東寺山年表
--千葉荘寺山郷と関東の動乱--

西暦
できごと
935年  平将門の乱、起こる。
10-11世紀  貝塚城(千葉市若葉区貝塚町)、築城か?(戦国時代にも利用?)
1020年  前上総介菅原孝標、いかた・くろとを通過(更級日記)。
1027年  平忠常の乱。大椎城[おおじ]城(緑区大椎町)は忠常の城か?(戦国時代の土気酒井氏の出城という説が最近は有力。)
1170年
 葭川[よしかわ]水源地(若葉区みつわ台5丁目、都賀の台付近)に、紅嶽(べにたけ)弁財天、創立.。千葉常胤が夢で弁財天を見たとの伝説。
1180年  8月、源頼朝、相模国石橋山の合戦で平家方に破れ、安房へ逃れる。
 9月、結城浜合戦。源頼朝が上総から下総に向かうと、千田荘(千葉県多古町)判官藤原親正、一千余騎を率いて出陣。千葉の堀込に押し寄せて、堀之内に放火。千葉常胤の孫、成胤が千葉館西下の結城浜(千葉市中央区寒川町付近)で防戦。
 9月20日、源頼朝、千葉神社に参詣。
1185年  千葉常胤、下総国守護となる(吾妻鏡)。
鎌倉中期  寺山郷「百姓橘重光」が「名主寺山殿」の非法を千葉氏に訴える(中山法華経寺所蔵「天台肝要文」紙背文書1号)。石井進氏は寺山殿の居館 を動物公園付近と推定。★参照、石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」 『みすず』396号1994年20-28頁。
1334年  廿五里[つうへいじ]址、この年「建武元年」の紀年銘のある板碑がモノレール建設に伴う調査で出土[1983年]。14世紀前半には廿五里城址南縁の墓域が成立か?
1335年  1月、相馬親胤・千田胤貞、千葉館を攻撃。
1410年頃  寺山新兵衛入道、寺山五兵衛入道、木内五郎左衛門が寺山に所領、原越前入道が、長峯・ 高篠(高品)に所領、との記録。*原氏 は千葉氏の出であり、その重臣。実力において主家である千葉宗家を圧倒し、江戸時代に「千葉に原」ということわざができたほどだった。原氏の名字 は原村に由来するとの説がある。
1416年  上杉禅秀の乱。関東管領上杉禅秀(氏憲)、千葉兼胤ら鎌倉公方足利持氏に反する。
1438年  永享の乱。室町幕府、鎌倉公方足利持氏を 討伐。鎌倉公方対関東管領上杉(&室町将軍家) の対立。
1455年  3月、公方側の馬加康胤(馬加城主)と原胤房(臼井城主)が管領側千葉宗家の千葉城を攻撃。千葉介胤直、その子胤宣は、香取郡多古に逃げ、志摩城、多古城に拠るが、両城とも落城。以後千葉宗家は、馬加康胤の子、輔胤 の系統が継承。
 足利成氏、古河に拠り、古河公方となる。美濃の東常縁(千葉氏の一族)、幕命をうけて下総に下り、馬加城攻撃。康胤・胤房ら敗走。
1460-65年頃、  原胤親の子、光胤が下総国原村 に居住との記事(『千葉実録』)。
1469-86頃  千葉宗家、本佐倉城に本拠を移す。 北年貢道(千葉−臼井・本佐倉、主要地方道千葉佐倉印西線にほぼ該当)の意義増大。千葉庄は小弓の原氏の支配下に入った。
1505年  本佐倉城の千葉昌胤、高品(当時は高篠)から千葉妙見宮(千葉神社)に参詣。元服。
*本佐倉移転後も、千葉宗家は嫡男の元服を千葉妙見宮に参詣して行うことを例とした。この 際、高品(城)を一時的居所とした
1517年  古河公方足利高基と対立した弟、足利義明、 真里谷城主武田信康をたすけ、原胤隆の小弓城を攻略(小弓御所)。本佐倉の千葉氏に敵対。
1523年  足利義明のため、千葉利胤、千葉妙見宮で元服できず。
1538年  第一次国府台合戦。北条氏康・氏綱と里見 義堯・足利義明連合軍とが戦う。義明、敗死。原氏、小弓城に復帰。小弓城の北方1.5kに生実城を築城。
 ○ この頃より下総の大半は北条氏の傘下に入る。
16世紀中頃  高品城、築城(改築)。
1547年  千葉妙見遷宮。用材、東寺山で調達。
1555年  10月、上総小田喜城主、正木大膳亮時忠(里見方)、「千葉へ乱入、宿中放火」。
16世紀後半  高品城、大規模な改修・整備。
 廿五里城、南縁の墓域部分に土塁などの城郭施設を建設。
1560年  里見勢が、香取郡小見川富田台に着陣。本佐倉城主千葉胤富が「寺山城」(外山信司は廿五里城と推定) 在番の大須賀薩摩丸に出陣を要請。
 北条氏康、原らの軍勢を率い、久留里城を包囲。 里見義堯、長尾景虎(上杉謙信)に救援要請。
1561年  長尾景虎(上杉謙信)、北条氏の小田原城を包囲。里見・正木勢、原氏の臼井城・生実城を陥落させる。
1564年 第二次国府台合戦。里見義弘敗走。原氏、生実城に復帰。
1565年  9月18日、正木時忠、府馬、森山勢三千を率い、木内右馬介の守る米野井城(蛇蜂城)を包囲。20日突入。「木内式部太郎胤倫は、血路を開いて寺山城(千葉市東寺山または西寺山)にのがれた。」千葉胤富、大須賀氏、円城寺氏に反撃を指令。木内胤統、大須賀尾張守とともに、富田台(小見川富田)に出陣、府馬、森山勢と戦う。「府馬、森山勢は敗走した。正木勢は、米野井城を捨てて、房州へ逃れた。しかし、城は焼かれていたので、胤統は千葉の寺山城に移った。」(勝又清和「千葉家の北条派、反北条派の葛藤」、房総歴史文学会編『戦国の房総を語る』1985年暁印書店75-6頁。*いかなる資料に依拠しているか、不明。)
1566年  上杉謙信、原胤貞の臼井城を包囲。里見勢北進。この頃、[わらび](四街道市和良比)は里見方の中継基地として機能していた。
1569年  里見勢が「臼井筋の郷村」(高品、原、東寺山?)に放火。里見方、生実城近くに城を築城。
1570年  6月、生実城落城。原胤栄、生実城を捨て、以後、臼井城を本拠とする。
1571年  安藤勘解由(高品城在番の千葉家直臣か) が高品等覚寺薬師如来像を造立。
 11月、里見義弘が小弓を占領。千葉胤富の軍と合戦。嫡男邦胤、千葉妙見宮で元服できず。
1576年  織田信長、安土城築城。
1577年  北条氏、上総に侵入。酒井氏、北条につく。
1590年  豊臣秀吉、北条氏を滅ぼす。別働隊により、 房総の北条方の諸城も落城。
 徳川家康、江戸城に入部。房総に家臣を配置。
1613年  12月、佐倉藩主土井利勝が東金御成街道を三日三晩で造成させる。原村、高品村、貝塚村などが道普請を負担。
1632年  東寺山村の一部、旗本中山勘解由の知行地となる。
1664年  原村、佐倉藩主松平乗久の領知となる。のち旗本一色家の知行所となる。

    
(参考資料)

「中世の城跡」『市民フォト千葉』No.103 98夏,1-9頁、千葉市総務局市長公室広報課編集発行1998年。
「千学集」『改訂 房総叢書 第二輯 史伝(1)(2)』1959年
『千葉県の地名』平凡社1996年
石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」『みすず』396号1994年20-28頁。
笹生衛「廿五里城跡」笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年446-453頁。
白井千万子「幻の高品城」『房総路』35号31-32頁1996年、「房総路」を学ぶ会事務局
武田宗久解説「千葉市の散歩道シリ−ズ20 都賀の台・みつわ台・高品周辺」
千葉県教育庁生涯学習部文化課編『千葉県歴史の道調査報告書17 佐倉道』千葉県教育委員会1991年
千葉市史編纂委員会『千葉市史 資料編1 原始古代中世』1976年千葉市
千葉市史編纂委員会『千葉市史 8巻』千葉市。
飛田正美「廿五里遺跡」『平成9年度千葉市遺跡発表会要旨』千葉市文化財調査協会1998年
谷村美鈴「高品マップ」次山信男指導『郷土史のしらべ方時点10 郷土を記録しよう』ポプラ社1992年32頁。[谷村さんは院内小学校の小学生]
外山信司「下総高品城と陸上交通」『千葉城郭研究』4号1996年27-46頁。
「廿五里城跡」『千葉都市モノレ−ル関係埋蔵文化財発掘調査報告書』千葉県文化財センタ−1986年。
中山法華経寺所蔵「天台肝要文」紙背文書1号。石井進『中世を読み解く 古文書入門』東京大学出版会1990年76-87頁。
簗瀬裕一「高品城跡」笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年。
簗瀬裕一ほか『千葉市高品城跡I』千葉市文化財調査協会、1997年。

2000年8月27日更新

5月の遺跡めぐりへ

トップへ