●小幡廃寺(仮称-小幡西新廃寺・小幡花ノ木廃寺)


538年
587年
594年
607年
645年

646年
685年

741年

743年
飛鳥文化
仏教伝来(日本書紀を基とした552年説も有力)
蘇我氏が物部氏(守屋)を滅ぼす
仏教興隆の詔:造寺が盛んになる
法隆寺創建
仏教興隆の詔
白鳳文化
大化の改新 薄葬令:古墳造営が規制され巨大古墳が消滅す

家毎に仏教
礼拝の詔
天平文化
国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)の
建立の詔(738年説有り)
盧舎那仏(東大寺大仏)造立の詔
●大化の改新・乙巳の変(いっしのへん)
中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣(藤原)鎌足らが蘇我入鹿を殺害、蝦夷を
自害に追い込み蘇我氏本家を滅ぼし(乙巳の変)、その後中大兄皇子らが断
行した天皇を中心とした中央集権的国家を目指した政治改革。

日本書紀によれば欽明天皇13(552)年、百済の聖明王より仏像、経典が日本に献じられた(上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起では538年伝来とされ、この年を仏教公伝年としている)。当時国家祭祀を司っていた物部、中臣氏に対し渡来系氏族と深い関わりを持つ蘇我氏はこの新しい文化を取り入れようと対立し、そして排仏派物部、中臣氏を破り崇仏派蘇我氏が勝利し仏教は国家仏教となった。
天平13(741)年、政争を逃れ仏教に深く帰依していた聖武天皇は国毎に僧寺、尼寺各一寺を創建させ、悪疫の流行や政治的不安を取り除き人民、国家の安寧を願った。これにより全国に官営寺院の建設が始り、これを国分寺(金光明四天王護国之寺)、国分尼寺(法華滅罪之寺)と言い、今でも全国に地名または遺跡として国分寺、法花(華)寺などが残される事となった。




1.浄土院 2.守山瓢箪山古墳 3.小幡南島古墳 4、小幡(小林)古墳
1.瓢箪山駅(名古屋鉄道瀬戸線) 2.小幡駅(同)


小幡地区での古瓦出土記録は古くからあり、寛政8(1796)年好古家瓦礫舎が編纂した『古瓦譜(全三冊)』に「尾陽春日井郡 大永寺瓦ニ泰之銘アリ」と軒丸瓦、平瓦など文字が刻まれた瓦を含め3枚の拓影が掲載され、昭和17年、沼波量平氏は『尾張の遺跡と遺物』誌上で「小幡廃寺址出土瓦」と題し守山中学校西、浄土院先々代住職澤田哲龍氏が大正14(1925)年に採取した古瓦を紹介、他にも守山廃寺として紹介されたものもある。
昭和17年、郷土研究会にて上記小幡廃寺址出土瓦を見た水野盈氏は名鉄瀬戸線瓢箪山駅付近の畑の脇にがれきと共に古瓦片がうずたかく積み上げられているのを発見。
昭和51年、当時守山東中学校郷土クラブ1年桑原康人君は小幡花ノ木自宅裏の畑で掘り起こされ捨てられていた古瓦の山を見つけ採取。この古瓦はやがて日本考古学協会七原惠史氏に届けられ、ヘラ書き文字があるなど貴重な物と判明東海考古学研究会により1984、1985、1987年と三次にわたり同所の発掘調査が行われた。

●位置
『古瓦譜』に記載された大永寺瓦、創建時大永寺は小幡地区に建立されていた事からこの様に記されたと思われ、この古瓦はその後小幡花ノ木出土も物と考えられる。
また浄土院先々代住職澤田哲龍氏が採取した古瓦は拓影から小幡西新出土の物とされ、他の小幡廃寺、守山廃寺出土とされる古瓦も小幡西新、小幡花ノ木両出土地の物と思われ、廃寺はこの二ヶ所(上記地図参照)とほぼ確定される。しかし小幡西新より北へ750mほどにある上記の浄土院に於いても昭和38年、同寺院改築中に古瓦の出土があり、西新・花ノ木と何らかの関連も考えられる。


●遺物と時代
小幡西新廃寺跡
素弁八葉蓮華文軒丸瓦、重格子文・重弧文軒平瓦、丸瓦、平瓦、須恵器片。
小幡花ノ木廃寺跡
丸瓦、平瓦、須恵器片、高坏、坏、甑、甕、台脚、鉄片など。遺構として井戸跡(地表-径4.2m、底部径1m、深さ2m)、瓦溜、溝、土こう。
古瓦にはヘラで刻まれた文字瓦が34例あり、「加・子・石・山・寺・川・泰」などあり、これを中世この辺りを支配した山田郡の郡・郷名と照らし合わせ、−加世郷(現尾張旭市印場)、−石作郷(現愛知郡長久手町石作)、−瀬戸市山口町、−守山区泰江郷とされるが推定の域を出ない。又「泰」においては「奉」との説もあるが、とした場合渡来系士族「秦氏」と当地との関係にも言及出来るという。(下図『古瓦譜』拓影、赤丸部分)
時代に於いては遺物などから小幡西新廃寺は8世紀第1四半期から第2四半期、小幡花ノ木廃寺はそれよりやや新しく8世紀中・後葉と考えられている。


●名称
守山廃寺、小幡廃寺、小幡西新廃寺、小幡花ノ木廃寺など研究者により様々に呼ばれ、最初に古瓦の存在が確認された西新地区を小幡廃寺、その後存在が明らかになった花ノ木地区を小幡花ノ木とする説もあり、また全てを含め小幡廃寺と呼ぶ場合もある。

参考文献:小幡廃寺 第三次調査報告 1987東海考古学研究会


両廃寺は距離にして1km余、時期的にやや隔たりがあり礎石、基壇など現状発掘されていないが軒丸瓦の文様や造瓦法、「寺」の文字瓦など他の廃寺出土物と同様の事から寺院があった事は動かしがたいが、小幡花ノ木出土の奈良時代須恵器と同様の須恵器が守山台地の南縁に沿って東方の尾張旭市方面に点々と出土している事から小幡花ノ木では中世山田郡の建物群があったのではないかとも考えられる。
古墳時代、守山で多くの古墳を造った人々、その中で守山、小幡、大森地区の集団はその後も衰退することなく勢力を維持しやがて8世紀これらの寺院・建物群を造っていった事も想像される。




写真上左 西新(小幡西新廃寺) ヤトウ病院北、古瓦散布地
写真上中 西新(小幡西新廃寺) ヤトウ病院東、古瓦散布地、他に2ヶ所あり
写真上右 小幡南1(旧花ノ木地区-花ノ木廃寺) グランドメゾン小幡発掘地付近
写真下左 西新(小幡西新廃寺)で採集された「素弁八葉蓮華文軒丸瓦」「重格子文軒平瓦」

※素弁(単弁)八葉蓮華文軒丸瓦
飛鳥寺創建時の瓦の文様系統を受け継ぐ瓦で、百済の古い寺院からの出土瓦と文様が似ており「百済系」古瓦と言われる




勝川廃寺 (愛知県春日井市)

春日井市勝川町5〜4丁目辺りでは古くから布目瓦が採取され地元では醍醐寺跡と呼ばれていたが昭和55〜58(1980〜1983)年、6次にわたる発掘調査により「寺」の文字が記された文字瓦が発掘され寺の存在を確認勝川廃寺と命名された。
一帯は弥生時代の方形周溝墓をはじめ全長95mの味美二子山古墳を含む味美(あじよし)古墳群、勝川古墳群で唯一現存する愛宕神社古墳などあり、これらの人々が発展し奈良〜平安時代に古代寺院を建設したと思われる。

このことは大森、小幡、守山地区に古墳群を作った人々が小幡地区に寺院を建設した図式と同様と思われ、また庄内川を挟み直線距離で4km弱、何らかの交流または対立の存在も考えられる。
写真 東名阪自動車道と城北線の高架下、上屋敷公園内の案内板。当時の寺域は発掘調査などからこの辺りから東と南に150mほどの区域であったと推定されている。


尾張国分寺・国分尼寺 (愛知県稲沢市)

●発掘された国分寺


尾張国分寺跡は現国分寺より南へ1km弱。稲沢市矢合地区の植木畑の中にあり、聖武天皇の詔勅より8年後の天平勝宝元(749)年「続日本紀」に米などの献上記載があり詔勅後早い時期に創建されたものと思われる。しかし元慶8(886)年焼失、低湿地の同地での再建を断念し「日本紀略」によれば愛智郡にその後願興寺を建立した(現名古屋市中区正木四、元興寺)。寺院は比較的短期間に姿を消しその政治的機能は国府(国衙)に移されたと思われる。昭和36年の発掘調査、平成3年隣接する堀之内花の木遺跡の発掘によれば金堂跡、塔跡など基壇部分が発掘され、おおよその伽藍配置など判明したもののその跡はほぼ全域が苗木畑などの為全容解明には至らなかった。現在国分寺跡遺跡は苗木畑の中、農道の先の雑木林に囲まれた畑に大正4年明治村(現稲沢市)有志により建てられた石碑と4個の礎石が点在するのみ。
写真左 石碑と点在する礎石 
写真右 中央の大きな礎石は塔心用か中央が円形に突出しています。
    (愛知県稲沢市矢合町一帯)
写真右 尾張国衙跡、松下公民館(稲沢市松下二)正面右手に石碑のみある。
※踊り念仏として市井に広く仏教を布教した平安時代の僧空也(くうや)上人(903〜972年)はここで得度したと伝えられている。また戦国時代、織田敏広がここに松下城(規模等不明、稲沢市松下一辺り)を築城し居城とした。


●鈴置山国分寺

矢合(やわせ)城の跡に建てられ、元は円興寺と言ったが、尾張国分寺跡から移築したといわれる国分寺堂が境内にあったことから明治19年国分寺名を継承し現寺号に改められた。
[所蔵] 国重要文化財
木造釈迦如来坐像二躯(鎌倉期) 
木造伝覚山和尚坐像(鎌倉期)
木造伝熱田大宮司夫妻坐像二躯(鎌倉期)
愛知県稲沢市矢合町城跡2490
矢合城の築城は定かではないが戦国時代、一色城主(稲沢市片原一色町)橋本伊賀守道一の弟大膳が早尾東城(愛知県愛西市早尾)より移り支城としましたが継嗣がなく廃城。その後追善のために一本松から円興寺が移され現国分寺となったと言う。

●大齢山法華寺(旧尾張国分尼寺)

寺伝によれば国分尼寺の後身といわれ、古くは谷椿寺・国鎮寺と言ったが明治時代に現在の寺号となった。
[所蔵] 国重要文化財
木造薬師如来坐像(平安期)
愛知県稲沢市法花寺町熊の山77