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決戦・多々良浜-足利尊氏の兵法-


建武三年二月七日、足利尊氏は九州に向かっていた。新田義貞以下宮方との合戦に連敗したため、西国に待避し、再起を期したのである。

従って、通常の敗退と異なり、将来への布石が次々と打たれていった。有力な武将を各地に派遣して味方を募った。また、備後国鞆ノ津では光厳院の院宣が勅使によってもたらされ、大義名分をも手にした。

かくして背後を固めつつあった尊氏であったが、なおも前途を阻む者がいた。菊池武敏・阿蘇惟直率いる宮方である。

菊池方は二月二十八日に太宰府を占領し、三十日(注:旧暦である)には少弐入道妙恵を有智山城に自刃させ、更に博多へ進撃した。

一方の足利方は、二月二十九日に長門国赤間関を出発した。翌三十日にアシヤノ津(筑前国芦屋津)に上陸し、少弐頼尚以下五百騎と合流して陣を張った。このとき、妙恵自害の悲報が届き、尊氏は妙恵の息子である少弐頼尚に真偽を問うた。頼尚は事実を知っていたが、士気の低下を恐れて即座に否定した。

三月一日、足利方は宗像大宮司の用意した宿所に到着した。このとき、頼尚の努力にもかかわらず、妙恵自刃の報が全軍に知れ渡った。加えて、敵軍が博多に布陣し、迎撃準備を終えている旨の報せを受けた。

それでもなお、尊氏は博多への進撃を命じた。三月二日未刻(午後一時〜三時頃)には香椎宮を通過し、赤坂に差し掛かったところで行軍を止めた。香椎-赤坂間は徒歩で三十分程度であるから、赤坂到着も未刻頃と考えていいだろう。筆者が潮汐表を見るに、旧暦三月二日未刻は干潮にあたっている。敵が多々良浜、それも多々良川の対岸で待ち受けていることは十分に想定されることであり、事実、菊池方はそこに陣を布いていた。渡河戦の不利を軽減するのは、当然の処置であった。

赤坂は、付近一帯を見下ろす高所である。眼下に多々良浜という干潟が広がっており、浜を縫うように小川(須恵川か)が流れていた。菊池方は小川を越え、箱崎松原を背後にあてて布陣していた。『孫子』行軍篇に「凡ソ軍ハ高キヲ好ミテ下キヲ悪ム」という。足利尊氏は赤坂に布陣した。その東には、少弐頼尚以下ほぼ無傷の軍勢が左翼として控えていた。

総勢、併せて千騎弱である。対する菊池方は万を数えたとも言われるが、島津・大友・千葉氏など九州に勢力を持つ大族は尊氏を見限らなかった。

尊氏は諸軍を鼓舞して言った、

「遼遠ノ境、是マデ下向ハ本意ニアラズトイヘ共、進退ハ戦ノ法也。珍敷キ敵ニ合テ、最後ノ合戦ニ未練ナラバ、当家累代ノ武略ヲ失、又東国ノ弓箭ノカキンニ非ズヤ。甚以御思慮アリ。両将一度ニ向テ合戦アシキサマナラバ、何ノ憑アリテカ残党マタカラン。一騎ナリトモ、尊氏此陣ニヒカヘバ、先陣ノ勢、力アテ可戦。合戦難儀ニ及べバ、馬廻ノ宿老共ヲ召具テ、入カエ可攻。先頭殿向テ御覧ゼラルベシ」
(遙か遠く九州まで下向するのは本意ではなかったが、一進一退あるのは合戦につきものだ。良き強敵に対峙して、最後の合戦に拙い失敗などあれば、足利家累代の武略を失し、また東国武士の勇名にも傷が付くというものだ。わしは以下のような作戦を考えている。尊氏・直義の両将が一度に出撃したのならば、戦が劣勢になると頼むべき援軍もなくなる。残党はむざむざ討ち果たされよう。尊氏が、ただ一騎でもこの陣に控えているから、先陣は大いに戦うがいい。苦戦しているようなら、尊氏が直属の精鋭を連れ、交替して戦おう。先陣は足利左馬頭直義が仕る。)

全軍が川を渡ってしまえば、背水の陣となる。潮が満ち、増水した多々良川によって退路が断たれれば、動揺も免れなかっただろう。

『太平記』では、香椎宮で菊池方の陣立てを見た尊氏が「これでは多勢に無勢だ。無名の敵に討ち取られる前に腹を切ろう」と言って直義に諫められている。これは虚構であろう。

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合戦は、左翼から始まった。足利勢は高所に陣取っており、地形の不利を悟った菊池武敏は、東から迂回して横撃しようとしたのである。現在も石碑が残る兜塚は、最激戦地であった。

菊池勢の攻撃を、少弐勢は食い止めた。折からの北風で風上に立ち、矢を遠くまで放つことが出来た。これを見た足利直義以下大手の軍勢が動き出した。菊池勢は東西からの挟撃を恐れ、退却を開始した。

足利方が、勝った。勝ちに乗って追撃した。多々良浜を越え、箱崎松原を過ぎ、博多の須崎浜まで攻め込んだ。

しかし、菊池武敏も猛将であり、手勢を率いて反撃に出た。深追いした直義は箱崎松原付近まで押し戻され、更に包囲されてしまった。直義は「ここは直義が防戦し、将軍の代わりに死にましょう。将軍は、長門周防に退却し、本意を全うしてほしい」と言い、直垂の右袖を形見に遣わした。更に、菊池方三百騎が松原の北から迫っていた。

尊氏率いる本陣が動き出した。新手だけではない、先に退却してきた味方も糾合していた(兵力の再利用か)。足利方は河を渡り(多々良川。先ほどは干潟の記述のみ記されていた。潮が満ちるに連れて水位が上昇したのである)、疲れ切った敵に攻めかかった。菊池勢は持ちこたえることが出来ず、遂に敗れた。尊氏は筥崎八幡宮に本陣を移し、勝利を揺るぎないものとした。


『孫子』軍形篇に云う、

「古ノ所謂善ク戦フ者ハ、勝チ易キニ勝ツ者ナリ。故ニ善ク戦フ者ノ勝ツヤ、智名無ク、勇功無シ。」

戦上手は、無理をせず安全に勝つ。だから、勝利しても知謀も勇敢さも称えられることはない。尊氏は、勝算がないときには退却し、味方を掻き集めてから反撃に出たものである。逃げ足が早い上に満を期して逆襲してくるのだから、かなり嫌な敵だろう。