森鴎外『雁』論

−重なり揺らぐ〈物語〉たちの物語−

池田蛇足

  1. 読みのパラダイム
  2. 「雁」という題名について
  3. 〈物語る僕〉と〈体験する僕〉
  4. 語りの齟齬
  5. 再構築された「雁という物語」
  6. 『雁』と『金瓶梅』
  7. 〈金瓶梅の世界〉への彷徨
  8. 漢文のアンビバレンツ
  9. もう一つの物語
  10. 『舞姫』との相互テクスト性

1:読みのパラダイム

『雁』は、森鴎外の作品群にあって、異彩を放つ存在とされている。鴎外の作品の随所に見られる高踏的な思想性が、 この作品にあってはあまり見られないからだろうか。『舞姫』と並んで、最も広く人口に膾炙した小説である。

しかし『雁』は単純な古典的テクストではない。

『雁』に関する先行研究を俯瞰するに、「余韻あふれる哀感」を読むパラダイムというものがあるようだ 。「余韻」という、いかにも曖昧で印象的な言葉が、しかし『雁』を受容する読者の心的作用をよく表していたからだろうか、現在にいたるまで、このパラダイムは覆されていないように思える。

たとえば『雁』を、お玉の自我萌芽の物語として読む向きがある。なるほど、「受け容れる女」、「諦める女」であったお玉は、物語の終盤で、自らの妾邸から脱し、岡田と語らおうとする「行動する女」に変貌を遂げる。その変化は、物語の語り手がよくお玉の内面を描くこともあって、読者に深い印象を与えずにはいない。

しかし、そのお玉の決意と行動は、無残にも「偶然」によって水泡に帰す。洋行してゆく岡田と、残されるお玉。二人は二度と出会うこともない。無縁坂で過ぎゆく岡田を無念そうに眺める美女の姿は、やはり「余韻あふれる哀感」とともに読者のうちに描かれる。

私がここで試みるのは、何もこのパラダイムの転覆ではない。むしろ、このパラダイムに論拠を与える作業になるかも知れない。しかし、このパラダイムに寄りかかるあまり、豊かなテクストを偏狭な読みに狭めるとしたら、いくつかの「読み」の可能性に盲目になってしまうかも知れない。

2:「雁」という題名について

『雁』と印字されている。

この「雁」は、「かり」とも「がん」とも読まれる。しかしこのテクストの表題は、「かり」ではなく「がん」である。なぜなら、初版本に「雁(がん)」とあるからである。

「かり」は訓読みで、「がん」は音読みである。たとえば『源氏物語』に、雲居の雁という女性が登場するが、これは「くもゐのかり」であって「くもゐのがん」ではない。

なぜ鴎外は、この「雁」に、「がん」と音を充てたのか。「かり」では、なぜいけなかったのか。「雁」とだけあれば、その題名はアンビバレンツなものとして放り出され、読者に選択の自由が与えられたはずである。しかし、鴎外はあえて選択肢を残さず、読者の自由を剥奪し、「がん」の読みに限定させた。なぜ「雁」のままではいけなかったのか。どうして、「雁(がん)」と付記しなければならなかったのか。

しかしこの疑問への解答は、もちろん表題だけを睨んでいても出てくるものではないから、後述するとしよう。

さて、雁という渡り鳥を表題としたこのテクストにおいて、その鳥が現れるのは物語の終盤、クライマックスにおいてである。物語の序盤で、岡田とお玉が邂逅し、親しみ、中盤でお玉の過去や現状が語られる間、雁は一度も現れない。

読者は、岡田がお玉と出会ったり、お玉の身に様々な災難が降りかかったり、やがて蛇を殺すために岡田がお玉と始めて言葉を交わしたりするのを読みながら、「雁」という表題の意味を考え続けなければならない。いったい雁はいつ物語に現れるのか、という疑問か、今か今かと雁の登場を待つ期待や焦燥を、読者は胸に抱くのである。

或いは「雁」とは物語の象徴的なモチーフではないか、と考える読者もいるかも知れない。

「雁」という鳥は、文学という枠組みの中で、ある種の固定的なイメージを獲得していたからである。

雁は、先述の通り渡り鳥で、まずは日本の北部に飛来し、そこから各々の好む避寒地を求めて、内地へと飛んでいく。この飛来地の一つが、現在の青森県の外が浜である。ここに「雁風呂」と呼ばれる伝承が残っている。

雁は、遥かシベリアから、日本海を越えて飛来する。その行程で、疲れた翼を休めるために、嘴にくわえてきた木片、或いは葦を海面に浮かべ、その上に留るという。外が浜に飛来した雁は、ひとまずは不要となった木片を浜辺に捨て置き、好む内地へ飛んでいく。

やがて春が来て、故郷へ帰るべく、かの鳥は外が浜へ帰ってくる。そしておのれが嘴にくわえてきた浮木を見出し、またそれをくわえて、シベリアへ飛び立つのだというのだ。

しかし、すべての雁が故郷に帰れるわけではない。雁は、『雁』の中でも「雁鍋」にして食われてしまうが、その肉は美味とされ、我が国では古くから狩猟の対象であった。おそらく多くの雁が、猟師に撃たれ、或いは天敵に捕らわれ、或いは病に倒れて、故郷へ帰還できずに命を落としたのである。

外が浜の浜辺には、だから春ともなり、雁がシベリアへ再び帰還して後、我が国で命を落とした雁の数だけ木片が残る。外が浜の人は、その哀れな雁の冥福を祈るために、浮木を集め、これを薪として風呂を沸したという。これが、「雁風呂」である 。

古くから、風呂を沸し、広く沐浴を勧めることが、言わば徳を施すことになる、という仏教の観念があって、それが「雁風呂」の伝承に繋がったという。

しかし、なぜ雁なのか。他にも狩猟の対象となる鳥獣は多いのに、なぜ雁だけにこのような伝承が生まれたのか。思うにそれは、雁という鳥が、高い知能を持ち、しかも渡り鳥であったからではないか。

雁の飛行形態は、「雁行」と呼ばれる。空気抵抗をうまく考えた、航空力学に適った形で飛び、それらは集まって見事な群れをなす。先頭を飛ぶ者は一定ではない。常に交代し、負担を減らす。最後尾を飛ぶ者が、先頭に踊り出て、それを何度も繰り返して交代するのである。

そうして苦労の末、日本に飛来する。もちろん、海上で、旅の途中で命を落とす者も多いに違いない。その鳥が、たまたま時間が交錯した、見知らぬ猟師の込めた鉛玉に、或いは弓矢に撃たれて、その時間が絶たれる。岡田の放った一石によって命を落とす雁も、またその一羽である。

こうした、高い知性を持った雁の、あまりにむごい偶然によって命を落とすその悲劇に、人はおそらく、自分達人間の人生を重ねて哀れんだのであろう。「雁風呂」は、主として俳句のモチーフとして、江戸時代以降、盛んに文学の世界で詠み込まれるようになっていくのである。たとえば次のような句がある。

雁風呂や海あるる日はたかぬなり 高浜虚子
雁風呂を焚くや幽かに雁の声 尾形不二子
雁風呂に客もあはれと和しにけり 高田蝶衣

こうした背景を知る読者は、『雁』という物語が、何かしら悲しい結末を迎えるのではないか、という思いを、胸に抱き続けながら読み進めるかも知れない。また、こうしたイメージでないにしろ、読者それぞれが「雁」と聞いて抱くイメージを、この『雁』というテクストに投影させながら読むのではないか。

総じて、表題「雁」は、読者に何らかの期待、疑問、焦燥を与えるものだと言える。この不安定さは、もちろん終盤の、岡田が石を投じて雁を殺す場面で解消され、安定を取り戻すが、逆を言えばその場面まで安定は「遅延」されたままである。

終盤において、表題の「雁」が、物語に登場した雁と重なる瞬間は、また物語の進行が加速し、終末へ向かう瞬間でもある。読者は、単行本であれば、残されたページがもはや少ないことを知るであろうから。いや、単行本でなくとも、物語がクライマックスを迎えていることは分かるはずだ。物語の絶頂は、読者に快楽を与えるが、同時にまた、その快楽が大きければ大きいほどに、それに見合った喪失感を与えるのである。

知る瞬間は、喪失する瞬間でもある。このモチーフは、この小論において後に再び語られることになるだろう。

3:〈物語る僕〉と〈体験する僕〉

物語とは何か。

この問いは、それに答えるための学問、ナラトロジーを成立させるほど困難な問題だが、一方で極めて単純な問いでもある。それは、「物語」という言葉自体に、その答えが示されているからだ。すなわち、物語とは、「語られた出来事=話」である。

あらゆる物語は、それ自体の定義により、語り手を必要とする。語り手の存在しない物語言説がありえないのは、語り手が存在することによって物語は物語たることができるからである。

『雁』の作者は森鴎外である。しかし、『雁』を語っているのは、果たして鴎外だろうか。確かに『雁』は、鴎外がペンで原稿用紙に書き連ねた文字の集合で、彼がペンにインクをつけて腕を動かすことをしなければ生まれなかった言説である。しかし、にも関わらず、このテクストにおける一人称「僕」は、決して鴎外ではない。

整理すると、『雁』の物語構造は次のようになっている。

1:現実世界で、『雁』を書く森鴎外(第一階層

2:『雁』の中で、「雁という物語」を語る「僕」(第二階層

3:「雁という物語」の物語内容(第三階層

それぞれは入れ子構造になっていて、もちろん第三階層の内部にも、さらに入れ子構造の物語を設定することももちろん可能だ。たとえば、岡田が僕に語った蛇退治の事件は、鴎外(第一階層)の書いた『雁』の中で、僕(第二階層)が語る「雁という物語」の物語内容において、岡田(第三階層)の語る物語世界(第四階層)、ということになる。

階層の異なる者を同一視できないのは当然である。したがって、第一階層にいる鴎外と、第二階層にいる「僕」とは、たとえどれだけ似ていても同一視できない。

そして同様に、第二階層にいる「僕」と、第三階層にいる「僕」は、同一視することはできない。つまり、「雁という物語」を語る「僕」、すなわち語り手としての「僕」と、物語内容における「僕」は、同一の存在ではない。この二者の混同を避けるため、以後、物語の中で岡田と接する「僕」を、「雁という物語」における〈体験する僕〉と呼び、それを三十五年後に語る「僕」を〈物語る僕〉と呼ぶこととしよう。

この二人は、物語内部のロジックでは延長線上にある存在で、時間的な相違こそあれ、対等な存在であるように思われる。しかし、先の物語階層を考慮に入れると、二人の階層は異なるものであり、〈物語る僕〉の階層の方が優位であることが判明する。

確かに、〈物語る僕〉の三十五年前には「<物語る僕>の三十五年前の僕」は存在しただろう。しかし、その〈「<物語る僕>の三十五年前の僕」が、〈物語る僕〉の語るような<体験する僕>であったかどうかは定かでない。物語階層の上位は、下位に対して決定権を持つ権力者、絶対者となりうる。それは、或る小説の主人公を、作者が容易に殺せることでも分かる。言わばこれは、虚構構築の、極めて正当な権力行使で、これが逆に働く場合、それは「侵犯」となり、メタフィクショナルな効果を生むのである。

「語り」を、零度のものとしてでなく、或る主体的な「行為」として見る時に、こうした虚構構築にまつわる「権力」を視野に入れる必要が生じてくる。そうすることで、語りを静的なものとして捉えては見えなかった部分が浮き彫りにされるはずだ。

以上を考慮に入れながら、次項では『雁』の「語り」を分析してみよう。

4:語りの齟齬

しばしば『雁』は、語りに齟齬、揺らぎがある言説と言われる。はっきりと、それがこのテクストの弱点であると述べる向きもあるし、鴎外の、文体を制御する力が不足していることを指摘する向きもある。しかし、果たしてこのテクストには本当に「語りの齟齬」があるのか、あるとしても、それがこのテクストの弱みになりうるのか。『雁』の語りについて、考えてみたい。

『雁』の冒頭は次のように幕開ける。

(1)古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だということを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかというと、そのころ僕は東京大学の鉄門のま向かいにあった、上条という下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だということを、僕は覚えているからである。

まず読者は、この部分から『雁』という物語の構造の根幹を把握する。すなわち、第一に、語り手が「僕」であること。第二に、その語り手は機能的に制限された存在であること。第三に、語りの時間と物語時間には或る程度長い懸隔があること、の三点である。

第三点に関しては、その懸隔が三十五年間という年月であることはまだ知らされない(物語の終末で始めて明かされる)が、語りの時間において、物語内容の時間が「古い話」だと表現しうるほどには懸隔を持っていることが判明するし、「覚えている」などの言質から、少なくとも忘れうるほどには時間が経過していることを知ることができる。

しかし、この三つの宣言はそのまま維持されるか、というと、明らかにこれらの宣言に違反した言説が現れる。たとえば次の一節はどうか。

(2)末造はまた考えて見た。女房はおれの内にいる時の方が機嫌が悪い。そこで内にいまいとすれば、しいて内にいさせようとする。そうして見れば、求めておれを内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。

この部分は「玖」の一部である。ここで『雁』の冒頭にある三つの宣言のうち、第一または第二の宣言が違反されていることに気づかされる。もし語り手が「僕」であり、その〈物語る僕〉が、機能的に制限された語り手であるならば、末造の内面など語れるはずもない。

確かに、〈物語る僕〉は、「雁という物語」を語るにあたって、〈体験する僕〉の知識のみでなく、のちに情報を収集して不足を補い、物語を完成させたと言っている。

(3)物語の一半は岡田が去った後に、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。たとえば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の影像としてみるように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのがこの物語である。

しかし、お玉から情報を収集したとは言え、末造の心理の細かな様子や、末造とお玉とが会う前の経緯など、どうやってお玉が知り得たろう。お玉が末造から聞いたのかも知れない。しかし、それでは説明のつかない叙述が多くある。たとえば末造が、自分とお常の諍いなどをお玉に語るはずがない。

千田洋幸は、この語りの揺らぎを、第一の宣言の違反と考える 。すなわち、語り手が「僕」ではなく他の存在に変化している、というのである。千田氏はその語り手を〈全知の語り手〉と呼ぶ。なるほど、もはや「全知」と呼んで差し支えないほどに、語り手の視線は行き届く。

千田氏は、その<全知の語り手>にも人格を見るが、中には全く無人格な、言わば単なる「語り手」と言うべきものに語り手が交代してしまったと考える研究もある。

千田氏は、『雁』の中で、語り手が「僕」と〈全知の語り手〉とで何度か交代しており、まず第一の交代は、「肆」の途中にあるとする。はっきりとどこで交代するとは断言できないが、おそらく、「末造は小使いになった時三十を越していたから」か、その周辺の部分で、語り手が交代したと考えていると思われる。そして今一度「僕」が語り手の座に復活するのは「拾捌」であるという。語り手の交代を考える他の研究も概ね変わらないようだ。

この語り手の交代の根拠は、おそらく叙法の変化だろう。ディエゲーシス的な、「語ること」に偏向した叙述が、やがてミメーシス的な、「示すこと」に偏向した叙述に変化していくのが、「肆」の途中であるからだ。たとえば先に挙げた引用(1)は「語ること」に偏向し、一人称代名詞「僕」を多用する語りだが、引用(2)は一人称代名詞「僕」が使われない、極めて一人称性の希薄な、「示すこと」に偏向した語りである。

これは、『雁』における人称代名詞「僕」の使用頻度の統計を見ても実に明らかに判明する。『雁』において、「僕」という語が現れるのはのべ133回である。(ただしこのうちいくつかはいわゆる「僕」を示すものではない。)その「僕」という語は、文番号4から155まで、1398から最後までに集中して現れ、156から1397までには一つとして現れない。そして、この「僕」の空白個所こそ、千田氏が〈全知の語り手〉による叙述とした個所にほぼ一致するのである 。

確かに千田氏の見解には整合性がある。私はしかし、語り手の「交代」で語りの齟齬を説明する千田氏の論考に対し、一つの仮説を立てたい。冒頭五文でなされた宣言のうち、違反されたのは第一ではなく、第二である、という仮説である。

5:再構築された「雁という物語」

バンヴェニストの言うディスクール/イストワールの二項対立は、ディエゲーシス/ミメーシスの二項対立に似る 。彼の言うイストワールとは、あたかも誰かによって発せられたのではないかのような、まるで言語自身が語っているかのような叙述である。単純過去形と三人称の使用を特徴とし、言わば客観的な描写に使われる。

バンヴェニストによれば、言語は誰かによって発せられることではじめて存在できる。彼の言うディスクールは「話」という訳語が充てられるが、つまり言語は常にエノンセ(発話文)であって、発話者と(仮想的にであれ)受け手を必要とするというのである。その意味で、彼の言うイストワールには、常に隠されたディスクール性があるということになる。私たちは、零度を装うイストワール的な描写―三人称叙述であり、千田氏の言う〈全知の語り手〉による語りの部分の叙述―に隠蔽された一人称性、ディスクール性を暴かなくてはならない。

すなわち、以下の仮説は、「示すこと」に偏向した叙述に隠された、〈物語る僕〉の息吹に耳を傾けることで、「語りの齟齬」を整合的に説明しようという試みである。(ただし、千田氏の設定する〈全知の語り手〉とは、必ずしも「示すこと」の、イストワール的叙述ではない。千田氏は〈全知の語り手〉にも、〈物語る僕〉同様、一人称性を見出す。)

さて、まず問題となるのは、「僕」が知り得ない情報、たとえば引用(2)に見える末造の心理などを、どうやって「僕」が知ったか、という問題がある。これは、テクスト内部のロジックでは解決不能な問題である。

これに対して、たとえば「僕」が高利貸となり、末造と仕事上で付き合うようになって、その時に話を聞いたというような仮説を立てる向きもあるが、そのような恣意的な仮説を立てることに意味があるとは思えない。

シュタンツェルは、物語を語る一人称と、登場人物としての一人称の問題に触れ、興味深い説を立てる 。すなわち、「〈物語る私〉は、回顧的な能力を意味しているばかりでなく、再創造的な能力も意味している」「彼の語りは、〈体験する私〉の経験と知識の範囲に厳しく縛られることはない」というのだ。

つまり、「雁という物語」が、〈体験する僕〉自身の体験の記憶、さらに相識になったお玉から聞いた情報、そして、それらを繋ぎあわせるために〈物語る僕〉によって付加された「想像(創造)」によって構築された物語言説なのではないか、と私は考えるのである。

ここで再び、物語とは何か、という問題を考える。物語とは、「語られた出来事=話」であると解答した。しかし「語る」という行為は、単純に記憶や想像した世界を再生するだけではないだろう。語るという行為は、断片化されたものを繋ぎ、整合的な「話」として並べ替える、一種の「操作」を多かれ少なかれ伴うものである。たとえ零度を装っても、あらゆる物語言説は、それは物語としての体裁を持っている時点で、必ず(バンヴェニストの言う)ディスクール的である。

その「操作」の痕跡は、物語の配置、順序を見ても明らかである。物語内容の順序としては、たとえば次のようになる。(言うまでもないが、以下の考察におけるエピソードの区分はあくまでも便宜的なものであり、唯一絶対のものではない。さらに細かく分けることもできよう)


@末造、高利貸として独立する    @僕、岡田と知り合う
Aお玉、巡査に騙される       A僕と岡田、『金瓶梅』を仲立ちに交友
Bお玉、末造の妾となる      
Cお玉、末造が高利貸だと知る   
Dお玉と岡田、邂逅する
Eお玉と岡田、顔見知り親しむ
F岡田、お玉の飼う小鳥を蛇から救う
G僕、青魚の味噌煮に閉口して岡田を連れ出す
H僕と岡田、お玉と会う
I僕と岡田、石原に会う
J岡田の投じた石が一羽の雁にあたる
K岡田、僕に洋行を打ち明ける
L岡田と僕と石原、雁を手に無縁坂を上り、お玉の前を過ぎる
M岡田と僕と石原、雁を肴に飲酒する
N岡田、洋行する
O僕、お玉と相識になる     O下宿上条、出火する
P僕、「雁という物語」を語る

しかし、物語言説の順序はこれとは一致しない。次のような順序で語られる。なお、Pの「僕、『雁という物語を語る』」という行為は、この順序のどこにも位置づけることはできない。言わば、これら物語内容全体を語るメタレヴェルにあるからだ。

O→ @→ A→ D→ @→ A→ B→ C→ E→ F→ G→ H→ I→ J→ K→ L→ M→ N→ O

以上から、『雁』の語り手は、物語内容としての記憶や情報をただ「再生」する、例えばテープレコーダーのような零度の存在ではなく、聞き手(読み手)を意識して、整合的な一貫した言説となるように、たとえば物語内容を転置し、物語としての体裁を整える存在、つまり一人称性の強い「操作」を行う存在としてあることを知ることができる。

今一度、<物語る僕>の言葉を引く。

(3)物語の一半は岡田が去った後に、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。たとえば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の影像としてみるように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのがこの物語である。

「照らし合わせて作ったのがこの物語である」という、「作った」という言葉と「物語」という言葉に注目しなくてはならない。「雁という物語」を作ったのは、<物語る僕>なのだ。事実を並べ替え、配置し、体裁を整えたばかりではない。彼は空白を補い、物語として完成させなければならなかった。

すなわち、<物語る僕>は、事実を巧妙に配置しつつ、その事実と事実との空隙、たとえば末造の内面やいきさつを想像し、或いは創造しながら、「雁という物語」を語ったのではないか、と考えるのである。つまり、冒頭の第二の宣言、つまり覚えていないことは語れないという語り手の制限が違反され、その想像への規制が失われて、「僕」は縦横に想像を巡らせながら「雁という物語」を語ったのではないか、と考えるのである。

(4)細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはいられぬ虫は、mimicry を持っている。女はうそをつく。

これなどは明らかに「判断」が働いている。隠蔽された一人称性、或いは〈物語る僕〉の息遣いが聞こえてくるようではないか。他にも随所に、零度とは、或いは再生機能のみとは言えないような語り手の饒舌が、実に多く存在するのを、容易に見つけることができるはずだ。

しかし最後に一つ、大いなる疑問が残る。「僕」と同じ大学生で、おそらく登場人物たちの中で「僕」が最も親しみ、したがってその内面を最も想像しやしかったはずの、主要な登場人物、岡田の内面だけは、なぜに語られなかったのだろう。これについては、後で触れたい。

ともあれ、千田氏の見解はともかく、『雁』の中で語り手が突如変化し、全知の、一人称性のない語り手が取って代わるという見解に関しては、以上の理由から首肯しかねるのである。

6:『雁』と『金瓶梅』

『雁』の随所に散りばめられた、「雁という物語」内部の物語、それをここでは「プレ物語」と呼ぶこととするが、そのプレ物語と「雁という物語」の関係性をここでは分析する。

「雁という物語」の中には様々な漢文の書物が登場する。『花月新誌』『桂林一枝』などの雑誌に掲載される漢詩文、岡田が購入しようとしたのを「僕」が七円で買った『金瓶梅』、岡田が暗誦することができるほどに好む『虞初新誌』のうちの「大鉄椎伝」、さらに彼の女性観に影響を与える「小青伝」などである。

鴎外が漢詩文に詳しかったことはよく知られている。東京大学が管理する「鴎外文庫」のうちにも、先に挙げたプレ物語としての漢詩文テクストのいつくかが含まれている。およそ明治時代の文学者であれば、漢文を全く解さない者は皆無だろうが、なかでも鴎外の漢文、漢学の素養は優れたものであったことが知られている。

さて、或る物語と、それのプレ物語との間の関係性の構造は、そう単純なものではない。しかし、読者の受容、意味生成の過程で、解釈に大きな影響を与える要素であることは間違いない。プレ物語の物語内容を知らずに受容するのと、知って受容するのとでは、意味生成の結果である解釈は大きく異なるか、少なくとも豊かさという意味で差異を生じるからである。

もちろん、それは他のテクスト内部のオブジェにも当てはまる。たとえば、そのオブジェが高価なものか安価なものかによって、そのオブジェの持つ意味は変化するかも知れない。「ダイアモンド」というテクスト内部のオブジェが高価なものだとは知らない読者は、「ダイアモンドをいくつも持つ」という言説から、一般的な意味を生成することはできまい。しかし、プレ物語がそれらの単なるオブジェと違うのは、物語世界の中にも物語世界が生まれることになるからである。

或る書物の中にあるテクストの物語内容は、その虚構内部にある登場人物たちにとって「世界」や「宇宙」と同義であり、そしてその内部に入れ子構造としてある物語もまた、一つの世界であり宇宙でありうる。その意味で、プレ物語は他の単なるオブジェの持つ「意味」よりも遥かに大きな、一つの「世界」を秘めていると言えるのである。

ともあれ、『雁』と向き合う読者が、漢詩文の世界に通暁した者ならば、或いは少なくとも『金瓶梅』を知る者ならば、『雁』はいかなる光彩を放つのだろうか。以下に、その二つのテクストが響きあう時に、いかなる<読み>が可能になるかを示したい。

『金瓶梅』は、中国の四大奇書に数えられるが、しかし残りの三書、すなわち『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』と比べて、我が国ではいささか影が薄い。しかし「奇書」の名に恥じない奇妙な書であるとされ、むしろ「天下第一の奇書」とさえ言われる。

『金瓶梅』は、なぜ奇書と呼ばれるのか。粗筋は、むしろ他の三書に比べて平凡で、荒唐無稽な大冒険などを期待して読むと当てが外れる。西門慶という富豪と、彼が抱える妻妾たちの日常を描いた小説で、もちろん妾同士の諍いや、それが高じて他の妾が生んだ子供を忙殺したりといったドラマはあるものの、たとえば『西遊記』の冒険や『水滸伝』の豪傑達の活躍と比べていかにも地味である。

思うに、『金瓶梅』が奇書と呼ばれるのは、その語り口、描写、叙述の持つ、実に異様な迫力ゆえであろう。端的に言えば、もはやパラノイド的とも言えるほどに、日常描写が緻密なのである。

食事の場面、そこに出される料理の名前はもちろん、その材料や原産地、入手方法、さらには盛り付け方や盛られる食器のデザインまでが緻密に描かれる。それは物語の本筋(と信じられている部分)には殆ど、いや全く関係がないのである。衣類、日常生活、さらには性生活までがこの調子で描かれる。

性小説と言えば『肉蒲団』という著名な作品があるが、『金瓶梅』のそれは、およそポルノグラフィー的、煽情的でない。むしろ不気味な冷静さを感じる。日下翠はこの迫力を、老人が何とかして失われた情熱を奮い起こそうとする不気味な執念と表現する が、的を射た表現であろう。奇書と言えばあまりにも奇書である。

鴎外もまた、この『金瓶梅』を所有し、読んでいた。東大付属総合図書館の管理する鴎外文庫所収の『第一奇書金瓶梅』は、中表紙には「第一奇書」と大書され、出版年は「康煕乙亥年」、著者は「李笠翁先生」、出版元は「在茲堂」とある。汚損や虫食いはさほどなく、現在でも読むにたえる。前田愛によれば、鴎外は、ドイツからの帰朝後にこの『金瓶梅』を読んだらしい 。

さて、『雁』において、散りばめられたプレ物語「金瓶梅」は、いかなる作用を「雁という物語」に及ぼすのだろうか 。まずはプレ物語の性質を考察する必要がありそうだ。

言うまでもなく、岡田が購入しようとして果たせず、「僕」が七円という大金で購入した「唐本の金瓶梅」は、「雁という物語」の内部に配置される一つの物体、オブジェに過ぎない。たとえば末造が手にする煙草、お玉の蝙蝠傘、その他もろもろの、「雁という物語」の内空間を構成する物体の一つである。そこに象徴性を見出すのは容易だが、恣意性を孕む危険がある。

しかし、プレ物語としての『金瓶梅』が、他の物体と明らかに違うのは、先述の通り、そのうちにもまた内空間が、物語内容がありうるからである。その意味では、「雁という物語」と、そのプレ物語としての「金瓶梅」は、ちょうど入れ子の構造となっていると言えるのである。

『雁』には三つの階層があると先述した。鴎外が書く(第一階層)『雁』の中で、「僕」が語る(第二階層)「雁という物語」の中で、物語内容がある(第三階層)という構造を指摘したのであったが、ここに第四階層、すなわち、「雁という物語」の物語内容の中にある、「金瓶梅」の物語内容という階層を付け加える必要が生じたようである。

第四階層に位置する「金瓶梅」の物語内容に対し、第三階層に位置する「雁という物語」の物語内容は当然上位階層であり、一方的に権力を行使することができるはずである。たとえば、岡田や「僕」が、ストーリーが気に食わないと言って、「僕」の購入した「唐本の金瓶梅」に修正を施せば、「金瓶梅」の物語内容はたちまちに変化する。

そればかりではない。テクストは、読者がいなければ意味生成がなされないと考えることができる。読者のうちにのみ物語内容がありうるとすれば、「唐本の金瓶梅」なる物体は、単なる紙とインクの染みになる。そして、たとえば「僕」は、或いは岡田は、自らのうちに、(或る角度から見れば)かなり歪んだ物語内容を生成することも可能である。フィッシュは、読者がテクストを生成すると言い放つが、彼らの属するジェンダー、或いは〈解釈共同体〉によって、意味は始めて立ち上がるのだとすれば、もはや第三階層にいる彼らは、第四階層に対して絶対的な権力者であり、創造主ですらありうる。

しかし、この権力構造が逆転すればどうなるか。先述のように、メタフィクショナルな効果を生じるだろう。具体的に言えば、第四階層から第三階層へ、何らかの、本来とは逆行する「力」の流れがあるのではないかと考えるのである。その逆行現象を、次項で検証しよう。

7:〈金瓶梅の世界〉への彷徨

「雁という物語」に「金瓶梅」が最初に登場するのは、次の部分である。

(5)そのころ神田明神前の坂を降りた曲がり角に、鉤なり縁台を出して、古本をさらしている店があった。そこである時僕が唐本の金瓶梅を見つけて亭主に値を問うと、七円だといった。五円にまけてくれというと、「先刻岡田さんが六円なら買うとおっしゃいましたが、おことわり申したのです」という。偶然僕は工面がよかったので言い値で買った。二三日たってから、岡田にあうと、向こうからこういい出した。
「君はひどい人だね。僕がせっかく見つけて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか。」
「そうそう君が値をつけて折り合わなかったと、本屋がいっていたよ。君ほしいのなら譲って上げよう。」
「なに。隣だから君が読んだあとを貸してもらえばいいさ。」
僕は喜んで承諾した。こんなふうで、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、往ったり来たりするようになったのである。

まずは「雁という物語」の内空間にある、オブジェとしての「唐本の金瓶梅」に目を向けると、この引用からも了解できるように、「僕」と岡田とを結びつける契機として機能していることが分かる。

これは、岡田という人物の(広義の)ジェンダーを考える上で極めて示唆的である。「僕」と岡田とは、二人とも大学で医学を学ぶ学徒であるが、二人を結びつけたのは医学書ではなく、唐本の金瓶梅という小説だったのである。岡田と「僕」が、言わば文学青年としてのジェンダーに属する存在であることが、ここで示される。

しかし、「僕」がそのジェンダーに本当に属するかは疑問である。というのも、「僕」は七円というかなりの大金を払って「唐本の金瓶梅」を買ったものの、岡田に責められれば、すぐにそれを「譲って上げよう」と言う。岡田は「金瓶梅」に異常な執着を見せるが、「僕」にその執着は見られない。

ともあれ、岡田がいわゆる文学青年であることは、疑いようもない事実であるように思える。

(6)岡田が古本屋をのぞくのは、今のことばでいえば、文学趣味があるからであった。
(7)岡田は虞初新誌が好きで、中にも大鉄椎伝は全文を暗誦できるほどであった。
(8)同じ虞初新誌のうちに、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。

これらから、岡田は文学趣味を持ち、とりわけ漢文を好んだということが分かる。 しかし、岡田という人物は、どうもこの文学趣味に埋没してしまう性癖を持つようだ。引用(7)は次のように続く。

(9)それでよほど前から武芸がして見たいという願望を持っていたが、つい機会がなかったので、何にも手を出さずにいた。

「大鉄椎伝」というプレ物語に影響を受け、武芸を志したく思う岡田。彼の女性観もまた、「小青伝」というプレ物語にからめとられている。引用(8)は次のように続く。

(10)あの伝に書いてある女、新しいことばで形容すれば、死の天使を閾の外に待たせて置いて、徐かに脂粉の粧を凝らすとでもいうような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女というものは岡田のためには、ただ美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。それには平生香奩体の詩を読んだり、sentimentalなfatalistiqueな明清のいわゆる才人の文章を読んだりして、知らず知らずの間にその影響を受けていたためでもあるだろう。

岡田は、ヒーロー願望を文学作品から喚起され、文学の中の、言わば文学的な女性、虚構的な女性しか愛せない未熟な存在と言えるかも知れない。岡田は決して、完璧な主人公として造形されていない。

プレ物語という下位階層に位置するはずの物語に対し、優位と距離を保つことができない岡田にとっては、もはや虚構世界の境界など問題にならない。それどころではない。岡田は、プレ物語に自らの、或いは自らに相応しい女性の「理想」を見出している。これはつまり、プレ物語を「より高度な現実」とみなしているということである。ここにおいて、階層の権力関係は見事に反転しているのである。

第四階層であるプレ物語の物語内容が、第三階層にいるはずの岡田の行動を規定する。虚構階層の逆転現象であり、現実と虚構との反転である。そして、岡田を絡めて離さない、その漢文で書かれた魅惑のプレ物語たちの中で、ひときわ彼を惹きつけるのが「唐本の金瓶梅」なのである。

まずは岡田とお玉の出会いの場面である。ここから物語は進展する。

(11)この話の出来事のあった年の九月ごろ、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、かりに解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降りかかると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家にはいるのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬころなので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通りかかると、ちょうど今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふと格子に掛けた手をとどめて、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。
 紺縮の単物に、黒繻子と茶献上との腹合わせの帯を締めて、繊い左の手に手ぬぐいやら石鹸箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのをだるげに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。しかし結い立ての銀杏返しの鬢が蝉の羽のように薄いのと、鼻の高い、細長い、やや寂しい顔が、どこの加減か額から頬にかけて少し扁たいような感じをさせるのとが目に留まった。

これだけ見ても何の変哲もない場面だが、『金瓶梅』の物語内容をよく知る読者ならば、岡田とお玉の邂逅というこの場面が、『金瓶梅』の主人公とヒロイン、西門慶と潘金蓮の出会いに似ていることに気づくかも知れない。

『金瓶梅』では、散歩していた西門慶に、潘金蓮が誤って掛け竿をぶつけてしまうことで、偶然に二人は出会う。この、屋内にいる女性と、その家の傍らを過ぎる男性の偶然の出会いという基本構造は、岡田とお玉の出会いと完全に一致する。

この物語内容、設定自体がプレ物語としての「金瓶梅」の影響によるものだとは必ずしも言えないかも知れない。しかし、少なくともこの後の岡田の行動は、明らかにプレ物語「金瓶梅」に支配されていく。お玉と出会うという出来事が、偶然「金瓶梅」と似ていたから、岡田はおそらく、プレ物語「金瓶梅」を想起し、それに取り込まれていくのである。

たとえばお玉と出会った直後の岡田の行動はどうだろう。引用(11)後半部の、緻密なお玉の容姿の描写は、岡田の意識に投影されたお玉の姿である。つまり、岡田は、一瞬にしてはよくお玉を観察していると言える。これは、『金瓶梅』の緻密な服飾、容姿の描写に呼応するものだと言える。

岡田がお玉に徐々に惹かれていく過程は、次のように語られる。

(12)岡田はただそれだけの刹那の知覚を閲歴したというのに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまうころには、もう女の事はきれいに忘れていた。
(13)先の日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方をちょっと見た。
(14)それから岡田が散歩に出て、この家の前を通るたびに、女の顔を見ぬことはほとんどない。岡田の空想の領分におりおりこの女が闖入して来て、次第に我物顔に立ち振る舞うようになる。
(15)通るたびに顔を見合わせて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間もたったころであたか、ある夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時ほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑の顔が華やかな笑顔になった。
(16)それから岡田はきまって窓の女に礼をして通る。

さて、まずどうして文学の中にだけ理想の女性を見ることができる、未熟な青年であった岡田が、このように「窓の女」=お玉に感情移入できたのだろうか。

それは、窓の女が、お玉ではなく「窓の女」だったからである。岡田から見ると、お玉は、窓という枠の中に見える。壁を挟み、その向こう側の存在である。

この「窓」は、岡田にとっては、言わばメディアである。岡田は、窓の中にいる女を、自らと同じ世界にいる生身の人間とは見ていない。活字の彼方にある漢文世界の女性達と同じく、見ることはできるか、見られることはない存在として、「窓の女」を見ているのである。

むろん、お玉は岡田を見る。眼差しは交錯し、岡田はお玉に会釈をする。しかし、岡田はお玉を窓の中に見出すが、お玉は岡田から見られなければ彼を見ることはできない。遊歩者としての岡田が、閉鎖された空間である妾邸の傍らにふらりと立ち寄る、その偶然がなければ、お玉は岡田を見ることはできない。

一見、無縁坂で「二人は会った」ように見える。しかし実は違う。岡田がお玉を見出しただけなのだ。一方的に、湯帰りの女を、見出しただけなのだ。岡田は望む時にお玉「見る」ことができるけれども、ついにお玉は、物語の終焉にいたるまで、みずから「窓」、あるいは妾邸から「外」に出ることはできなかった。

言うなれば、岡田の散歩は、彼の愛する漢文学の世界、なかんずく「金瓶梅」の物語世界が色濃く投影された、彼の内面―言わば<金瓶梅の世界>―への行程である。エロチックなまでに濃密な、漢文の文学的香気の靄が立ち込めるその内的世界には、彼が一方的に眼差しを与えるお玉の像も重なっていようが、しかし彼は、その「像」が、同じく苦しみ悩む人間であることに気づいていない。或いは、気づこうとしない。岡田は、実際に上野の町を歩き、無縁坂を上って「窓の女」と会釈しながら、しかし自らの内面をしか眺めていないのである。

しかしここで注意せねばならないのは、岡田は〈金瓶梅の世界〉に徐々に惹かれていくが、しかしその世界に踏み込もうとはしないことである。

(17)岡田は窓の女に会釈するようになってからよほど久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲い物だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、しいて知ろうともしない。標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時には女に遠慮する。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目をはばかる。とうとう庇の陰になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

岡田は、その気になれば、窓の女の素性など簡単に知ることができたに違いない。にも関わらず、彼がそうしないのは、ひとえに先述のごとく、お玉が、彼の中で〈金瓶梅の世界〉の「窓の女」として生きていればそれで十分であったし、その向こうにあるもの、「窓の女」を鏡像だとすればそれの実体に、彼が興味を示さないからである。つまり「見る」ことで岡田は満足し、それ以上を望まなかったのである。

ここで今一度、「小青伝」に影響を受けたその女性観を見てみれば、岡田は、「美しさを性命とする」「ただ美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬ」存在として「窓の女」を見ているのだ。岡田が手にする中国小説の類に現れる数々の美女達は「ただ美しい物、愛すべき物」として彼の中にある。岡田がどんなことをしても、彼女達の美しさは永劫変わらない。なぜならば、岡田は彼女達を見ることができるが、彼女達は岡田を見ることはできないからである。「窓の女」=お玉も、岡田にとってはそういった存在でなければならなかった。

〈金蓮梅の世界〉に対置した、言わば公的時間、場としての〈現実〉における岡田は、文武両道、しかしがり勉ではなく、遊びもする。競漕をよくし、下宿屋の女将をはじめとして、周囲の信頼も厚い、といった人物である。おそらく〈金瓶梅の世界〉は、彼が今まで読んできたであろう多くの漢籍と同様に、〈現実〉で疲弊した彼の心身を蘇生させてくれたのだろう。つまり、〈金瓶梅の世界〉は岡田にとって、労働力を再生産するリクリエーションだったのである。

この世界を消え去らせるのは、皮肉なことに、惹かれていた〈金瓶梅の世界〉の内部に侵入する、言わば「禁断」を犯した岡田自身の行為であった。すなわち、蛇の一件である。

(18)「…僕は空が曇ったり晴れたりしているもんだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午後の間じゅう寝転んで、君に借りた金瓶梅を読んでいたのだ。それから頭がぼうっとして来たので、午飯を食ってからぶらぶら出かけると、妙な事に出あってねえ。」岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いてこういった。

いつもの散歩に出る岡田。しかしいつもと違うのは、プレ物語である「金瓶梅」に触れ、「ぼうっと」したまま外へ出ていることである。〈金瓶梅の世界〉は、この読書によって、ますます濃厚な靄を作り出していたことだろう。そこに引き込まれるように岡田はまた散歩に出る。

ところが、無縁坂に行ってみると、どうも様子がおかしい。どうやら「窓の女」は、飼っている小鳥が蛇に襲われ困っているらしい。ここで、岡田は、窓の女に近づく誘惑に抗し切れなかった。「金瓶梅」を読んでいたせいかも知れない。<金瓶梅の世界>の中に岡田は足を踏み入れ、そこであまりにも神話的な行為をする。すなわち蛇を殺し、「窓の女」を救うのである。

岡田はここで、自らの内面にある<金瓶梅の世界>という物語に入り込んでしまう。神話の登場人物として、蛇を殺し、女を救う。本来ならば、彼の幼い英雄願望は満たされ、大いなる満足を得るところだろう。しかし、彼が、己の中に築き上げた「物語」のうちに自ら足を踏み入れることは、もともとメタレヴェルにあった彼の視座が、その他の登場人物と同じ高さに引き摺り下ろされることをも意味している。「窓の女」として「窓」の中にあった像としてのお玉を、はじめて岡田は、同じ高さの、すなわち同じ虚構階層の存在として見ることを余儀なくされたのである。

像としての「窓の女」ではなく、肉声で岡田に語りかけ、身体を持って接する同じ人間としてのお玉に接する時、岡田にとって彼女は、「ただ美しい物、愛すべき物」ではなくなってしまうのである。脆く築かれた<金瓶梅の世界>は、お玉の肉声と身体とで粉々に破壊されてしまう。

下宿に帰ってからの岡田の様子はひどいものだった。

(19)「岡田君。いたのか。」 「うん。」返事だか、なんだかわからぬような声である。僕と岡田とは随分心安くなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもと違っていた。 僕は腹の中で思った。こっちもぼんやりしていたが、岡田もやっぱりぼんやりしていたようだ。

「ぼんやり」している岡田。しかし、この「ぼんやり」は、「金瓶梅」を読んで「ぼうっと」しているのとは明らかに違う。前者のが、「金瓶梅」の性描写にあてられ〈金瓶梅の世界〉を夢想する「ぼうっと」であるのに対し、後者のはむしろそれの喪失感である。

岡田にとっての〈金瓶梅の世界〉は、「猿の玉葱」の挿話を思わせる。その内部には本質や中心があると信じながら、しかし皮をすべて剥き終えてしまった哀れな猿。もともとその中心に本質などといったものはなく、その外部、周縁、表皮こそが本質だったのだ。岡田はしかし猿ではない。彼は中心の空洞を知って恐れていた。だからこそ、内部には踏み込まず、外皮だけを享受していたのである。

つまり〈金瓶梅の世界〉への岡田の行程は、限りなく絶頂に近づく数学的な軌跡のようなものだったと言える。しかし、絶頂に達してしまった瞬間、その瞬間はまさに、〈金瓶梅の世界〉という物語の、終焉の瞬間でもあったのだ。値が達してはならない点に達した瞬間に、その方程式が成り立たなくなるように。知る瞬間は、喪失する瞬間でもあるのである。

「岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いて」いた。しかし、その「窓」に、潘金蓮は、彼の理想的な「窓の女」は現れない。彼はその空白の「窓」を眺めながら、喪失してしまったものを惜しみ、その内なる残像に沈溺しているのだろうか。

そしてその姿は、〈現実〉にある〈体験する僕〉にはどのように映ったのだろうか。わずかに〈体験する僕〉が垣間見たのだろうか、あるいは〈物語る僕〉が、わずかな綻びから見出したのだろうか。「僕」は次のように考えている。

(20)僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいといったが、実は今一つすぐに胸に浮かんだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮にあったのではないかと思ったのである。

8:漢文のアンビバレンツ

次に考えたいのは、「漢文」というメディアについてである。岡田が愛読し、沈溺したのは漢文であったが、また同時に、彼が<現実>の場で学ぶ医学書もまた、漢文で書かれていた。

漢字は、もともと出自は「外国語」だが、同時に、いわゆる訓読みを獲得したために「和語」でもあるアンビバレンツな文字である。訓読という、漢字が表意文字であることをうまく活かした特殊な翻訳技術によって、漢文が、言わばハレの媒体、たとえば正式な文書や学問などのための媒体として定着していくのも、この両義性と無関係ではない。学問とは、日本にとって、殆ど常に舶来のものだったから、日本文化において、漢文(真名)=男性=ハレ、仮名=女性=ケという図式が定着していくのである。

そして近代、明治期においては、西欧諸学問の術語を翻訳する媒体として活躍した。外国語(西欧語)から新語(漢語)への移し替えの作業は、新しい学問体系を、どうにかして古い体系の中に込み込んで理解しようという試みだが、ここで漢文は、一方で日本に古来からある言葉でありながら、もう一方では新語という名の外国語でもあるアンビバレンツな媒体となった。

岡田にとっての「漢文」もまた両義性を持っている。彼が日常接する文の殆どは漢文であったはずだが、そこには医学書などのハレの、公的な文書もあれば、「唐本の金瓶梅」などの、彼の文学趣味を慰めるケの、私的な、小説の類もあったろう。インターフェイスは同じく漢文、漢字の羅列であるが、喚起される世界は正反対のものである。彼にとって漢文は、その両義を担う媒体であり、労働/余暇の二項対立に充当するなら、前者が「労働」、後者が「余暇」のものだった。

人間とは言葉を使う動物だとよく言われる。それは、意思伝達に言葉を使うというだけの意味ではない。思考するにあたって、頭の中で言葉(記号)を使うという意味であろう。鴎外は学生時代、漢文でノートを作ったとされるが、岡田にとって漢文は、言わば世界認識のためのコードさえあったのではないか。明治十三年という時代は、未だ言文一致運動も成り立たない時代で、読むことのできる文章は、殆どすべて漢文(体)であったはずである。私たちが考えるよりもずっと漢文に親しんでいなければ、おそらく文化的生活など営めない時代であったに違いない。

その漢文というコードの両義性は、しかし両義が均衡しはしない。『雁』というテクストの前半部と後半部、終盤を比べてみれば、その位相の変化は一目瞭然である。前半部でことさらに書かれていた岡田の文学趣味、中国小説の類に関する言及はまったく姿を消して、漢文は洋行の条件、ハレの媒体として言及される。

(21)ドイツ語を話す学生のうちで、漢文を楽に読むものという注文を受けて、Baelz教授が岡田を紹介した。岡田は築地にWさんを尋ねて、試験を受けた。素問と難経とを二三行ずつ、傷寒論と病原候論とを五六行ずつ訳させられたのである。難経はあいにく「三焦」の一節が出て、何と訳していいかとまごついたが、これはchiaoと音訳して済ませた。

すなわち、テクストに前景化される位相が、ケからハレへと変遷しているのである。そしてこれはおそらく、岡田における漢文の位相の変化と呼応するものとなろう。つまり、岡田のうちで、「余暇」のコードと「労働」のコードとして共存していた漢文が、すべて「労働」のコードに変換されてしまったのである。

なぜそんなことが言えるのか。それは、語り手である〈物語る僕〉が次のように語るからだ。

(22)一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上がったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった。

明治十三年という第三階層を、上位階層である第二階層から眺めたとしても、このように「永遠」と断言できるものなのか。言うまでもなく、第三階層と第二階層は時間的、空間的に連続している世界である(と第一階層の「権力」によって規定される)。第二階層が自由にできるのは、過去に属する時間の中(つまり、第三階層の時間と、第三階層と第二階層の間にある時間)だけのはずであり、未来に属する時間については言及できないはずである。ではなぜ〈物語る僕〉は「永遠」と断言できるのか。

もちろん岡田かお玉が死亡してしまっている可能性はある。どちらかが再会するまでに死んでしまえば、二人は「永遠に」会えない。しかし、死んでいないとすれば、こうも考えられるだろう。すなわち、岡田のうちのコードが「労働」の側、ハレの側、公的なコードに変換されることで、岡田は、〈金瓶梅の世界〉を見ることができなくなってしまったのである。それは、「労働」のコードで〈現実〉を、「余暇」のコードで〈金瓶梅の世界〉を、岡田は読み解いていたからである。

岡田はしかし、「余暇」のコードを失ってしまった。ゆえに漢文から見出されるのは、ハレの物語ばかりである。彼はもう「唐本の金瓶梅」を読んで、潘金蓮の妖艶な魅力に心を悩ませることも、「小青伝」を読んでその美しく可憐な主人公に憧れることもできなくなってしまったのだ。

以後の岡田の人生にも、おそらく漢文は多く横たわっている。彼の机の上には、ドイツ語の文献に混じって、それを翻訳した漢文の書物が並ぶだろう。しかし、そのいずれを開いても、二度とあの悩ましい〈金瓶梅の世界〉は喚起され得ない。そればかりではない。コードが変換されてしまったことで、彼の世界認識も大きな変貌を遂げるに相違ない。同じく窓に女を見出したとしても、もはや彼はその女に〈金瓶梅の世界〉を見出し、築き上げることはできなくなったに違いないのだ。

「雁という物語」は、岡田の青春と、その呪縛への決別の物語であったと読み直せる。しかし〈金瓶梅の世界〉の呪縛から解放されることが、本当に彼の幸福に繋がったかという問題は、読者の前に投げ出されたまま語られない。

(23)そればかりではない。しかしそれより以上の事は雁という物語の範囲外にある。

或いは、〈現実〉に背を向けたまま、自我のうちに絢爛と、しかし脆く築かれた〈金瓶梅の世界〉に埋没してしまった方が彼にとって幸福であったかも知れない。しかし、彼は明治という時代を生きるために、〈現実〉を選択した。

ここで或る読者は、ひたすら現実に生きた人物、末造を想起するかも知れない。知らずして手中の猫と思っていた妾に裏切られる凡庸な高利貸。それは岡田の将来と重なって見えてくるかも知れない。

こう考えてくると、<物語る僕>が他の空白は想像で埋めながらも、何故に岡田の内面を語ろうとしなかったのかという先の疑問にも一応の解答が出るかも知れない。

まず、「僕」にはなぜ<金瓶梅の世界>が見えなかったのか、といえば、先述のように、「僕」が、必ずしも岡田の属する「文学青年」のジェンダーに属してはおらず、むしろ岡だのハレのジェンダーに属する、東大医学部の学生というエリートであったからだろう。「僕」のコードは、岡田の「労働」のコード、〈現実〉のコードだから、岡田の〈金瓶梅の世界〉など見えはしないのである。そしてそれを想像で埋めないのもまた、岡田と「僕」が同じくエリートのジェンダーに属するからである。

彼らは同じく<知>のシステムを担い、生きる。この『雁』が執筆されたのが明治後年であることを考えれば、既に文学というシステム、制度は完成され、文学は、その<知>のシステムにいる一部の「文学青年」というジェンダーに属する人々によって作り出され、また受容された。したがって、「文学」という制度自体、<知>のシステムからの眼差しというものを宿命的に内包していると言える。

「雁という物語」も、終始「僕」という<知>の場にある語り手によって語られる。

(24)道で行き合っても、女は自己の競争者としてほかの女を見ると、ある哲学者は云った。
(25)真実と作為とを綯い交ぜにした末造の言い分けが、一時お上さんの嫉妬の火を消したようでも、その効果はもちろん palliatif なものだから、無縁坂下に実在している物が、依然実在している限りは、陰口やら壁訴訟やらの絶えることはない。

随所に挟みこまれるフランス語、引用される哲学者の言辞は分かりやすい例として挙げたが、他にも、たとえばお常を描写する際の眼差し、末造という成り金高利貸の「新聞」による知識への眼差しは、明らかに<知>のシステムにいる者のそれである。それらの眼差しの基点、物語内容に対する語りの場こそ、<知>の場であり、そこに岡田も、エリートとして含まれるのである。

つまり「僕」と岡田とは、同じ階層、「雁という物語」に対してはある意味メタな階層にある存在とも言える。<物語る僕>は、岡田に関しては、末造やお玉、お常にしたように、無遠慮にその内面を想像し、誇張し、劇画化してみせることはできなかった。

ゆえに、〈物語る僕〉は、彼には見えない岡田の内面に築かれた〈金瓶梅の世界〉を語らず、その部分を空白のままにして、彼の行動のみを語ったのである。唯一岡田の内面が語られる部分も、岡田の言葉を等時法的に語っているに過ぎない。

己の中に築き上げた甘美なる<金瓶梅の世界>から逃れ、岡田は、「僕」や石原がいる<現実>へ、<知>のシステムへと舞い戻っていく。その帰路は、すなわち洋行の行程へ重なるわけだが、では取り残されたお玉はどうなるのか。次項では、お玉を中心に物語内容を捉えてみたい。

9:もう一つの物語

先述したように、『雁』の読みのパラダイムとして、「余韻あふれる哀感」を読む、というものがある。これは、お玉を主人公とした読みであると言えるかも知れない。私が先までに述べた、言わば岡田の側からの物語よりも、お玉の側からの物語が今までクローズアップされてきたのは、ひとえに〈物語る僕〉が、「雁という物語」の殆どを、岡田ではなくお玉の側に身を置いて物語を語っているからである。一般に、主人公をお玉とするような読みは多く、『雁』とはすなわちお玉の自我萌芽の記録である、とする論は多い。

ここで、お玉の物語として『雁』を読み直すために援用するのは、高橋亨らの物語の分類である。基本的には前近代、とりわけ中世・中古の物語に関する研究成果だが、物語の骨格を実にうまく整理する卓見で、近代小説に潜む運動性、狭義の物語性を抽出する際にも便利である。

高橋氏は、物語を大きく「かぐや姫型」、「浦島太郎型」に分類し、前者を、「異界(=外部)」からの来訪者が、この現実(=内部)にやって来て再び「異界」に戻っていく物語とし、後者を、現実から「異界」へ迷い込む異邦人が再びこの現実へ戻ってくる物語とする。そして、物語の事件は、常にこの「異界」と現実との境界線上で発生するものである、としている。物語を「外部」と「内部」のダイナミズムで捉えるという姿勢である。

これを、お玉を中心として読む「雁という物語」に当てはめるなら、間違いなく「かぐや姫型」の物語ということになるだろう。「かぐや姫」たる来訪者は、「岡田」であり、その現実と異界の境界線上、すなわち「無縁坂」という力場において、「雁という物語」の殆どの事件は起こる。

「異界」からの来訪者は、しばしば特殊な「力」を持つ。『竹取物語』で「かぐや姫」が爺さんと婆さんに手渡した薬はもちろんそうだし、その比類の無い美貌もそうかも知れない。「岡田」がお玉に手渡す「力」とは何か。

岡田は、お玉の困惑を見て決意し、彼にとっての「異界」である、お玉の世界にやって来た。そして岡田は、刃物を振るって蛇を殺し、小鳥を救う。これが岡田の示した「力」である。お玉はそれを見て、やはり期待していた通り、岡田は「力」を持った、「異界」から自分を救うためにやってくる来訪者なのだと確信するのだ。二人の認識している「異界」はそれぞれ異なっているのだ。

つまり、お玉の岡田への憧憬も、岡田がお玉、或いは彼女の住まう〈金瓶梅の世界〉へ惹かれていくのも、同時に「異界」への憧憬が根底にある。しかし不幸なのは、互いがそれぞれに「異界」を見ていることを知らずにいることであった。

「雁という物語」の物語内容はたった一つだが、そこには意識の多層性があって、幾重にか意識世界が重なっている。常に事件は一つでも、それを認識する人間の数だけイストワールがあると言ってもいい。岡田の散歩というテクスト内空間の運動は、お玉の意識では「異界からの来訪」であり、岡田の意識では「異界への彷徨」である。二人の、(恋愛と呼べるのならばその)恋愛が成就されない理由は、この意識世界のズレである。二人の世界は、重なるが、ついに交わることはなかった。

このように、「雁という物語」を、岡田の〈金瓶梅の世界〉への彷徨の物語と、もう一つの、お玉が異界からの来訪者を待つ物語とが重なった、重層的な物語であると読む時に、ではどうして一方の物語、お玉の物語だけを語り手は明示したのだろうか、という問題が生じる。確かに、岡田は、物語に対してメタなレヴェルにあったからでもあるが、もう少し別の問題もここには含まれているようだ。次項ではテクスト『雁』の外部にも目をむけながら、その問題を考えてみたい。

10:『舞姫』との相互テクスト性

『舞姫』はよく知られた鴎外初期のテクストである。鴎外にはあまり多くない恋愛を描いたテクストということもあり、しばしば『雁』と比較研究されるが、しかし大抵は、「『舞姫』においては恋愛が成立するが、『雁』においては成立しない」といった比較に終始している

数ある『舞姫』に関する研究の中で、我が蒙を啓いた卓見が前田愛の「BERLIN 1888」であった 。前田氏は、『舞姫』における主人公、豊太郎の運動を、「プロシア帝国主義」の威厳を示す「ウンテル・デン・リンデンの大通り」に代表されるバロック風演劇空間としての「開かれた外的空間」から、「踊り子エリスの愛が待ち受けているクロステル街」の「屋根裏部屋」、言わば「閉ざされた内的空間」への彷徨、迷い込みと分析し、公人としての豊太郎が、外的空間で疲弊した「アイデンティティーを回復する」場として「エリス」と、彼女の住む内的空間を位置づける。

この論の、岡田の彷徨の軌跡と何と似ていることか。ただ違うのは、前田氏が、豊太郎が迷い込む都市構造自体に「エロチック」なものを見ている点である。豊太郎がクロステル街に迷い込むのが、その都市構造のエロチシズムゆえであるとするなら、岡田にとってのそれは、「金瓶梅」というプレ物語のエロチシズムゆえである。しかし、岡田と豊太郎のそれぞれを「異界」(前田氏は「迷宮」と表現する)に迷い込ませる、彼らを包み込むエロチックな靄を生み出すものは都市構造、プレ物語と異なってはいるが、公人としてのそれぞれが〈現実〉に疲弊した心身を休める場、消費された労働力を再生産するレクリエーションとして「異界」に入り込んでいく構図は相似している。

しかし、『舞姫』と『雁』とで決定的に違う点がある。それは、語り手の重なる視点の位置である。『舞姫』において語り手は、〈物語る余〉=豊太郎であるが、『雁』における語り手は先述のように岡田ではない。『舞姫』を読む読者は、「余」と視点を重ねることができるが、『雁』では岡田に視点を重ねることはできない。むしろ視点は、お玉の側に近い位置に置かれる。『舞姫』では、エリスの側に視点が置かれることは殆どない。

つまり、『舞姫』と『雁』は、極めて似た構造を持った物語内容を語りながら、その物語言説の全く正反対な、言わば表裏一体をなすという関係を持っていると言える。鴎外は、『舞姫』ではついに語られなかった、エリスが持っているはずのもう一つの物語を、お玉を中心に「雁という物語」を描くことで語ったのである。

興味深いのは、二つのテクストが並べられることで解釈の可能性が拡大するということである。『舞姫』というテクストによって、『雁』は、お玉の側からだけでなく、岡田の物語でもあることを私たちは知ることができるし、逆にまた、『雁』によって、『舞姫』では「空白」であったエリスの物語を私たちは読むことができる。『舞姫』と『雁』は相互補完的に機能する、言わば互いが互いのパラテクストとして機能するような、特殊な相互テクスト性で結ばれている。異なる二つのテクストは、一つの力場、読者という力場に置かれることで、互いのテクストから豊かな意味を引き出すのである。

そして、岡田の投じた石が当たって死んでいく雁がいた。岡田は人格を持つ一個の人間で、その人生は一つの物語内容=イストワール=歴史である。その、石を投ずるという行為もまた、彼という書物に一行書き加えられたに違いない。しかし、死んだ雁の物語に関してテクストは、語り手は黙して語らない。たかが偶然で死んだ雁なぞに描写を費やすこともないということだろうか。

ここで想起しておきたいのは、「雁」という表題を考察するために挙げた、「雁風呂」の伝承である。死んでいく雁にもまた、物語内容はあったのだ。雁には雁の時間が流れ、岡田には岡田の時間が流れる。二つの時間が交錯した瞬間に、不幸な偶然が起こって、一方の時間は断たれてしまった。しかし、その雁の物語は語られない。

この雁の時間は、お玉の時間であり、エリスの時間である。死せる雁は、その死骸を抱く岡田に無言の抗議を続けるのだ。岡田の〈金瓶梅の世界〉への彷徨は、言わば、相手の物語世界を無視した、一方的な自らの物語世界の投影像へのフェチシズムに過ぎなかった。お玉の物語世界、『雁』に語られるもう一つの物語の可能性に盲目だった岡田にとって、死した雁の重みはいかなるものだっただろう。

雁を殺す前の岡田には、まだ〈金瓶梅の世界〉や、それを喚起するコードが微かに残っていた。お玉と語らうことで〈金瓶梅の世界〉は喪失したが、その残像はいまだ彼をとらえて離さなかった。

(26)「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ。」
「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊の豪傑が店を出したというわけではあるまい。」

岡田は「川魚」という看板を見て、「梁山泊」を想起する。言うまでもなく、「梁山泊」とは『水滸伝』の中の豪傑たちの集団である。そして『金瓶梅』は、その『水滸伝』の物語の一つのエピソードを拡大してできた物語であった。つまり、岡田の中には、まだ〈金瓶梅の世界〉を喚起するコードが幽かだが残っていたのである。

しかしそのコードを打ち消す〈現実〉のコードが、岡田の内面を縛り始める。たとえば、岡田と「僕」の共通の友人、石原の言葉である。

(27)「君円錐の立方積を出す公式を知っているか。なに。知らない。あれは造作はないさ。基底面に高さを乗じたものの三分の一だから、もし基底面が圏になっていれば            が立方積だ。π=3.1416 だということを記憶していれば、わけなくできるのだ。僕はπを小数点下八位まで記憶している。π=3.14159265 になるのだ。実際それ以上の数は不必要だよ。」

石原が突如として語り出す「円錐の立方積」の公式は、円周率は、岡田にとって〈現実〉のコードの呪詛である。外套の中にある雁の死骸の重み、つまりもう一つの物語の可能性、しかも彼が全く盲目であったそれの重みを感じていたのだろうか、ついに岡田は〈金瓶梅の世界〉と完全に決別し、数字の羅列の世界に、彼にとっての〈現実〉へと旅立つのだ。彼は洋行という形で、〈金瓶梅の世界〉と、そこに魅せられ彷徨するおのれの青春に決別する。

しかし、その岡田の洋行は、お玉という女性にどんな衝撃を与えるだろうか。そのお玉の将来もまた「空白」である。しかし、岡田の内面の「空白」が『舞姫』で埋められるように、お玉の将来の空白も『舞姫』で埋められる。エリスは豊太郎を失い、発狂した。お玉もまた破滅していくのだろうか。お玉もまた、幼い異界願望の代償として何かを失わなければならないのだろうか。彼女の失うものは、妾として安定していたその生活かも知れない。或いは別のものかも知れない。

そして、岡田が〈金瓶梅の世界〉を捨て去って、〈現実〉に生きる覚悟を持って日本と決別する時、彼もまたその代償を払うことを余儀なくされるのだ。石原の言葉にあったような、〈現実〉のコード、産業資本主義を支えていく、数量化の、合理主義のコードに呪われ、支配される存在として、〈金瓶梅の世界〉という楽園から永遠に追放されるのである。彼は、窓に美女を見出し、それに潘金蓮を重ねる豊かな想像力を、湯帰りの美女の妖艶な美しさに内的世界を投影させる奔放な想像力を喪失してしまった。

彼の目に入る漢文は、以後すべて〈現実〉のコードで解釈されることだろう。そして同じく、美女もまた「美女」以上の意味を持ち得ない。たとえば彼の前に『雁』というテクストを置いてみれば、彼は「かり」と読む可能性を見出すことはできないだろう。豊かな記号の戯れ、シニフィアンに隠された無数の蠢くシニフィエの運動を凍結させるコード。岡田は以後、その中で生きていくことになるのである。

ここで再び表題「雁」について考えてみよう。なぜ「雁」は「かり」ではなく「がん」なのか、という問題である。これは、もともと決定不可能性を持ったアンビバレンツな、言わば揺らぎを持った文字である「雁」に、一方的に読みを限定している表題である。「(がん)」という付記によって、もう一つの読みの可能性「かり」は見えなくなってしまった。そこには、重なる二つの物語の一方を故意に隠蔽する語り手の思惑がある。

お玉の物語としてのみ『雁』を読むことは、このテクストの巧妙な仕掛けによって、岡田の物語というもう一つの可能性に盲目になることに他ならない。ちょうど「(がん)」という付記によって「雁」を「かり」と読む可能性を見失ってしまうように。岡田が、背後に潜む或る物語に盲目になってしまったように。

ともあれ、二人の主人公のそれぞれの物語内容=歴史が、偶然に「無縁坂」という場で交錯したのが「雁という物語」である。「雁風呂」の伝承を想起すれば、片や生きるために銃を手にする猟師の物語であり、片や遺伝子の習性により古来より彼方より飛来する雁の物語である。無関係だったはずの、全く互いを知らずに一生を終えても不思議ではないその二つの存在が、偶然、互いの時間を交錯させる。

『雁』はまさに「無縁坂」―不忍池に下る物寂しい坂、かつて無縁寺があったことからそう名づけられたという―縁無き坂の物語であった。ついに二人は失恋さえできぬまますれ違い、しかも二度と会えぬ運命にあるのだから。

そして、二人の行く末を知る、三十五年後の〈物語る僕〉がこぼす言葉、「そればかりではない。しかしそれ以上のことは、雁という物語の範囲外にある」に、読者はまた、さらにもう一つの物語を想起せずにはいられない。その後の岡田の物語、お玉の物語、末造の物語など、いくつかの、「雁という物語」から外れた、或いは<物語る僕>の語りでは描かれなかった「空白」の物語たちを、読者は『雁』という書物を閉じてなお、脳裏に描き続けるだろう。物語言説を終えてなお、慣性で進み、その残像を残す物語たち。「余韻あふれる哀感」とは、まさにこの、読者のうちに築かれる残像の如き朧な物語内容に他ならないのである。


23:13 99/01/24 更新
この論文は、「国文学演習X」の学年末課題として提出されたものです。無断転載を禁止します。著作権は池田蛇足がこれを有します。