目次


鎌倉幕府の衰亡

  1. 元寇
  2. 両統迭立
  3. 正中の変
  4. 元弘の変
  5. 六波羅探題最期
  6. 鎌倉攻め
  7. 北条時行の戦い
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鎌倉幕府の衰亡(1)ー3

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北条時宗

北条時頼が亡くなったのは、弘長三年(一二六三)のことである。時頼は第五代執権であり、隠退後も実権を握り続けた、幕府 の実力者であった。
北条家家督を継いでいたのは北条時宗である。したがって、本来なら時宗が執権となるべきところであった。だが、時宗は十四才の少年に過ぎなかった。
そこで、一族の長老である北条政村が執権となった。これを補佐するのは、安達泰盛と金沢実時、そして平頼綱であった。泰盛は、幕政に影響を及ぼすことが出来る、当時としては唯一の有力御家人。実時は北条一門。頼綱は御内人の最有力者である。

時宗の後見人たちは、時宗を中心とした、得宗権力の確立にいそしんだ。時宗に敵対し得る有力な一門を排除し、征夷大将軍をかつぐ勢力にも牽制を加えた。


蒙古、我が国に国書を送る

一二六五年、高麗の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めた。

一部の日本史教師は、「不宣」の意味を非常に重視し、『元高麗紀事』至元六年(一二六九)十一月二日条の記事を黙殺している。彼ら曰く、
「元は日本を攻める気持ちはなかったのだが、国際感覚未熟なこの国は、呼びかけを無視した。」
日教組のアジア好きにも困ったものだ。

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新体制が発足してから五年後の文永五年(一二六八)、異国から騒動が舞い込んだ。
高麗を仲介として、元から国書が届いたのである。その文面は、以下に始まる。

上天眷命
大蒙古国皇帝、奉書
日本国王
朕惟自古小国之君、境土相接、尚務講信修睦。
況我祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異域、畏威懷德者、不可悉数。
朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪。
高麗君臣感戴來朝、義雖君臣、歓若父子。計王之君臣亦已知之。
高麗、朕之東蕃也。日本密邇高麗、開国以來、亦時通中国、
至於朕躬、而無一乗之使以通和好。尚恐王国知之未審、故特遣使持書、佈告朕志、
冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。
以至用兵、夫孰所好。王其図之。
不宣。

国書の内容は、国交を求めるものであった。

「大蒙古皇帝が日本国王に書を奉る。朕思うに、小国の君は、国境を接していれば、古(いしにえ)より修睦に努めたものだ。
まして皇帝は天命を受けて中華を治め、夷狄も威を畏れ徳を敬い、我が国に参上する者は数知れぬ。
朕が即位したとき、高麗では無辜の民が兵乱に疲れて久しかった。朕は国境より兵を引き揚げ、老人子供を帰した。
高麗の君臣は感激して来朝し、形式は君臣であるとはいえ親子のように接してきた。
日本の君臣も、これを知るべきである。
高麗は、東の属国である。日本は密かに高麗と通じ、また時には中華とも通交してきた。
朕の代に至るに、使者を一人も送らず、和を通じることもない。日本国王は、いまだに中華をよく知らないのではないか。
それゆえに朕は使者を派遣して国書を持たせ、志を告げるものである。
願わくば使者を往来し、親睦を深めようではないか。
聖人は四海(世界)を以て家となす。通交しないことは、一家の理ではあるまい。
兵を用いるのは、好むところではない。王もよく考えて欲しい。
不宣。」

不宣とは「志を全て述べ尽くさない」という手紙の結語であり、臣下としての扱いではないことを示す。
但し、対等の立場ではない。元こそが中華であるという認識に変わりはない。
だから、天皇(または皇帝)を「国王」と記し、「大蒙古国皇帝」より一段下げて書いている。
日本は臣下ではないが、格下と言うことである。
また、高麗王からの添え状もあった。

右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、
我国臣事、蒙古大朝、禀正朔有年于茲矣。
皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。
今欲通好于貴国、而詔寡人云、
『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。
漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。
勿以風涛険阻為辞。』
其旨厳切。
茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。
且貴国之通好中国、無代無之。
況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。
但以無外之名高於天下耳。
若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。
惟貴国商酌焉。

その概要は、
「皇帝は高麗国王に詔し、使者の派遣を命じた。曰く、
『日本は高麗と近隣であり、典制を持ち、その政治は正しく行われ、見るべきものがあるという。
また、漢や唐の時代には中華へ使者を送ったという。だから使者に書を持たせて派遣する。
波が高く道が険しいことを通交できない理由にしてはならない。』
思うに、皇帝の目的は通交自体にあって、貢献を求めるものではない。天下に名声を得たいのである。
どうか返答の使者を派遣してみてはどうだろうか。」

一見、和親を求めているように見える文面である。
しかし文面には「高麗を攻め、また撤兵させたこと」を記し、かつ「至用兵、夫孰所好/王其図之」と結ばれており、武力を背景とした威嚇の臭いがあった。
一部の方は「こんなものは常套句であって真に受けるものではない」というが、『本朝文集』所収の返書案では、漢文に慣れ親しんだ菅原長成も問題視しているようである。

よく言われるのが、「蒙古は当初から出兵を目論んでいたのではない。だから日本に何度も使者を派遣したのである」ということである。しかし、使者の派遣と戦争の準備は並行して進められていた。日本から帰国した使者・趙良弼が屯田兵移転を進言しても、聞き入れなかった。これについては後述する。

また、「南宋と日本を切り離すことが目的であって、決して日本を支配下に置こうとしたわけではない」という論調もある。

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残念ながら、そう単純ではない。
『元高麗紀事』至元六年(一二六九)十一月二日条、『元史』高麗伝至元六年十一月条を抄訳しよう。

「枢密院は、高麗の征討について協議した。馬亨と言う者が述べた、
『高麗は、そもそも箕子が建てた国の末裔である。漢、晋、皆郡県を置いて直接支配した。今、高麗は蒙古に忠誠を誓ってはいるが、本心かどうか。隣国である日本の事情について、詳しくないはずがない。
今、日本に遣使するというが、日本が(蒙古の)朝廷の命令を聞かなかったら、面目を失ってしまう。かといって、日本は島国だから、派兵も難しい。
そこで、高麗を併合すべきである。日本を攻めるために道を借りると称して軍勢を送り込み、そのまま併合してしまってはどうか(『元史』原文:莫若厳兵仮道、以取日本為名、乗勢可襲其国、定為郡県)。
高麗を直接治め、軍備を調え、日本と南宋を分断するのだ。』」

「馬亨はまた述べた。『兵を動かして、日本を攻めるべきではない。彼らが地形を恃んで、兵糧を山積みにし、堅く守って動かなかったら、打つ手がない。
その点、高麗は扱いやすい。高麗は、日本攻撃の巻き添えを食うことを恐れている。また(蒙古)朝廷の命令に従わなかった罪もあるので、内心ビクビクしている。
彼らが謝罪してきたら、寛大に接することである。為政者を数人呼びつけて、来朝したら、南宋の罪を数えて、その討伐に加担させるべきである。
日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、また同じ意味だ。
南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。全勝の策である。
今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』
他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」

どうも、先の先を考えなければならないようだ。
下手をしたら、日本は南宋に出兵することになっていたかもしれぬ。

また、日本と南宋を分断する策として、日本への直接出兵ではなく高麗併合も検討されていた……というのが目を引く。
消極的な皇帝なら、「日本への出兵」ではなく「高麗進駐による海上警備」を選択していたかもしれぬ。
高麗が抵抗しなかったら元寇がそのまま数十年前倒しされるかというと、そうは言い切れぬ。

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さて、日本朝廷は協議を重ねたが、返書を送らないことに決めた。
朝鮮半島に軍事的影響力を及ぼした王朝は少なくなかったが、皆日本まで出兵していない。ただし蒙古は、規模や行動において、歴代の支那王朝と異なっていた。

幕府は、御家人に沿岸警備を命じたり、異国調伏の祈祷を命じたりした。西国に領地を持つ御家人に下向を命じたりもした。だが、これに従う御家人は、必ずしも多くなかった。
幕府の威令は全国にいきわたるほど強大なものではなかったのである。

幕府首脳の関心は、外敵よりは内なる敵に向いていた。それは、時宗政権にとって脅威となりうる同族であり、政権内部においては御内人と御家人勢力の確執であり、国内状況としては御家人を困窮に追いやっていた流通経済であった。幕府は北条時輔・名越時章らを斬って後顧の憂いを絶ち(二月騒動)、御家人の領地について売買・質入れを禁ずる法令を発布した。

返答を求め、蒙古国使は次々と派遣された。このため、朝廷の内でも何らかの返答をするべきだという意見が起こり、実際に草案が作成された。文永七年(一二七〇)正月付けで作成されたこの文書案は、あくまで太政官から蒙古中書省への発行文書という体裁をとっており、勅書ではない。

案事情、蒙古之号于今未聞。
尺素無脛初来、寸丹非面僅察。
原漢唐以降之蹤、観使介往還之道、緬依内外典籍之通義、雖成風俗融化之好礼、外交中絶、驪遷翰転、粤伝郷信、忽請隣睦。
当此節次、不得根究。然而呈上之命縁底不容、音問縦雲露万里之西巡、心夐忘胡越一体之前言。
抑貴国、曽無人物之通。本朝、何有好悪之便。不顧由緒、欲用凶器。和風再報、疑冰猶厚、聖人之書釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業。
何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎。
凡自天照皇太神耀天統、至日本今皇帝受日嗣、聖明所覃、莫不属左廟右稷之霊得一無弐之盟。
百王鎮護孔昭、四夷之脩靖無紊。故以皇土永号神国。
非可以知競、非可以力争、難以一二乞也。思量。

文意は、およそ以下の通りである。
「蒙古という国号は聞いたことがなく、今回の国書によって僅かに察することが出来る程度である。往来がない以上、日本としても好悪の念を持っていない。にも拘わらず、貴国は武力を用いるという。聖人や仏教の教えでは救済を尊び、殺生を悪とする。貴国は帝徳仁義を説いているのに、かえって民衆を殺傷するきっかけを作るとは何事であろうか。我が国は神国である。知力でも武力でも争うことは出来ぬ。よく考えるべきである。」

折角作成された返書であったが、実際に送られるには至らなかった。朝廷内外に批判が多かったようである。結局、国使たちは返書を受け取ることは出来ず、むなしく引きあげていった。


日蓮について

『立正安国論』にて蒙古襲来を予言した……とされることの多い人物である。
日蓮がこれを執筆した背景は外敵への危機感ではなく、正嘉元年八月(一二五七)の大地震と、それに付随する飢饉・疫病流行であった。
彼はこれら天災の原因を探り、またこれらを根治して民を救うべく、仏書の研究を重ねたのである。

問題の『立正安国論』は、旅人が、立ち寄った所の主人と問答する形式をとっている。
全文引用は無理なので、当該部分のみ。

若し先ず国土を安んじて、現当を祈らんと欲せば、速(すみやか)に情慮を廻らし怱いで対治を加へよ。
所以は何ん。
薬師経の七難の内、五難忽ちに起り、二難猶残れり。所以他国侵逼の難、自界叛逆の難なり。
大集経の三災の内、二災早く顕れ、一災未だ起らず。所以兵革の災なり。
金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露れず、此の難未だ来らず。
仁王経の七難の内、六難今盛にして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来って国を侵すの難なり。

日蓮が言っているのは、「蒙古が襲ってくる」ということではない。 邪法(特に浄土教)を捨て妙法蓮華経に帰依しなければ「三災」「七難」がこの国を襲うということである。

七難については本文でも説明されているが、薬師経なら人衆疾疫の難・他国侵逼の難・自界叛逆の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難である。仁王経なら日月難・星宿難・衆火難・時節難・大風数起難・天地亢陽難・四方賊来難である。大集経の三災とは、穀貴・兵革・疫病を言う。

「これら三災七難のうち、他国からの侵略と内乱だけが勃発していない。速やかに対策を講じなければ、これらの災難も現実のものとなるであろう」
……といったところか。

『立正安国論』の成立は文応元年(一二六〇)で、蒙古から国書が届くや「予言的中」となった。
日蓮は、いよいよ使命感をかき立てられたらしい。北条時宗への御状(文永五年十月/一二六八)にいう、

謹て言上せしめ候。抑も正月十八日、西戎大蒙古国の牒状到来すと。
日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること、立正安国論の如く少しも違はず普合しぬ。
日蓮は聖人の一分に当れり。未萠を知るが故なり。然る間重ねて此の由を驚かし奉る。
急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ。然らずんば、重ねて又四方より責め来るべきなり。
速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給へ。彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶ふべからざるなり。
諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。
国家の安危は政道の直否に在り。仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
夫れ此の国は神国なり。
神は非礼を稟けたまはず。天神七代・地神五代の神神、其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。

(……などと、さりげなく神の国発言も収録してみる)

日蓮自身のカリスマ性もあったのだろうが、タイミングにも恵まれていたようだ。
予言とは、得てしてこういうものであると思う。


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