国府台オフ参加報告(1)

国府台城遠征記

【日 時】 2001年4月1日(日)10:00-16:30
 市川市国府台(こうのだい)は、その名のとおり、下総国の国府がおかれていたと推定される場所であり、古くから下総の中心地であったらしい。現在、国府台古墳群のうちのいくつかが残っている。また国府台は、二回の国府台の合戦の古戦場として知られる。定説によれば、

   天文7年(1537年) 第一次国府台合戦 北条氏綱氏康対足利義明(小弓公方)

   永禄7年(1564年) 第二次国府台合戦 北条氏康対里見義弘

 国府台城は、この古戦場の一画、字「東桜陣」・「西桜陣」にあり、この二つの合戦で使用されたようである。古くは、文明10年(1478年)に「太田道灌が下総国国府台に陣取り、かりの陣城をかまへける」(『鎌倉草紙』)とある。南北550m、東西約200mの規模である。台地西側は江戸川の河川敷。東側は谷が入り、比高差10〜15m(以上、千野原報告による)。国府台は、小弓公方足利義明父子が戦死した場所でもあり、千葉市の歴史にとってもおおいに関係のあるところである。

【コース】 
(午前)国府台城跡

(京成国府台駅→市川城?→)里見公園入り口(集合場所)→総寧寺→里見公園→つじ切り→天満宮→三ノ曲輪→北東の土塁→谷津→丸山→四ノ曲輪→天満宮

(午後)根木内城、大谷口城(小金城)

   

1.国府台城

  市川城?国府台駅から、北上。集合場所へいく途中。突き出た高台に遭遇。国府台神社(写真)と和洋女子短大のある台地です。このあたりに城をつくりそうだなあ、と思いつつ通り過ぎたところ、案の定、あとで講師の先生から、この付近(弘法寺)には、土塁跡がのこっており、市川合戦の話に現れる市川城の候補地のひとつというお話が出ました。
 和洋女子短大側の歩道際に、微細な土師片がいくつも落ちていました。この辺には古墳が多い(多かった)ので、不思議ではありません。途中、東京歯科大学構内にも古墳(法皇塚古墳)があるというが、こうしてつい寄り道していると、集合時間に間に合わないので、急ぎます。
 里見公園の通りの桜並木。まだ10時前ですが、花見客を見込んだ屋台が並び始めており、いい匂いがしてきます。いよいよ国府台城の城域に入ります。集合場所はこの先です。
 まず里見公園北東に隣接する総寧寺へ向かいました。近世初頭、関宿からここ=国府台城の一画に移ってきた。参道が現在の里見公園の中をつきぬけ、さらに南下し、(市川城候補地?)付近まで延びていただろうとのことでした。
 総寧寺墓地。本堂西、一段高い、台地のへりに墓地がありますが、この台地上、里見公園敷地に土塁、空堀、櫓台などの遺構が残ります。写真中央やや右の五輪塔は、小笠原政信夫妻の供養塔。国府台の合戦とは直接、関係ありません。総寧寺から直接、遺構のある場所に行けないので、里見公園入り口にまたもどります。
  花見客でにぎわう里見公園。写真右側の高くなっている道路際に土塁状の地形があります。後世の改変が著しいところなので、断定できませんが、国府台城の土塁遺構である可能性もあります。
 里見公園内を北西に進む。南西端の入り口付近は低くなっていますが、北西は高くなっており、土塁、空堀、櫓台などがのこっています。
 国府台城、里見公園から、江戸川対岸小岩方面を眺める。眺望がよく、新宿副都心の高層ビルが見える。写真ではわからないが、富士山もかすかながら確認できました。対岸に布陣した北条勢の様子もよく見えたはずです。
 里見公園内の櫓台。「物見の松」は満開の桜でよく映りませんでした。(^^;
 里見公園内の土塁。土塁上の大木の左に人が立っているのがわかりますか?写真右側にもうひとつ平行して土塁が走っており、二重土塁を形成します。この土塁は太田道灌がもとあった古墳(明戸古墳)を利用してつくったといわれており、この先に、石棺が露出しているところがあります。
 土塁上、露出した明戸(あけど)古墳石棺。二つあります。古墳時代後期のものです。向こう側は、二重土塁にはさまれた堀。

  写真左上のものは何かわかります?いわゆる「つじ切り」といわれる風習で、居住地の四方隅におく魔よけということです。里見公園北西の江戸川の河川敷方向に抜ける切通しの先にありました。

 

 わらで作ったつじ切りの大蛇です。よく見ると、ちゃんと目もついています。ぜひこの風習は、続けてほしいものです。城郭にともなう町場の範囲を考えるうえでも興味深いものです。

 里見公園北隣接地にのこる櫓台。

 

 天満宮(里見公園北東)。寿太さんによると、天満宮は、太田道灌が崇敬した神社らしい。

 里見公園の北方の台地上にも国府台城の城域は一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、四ノ曲輪と広がっています。台地上、ほぼ平坦な土地ですが、段切りにより区画されています。写真は、三ノ曲輪(西桜陣)。畑には土師器片が落ちていました。

 三ノ曲輪東方、「東桜陣」。林の中、左に城の東の谷津にむかって斜面がつづきますが、土塁がのびます。左側下のところに虎口があったらしいですが、どこがそうか、現状ではよくわかりません。
 北東、谷津につきだしてのびる土塁(写真左)。虎口はどこかと頭をひねる。
 (かつての)谷津につきでてのびる土塁の続き。ぐるっと谷津を北西方向にまわり、最北端、丸山に出ます。谷津はすでにほとんど住宅街になりつつありますが、途中、腰曲輪状の地形がありました。
 台地北の先端部、字丸山。ここが国府台城の城域の最北端らしい。かつて直径15m、高さ2mの丸山古墳があったそうですが、今は住宅地になっているようです。南にもどります。
  四ノ曲輪、北端の櫓台

 天満宮にて午前の部、終了。自動車で松戸に向かい、昼食後、高城氏の居城、根木内城、大谷口城(小金城)へと向かいます。

 解説をしてくださった先生、ありがとうございました。

 国府台周辺は、たいへん歴史的環境に恵まれた地域であることを痛感しました。しかも都心に近いわりによく残っています。宅地化はどんどん進行するでしょうが、ただ調査してつぶすのでなく、恵まれた遺産を活かすようなまちづくりをしてほしいものです。

 

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