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「南朝秘録」(『竹内文献』所収)
について

参考文献をあさっている間に、『後醍醐天皇-竹内文書/楠木正成対足利尊氏-』(明窓出版/竹田日恵著)という本に遭遇した。前書きによると、参考文献は『竹内文献』の皇統系譜及び竹内家所蔵の南朝秘史・竹内家系図であるという。試しに八幡書店から出版されている『竹内文献』を見ると、「南朝秘録」というのが収録されていた。

『竹内文献』に南北朝関連の記事があったとは、意外であった。

この「古文書」は、狩野享吉ら先人によって、既に「偽書」という考証がなされている。が、小生も簡単ながら批判を加えたい。

但し、対象とするのは「後醍醐上皇」が常陸国に逃れるまでを記述した部分にとどめる。その内容も、ごく最小限とする。全部は書かない。「他にどこが間違っているんですか」という問い合わせにも応じない。

あまり時間をかけたくないことと、小生の指摘に従った改竄を防ぐためである(『竹内文献』におけるムー大陸らしき記述部分について、後に追加された疑いがあるということなので)。

『竹内文献』信者は、読まない方が良いかもしれない。「フリーメーソンにマインドコントロールされている輩が書いた駄文だ」「幕府が『竹内文献』に符合しないよう、記録を改竄したのだ」などと血圧を上昇させるのがオチである。

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当サイトでも、偽書(天野信景による創作説)の疑いがある『浪合記』を扱っている。しかし、現代語訳を掲載しているのは、偽書説への反論となりうる伝本である。天野信景の時代より古い奥書を持ち(内容も奥書に矛盾せず)、信景系の写本に比較して構成も全く異なり独自記事が多い。


問題の部分の概要

後醍醐天皇は吉野で崩御したのではない。そのような噂を喧伝させる一方、皇位を後村上天皇に譲り、密かに越中へ逃れたのである。

後醍醐上皇は皇祖皇太神宮別祖太神宮(『竹内文献』を所有していた宗教法人の前身らしい)を頼った。一行は越中国婦負郡にある皇祖皇太神宮神主竹内惟光の妻(上皇の娘・良子内親王という)のもとへ、延元四年十一月十日に到着された。竹内惟光・惟眞がこれを出迎えたが、譜代の家老である桃井直常が北朝に味方したため、上皇は常陸に向かった。興国元年八月十七日のことで、万里小路藤房・季房、竹内惟光・惟眞など竹内一族、新田氏、楠木氏など三百二十一人がこれに従った。

あちこちで敵に襲われて半数以上の死者を出しながら、翌年秋に常陸へ到着した。上皇は途中で負った傷が元で亡くなった。

興国五年九月十六日(筆者注:北朝年号でいう康永三年)、竹内惟光・惟眞は大神宮を造営し、死者を祀った。この際、当時の記録を詳細に書き留めて神宮の秘蔵とした。


以上のように、逃避行は「興国元年から二年」であり、記録が書かれたのは「興国五年」であることに留意されたい。

小生が見たところ、「南朝秘録」を書いた者は興国五年前後の史料をもとにしたらしい(それ以降のものもあるが)。結果、逃避行当時の史実とは合わない部分があちこちに生じている。


「後醍醐上皇」の足跡への疑問

一、越中国における滞在場所

越中国における南朝方の根拠地は、大覚寺統の所領があった礪波郡・射水郡(つまり越中西部)である。興国三年頃、宗良親王も越中に潜伏し、『梨花集』に「越中名子といふ浦に忍びて住侍りし頃」という詞書きのある和歌を残している。奈古浦は、射水郡北部である。

一方、婦負郡は北朝側の支配下にあった。つまり、上皇は敵中へ堂々と乗り込んでいったということになる。

常陸への道中、各所で襲撃を受けた原因がこれだとしたら、かなり間抜けな話である。

二、越後国見附における大難について

「南朝秘録」は記す。

「興国元年八月二十一日、上皇は越後国岩室に到着した。二十三日弥彦山に登ったが新潟に敵がいるため引き返した。二十九日、越後国見附にて、上杉憲顕の軍勢によって一行が襲撃を受けた。九月五日、越後国六日町にて上皇は大難に遭われ、竹内二郎左衛門以下五名が死んだ」

だが、当時の上越・中越は、南朝方の支配下にあった。越後四将と称される河内氏・小国氏・池氏・風間氏が、阿賀川以南を守っていたのである。

新潟(当時の蒲原津)には小国氏の築いた蒲原津城があった(建武三年十二月に一旦は落城している)。また、見附は現在の三条市周辺を本拠としていた池氏の勢力圏である。六日町に至っては越後新田党の支配下にあり、北西にある大井田城(現在は城址が県史跡に指定されている)には、大井田氏経が頑張っていた。

北朝方が本格的な攻勢に入ったのは興国二年三月二十日(『飯岡文書』)で、六月頃には諸城を陥れて圧倒的な勝利を収めた(『武家年代記』)。


登場人物への疑問

一、桃井直常について

我々が知っている桃井直常ではない。本文によると、彼は「竹内家譜代の家老」だったのだから。

我々が知っている直常が、越中守護として勢力を扶植し始めたのは、興国五年以降である。

二、里見民部少輔義宗について

この人物は、十月三日、上野国長野原にて一行を襲ったことになっている。

しかし、里見義宗は美濃国円教寺を本拠地とする美濃里見氏に属している。民部少輔の官位にしても、興国六年に得たものである(『園太暦』八月十七日)。

興国五年に記されたはずの文章に、なぜ後年の記事が紛れ込んでいるのであろうか。

三、武田信武について

興国二年三月五日に甲斐国都留郡吉野にて一行を襲ったと記されている人物である。

武田信武は、安芸を本拠地とする武田氏である。確かに、後年、信武は甲斐守護となる。しかし、それは正平六年頃のことである。

余談ながら、武田晴信は信武流武田氏の子孫である。


以上、五例を挙げた。ほかに色々あるので、探してみるといいだろう。