国府台オフ参加報告(2)

根木内城・大谷口城(小金城)遠征記

【日 時】 2001年4月1日(日)10:00-16:30
 高城氏は千葉家の家老原氏の家臣であったが、原氏と争い、一時、紀伊の熊野に移ったという。永承3年(1506年)に帰国。栗ヶ沢城に拠点を築いたが、ついで根木内城を築城し、これに拠った。高城胤吉は、享禄3年(1530年)、大谷口に新城築城を決意、工事を開始し、天文6年(1537年)に完成。大谷口城(小金城)に移った。
【コース】 
(午前)国府台城跡

(京成国府台駅→市川城?→)里見公園入り口(集合場所)→総寧寺→里見公園→つじ切り→天満宮→三ノ曲輪→北東の土塁→谷津→丸山→四ノ曲輪→天満宮

(午後)根木内城→大谷口城(小金城)

   

2.根木内城

 水戸街道わき、南西より見た根木内(ねぎうち)城
 大手口に設けられた標柱。こういう標柱を設置しているだけでも、松戸市教育委員会はたいしたものです。それにくらべると、某政令指定都市は・・・・写真左は深い空堀なのですが、藪で写真ではわかりませんね。
 大手口の堀をわたす土橋。両脇は空堀。
 土塁上から空堀をのぞく。かなり深いです。
 内側からみた大手口の虎口。手前に土塁。その向こう側は空堀。
 大手口入ってすぐの曲輪の奥の土塁。二重土塁になっており、間が空堀になっています。このむこうに段切りで区画した曲輪があります。
  内部の曲輪を仕切る土塁、東の谷に面した部分。  
 堀底を行く。

 

交差点わき。南西端。何んらかの遺構のようだが、不明。

 交差点より北方向を見た根木内城の景観。本来、左側の台地と一体だったのだが、道路でまっぷたつにされたのです。左側の台地上は、住宅地になっているようです。惜しいことです。しかし一部とはいえ、のこってい瑠部分はすばらしい。高城氏勃興の拠点であり、松戸のシンボルとなりうる城跡です。それに緑地としても、地域住民の福利に役立ちます。よろしく史跡公園として保存整備すべきでしょう。

 

 

3.大谷口城(小金城)

 大谷口城は巨大な城です。かなりの部分住宅地となっていますが、全体のおおよその地形はのこっており、また一部史跡公園として保存されています。写真は史跡公園内の「障子堀」。

 史跡公園上の曲輪。左右に土塁が走ります。
 史跡公園内の曲輪に設置された説明版。
 畝堀。北条氏特有の技巧的な堀です。つるつるすべって移動しにくいのです。
 金杉口、虎口の門柱跡。手前は腰曲輪状に造成した部分です。虎口を構成する土塁があったのではないか、柵を設けたのではないか、ここからどのように上の曲輪に行くのだろう、などと議論しているところです。
 大勝院下の様子。斜面はけっこう急です。 

  達磨口。回転橋があり、昼は架け、夜は外していた、との伝承があるそうですが、どこにあったのか、よくわかりませんでした。

「番場」と「外番場」の間を区切る空堀跡
 大勝院。何か城の遺構が残っているのではないか、と期待したのですが、墓地の西端に土塁と空堀の痕跡をみつけただけでした。しかしもっとよく見ればほかにあるかもしれません。
 大手道を通って北小金駅に向かう途中、畑の中に真っ白く貝殻が散らばっていました。標柱が立っており、それによると、達磨遺跡。縄文早期の貝塚だそうです。

 大谷口城は、予想外にたいへん大きな城でした。北条氏の大軍を駐屯させるための空間を確保する必要から大きな城となったと想像します。住宅街になっているところもふくめ、全体をもう一度じっくり歩きたいところです。さらに発見がありそうです。

 幹事のみなさん、ありがとうございました。

(参考文献)

芝山町教育委員会、芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会『房総の古墳を歩く』1998年。

千野原靖方「国府台城跡調査報告」『中世房総』6号、1992年。

たかしpart3氏作成資料

鳥羽正雄「第三章 城郭史からみた大谷口城」。

 

 

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