覚えているのだけど
仕事を辞めた夫と毎日一緒に何をしていたのかとか、そういう事は一切記憶になく、
病院に一緒に行ってくれていたらしいのだけど、つい最近になって
「パパ、先生に会ったことないよね?」なんて全く素っ頓狂な事を言ってしまうほど、当時の程度の悪さが伺える。

投薬は・・・
当時はエキスパートくらい薬品番号を見れば即答していたと思うのだけど
何をどのように配合して飲んでいたのか、今は忘れてしまった。

ただ、鬱=分裂=パニック=自傷=鬱=躁=分裂=パニックと、
ランダムに繰り返す私の症状に家族はかなりまいっていたに違いない。
しかも、どうやら私は夫に心療内科で薬をもらっていたのを隠していたらしく、
家ではじめてパニックになった時に夫はビックリして義母を呼んでしまったからもう大変。
私はクローゼットの中に入って義母から隠れて出てこなかったらしい。

こうなると完璧にガイキチである。

結果、投薬で1日のほとんどを『起きているけど眠らされた状態』で過ごすことになった私は
健忘をとおりこして『死んでるのに生きてる状態』をキープする事になった。

あ、書いていて思い出した。
洗濯物。
二人でベランダに出て洗濯物を干したんだ。
いいお天気のときでさ。
「二人って、うれしいねーっ。のん、わらってるとかわいいねー。」って、パパが言ってくれたのが恥かしかった。
夕焼けの空がきれいだった。すこし、涼しかったような・・・・・・・・・

あああ。なんか泣けてきた