ミステリアスゾーン、「鬼ノ城」を紹介  



古代吉備国(岡山県一円から広島県東部にかけて)の中心地、総社平野を眼下に見下ろす標高400メートルの鬼城山山頂に、謎の古代山城、「鬼ノ城」(キノジョウ)がある。

山頂を囲む周囲三キロメートルの城壁、およそ30ヘクタールの城内、丁寧に敷かれた通路の敷石、東西南北4箇所の城門、谷筋に作られた5箇所の水門など、桃太郎伝説の鬼の城として、近年注目を集めている。

 パノラマ 



吉備は、大和と肩を並べていた古代国家で、渡来人が人口の四割近くを占め(後世、奈良時代の備中国大税負死亡人帳による)、彼らによってもたらされた当時の最先端技術によって国は繁栄した。
五世紀にはその頂点を極め、日本屈指の巨大前方後円墳、 全長350m、全国第4位の  造山古墳  や、全長286m、全国第9位の  作山古墳  が造営された。平野を縦断する砂川は、砂鉄を産し、鬼城山山麓周辺では、数多くの「たたら製鉄跡」が発掘されている。

しかし、大和朝廷の力が強大なるに従って、吉備国は衰退し、七世紀末ついに解体されてしまう。巨大古墳が誰のお墓なのか、どういう歴史があったのか、故意か偶然か、何の記述も残されていない。ただ、吉備国出身だった「ヤマトタケルの母」、冷遇され、謀略によって滅ぼされたという「吉備国の首長」に関する日本書紀、古事記の一文に、僅かにその姿をかいま見るだけである。

鬼ノ城の麓、今も豊かでのどかな田園地帯です。

 古代吉備国の中心地「備中国分寺」付近のパノラマ 

   「造山古墳」付近のパノラマ   

   番外編「こうもり塚古墳」   



吉備津神社に伝わる「吉備津宮勧進帳」によると、朝鮮半島から空を飛んでやってきた異形の皇子「双眼爛々として虎狼のごとく、蓬蓬たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、身の丈一尺四寸にも及ぶ」(まるで西洋人のようでもあるが.....。『天狗』とか『鬼』とか、もしかしたらそういうことだったのかな。)、「温羅(ウラ)」(う〜ん、この名前もそれっぽいな..。『Uranus』ということもあるし。)が鬼の城城主である。

温羅は西国から都へ送る船荷を略奪し(大本営発表)、困った民が朝廷に訴えたため、朝廷は何度も討伐を試みたが、戦略に巧みな温羅に、全く歯が立たなかった。
そこで、武勇の誉れ高い皇子、イサセリヒコノミコト(後に吉備津彦命)が派遣され、激戦の末、とうとう温羅を討伐した。(実際は、まるでミサイル、パトリオット.ミサイル、爆撃機、潜水艦を総動員した現代戦のような物語である。)
しかし、阿曽郷の神職の娘・阿曽媛を妻にめとりこよなく愛し「吉備の冠者」と呼ばれ親しまれた首領「温羅」の死を、吉備国の民衆は嘆き悲しんだ。



吉備津彦命は、討伐の際に陣を構えたといわれる備中中山にある壮麗な「吉備津神社」に祀られているが、温羅は神社の「釜」にその名を残すだけである。

しかし、温羅ゆかりの神社が、この地のそこ彼処に現存していることは、新政権の手前、表だって温羅を祀ることが出来なかった当時の地元民が、どれほど温羅を慕っていたかを彷彿とさせるものがあって、大変興味深い。

温羅の居城「鬼ノ城」の存在も、その後忘れられ、(「山の上に大きな城跡がある。」と、地元の人々の間では細々と語り伝えられていた)、偶然の山火事の後、民間の熱心な研究家によって調査が始まったのが、昭和46年、本格的な学術調査が始まったのは昭和53年のことである。


吉備国の、大和朝廷に対する「最後の砦」だったかもしれない「鬼ノ城」。
現在は史跡公園として整備されつつあり、山頂からの眺望  パノラマ は、ここに城が造られた理由を雄弁に物語っています。

発掘調査は現在も進行中で、謎はまだまだ解決しそうにはありませんが、吉備国に生まれ育ったかもかもは、これからも「鬼ノ城」をレポートしてゆきたいと思っています。


2000年7月記

 鬼ノ城2 につづく

撮影 「Nikon D1x  オリンパス C-3040Z」

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