8月の遺跡めぐり  仁戸名・月ノ木貝塚周辺を歩いてみよう

【コース】 
へたの台古墳群跡へたの台砦作山古墳群へたの台貝塚

道免貝塚月ノ木貝塚月ノ木砦

● 番外編(聖人塚古墳、仁守寺、千手院)

● 月ノ木貝塚周辺遺跡マップ(大きいファイルです。約500k)

4. 道免貝塚(どうめんかいづか)

 城の出入り口、枡形(ますがた)のあったへたの台北西の突出部分。跡形もなく削平されて、資材置き場に変わっていました(調査は行われなかった模様)。画面の向こうに立ち並ぶ住宅街は、かつての仁戸名谷津月ノ木貝塚へたの台貝塚との間にある細長い谷です。両貝塚の関係を究明するうえで、重要な谷ですが、未調査です。住宅街の地下深くには、縄文人が食用としたドングリの晒し施設水場の遺構が眠っている可能性が大いにあります。古墳時代の水田跡も見つかるかもしれません。谷津の奥には、最近まで池があったそうです。住宅街の背後の緑は月ノ木貝塚月ノ木砦の台地です。
 仁戸名谷津から都川へと流れるかつての小川(現在、ドブ川)。(yygucci氏撮影)
 支川都川仁戸名川)、新都川橋まで出ました。へたの台貝塚や月ノ木貝塚の人たちは、丸木舟でこの川を下って漁に出たと考えられます。縄文中・後期ころには、海岸線は県庁付近にあったようです。ここから4,5km下っていったことになります。ほかの集落の縄文人も同様で、川は、縄文人たちの交流の場でもあったでしょう。

 画面左上の台地は、仁戸名の対岸、大宮台地(千城台地)です。中世には、支川都川に面した舌状台地のほとんどに城郭が築かれました(画面中央付近が、大宮町城山城址。江戸時代には、流域の村々がこの川の水利権をめぐって争い、話し合いをもったという記録がのこっています。それだけ川が大切だった、といえましょう。

 支川都川の土手(フラワーロード)付近から月ノ木貝塚の方(南)を見る。中央の双子山のような台地上が月ノ木貝塚月ノ木砦です(距離約300m)。左端に少し見えるのが、へたの台貝塚へたの台砦の台地。手前の民家が2棟並んでいるあたりが、低地の貝塚、道免貝塚(道免遺跡)(縄文早期・中期・後期)です(約100m)。
 道免貝塚(→道免貝塚資料)。畑には少なくとも2ヶ所、貝殻散布がみられる場所があります。影ができている付近に白い点がチラチラしているのがわかるでしょうか?貝殻です。細かい土器片もよく見ると混じっています。現在、暗渠になっていますが、画面左上の畑の境界際に、支川都川に平行するようにその支流の小川が流れています。

 この場所は、へたの台貝塚月ノ木貝塚の人たちの船着場、水辺の作業場、さらに周辺の村々との交流の場であったかもしれません。

 畑わきの道路端にこんな土器片(約6×4cm)が落ちていました。つまらない土器片だと思いますか?月ノ木貝塚よりもはるかに古い縄文早期後半茅山式(かやましき)土器のかけらでした。およそ7000年前のものです。よくみてください。平行線の文様がついています。条痕文(じょうこんもん)という文様です。ハイガイのような貝殻をこすってつけた文様です。また繊維が浮き出てきた痕があります。胎土に繊維を混ぜるのは、茅山式の特徴のひとつですが、土器制作の工程で乾かすときに浮き出てくるそうです。(→大きい画像でみる) 
 上の茅山式土器片の裏です。裏にも条痕文があります。ハイガイのものらしき痕も見えます。ハイガイは平均水温20度前後の浅海を好むなど、特殊な生息条件を必要とする暖海性の貝で、現在、東京湾にはいません。館山湾にわずかに存在するだけです。縄文早期後半(約7000年前)には、千葉市沿岸にたくさんいたようですが、前期(約6500年前)に急激に減少し、中期(約5000年前)に絶滅したらしいことがいろいろな貝塚の調査からわかっています。ころがっていた土器片ですが、地球規模の環境の変化という大いなる歴史を秘めています。

 このほか月ノ木貝塚・へたの台貝塚と時期が重なる加曽利E式という縄文中期の土器片もころがっていました。

 月ノ木貝塚西側の道路を上って、月ノ木貝塚の南端の入口へ向かいます。

ヤ3.へたの台貝塚へもどる  5.月ノ木貝塚へすすむモ

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