花郎は武士団だったのか?

はじめに

花郎は新羅の武士団だったとい広く信じられている。 花郎と日本の侍で比較文化論を展開する者もいる。 さらには「侍の起源は花郎だ」という冗談なのか本気なのか分からないような主張も聞こえてくる。 韓国の武道団体は、大抵その源流として花郎に触れているし、韓国軍には花郎部隊が存在するという。 ゲームの世界でも同様だ。 Rise of Nations という RTS ゲームでは、花郎が朝鮮文明のユニークユニットとなっている。

このような現状を考慮すれば、花郎が本当にエリート戦士集団だったと信じても無理はない。 しかし、一度史料を参照すれば、そこには武士団と見なすにはあまりにも不可解な記述が飛び込んでくる。

花郎の研究は戦前日本で始まった。 代表的な研究者は池内宏、三品彰英、鮎貝房之進の三氏だ。 池内宏は、花郎は武士道であったことを前提にして、「合理的解釈」を行った。 その結果、花郎の現代人には理解しがたい特徴は、バッサリ切り捨てられてしまった。 三品彰英は、花郎の源流を原始時代韓族の男子集会に求めた。 そしてアメリカ先住民など他の男子集会と比較しつつ、花郎の特徴は原始宗教と解釈した。 鮎貝房之進は、実際に著書を確認していないが、三品彰英の論評から判断するに、同性愛など性的なものと解釈したようだ。

三品氏と池内氏の両者は、花郎が武士団、すくなくとも軍事的機能も備えた集団という前提から、議論を進めている。 筆者にはこれが疑問だ。 また、花郎であった個々人の記録から、無批判に花郎の特徴を導いている。 そこで、本当に武士団であったかという観点から花郎を再検討してみた。 ずぶの素人が偉大な先人に挑むという身の程知らずな試みを許してほしい。

史料

朝鮮古代史の特徴は史料の少なさにある。 花郎に関しては三国史記と三国遺事がほとんどすべてだ。
三国史記

高麗の儒臣金富軾が1145年に編纂した史書。これが朝鮮における現存最古の歴史書であるということが、朝鮮の史料の貧しさを象徴している。しかし金富軾は現在は散逸したいくつかの史書を参照したらしく、新しさの割には史料価値があると一般に考えられている。

中国伝統の紀伝体を採用し、新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀、年表、雑志、列伝より構成される。

三国遺事

高麗の僧一然が1280年代に著した書。三国史記からは抜け落ちた神話や民話なども収録しているが、誤伝や矛盾が多い。

史料の性格

花郎に関する史料は、その性格から二種類に分類できる。 すなわち花郎そのものを取り扱ったものと、花郎個人の伝記だ。 三国遺事はともかく、三国史記は、この二つが新羅本紀と列伝に綺麗に分かれている。 まずは、筆者が花郎の性格に疑問を抱くきっかけとなった前者から見ていきたい。

花郎の全体像―三国史記新羅本紀

三国史記新羅本紀真興王三十七年の記事に花郎が登場する。 実は「花郎」の文字が登場するのは新羅本紀の中ではここだけである。 花郎の起源と性格を説いた上で他の史料を引用しており、花郎を概観するのに都合がよい。 以下が原文。句読点等は適当に補った。

三十七年 春 始奉源花。初君臣病無以知人、欲使類聚群遊、以觀其行義、然後擧而用之。遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞。聚徒三百餘人、二女爭娟相妬。俊貞引南毛於私第、强勸酒至醉、曳而投河水以殺之。俊貞伏誅、徒人失和罷散。
其後、更取美貌男子、粧飾之、名花郞以奉之。徒衆雲集、或相磨以道義、或相秨以歌樂、遊娛山水、無遠不至。因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。
故金大問『花郞世記』曰、「賢佐忠臣、從此而秀。良將勇卒、由是而生。」崔致遠『鸞郞碑序』曰、「國有玄妙之道、曰風流。設敎之源、備詳仙史、實乃包含三敎、接化群生。且如入則孝於家、出則忠於國、魯司寇之旨也。處無爲之事、行不言之敎、周柱史之宗也。諸惡莫作、諸善奉行、竺乾太子之化也。」唐令狐澄『新羅國記』曰、「擇貴人子弟之美者、傳粉粧飾之、名花郞、國人皆尊事之也。」
続いて邦訳を載せる。
37年 [576] 春 はじめて源花を奉じた。はじめ君臣たちは人材を見わけることができないのを憂い、おおぜいの人たちを集めて遊ばせて、その行儀を観察してからこれを登用しようとした。ついに美女ふたりを選別したが、ひとりは南毛といい、他は俊貞といった。仲間が三百余名集まると、このふたりの女はその美貌を争って相嫉妬した。俊貞は南毛を自分の家に誘ってむりに酒を勧めて酔わしめ、彼女をひきずって行って河水の中に投じて殺した。そのため俊貞は死刑にされ、彼女の仲間たちは和を失って分散した。
その後 ふたたび美貌の男子を選び、化粧させたり着飾って花郎と名づけて優遇すると、おおぜいの若者たちが雲のように集まってきた。あるいはたがいに道義を練磨し、あるいはたがいに歌楽をもって楽しんだ。景色のよい山や川を訪ねて遊び楽しんで遠くとも行かない所はなかった。これによってそのひととなりの正邪を知って、そのうちからよい者を選んで朝廷に推挙した。それ故 金大門の『花郎世紀』は「賢い補佐の臣と忠臣がここから育ち、良将と勇卒がここから生まれた」といっている。崔致遠の『鸞郎碑序文』は「わが国には玄妙な道があり、これを風流という。この教えを設けた源は『仙史』にくわしく述べてあるが、実にこれを三教を包含したもので、多くの民衆に接してこれを教化した。かつ家にあっては父母に孝行をつくし、外に出でては国に忠誠をつくすというのが、魯の司寇 [孔子] の趣旨である。なにもしないことに安んじ、言葉に現れない教えを行うというのが、周の柱史の宗旨である。もろもろの悪事はしないで、もろもろの善行だけを君命にしたがって行うというのが、笠乾太子 [釈迦] の教化である」と書いてある。唐の令狐澄の『新羅国記』は「貴人の子弟で美しい者を選びだして白粉をつけ飾りたてて名づけて花郎といい、この国の人たちはみな尊敬している」といっている。

果たしてこれを読んで花郎が戦士集団だったと思う人がいるのだろうか。 もし本当にエリート軍事集団だったのなら、この短い記事の中でもそれが指摘されていておかしくないはずだ。 しかしこの中で戦いに関係のありそうな記述といえば、「良将と勇卒がここから生まれた」という花郎世紀からの引用ぐらいだ。 それさえも、「ここから生まれた」という下りは、花郎自体は良将でも勇卒でもなかったことを示している。

一体戦士集団が、元は美女の集団だったりするのだろうか。 美貌の男子を選んで化粧させたり着飾ることがありえるのだろうか。 池内宏は、そんな非常識なことが行われるはずがないとして、記事を創作と見なして否定している。 一方の三品彰英は、インディアンの戦士組合を例に出して、原始社会ではそういうこともあり得ると反論している。 花郎が戦士団だったという二人の前提を取り払ってみてはどうだろうか。

花郎個人の記録

続いて三国史記の列伝や三国遺事に残る個々の花郎の記録を見る。 いくら花郎の記録が少ないと言っても、ここにすべてを載せるには多い。 そこで、三品彰英「新羅花郎の研究」から記録に残る花郎一覧を引用して代わりとする。

王代 花郎名 出自 分類せる郎徒 典拠
第二十四代 真興王 (南毛・俊貞) 三国史記、三国遺事
斯多含 奈密王七世孫、真骨、父仇梨知級飡 武官郎 三国史記
白雲 父某達官 金闡 東国通鑑、三国史節要
薛原郎 三国遺事
未尸郎 僧真慈 三国遺事
第二十六代 真平王 金庾信 加羅王裔孫、真骨、父角干舒玄 三国史記、三国遺事
金令胤 真骨、父級飡盤屈 三国史記
近郎 真骨、父伊飡大日 剣君 三国史記
竹旨郎 真骨、父述宗 得烏(谷) 三国史記、三国遺事
好世郎 釈恵宿 三国遺事
瞿旵公 三国遺事
居烈郎 三国遺事
実処郎 三国遺事
宝同郎 三国遺事
第二十九代 太宗武烈王 官昌 真骨、父伊飡(将軍)品日 三国史記
文努 金歆運・僧転密等 三国史記
第三十一代 神文王 宝川 真骨、王子 三国遺事
第三十二代 考昭王 夫礼郎 真骨、父薩飡大玄 安常 三国遺事
俊永郎 真才・繁完 三国遺事
第三十五代 景徳王 耆婆郎 三国遺事
第四十七代 憲安王 金膺廉 真骨、王孫、父阿飡啓明 三国史記、三国遺事
第四十八代 景文王 邀元郎 三国遺事
誉昕郎 三国遺事
桂元 三国遺事
叔宗郎 三国遺事
第五十一代 真聖王 孝宗郎 真骨、文聖王の裔孫、敬順王の父 三国史記、三国遺事

花郎のうちで軍事に関係している人物を太字で示した。 ここには活躍したときには既に花郎ではなかったと思われる人物も入れている。 その割合が少ないこと、5 人すべての典拠に三国史記が含まれていることに気付くだろう。 記録に残っている花郎の大半が軍事とは無縁なのだ。

池内宏も三品彰英も、三国史記列伝に残る彼ら 5 人の事績から、花郎の戦士団としての性格を導き出している。 しかしこれには異議をとなえたい。 そもそも正史の列伝というものは、誰でも彼でも収録するものではなく、国家に功績のあった人物を載せるものだ。 動乱期にあって朝鮮半島を統一を成し遂げた新羅は逸材を数多く排出した。 当然列伝に載るのはそうした人物だ。 彼らが武士道精神に溢れていたとしても不思議はない。 列伝に載っている花郎や元花郎が武士道精神に溢れていたとしても、それが花郎全体の特徴だと即断できない。 実際、池内宏が「新羅人の武士道精神について」で指摘しているように、花郎ではなかった勇士も数多く記録に残っている。 具体例を挙げるなら、奚論、素那、驟徒、訥催、薛罽頭、裂起、丕寧子、竹竹、匹夫などである。

花郎が武士団だったと証明するためには、単に列伝に収録された花郎が勇敢だったというだけでなく、花郎という属性とその勇敢さを具体的に結びつける記述が必要である。 しかしそのような記述は見当たらない。 新羅本紀真興王三十七年の記事に見える、「たがいに歌楽をもって楽し」んだり、「景色のよい山や川を訪ねて遊」ぶと言った行動には、具体例が伴っており、それらが本当だったことがわかる。 しかし、花郎の軍事教練や、花郎の軍団としての編成や命令系統などは、まったく記録に残っていない。 それどころか、花郎自体は戦士団ではなかったことを示す有力な証拠を三品彰英が提出している。

花郎が従軍する場合にも、例えば斯多含が対加羅戦に参加した時は国王から貴幢裨将すなわち副指令の官に任命されており、官昌の場合も「以官昌為副将」とあり、また花郎文努の郎徒である金歆運は郎幡大鑑として対百済戦に奮戦しているのであって、花郎あるいは花郎の郎徒というだけでは国軍組織の外にあり、戦争に参加する時は改めて国家的な武官の地位に任ぜられたのである。すなわち花郎集会が戦士団的機能を持っていたとしても、集会そのもの国家の軍隊ではなく、また主体となって戦争に赴いたのでもなく、国家的には彼らのうちから改めて高級武官が任用されるという形式をとっていた。
三品彰英「新羅花郎の研究」p.214 (漢文の訓点は省略)

三品彰英は「花郎集会が戦士団的機能を持っていたとしても」と、控えめな表現をしているが、ここまでくればもう断言しても良いだろう。 花郎は武士団ではなかったのだ。