8月の遺跡めぐり  仁戸名・月ノ木貝塚周辺を歩いてみよう

【コース】 
へたの台古墳群跡へたの台砦作山古墳群

へたの台貝塚道免貝塚月ノ木貝塚・月ノ木砦

● 番外編(聖人塚古墳、八坂神社、仁守寺、千手院)

● 月ノ木貝塚周辺遺跡マップ(大きいファイルです。約500k)

5. 月ノ木貝塚

 道免貝塚南50mほどの地点からみた月ノ木貝塚・砦の台地北側。この台地は、支川都川にむかって突き出た舌状台地です。、巨大環状貝塚、月ノ木貝塚は、縄文中期から後期にかけて(およそ5000年〜4000年前)、この台地の先端部、東西150m,南北200mの範囲に形成されました (→月ノ木貝塚資料)。
 この台地は、中世には城郭として利用されました(月ノ木砦)。ここの小字名である「ツキノ」の「」は城のことだ(「宮城県」「茨城県」の城)といわれています。さらにいえば、「ツキ」とは「築き」かもしれません。以下まず、月ノ木貝塚の方から見ていきます。
月ノ木貝塚・砦台地西側の切り通しの崖断面。現代の道路建設で切り取られたか、あるいは中世、月ノ木砦が築かれたときに防衛のために切り取られたか?いずれにしろ、おかげで粘土層(常総粘土層)を観察できます。この粘土層は縄文人たちにとってたいへん重要なものでした。この粘土層こそ、飲み水となるわき水をたくわえ、また縄文土器の原材料となったからです。(yygucci氏撮影)
 国指定史跡の標柱の前で、思索にふける中学生?・・いや、みんなが遅いので待ちくたびれた中学生でした。月ノ木貝塚南端入口にて

なお標柱の後ろの地形は、やや不明瞭ですが、段状になっていて、写真左方向、台地西縁をまわります。月ノ木砦の腰曲輪の痕跡である可能性があります(右方向、南東縁には腰曲輪がよく残っています)。(写真yygucci氏撮影) 

 南の貝層上付近から北をみた写真です。加曽利貝塚や荒屋敷貝塚とちがって貝層部分の盛り上がりははっきりしませんが、中央部分の地表では貝殻はみあたらず、ぐるっと環状に貝殻が散布されています。
 環状貝塚については研究者の間でもいろいろ議論があります。一般に、“もともと舌状台地の中央部は、「先導谷」といってへこむ地形になりやすく、雨水がたまりやすいので、使用に適せず、縄文人たちは中央部を囲むように竪穴住居を建て、貝を廃棄していった。その結果、環状の貝塚が形成された”という説明があります。“大型環状貝塚は、干貝加工の工場であり、中央部分は作業場だった”という説もあります。“祭りのための広場だった”という説もあります。何でもない原っぱのようですが、貝塚は謎に満ちています。
 南側の縁は木陰になっており、草が少なく地表を観察できます。白いのが貝殻です(yygucci氏撮影)
 ここで月ノ木貝塚で実際に発掘された住居址と同じ大きさの見取り図をかいたビニールシートをひいて、住居やその中の生活についてyygucci氏の説明を聞きました。住居は、直径約5m、深さ約1mの竪穴式です。夏涼しく、冬暖かいのだそうです。1つの住居には5、6人が住んでいたことがわかっているので、月ノ木貝塚には、十数軒の住居があったとして、70〜80人の人が住んでいただろうとのことです。炉や屋根の話もありました。
 地表面でも貝殻がぎっちり。月ノ木貝塚の貝層は、専門の研究者が感嘆するほど、高密度です。
 これまでにおこなわれた月ノ木貝塚の発掘調査は、1951年の武田宗久氏による小発掘だけです。発掘地点は、送電線鉄塔の南東約30mほどの地点です。わずか10平方m程度の発掘でしたが、縄文中期(加曽利E)の竪穴住居4戸が検出されたほか、タカラ貝製装身具、アワビの貝殻をはめこんだ耳栓型貝飾りなどめずらしい遺物が出土しました。なかでも注目すべきは鯨の脊椎骨の出土です。加曽利貝塚博物館に展示してある鯨の骨を写した写真を見ながら、他の集落との協働による捕獲などいろいろなことを想像してみました。
 月ノ木貝塚の貝種は、全体として、小型ハマグリが主体で、キサゴは相対的に少なく、キサゴが多い荒屋敷貝塚などの都川右岸の貝塚と対照的です。村々のとりきめで環境の異なる漁場を分割していた可能性があります。
 研究者によると、ハマグリは、
小さい方がおいしいのだそうです。月ノ木貝塚でまれにみつかる大きいハマグリは、焼いた跡がある。大きいのは焼きハマにして食べるのが一番おいしいのだとか。
 千葉市の縄文時代の人は、栄養のバランスのいい食事をしていたようです。人骨のコラーゲンを分析すると、わかるのだそうです。貝塚からは、イノシシなどの動物の骨のほか、魚の骨も見つかります。1メートル位の大きな鯛も食べていた、
魚を干物にすることもしていたらしい、という話もでました。
 月ノ木貝塚の東側の谷(仁戸名谷津)の少し奥に入った段々畑のようなところに、栗林があります。

 も縄文人の食べ物のひとつです。各地の遺跡の調査で、縄文人たちは、単に自然に成った栗を採集していただけでなく、栽培していたらしいことがわかってきています。栽培していたところは、土を調べると、推定できるようです。月ノ木貝塚の人たちもこのように栗林をつくっていたのでしょうか?

ヤ4.道免貝塚へもどる  6.月ノ木砦へすすむむモ

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