目次

古代日本と大陸文化
(付:韓国国定歴史教科書を読む)


教科書騒ぎのおかげで、小生は扶桑社の売り上げに貢献した。更には、明石書店の売り上げにも。

間違い指摘ショーをするのも陳腐なことだ。ついでだから、日本と大陸の関係を古代から見直してみることにした。

日本に帰化した方々ともども、祖先の労苦を見ていくことにしよう。

なお、「我々韓国人が日本を教化していく様子を見てやるか」と思っている方々には、その期待が裏切られることを申し上げておきます。


初期の帰化人-漢氏・秦氏・文氏-

帰化人の出自は、『新撰姓氏録』に記されている。しかし、その内容は事実の探求と言うより先祖の格付けというべきもので、あまり当てにならない。呉の孫権、魏の曹丕・曹植、漢の献帝などが登場するため、一部の三国志ファンには需要があるかもしれない。念のため、孫権の末裔=牟佐村主・蜂田薬師、孫皓の末裔=茨田勝、曹丕の末裔=高向村主、曹植の末裔=広階連・平松連・河原連・野上連・筑紫史、魏司空王昶の末裔=山田宿禰、漢献帝の末裔=永野忌寸、青州刺史劉jの末裔=高村宿禰、公孫淵の末裔=常世連である。「村主」「薬師」「連」「忌寸」「宿禰」などは除いて考えよう。読者の姓はあっただろうか。残念ながら、諸葛孔明の末裔を称する者はいなかった。

これら外国からの渡来者が単に「渡来人」であるならば、北九州や中国地方付近に定住するだけで、その勢力を結集することも無かったはずである。しかし実際には、秦氏・漢氏・西文氏など有力な帰化豪族の本拠地は政治的中心地である畿内(それも河内・大和・山城などの内陸部)にあって各地の帰化人を傘下に置いていたのであり、そこに倭王権が帰化人を積極的に把握しようとした意志を読みとることが出来る。

彼ら帰化人の出自には伝説がかっており、記録に信頼を置いていいものか迷う。いずれにせよ、混血や異民族の雑居が多い時代のことであるから、現在の国境をもって人種を判断すべきではない。百済・加羅・新羅から渡来したという帰化人たちについても、現在の韓国人とは別物と考えねばならない。『元興寺露盤銘』には「蘇我」を「巷宜」、「広庭尊(欽明天皇)」を「比里爾波乃弥己等」と表記している。これは漢・魏の字音であると考えられており、古い帰化人の史(ふびと)の文化系統を知ることが出来る。

また、帰化人全てが富裕であったわけではなく、下級帰化人と言うべきものも多かったことを記しておく。

漢氏の始祖は後漢霊帝の末裔・阿知使主(あちのおみ)で、十七県の党類(ともがら)を率いて帰化したという。百済から渡来し、本拠は大和国高市郡檜隈村にあった。 漢氏は渡来してくる漢人を支配下に収め、また各種の技術者を指揮した。自らの専門知識が旧式化するにつれ、実務を新参の帰化人に任せざるを得なくなり、その地位は監督者へと推移していった。例えば、崇峻天皇のときに山東漢大費直(やまとのあやおおひのあたえ)は画工・寺工らを率いて法興寺を建立している。

また、大勢の帰化人を従えた漢氏は強大な軍事力を持っており、壬申の乱でも天武天皇方に味方して功を立てた。その後は貴族化の道を歩み、帰化人の特性も薄れていった。漢氏と称することもほとんど無くなり、坂上氏・檜原氏・平田氏を名乗るようになった。坂上田村麻呂が最も有名である。

秦氏の始祖は秦始皇帝の末裔・弓月君であるとされ、百二十県の百姓を率いて帰化したという。後述する漢氏の始祖伝説と酷似していることが目に付く。伝説のとおり実際に大勢を率いて帰化したのか、帰化後に勢力が強大となったために伝説中のお供の人数まで増加したのかは不明である。新羅・加羅周辺から渡来し、本拠は山城国葛野にあった。

秦氏は太秦の語源伝説以外に機織りに関与した記録が無く、「秦」の由来そのものにも諸説ある。新井白石・本居宣長は『新撰姓氏録』『古語拾遺』の記述をもって「秦」を「はだ」と読むべきであるとし、由来も朝鮮語に求めている(『古事記伝』)。『魏志東夷伝』で新羅について「其の言葉、馬韓と同じからず。秦人に似るあり」といい、『隋書新羅伝』に「其人雑りて、華夏、高麗、百済の属あり」という。

秦氏は主に在地勢力として発展し、そのため鴨神社・稲荷神社など信仰とも深い関わりがあった。 葛野川に大堰を築いて京都盆地を開拓したことは有名だが、一方で西日本に居住する集団も多く、新羅系の鋳造技術をもって銅の生産に従事した。

漢氏同様、所持技術の陳腐化によって実務を離れ、監督職として活動した。但し、朝廷内での地位は高くなく、中級以下の財務官僚として登用された。

西文氏の始祖は漢高祖の末裔である王仁とされ、応神十五年に渡来したという(『日本書紀』)。本拠は河内古市・丹比の二郡である。百済から渡来したことになっているが、楽浪郡時代の古墳に王平・王雲などの名が残っており、楽浪系百済人であると可能性もある。この始祖伝説は一種の定型になったらしい。延暦九年、津史(王辰爾の子孫)が菅野朝臣という日本風の姓に変えることを申し出た際に類似の伝説を挙げている。

西文氏は馬首(武生宿禰)・桜野首・栗栖首などの諸氏を輩出し、一定の勢力を保っていたと思われるが、記録に残る人物はあまりいない。文忌寸禰麻呂が壬申の乱で武功をたてたものの、西文氏が得意とするはずの文事では、これといった人物は出なかった。天武十四年に忌寸姓を賜り、延暦十年正月に漢高祖云々の始祖伝説を掲げて宿禰姓への改姓を許された(『続日本紀』)。九世紀頃、その一部は浄野宿禰という和風の姓に改めている。


五世紀の状況

当時の倭国は、脅威にさらされていた。脅威とは、長寿王の治世下で強勢を誇る高句麗のことである。高句麗は南進して新羅・百済を圧迫し、朝鮮南部をも勢力圏に含めつつあった。一九八〇年に発掘された釜山市東莱区福泉洞古墳群のうち、五世紀中葉のものと推定された一〇号・十一号墳から出土した甲冑・馬具はことごとく高句麗系統のものであることが知られている。特に十一号墳の被葬者は新羅に服属した首長と推定され、高句麗が新羅を媒介として加羅に影響を及ぼしていたものと思われる。また忠清南道中原郡で発見された『中原高句麗碑』は五世紀末の建碑であるが、その文面では高句麗王自身を「大王」と誇示しつつ新羅王を「東夷之寐錦」と見下している。また、新羅支配層に衣服を賜ったことを記しているが、これは高句麗への従属を示すものである(白雉二年、新羅が倭に派遣した使者も唐服を着ている)。更に、高句麗武官である補奴が「新羅土内」で新羅人三百を募兵していたことが見える。高句麗は、新羅を軍事的にも編入していたのである。

当時の倭国は鉄資源を朝鮮に頼っており、これを確保するために高句麗と敵対した。倭の五王は相次いで南朝(現在の江南にあった政権。一時は山東半島も含む)に使者を送って将軍号を得、更には高句麗征討の計画を告げて朝鮮南部における軍事指揮権を要求した。四三八年には倭王珍が安東大将軍に封ぜられ、四五一年には倭王済が使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を冠せられるに至った。

この緊張の中、雄略天皇は帰化人を重用している。身狭村主青・檜隈民使博徳は漢系帰化人(前者は呉国孫権の末裔を称す)であり、呉国との外交に活躍した。『日本書紀』では、雄略十四年正月に呉国から漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の技術者を連れて帰国している。李永植氏は「漢は安羅(加羅の一部)、呉は加羅のどこか」とするが、これは誤りであろう。呉国の名称は推古十七年夏(六〇九)にも登場する。「百済人が王の命を受けて呉国に入ろうとしたが、戦乱によって入国できず、本国に引き返す途中、暴風雨に遭って倭に漂着した」という記事である。『日本書紀』における呉は南朝を指し、漢も中国(南北両朝か北朝かは不明)を指すと考えるべきである。但し、加羅の綾織技術者が南朝でも持て囃されていたというなら話は別である。 『梁書百済伝』には、百済が南朝文化を摂取していたことが見える。また、一九七一年に発見された忠清南道公州郡公州邑宋山里古墳群武寧王陵からは梁代の五銖銭が出土し、墓制(セン築墳)をはじめ、陵内の絵画・彫刻その他工芸品も南朝文化の強い影響下にあることが金元龍氏によって指摘されている。これらの文化は、百済を経由して倭に輸入された。


倭系百済官僚

高句麗の勢力に対抗しようにも、倭政権の統率力は不安定だったため、豪族の一部は倭王権に仕えながらも百済に通じるようになり、倭王の危機感を更に高めた。『隋書百済伝』には「其の人、雑ふるに新羅・高麗・倭等有り。また中国人有り」と記されている。『日本書紀』には、このような倭人系百済官僚が登場する。彼らは倭名を名乗り、倭国内の一族と連絡を取って外交を有利に展開した。

欽明二年七月に百済王の使者として来朝した紀臣奈率弥麻沙(奈率は官職名にて十六等のうち第六品)は、紀臣が現地で娶った百済人の妻との混血児である。

その他、欽明天皇五年三月に日本の親新羅派を排除すべく来朝した許勢奈率歌麻・物部奈率歌非(奈率は官位)や、同十四年正月に援軍要請のため来朝した徳率科野次酒(しなのししゅ。徳率は第四品)などがいる。科野次酒は同年八月付けの上奏文中で「内臣」と記され、百済朝廷で重用されていたことが分かる。日本は医博士・易博士・暦博士の交代派遣及び朴書・暦本・各種の薬物を要求し、引き替えに援軍を千人・馬百頭・船四十隻を送った。このように、百済は文化輸出をもって倭国の軍事力を利用した。

敏達天皇十二年、大和朝廷は任那の復興計画を審議するため、大伴金村配下にて百済に派遣されていた火葦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこありしと。阿利斯登は大首長を意味する称号との説有り)の子、達率日羅(達率は第二品)を召還した。日羅は戦争よりも国力充実によって百済を威圧することを説き、更に述べた。

『百済人謀りて言わく、「船三百有り。筑紫を請けむと欲す」という。若し其れ実に請わば、偽りて賜るべし。然からば百済、新たに国を造らむと欲さば、必ず先ず女人・小子を以て船に載せて至らむ。国家(日本)、此の時に臨みて壱岐・対馬に多く伏兵を置きて至らむを窺いて殺したまえ。却りてな欺かれたまひそ。常に要害の所に塁塞を築かむ。』

百済人の筑紫侵攻計画(詳細は不明。大量の移民で筑紫を独立国化するか、それとも非戦闘員しか載せていないと見せかけて奇襲をかけるか)を暴露した日羅は、同行の百済人に暗殺された。しかし、下手人もまた捕らえられ、日羅の一族に引き渡された。

百済は倭にとって、基本的に同盟国であった。しかし、今日の同盟関係においても同様に「反覆多き国」(『日本書紀』推古三十一年)であった。

朝鮮半島南部には、五〜六世紀に造られた日本様式の古墳が存在する。これらは、海を渡った倭人またはその混血児のものであろう。当然のことながら、現在韓国人であると思っておられる方々も、実は倭人の血を引いている可能性はある。文化交流は双方向のものだから、自然なことではある。


後期帰化人

冒頭で述べたように、古参の帰化人は、知識の旧式化とともに一線を退き、豪族化していった。

『日本書紀』敏達天皇元年五月にもこのことを物語る挿話がある。

『天皇、高麗(高句麗)の文を執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸々の史(ふびと)を召し集へて、読み解かしむ。是の時に、諸々の史、三日の内に皆読むことあたはず。ここに船史(ふねのふびと)の先祖王辰爾(おうじんに)ありて、能く読みとき奉る。』

史は文筆を司る役人で、多くは帰化人であった。ところが、旧来からの帰化人は高句麗の文章を読めず、最近になって帰化した王辰爾(おうじんに。船史の祖先)が訳して天皇に奏上した。天皇は東西の諸々の史(東漢氏・西文氏)を「汝ら習へる業、何の故にか就らざる。汝等多しといふとも辰爾に如かず」と叱る一方、王辰爾を褒めた。

新参の帰化人は、官僚としての活躍を期待された。船史のほか、呉国出身の帰化人の子孫で孝徳天皇の時に牛乳を献上した和薬使主(やまとのくすりのおみ)、飛鳥大仏を造った鞍作止利などがいる。更には百済・高句麗の滅亡によって、その遺民らが大量に日本へ帰化した。

彼らは天皇の臣下となり、兵法・薬学・儒学・法学・卜筮など各分野で活躍した。大野城・基肄城を築いた憶礼福留・四比福夫、東宮学士として大友王子を補佐した吉大尚、学職頭となった鬼室集斯、黄金九百両を贈って盧遮那仏の建造を助けた陸奥守百済王敬福、蝦夷征討に活躍し陸奥鎮守将軍となった百済王俊哲(娘は嵯峨天皇に嫁して忠良親王を産んだ)などがいる。

ただ、百済遺臣が無条件に厚遇されたわけではない。特に才能がある者は相応の官位を授けられたが、そうでない者は新羅に降伏した場合より冷遇され、達率の位にあった者でも従七位下相当の低位にとどめられた(『日本書紀』天智十年正月)。また、身分のあるものは畿内に居住したが、無名の者は租税免除されたうえで(同書文武十年八月および賦役令に記述有り。『集解』所収霊亀三年十一月八日太政官符では百済高句麗滅亡に伴う帰化人については終身免税)、東国に送られた。『日本書紀』に引用されている「百済記」「百済新撰」「百済本記」といった歴史書は、亡命した百済人による編纂である。

また、これらとは別に新漢人(いまきのあやひと)と称され、五世紀後半以降に漢氏の支配下に置かれた一連の中国系帰化人もあった。推古十六年の遣隋使で留学し、国博士として改革に尽力した新漢人日文(僧旻)が知られている。

更に後世のことになるが、唐から帰化する者もいた。天平八年、初めて華厳宗の典籍を伝えた唐僧道エイ、説明はもはや不要の鑑真がいる。また、遣唐使を日本に送った後、安史の乱による混乱を避けて帰化した沈惟岳もいた。

もうひとつ、韓国の国史国定教科書にも記されている曇徴についても触れておく。 隋の中国統一によって西方に脅威を感じた高句麗は、東突厥と連合して対抗しようと画策した。しかし、東突厥はあくまで隋に味方し、密使の件までも暴露する。推古十八年、隋との関係が冷却化した高句麗は、背後を固めるべく日本に曇徴らを派遣した。

『高麗王、僧曇徴・法定を貢上す。曇徴は五経を知れり。また能く彩色と紙墨を作り、併せて水臼を造る。蓋し水臼を造ること、是の時に始まれるか。』

雄略天皇七年の記事に画部(えかきべ)因斯羅我の渡来が見え、同十三年の記事に「あたらしき 猪名部の工匠 かけし墨縄 其が無けば 誰かかけむよ あたら墨縄」の和歌がある。先の文章は、「曇徴は絵の具や紙墨を作る達人だった」と考えた方がよい。なお、水臼というのは水車を動力とする臼のことである。


白村江前夜

七世紀、新羅は百済・高句麗に圧迫されていた。新羅は唐と結ぶことで状況を打開しようと図り、六二五年に遣使して二国の非を訴えた。翌年、唐は要請に応えて三国の仲介を行った。

新羅は倭にも同様の外交を行っている。推古三十一年(六二三)、新羅は倭に使者を送って貢物を奉り、同時に唐留学生も送り届けている。帰国した留学生恵日は、唐と国交を結ぶことを進言した。

これに対し、百済・高句麗とも唐に貢物を納めて関係を修復した。唐の援助を期待できなくなった新羅は、倭の軍事力を頼るために従属の姿勢を示した。使者が倭人留学生(南淵請安・高向玄理ら)を送り届けるのは勿論のこと、舒明天皇の死・皇極天皇の即位に際しては、初めて弔喪使・祝賀使を送った。また、六四二年に百済の侵攻を受けた際には、高句麗に救援を乞うて拒絶されている(『三国史記新羅本紀』)。唐は援兵の派遣を拒否したものの、使者を派遣して停戦を呼びかけた。高句麗はこれに従わなかったために唐の討伐を受けることとなったが、高句麗は使者を送って和平に持ち込んだ。

真徳女王のもと、政権は金春秋によって掌握された。唐に援助を仰ぎつつもあくまで自立を目指した金春秋は、反対派を排除して内政改革を推進した。結果、軍事力が向上して対百済戦況も優位に転じていった。ここに至り、唐の太宗は百済・高句麗討伐を決意した。

白雉二年(六五一)、新羅は倭に使者を送った。使者は唐服を着用して唐との親交を誇示したため、倭は彼らを放還し、新羅討伐の声が挙がる始末であった。倭王権内は外交を巡って二分されたが、親新羅派は不利であった。親新羅派の高向玄理は、事態を打開するために第三次遣唐使として自ら海を渡った(白雉五年、六五四)。途中で新羅に数ヶ月滞在して善後策を練り、いよいよ唐へ向かった。斉明元年(六五五)、唐の高宗は倭国に国書を送り、新羅に味方して出兵するよう求めているが、これも親新羅派の働きかけであろうか(『新唐書』)。

百済は斉明元年に百人を数える使節団を送り込み、高句麗もまた斉明二年八月に八十人の使節団を派遣している。倭は百済・高句麗へ返礼使を送る一方、新羅へは唐留学生を送り届けるよう依頼した。新羅はこれを拒絶し、対決姿勢を明白にした。国力が充実した今、倭との同盟は必要無くなったと判断したものか。あるいは、敵味方を明白にして唐の百済討伐を促したものか。斉明五年、倭は百済沿岸経由で遣唐使を送ったが、唐はこれを抑留した。

倭国の外交方針は、百済に味方したり、他方で遣唐使を派遣したりしてしまうなど、必ずしも一貫性のあるものではなかった。これは、大化改新より日を経ておらず、政権が不安定であったためと思われる。百済・高句麗の滅亡後、倭国は多数の帰化人を得て中央集権体制を確立していくが、その背景には外交の失敗に対する反省があったと思う。


白村江以後

白村江では敗戦したものの、唐が海を越えて倭に攻めてくるとは考えられなかった。とはいえ、百済・高句麗という同盟国を失い、これらが唐の勢力下に編入されたことは、相対的に倭国の勢力を低下させた。天皇と畿内豪族からなる朝廷は、国力を高度に集中しつつ安定的な国内体制を築く必要があった。新羅を介して大陸文化の摂取を行う一方、隋唐の制度を採用して改革を進めた。公地公民制・官僚制に基づくこれらの中央集権体制は、『大宝律令』の制定によってほぼ完成の域に達した。

律令制度を厳格に実施している限り、租庸調雑徭など一人あたりの税額は定数的であるため、耕地面積の増大や技術向上による生産力の上昇による税の増収は見込めなかった。

また、本来律令制度の採用を必要とした国際情勢の緊迫は、統一新羅が朝鮮半島から唐の勢力を駆逐したことでほぼ解消した。

これによって、大陸に対する警戒態勢を維持する必要もなくなり、貴族たちは政策を変換した。大和・河内国境にある高安城を廃城にし、遣唐使を派遣して文化の輸入につとめる一方で、三世一身法(養老七年)・墾田永年私財法(天平十五年)の制定によって私有地経営を推進し、国家財政の規模拡大をはかったのである。

唐は天智三年五月(公的な使者でないとして入京を許さず)、翌四年九月、同六年十一月に使者を派遣した。これらの遣使は、唐勢力の排除をねらう新羅の動きに対処するため、日本との和解を目指したものと思われる。しかし、朝廷は警戒をゆるめず、対馬金田城・筑紫大野城・同国基肄城・肥後鞠智城・讃岐屋島城(源平合戦の屋島である)を築城し、天智六年には近江大津京に遷都して防備体制を固めた。

高句麗滅亡後、天智八年には唐が郭務ソウら二千余人を連れて来朝し、同十年正月には劉仁願が李守真らを派遣し、天智十年十一月、郭務ソウ以下六百人・沙宅孫登以下千四百人併せて二千人が比知島から大宰府に使者を派遣し、天武元年三月には来朝して書と進物を贈っている。沙宅孫登は元百済高官で、唐の朝鮮支配に協力していた者と思われる。天智九年六月、新羅は百済故地に高句麗という傀儡政権を建てて唐に抗戦を開始したため、郭務ソウらは熊津都督府を追い落とされ、敗残兵及び白村江での捕虜を率いてきたものか(倭まで敵に回すと挟撃されるため、唐軍の進駐ではあり得ない)。天武元年五月、朝廷は唐使に賜物を与えて帰国させた。天武四年十月、唐人三十人が筑紫より連行されているが、これも敗残兵であろう。

天智八年以来、遣唐使は約三十年間に渡って途絶えた。我が国は、その間に独自の律令制度を形成した。天皇の権力については律令に明確な規定が無く、実際には貴族勢力との相対的な関係で決定したと思われる。科挙が導入されなかったため、律令官人の上層部に新陳代謝は無く、大化改新以前からの伝統が固持された。大化改新以前に上流氏族群が私地私民支配と世襲専門職に基づいて保有していた地位がそのまま引き継がれ、律令官人制度が調えられていく過程で制度的に確立された。蔭位制によって上級官人はほぼ同じ氏族の貴族子弟によって独占され、上流層の政治的地位はあまり大きな変動がない形で維持されていった。給与は身分給というべきもので、従五位以上と正六位以下では大きな差があった。


帰化人時代の終焉

奈良時代も後半に差しかかると、帰化人の活躍は下火になっていく。渤海との通交によって対新羅関係が悪化したことは勿論だが、唐・新羅とも国内反乱の勃発によって衰退期に向かったこともある。商船を利用した民間での交流が繁くなり、帰化する必要がなくなったこともあるだろう。 天平十六年、雑戸解放令によって専業技術集団は解散された。実際には、彼らは既に農民化しており、本来の業務は一般工人に取って代わられていたのである。

天平勝宝九歳四月、高句麗・百済・新羅の帰化人は久しく聖化を慕い日本の国風に馴染んでいるので、姓を賜りたいものは全てこれを許す旨の詔が発せられた。以後、「蕃姓」を「和姓」に改める帰化人が多くなる。姓(かばね)においても同様で、帰化人に多い「忌寸」を、「朝臣」「宿禰」などの日本在来の氏が持つ姓に改めようと運動する者が多くなった。

延暦二年四月、和史は朝臣姓を賜り、和朝臣と称した。天平十九年ではあるが、鬼室氏と同族である正六位上市往泉麻呂は、岡連の氏姓を賜った。天平宝字五年三月、憶頼氏は石野連の氏姓を賜った。宝亀十年、高麗朝臣福信は「旧俗之号」である高麗を高倉に改めるよう申し出て許され、高倉朝臣氏を名乗った。宝亀十一年十二月、沈惟岳は従五位下の位を授かり、同時に清海宿禰の氏姓を賜った。

今までに少し述べているが、先祖の由来を詐称することも、この時に流行した。


よくある質問

質問:「渡来人」「帰化人」のうち、どちらの呼称を採るべきでしょうか。何でも、「帰化」は中華思想に基づいており、夷狄が君王の徳化を慕って渡来することを示す差別用語であると聞きました。

答え:

図書館で調べたのですが、小生の先祖は鬼室集斯らしい。一説によると、ですが。鬼室集斯というのは、百済滅亡の折りに日本へ亡命し、帰化して官位をもらった人物です。どうでもいいですね。

さて、ここでいう「帰化人」とは、サントスやワグナーやラモスのことではありません……よね?

日本史で特に「帰化人」という場合、大和時代前後から平安時代初期にかけて、独自の技術を移転した人々のことを指します。そして、技術移転に寄与した本人だけでなく、「氏姓や技術など外国人としての特性を有する」その子孫をも含めます。
日本に移住してきたジャワ原人は、帰化人に含まれません。いくら何でも古すぎる。

中華思想を持ち込んだのは、大陸系の技術と思想を持って日本に来た帰化人自身であるということをお忘れ無く。
帰化人が編纂に活躍した『日本書紀』『続日本紀』では、日本を「中国」と書いていますね。前述の『中原高句麗碑』では、高句麗が中華・新羅は東夷といったところ。

「帰化」という概念は、儒教の政教主義から生じたものです。だから、儒教を輸入した結果として中華思想が生じるのは当然の帰結と言えます。
よくある反論は「移住者全員が天皇の徳に感化されたわけではない」ですが、的はずれです。
「こうあるべきだ」という理想なのですから、実情にあわないのは当然です。
たとえば、支那の南朝は、その版図からして「中華」とは言い難い。しかし、倭国に関する記事が出てくるのは「夷蛮伝」であり、我々が行ったのは「朝貢」なんですな。
この反論者が述べていることは、「『聖人即王者』というが、暴君もいるではないか」と言っているのと同じことです。

「帰化」という言葉を用いずして、大陸文化・思想の移入を語ることは出来ません。

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『日本大百科全書』(小学館)の記述は以下の通り。

「帰化」という語は、もともと古代中国の中華思想に基づき、周辺の異民族が中国帝王の王化を慕って帰順し、その国家的秩序に従うことを意味したが、7世紀末〜8世紀に中国の国家制度に倣って律令(りつりょう)国家を樹立した日本の支配層は、同時にそのような中華思想も受容して、それ以前に海外から日本に移住してきた人々をすべて天皇の徳を慕って「帰化」したものとみなした。
すなわち、古代の渡来者を一括して「帰化人」と称するのは律令国家支配層の歴史観に基づく見方であって、7世紀以前の日本列島にまだ帰化すべき国家の確立していない段階の渡来者に用いる歴史用語としてはふさわしくない。

天皇やその取り巻きが、律令国家を樹立する過程で中華思想に目覚めていったかのように書いています。

しかし、中華思想を持ち込んだのは、他ならぬ帰化人です。きちんと書こうよ。帰化人は、儒教・仏教など、思想も持ち込んだわけですからね。

あと、「律令国家を樹立した日本の支配層」には、帰化人も含まれているはずですが。都合良く、頭の中から欠けているんでしょうね。

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まず、「中華思想は儒教と密接に関わっている」ことを覚えておきましょう。切ろうと思っても切れません。
なぜなら、上記引用文中の「王化」というのは、王道政治理論から生じたものだからです。
「天子(聖人・王者)が徳をもって民を教化する」……これが周辺異民族に及ぶ可能性もあるわけで、この場合が「帰化」ということになります。
「古代の渡来者を一括して帰化人と称するのは律令国家支配層の歴史観」ではなく、儒教の影響です。

『日本書紀』において、五経博士の派遣を百済に要請した記事を見つけるのは、容易なことです。中華思想は、帰化人・一時滞在外国人とともに、大和王権に流入していたのは確実です。

「帰化人」と呼ぶにあたり、金達寿氏が言うように、統一国家としての体裁を調えている必要もありません。
支那で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、まったく統一国家ではありません。

支那の歴史書に「倭国」と記された時点で、他国から見て国家の体を成していたものと考えるべきでしょう。
その上で、儒教特有の徳治政治・政教主義が輸入され、大和王権内で認識されていればよいのではないでしょうか。

帰化人の語を使用したくなければ、意図的にハードルを高くすればいいわけですが。

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「帰化人」か「渡来人」かという呼称問題について、こういうときばかり「正確を期したがる」方々もおられますが、前期・後期とも朝鮮人が含まれていた「倭寇」の名称は放置。このあたり、前々から疑問に思っているところです。

「高麗朝鮮明倭ポルトガル寇」と、早急に改める必要があるでしょう。

「倭は日本人を指すとは限らない」……けれど、実際の学校では、「日本人」と習っているのでは?

正確を期すために、「朝鮮」と明記しましょう。

……いや、分かっています。あなた方は、こういう場合には途端に消極的になるのです。

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「渡来の事情には色々ある」という反論もあるでしょう。「帰化」という場合、渡来の事情は余り関係ありません。流来であれ、亡命であれ。単に日本へ来ただけでは、帰化したことにはなりません。『日本書紀』を見れば、流来者を母国に送還した例もありますし(呉国云々の部分に前述)。帰化したい者は、その旨を申し出なければなりません。

たとえば、

「『当今徳化を感じて参来す』と申すの由、宜しく安置すべし」
(『小右記』寛仁四年九月十四日条。大宰府言上解文及び大宋国商客解文)

という具合。宋の商人が、「天皇の徳を慕って」日本に定住したい旨を大宰府(役所)に申請したという記録ですよ。「安置」というのは、日本で衣食住を賜ること。

王化・徳化とは、中国(なかつくに)における礼法・言語に同化することも指します。「日本語を話し、日本の服を着て、日本の法に従う」ということです。

帰化というのは物理的移動を意味するのではなく、移民と政府が主体的に行動する政治的現象です。
政府が関わったからこそ、帰化人は日本の保護下に編入されたのです。戸令にいう、「化外の人が帰化を望んでいるならば、衣服食料を支給し、田畑を与えて安置せよ」とはこのことです。
ですから、『三国史記』にいう「来投(=流入)」「亡入(=流出)」のような戦乱・飢饉を避けての緊急移動や「虜獲(=強制連行)」と異なり、「帰化」の場合は外国から返還要求があっても強制送還される心配はありません。「渡来」と「帰化」は全く違うものです。

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「渡来人」は戦後に登場した用語で、最初に言い出した人は作家の金達寿氏です(『渡来人と渡来文化』出版社失念、『古代文化と帰化人』新人物往来社参照)。金氏の主張は、「大和政権が統一国家の体を為していない時代について『帰化人』の呼称を用いるのはおかしい」というものでした。一方、政権確立後については「帰化人」の名称を用いても良いとも述べています。

(筆者註)支那で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、前述の通り戦国時代のことです。

これとは別に、金正柱氏は『韓来文化の後栄』(韓国史料研究所)にて「韓来者」「渡来者」の呼称を用いることを提言しています。

さすがは儒教の国(今は知らん)、中華思想に敏感です。

外国の方々がどのような用語を用いようとも勝手ですが、日本にまで押しつけるのは止めて欲しいですね。

様々なタテマエはあるものの、「韓来者」「渡来人」の呼称の方が、南北朝鮮の方々の自尊心にとって望ましいことは確かです。韓国の国史教科書には「新しい文物を持って日本に渡った我が国の人たちは日本人を教化した」と書いてありますので(コレ、もろに差別表現ですよね)。

「渡来」なら「日本に渡っただけで、朝鮮人・支那系朝鮮人のまま」ですが、「帰化」だと日本人になってしまう。

「帰化人」「渡来人」の呼称は、古代文化の帰属をめぐる問題です。

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この記事を書くために日本の歴史教科書を見たのですが、周辺諸国に気を遣っていますね。

教科書には平安時代における新羅海賊のことも書いてないし、朝鮮人が戦後に行った凶行については口をつぐんでいるし。

「1945.11.3/GHQは、在日朝鮮人、台湾省民を出来る限り解放国民として処遇することを言明。
これによって第三国人は、敗戦後日本の法律は自分たちに適用されないとして武装化。
闇市でも禁制品を堂々と販売した。」
「1946.11.20/総司令部スポークスマンは、以下の声明を発表して在日朝鮮人の治外法権を否定。
『現在、在日朝鮮人は約60万人だが、引き揚げ要請は7.5万人に過ぎない。(略)
引き揚げを拒否し、この国にとどまることを選んだ朝鮮人は、日本に移住を続ける以上、
全ての正当なる地方的法規に従うことを自覚して選択をしなければならない。
正しい地方的法規の適用を免除するというような、在日朝鮮人に有利な差別待遇は、治外法権の形を生じる。(略)
朝鮮人を解放された人々として取り扱い、その福祉のために出来る限りのことをするというのが占領当初からの占領軍当局の政策であった。(略)
占領軍当局は、市民権の保留・放棄・選択に関して、いずれの国民に対しても、その基本的権利を干渉する意図は少しもない。』」
(『昭和史全記録』毎日新聞社)

きちんと書こうぜ。あと、朝鮮人は「第三国人」ね。1945.11.8付け連合軍司令部通告の連合国45ヶ国一覧に名前がないから。

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「大陸系の人々が、大陸の文物や思想を持ち込んだ」……という時代を忠実に再現したいなら、「帰化人」という呼称が適切です。儒教の思想に基づいたものですから。

小生は、「帰化人」の語をお勧めしますが、学生の方は「渡来人」と書かないと社会科の先生が点をくれないかも。「渡来人」の語は、当時の常識からして「居留外国人=化外の民」と同義であり、実は「野蛮人」と同じ意味なのだということを楽しみながら、テストの解答欄に書き込みましょう。

どうしても気になると言う方のため、『日本書紀』が参考にした『後漢書』の用例を挙げておきましょう。『後漢書循吏伝童恢』では「若吏称其職、人行善事者、皆賜以酒肴之例、以勧励之。耕織種収、皆有條章。一境清静、牢獄連年無囚。比県流人帰化、徒居二万戸。」です。「故郷を離れてさまよっていた人がここに来て定着した」という意味で使用されています。

『広辞苑』では「君王の徳化に帰服すること」を指す用例として『論衡程材』の「帰化慕義」を引用していますが、これは誤りです。直前の文章から引用すると、「性非皆悪、所習為者、違聖教也。故習善儒路、帰化慕義、志操則励(『励則』の誤り)、変従高明」。 訳すと、「人間の生来の性質というものは、全てが悪ではない。普段の行いが聖人の教えに背いているのだ。だから、善の儒教の道を習い、感化されて正義に心を寄せ、堅く守って変えることのない志を励ませば、変化して徳が高く賢明になる。」となります。 儒学を讃えている文章ですね。


質問:貿易ではどれぐらい儲かったのですか。

答え:『日本三代実録』元慶三年十月十三日条を参考に。大宰府の官人は貿易の際、政府から真綿を借り受けて売買し、砂金で返済します。借りる時は砂金一両につき真綿二屯(一屯は四両=百六十八グラム)、返済時は真綿十六屯を砂金一両と換算しました。利息七〇〇パーセント。無論、売り上げはそれ以上です。


質問:韓国の国史国定教科書では朝鮮征伐について以下のようにありますが、本当でしょうか。

「倭乱で我々が勝利をおさめることが出来たのは、我が民族が持っていた潜在的力量が優れていたためである。つまり、官軍次元の我が国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。…(略)…こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退することが出来る力になった」

答え:分かりません。ただ、これと類することを江戸時代末期の攘夷派が論じていたことは申し上げておかねばならないでしょう。頼山陽という儒学者の場合、元寇の図巻を見て曰く、「兵ノ勝敗ハ人ニ在リテ器ニ在ラズ」。同じく儒学者の太田金城は、「英国人は陸戦を得意としないようだから、平地の戦いでは血戦勇敢な日本の武士に敵うまい」と述べています。

日本も日露戦争について「露軍に勝てたのは軍人精神の優越に拠る」(『帝国陸軍』陸軍省歩兵課,大正二年)と述べています。「国力の不足により兵器弾薬を充分に揃えることが出来なかった」という事情はとても言えないでしょうね。大東亜戦争においても然り。

そういえば、「帰化」と同様に「攘夷」も華夷思想に基づいたものでしたね。


筆者より

このコーナーは、オマケです。筆者の判断も記しているが、孫引きも割とあるので注意。

「○○についても書いてください」という要望があっても、応えることはありません。あまり手を広げすぎるのも何なので。

参考文献(他ページに示している以外のもの)

  • 『日本書紀』(小学館)
  • 『続日本紀』(岩波書店)
  • 『日本の紙』(吉川弘文館)
  • 『続日本後記』(同上)
  • 『後漢書』(中華書局と出版社不明分。隷書で書いてあった)
  • 『論衡』(明治書院)
  • 『三国史記』(平凡社東洋文庫)
  • 『日本大百科全書』(小学館)
  • 『岩波日本史辞典』(岩波書店)
  • 『日本の中の朝鮮文化』(講談社学術文庫・金達寿)
  • 『古代文化と帰化人』(新人物往来社・同上)
  • 『帰化人』(中公新書・上田正昭)
  • 『古代の帰化人』(吉川弘文館・関晃)
  • 『日本古代の国家と社会』(同上)
  • 『古代の倭国と朝鮮諸国』(青木書店・鈴木英夫)
  • 『帰化人と古代国家』(吉川弘文館・平野邦雄)
  • 『更訂国史の研究』(岩波書店・黒板勝美)
  • 『韓国の前方後円形墳-早稲田大学韓国考古学学術調査研修報告』(雄山閣出版・岡内三真)
  • 『新版韓国の歴史-国定韓国高等学校歴史教科書-』(明石書店)