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兵法書としての太平記


後世、太平記は兵法書としても読まれた。では、どの部分が実際の戦闘において役立ったのだろうか。以下に具体例を記すので、戦国武将になったつもりで読んで欲しい。

原文には天正本太平記を用い、主として中国兵書との比較となる。

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我が国には『孫子』『呉子』『六韜』『三略』など中国兵書が、早くから流入していた。これは、律令にて、兵書の私有を禁じていることでも分かる。

集団戦のマニュアルとも言うべき虎韜(『六韜』)は、「虎の巻」の語源でもある。


大将の命令を兵たちに徹底させる(巻二十二「孫氏が事」)

孫武が呉王に召され、美女三千を訓練した故事を記す。命令を聞かない美女達を見て、孫子は王が最も寵愛していた美人を斬った。大将の命令を王の意志に反してでも徹底させ、その重要さを示したのである。

将軍は軍事について絶対の権限を持つ(同「立将兵法の事」)

『六韜』竜韜・立将篇を引用し、天皇と言えども将軍の権利を侵してはならないことを説く。南朝の重鎮である四條隆資が、合戦や論功行賞に際して容喙が多かった後醍醐天皇を非難して言った言葉である。

敵の擬兵を見破る(巻三十四「竜泉白石城落つる事」)

延文四年、足利義詮は大軍を発して南朝に攻勢をかけた。

和田・楠木勢が守る竜泉城には、最初千人の兵がいた。しかし、寄せ手は城を遠くから囲むばかりで一向に城を攻めようとしないので、旗を沢山立てて擬勢を張り、百人ばかりの留守部隊を残して残りを引き揚げた。

この計略を見破ったのは、土岐直氏という者である。彼は『六韜』虎韜・塁虚篇を引用して言った、

「砦の上空を眺めたとき、鳥が群れをなして飛んでいて人気を恐れる様子も無いならば、敵はわら人形を作って多くの城兵がいるように見せかけ、寄せ手を欺いているのだ」

彼はわずか五百の兵を率いて城を攻め、これを容易に落としてしまった。

これを知った他の寄せ手は、むざむざ手柄を逃したことを大いに悔しがったという。