8月の遺跡めぐり  仁戸名・月ノ木貝塚周辺を歩いてみよう

【コース】 
へたの台古墳群跡へたの台砦作山古墳群

へたの台貝塚道免貝塚月ノ木貝塚月ノ木砦

● 番外編(聖人塚古墳、仁守寺、千手院)

● 月ノ木貝塚周辺遺跡マップ(大きいファイルです。約500k)

3.へたの台貝塚(&へたの台砦)

  仁戸名小学校は、支川都川(仁戸名川)(北)にむかって突き出た南北に細長い舌状台地(へたの台)の上(基部寄り)に位置します。縄文時代中期・後期(約5000〜4000年前)の大貝塚、へたの台貝塚(→へたの台貝塚資料)は、その同じ台地の先端部東側にあります。

 なおこの台地は全体が中世の城郭でもありました(へたの台砦)。宅地化が進んでいますが、この東縁、先端付近にも、腰曲輪だったのではないか、と思わせる地形が残っています。(写真yygucci氏)

 台地東縁につくられた細い小道(腰曲輪の跡?)の際です。細かい貝殻のかけらが見られます。ところどころに小さい土器片もまじっています。最近の調査によると、へたの台貝塚は、ちょうど月ノ木貝塚の方向(北東)に開いた馬蹄形(コの字)をなす、3つの大きな貝層の固まりからなるようですが、ここは、その馬蹄形の奥(コの字の縦棒部分)を形成する東縁に沿う貝層のすぐそばにあたります。
 台地上の畑、中央付近から南西(台地基部の方向)を見る。畑の上に白っぽくみえるのは、貝殻です。南西側の貝層(コの字の下の横棒部分)の端の上に立っている位置関係になります。 

 前方(南西)に見える鉄筋の白い建物は、仁戸名小学校(へたの台古墳群跡)です。約200mほどの距離になります。左端、わずかに見える山影は、作山古墳群のある作山です。

 北東(先端方向)を見る。写真では、地表の貝殻の散布がはっきりしませんが、手前の地下では、3つの大きな貝層の固まりうちの、南西の貝層が横切っています(コの字の下の横棒部分)。画面上、その先に馬蹄形の中空の部分。さらにその先の台地先端部に、もうひとつの北の貝層が横切り(コの字の上の横棒部分)、右、画面の外に、東縁の貝層(コの字の縦棒部分)。全体として、馬蹄形は左(北西)の方向に開くという貝層分布になります。なぜこのような分布をしているのか?貝塚研究の根本問題です。
 台地の先端部東側に進みました。3つの貝層のうちの北の貝層(コの字の上の横棒部分)の上です。前方には、支流都川仁戸名川)の開析する仁戸名支谷が開けています。縄文人をはじめここで生活してきた各時代の人々にとって、非常に大切な川であり、低地です。かなたの山並みは、支川都川の対岸、大宮町の台地(大宮台地、別名千城台地)です。(写真yygucci氏)
 北の貝層(台地先端北東縁付近)の地表の様子です。夥しい貝殻!園生貝塚研究会によると、へたの台貝塚の貝層は、緻密なことで知られた月ノ木貝塚の貝層にまさるとも劣らず緻密で、ボーリングステッキが突き刺さらないほどだそうです。 

 へたの台貝塚(貝層部分)の発掘調査はこれまで行われていません。貝層部分そのものではないですが、台地の先端部西縁辺付近では市道整備や宅地開発が進んでおり、一部、開発に伴う事前調査がおこなわれています。西縁辺では、縄文時代の遺構よりも、古墳時代の住居址、そのほか平安時代、中世、近世の遺構の方が主であるようです。

 支川都川(距離、約300m)、仁戸名支谷を眺める(写真yygucci氏)。へたの台貝塚の人たちも、ここから、支川都川を通行して、漁に出かけ、あるいは漁から帰ってくる家族や仲間の姿を見守っていたことでしょう。対岸の大宮台地(距離、約600m)にも城之腰西屋敷東屋敷城山栄福寺等々、縄文時代の遺跡があります。ここから何らかの方法(狼煙?旗振り?太鼓?大声?)を使って対岸の集落と連絡をとりあっていたかもしれません。
 時代をくだって中世になると、対岸の大宮台地(千城台地)の、こちらに突き出た舌状台地にはすべてといってよいほど、城郭が築かれました。「千城」の地名の由来にもなったといいます。このへたの台砦(仁戸名館)も、西隣の月ノ木砦も、それらの大宮台地の城郭群といっしょに、支川都川(仁戸名川)流域の防衛網をつくっていたのだ、とする見解があります。縄文人たちとは些か異なった関心からですが、中世の侍たちも、この場所に立って、仁戸名支谷の様子を眺め、対岸の城兵と連絡をとりあっていたかもしれません。なお最近まで、台地最北西端、離れ島のように突き出た地点に、虎口(城郭の出口)の一種である枡形(ますがた)の遺構が残っていました。(写真yygucci氏)
   仁戸名小学校に近づくと、畑には、貝殻がほとんどありませんが、気をつけてみると、道路わきのところどころで、縄文土器の小さいかけらが畑からこぼれ落ちています。
 路傍の土器片。わずか2,3cmのかけらですが、数千年前に生きた人間の痕跡がたしかにあります。

 仁戸名小学校の北西の台地のくびれ部分から、月ノ木貝塚との間にある西側の谷(かつての仁戸名谷津、今は住宅街)に降りて、そこから北へ進みましょう。縄文人たちもこの道を通って漁に出かけていたのかもしれません。めざすは、支川都川とそのほとりの遺跡(船着き場?)、道免(どうめん)貝塚です。

 

ヤ2.作山古墳群へもどる   4.道免貝塚へすすむモ

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