遺跡めぐり----加曽利貝塚と坂月川周辺を歩きましょう

【コース】 
加曽利貝塚博物館前→加曽利北貝塚加曽利貝塚南貝塚→坂月川フラワーロード→滑橋貝塚→広ヶ作貝塚(小倉)小倉市民の森(滑橋貝塚)→京願台遺跡→加曽利貝塚・代官屋敷(昼食)→古山遺跡→若郷遺跡(加曽利病院)→加曽利貝塚(解散)

● マップ(概念図)  
1/25,000地形図:千葉東部(南西) 国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定をよんで見ましょう。たいへんよい地図なのですが、閲覧以外の利用はできません。「大椎町」の文字の上の台地が大椎城。 

   

2.滑橋貝塚・広ヶ作貝塚・古山遺跡

 滑橋(なめりばし)貝塚(→大型貝塚リスト)の東側、柳沢遺跡との間に挟まれた谷を通る道から滑橋貝塚(小倉市民の森とそれに連続する森林付近)を見上げます。千葉市の指定史跡で、中期後半〜後期前半の貝塚です。加曽利貝塚から見ると、北北東、坂月川・古山支谷を挟む対岸に位置します。
 上の写真の斜面、道路から人の背丈ほどの高さ、1.5〜2mくらいのところに貝殻が落ちています。貝層の本体はもう少し上に方にあるようです。環状に並ぶ貝層のうちの東の部分にあたります。
 住宅街の坂道を上り滑橋貝塚・広ヶ作貝塚のある台地の上に向かいます。テニスクラブの前を通って、小倉市民の森の入口に出ました。この付近は滑橋貝塚の北側部分にあたります。遺跡の相当部分がこの森の中にあります。
 樹木の中を南に進むと、滑橋貝塚の貝殻散布状況を見ることができます。台地上、北、東、西と少なくとも3つの大きな貝層が環状に並んでいます。南側の台地先端近くは、土取により、削られてしまっており、どうなっていたか、不明です。

 藪になっているため、 多人数の今回はアプローチを断念しました。右写真は西側の貝層上の地表を、別の日に撮ったものです。積み重なった落ち葉をかき分けると、貝殻が顔を出します。

  小倉市民の森の、道路を隔てた北東側には広ヶ作遺跡(広ヶ作貝塚)があります。左の写真の道路の右側が小倉市民の森=滑橋貝塚、左側が広ヶ作貝塚です。写真は北から南を向いて撮影したものです。
 広ヶ作貝塚は、加曽利E4と少し後の時代、縄文中期の終わり頃(およそ4000年前)を中心とする遺跡です。ちょうど加曽利北貝塚から南貝塚へと移行する時期の遺跡です。宅地開発に伴う事前調査で、7軒の縄文時代の住居跡が検出されいます。それぞれの住居跡に貝殻が廃棄されていました。いわゆる点在貝塚です。写真はかつての調査地です。縄文人の集落が今、現代人の集落になっています。

 注目されるのは、発掘された7軒のうちの1軒からヤマトシジミの貝殻がまとまって出ていることです。ヤマトシジミは、川から海に出る手前、海水と淡水がいりまじったところ(汽水)で採れる貝です。加曽利貝塚の貝層中ではまだ確認されていない貝種です。これは何を意味するでしょうか?単にその住居の住人が変わり者だったということでしょうか?

 市民の森の中を通り抜けて、古山支谷の最奥部、坂月川の源流付近に降ります。加曽利貝塚は、広ヶ作貝塚や滑橋貝塚など周辺の集落に住む縄文人が結集する共通の聖地であったろう、という話が、案内役の先生よりありました。
 途中、土地が削りとられて、縄文土器片が顔を出しているところがありました。たしかに市民の森の下に遺跡(滑橋貝塚)があります。左の写真は、広ヶ作貝塚と同じ頃の加曽利E4式縄文中期終わり頃またはそれより少し後の時期の土器片です。画像をクリックすると拡大画像が出ます(大きなファイル)。
  上の土器よりやや古い加曽利E2-3式の土器片もいくつか落ちていました。画像をクリックすると拡大画像が出ます(大きなファイル)
 京願台遺跡の下を通り坂月川沿いに加曽利貝塚公園にもどりました。正午をすぎましたので、いちおう解散としました。

 右の写真は昼食をとった加曽利貝塚公園内に保存された代官屋敷の裏です。ここと代官屋敷の向こう側、2ヶ所に縄文時代の大型住居跡が発見されています。祭祀か何かを行った特殊遺構と推測されています。

 大型住居跡の近くではこんな方々が待っていてくれました。ご感想は?・・・・

どこかの本物の土偶の複製でしょうか?土器づくりの会のどなたかの創作でしょうか?

 そのお姿は!どうなすった?
 有志は、昼食をでとった後、加曽利貝塚の南に位置する古山遺跡へ向けて出発しました。

 加曽利南貝塚の南に古山支谷から入り込んだ小さな谷があり、現在、水田になっています。そこは縄文人の貯木場ではなかったか、という話がありました。写真左手前がその水田、向こう側の斜面の上が加曽利南貝塚です。写真には映っていませんが、右側、向こうから手前方向に坂月川が流れます。

 加曽利貝塚の南、谷を隔てた対岸の台地が古山(ふるやま)遺跡です。縄文早期から古墳時代にかけての遺跡です。場所は、加曽利町の「ほおじろ台」という住宅地の付近にあたります。
 右の写真は、遺跡の跡(?)。1988年頃、開発のため森林が伐採され、事前発掘調査が行われたものの、なぜか長いことそのままになっています。(後記1 2002年3月10日平成13年度千葉市遺跡発表会で、この場所から冑の一部が出土した、等の重要な報告がありました。)

 若郷(わかごう)遺跡は、古山遺跡のさらに南、加曽利病院付近にあたります。古墳時代を中心とした遺跡です。

 古山遺跡は、かなり広い範囲がまだ森林として良好な状態で残っています。千葉市は、ここを加曽利貝塚を中心とする「縄文の森」の南部分として整備保存する方針と聞きます。市民の里山とすればいい、という案も出ました。
 森林と住宅地の間に開かれた畑を注意深く観察すると、小さい土器片が見つかります。古墳時代や平安時代の土師器のかけらでした。右の写真は、平安時代の土師器片です。
 加曽利貝塚公園に帰り、質疑応答。解散しました。案内役の先生、参加者の皆さん、あいにくの曇天で、寒い中、おつかれ様でした。

 我々は、近年の方々の派手な発掘成果に目を奪われがちですが、発掘という美名の遺跡破壊を極力避け、将来世代への遺産として保存する、という加曽利貝塚関係者の基本方針は、世界的な遺産にふさわしい誇るべき方針といえましょう。このような基本思想がさらに市内のほかの重要遺跡にも活かされることを大いに期待します。

yygucciさん提供の写真を一部使用させてもらいました。ここに感謝の意を表するものです。

 

(訂正) 

 当ページの古山遺跡に関する記事で「調査報告書が発行されていない」旨、記載しましたが、報告書は発行されていました。(千葉市文化財調査協会編『千葉市古山遺跡[加曽利町]』1990年。千葉市の図書館では若葉図書館が1冊所蔵している。)。取材元に勘違いがあったようです。お詫びして訂正します。訂正する機会を与えてくれた筑波石さんに感謝する次第です。

 

 

 
加曽利貝塚については、以下のサイトもご覧ください。
「貝塚町の貝塚」 「千葉市の貝塚」 「総務の部屋」

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