子爵1

李完鎔李埼鎔朴齊純高永喜趙重應閔丙奭李容稙金允植權重顯李夏榮李根澤


李完鎔

1873年〜?。本貫は全州。字は政構。
養父は贈徳安君載悳。実父は載經。
【官歴】
1893/10/23弘陵参奉
?/?/?睿陵参奉(〜1896/02/09)
1896/02/28光陵令
1896/11/23朔寧郡守(〜1897/06/06)
1897/06/06通津郡守(〜1898/08/16)
1897/10/08六品
1899/01/02侍講院侍従官
1899/03/01中和郡守(〜1900/04/12)
1900/01/28正三品
1900/04/13庇仁郡守
1900/05/14秘書丞(〜05/18)
1900/05/18奉常副提調
1900/12/08益山郡守
1900/12/25中枢院議官(〜1901/01/24)
1901/02/17内部会計局長
1901/02/27命侍従院分侍従(〜06/11)
1901/05/02江華府尹
1903/10/18中枢院議官(〜10/23)
1903/10/28従二品
1903/10/27宗正院卿(〜10/31)
1904/11/03同知敦寧院事(〜1905/03/02)
1905/03/23太僕司長(〜07/22)
1905/10/09水原郡守
1906/01/22嘉義大夫
1907/07/07奉常司提調(〜07/11)

日韓併合の際に子爵に叙爵された。

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李埼鎔

1889年〜?。本貫は全州。
父は贈完林君李載元。
【官歴】
1902/11/04隆陵参奉(〜11/07)
1905/01/21侍講院侍従官(〜02/14)
1910/08/27正三品

日韓併合の際に子爵の爵位と恩賜金3万円を与えられた。1945年4月に貴族院議員となった。

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朴齊純

1858(哲宗9)〜1916。朝鮮末期の文臣。本貫は潘南。号は平齋。京畿道龍仁出身。參政洪壽の子供である。
1883年(高宗20)別試文科に及第した後、統理交渉通商事務衙門主事兼畿沿海防軍司馬・駐箚天津從事官・弘文館副校理・司憲府掌令・同副承旨などを務めた。
1886年駐箚天津督理通商事務として清国に赴き、翌年帰国した後吏曹参議・成均館大司成・戸曹参議・刑曹参判・礼曹参判・仁川府使・漢城府尹などを務めた。
1893年戸曹参判在職時に東学徒らが斥倭洋倡義を唱えて報恩集会を開催するや、清国軍事の派兵問題を袁世凱と協議した。
1894年吏曹参判から長興府使に転任した後、全羅道観察使・忠清道観察使を務めた。忠清道観察使在職時には日本軍および京軍と連合し公州での東学農民軍討伐作戦に参与した。
1895年以後外部協弁・中枢院議官・外部大臣・陸軍参将・議政府賛政などを務めた。外部大臣在職時には間島行政管理権交渉そして慶興および義州の開放など外交問題を処理する一方、1899年朝清通商條約、1901年朝比修好通商條約、1902年朝白修好通商條約などを締結した。
1902年駐清全権公使に任命され赴任してから1904年帰国し、1905年には外部大臣として日本公使林権助と乙巳条約を締結することで韓国民から乙巳五賊の一人として糾弾された。
その後議政大臣になり1907年いわゆる李完用内閣が成立するときまで内閣を率いていった。李完用内閣の下でも内部大臣を歴任しながら、1909年李完用が狙撃されたのちには一時臨時内閣総理大臣署理を務めた。
1910年8月には内部大臣としていわゆる日韓併合条約に署名しながら、その後日本から子爵の爵位と恩賜金を受け、中枢院顧問を務めた。官職のほかに1908年頃には尹コ榮・閔泳綺などと共に教育振興と衛生の改善を目的とする観進坊会を組織し、その会長職を歴任し、儒林の権威者として遇されることもあった。書芸にも長けていた。

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高永喜

1849(憲宗15)〜1916/01/25。朝鮮末期の大臣・親日派政客。本貫は済州。鎭豊の子供である。
1866年(高宗3)副司勇になり、1876年江華島条約締結後、修信使一行として日本の文物制度を見聞した。帰国後、日本の発展した姿を知って、元山港が開港され通商港になると、事務官処理になり大きな手柄を立てた。
1881年紳士遊覧団の随行員として渡日した。
翌年日本公使花房義質の差備訳官になって、その後重用され、仁川租界画定の事務を担当した。続いて参議交渉通商事務・参議内務府事を歴任した。
1884年甲申政変以後左遷され、杆城・朔寧・高陽などの郡守職を務めた後辞職して一時閑居した。
1885年以後機器局幇弁を務めた。
1894年甲午改革に参与、内部参議・学務衙門参議・農商衙門協弁を務めた。
1895年駐日特命全権公使を経て1896年農商工部協弁・外部協弁になりながら、独立協会の発起人として参加した。
1899年漢城府判尹、1903年駐日特命全権公使・度支部協弁・中枢院賛議などを経て、1904年黄海道観察使、1905年帝室会計審査局長・経理院卿を経た。
1907年李完用内閣の度支部大臣として統監伊藤博文がハーグ特使事件を口実に高宗の譲位を強要するとき、積極的な反対活動をすることもした。
その後法部大臣、1909年内部大臣臨時署理・度支部大臣になった。勲章では李花大綬章および日本の勲章を受けた。
1910年日本の強制兵弾を賛成した日本の手先として日本から子爵の爵位と共に10万円の金を受けた。
その後、朝鮮総督府中枢院の顧問を歴任した。

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趙重應

1860(哲宗11)〜1919。韓末の文臣。本貫は楊州。初名は重協。ソウル出身。宅熙の子供である。
1866年(高宗3)家塾で修学した後1878年12月成均館中学東斎に入り館学儒生として2年間勉強した。
1880年殿講儒生として経書を進講しながら、初試に合格し殿上に昇進した。
1883年10月西北辺界調査委員に任命され、ロシア・満洲・外蒙古などの地を踏査した後、1885年に帰国した。帰国後成均館に戻り北防南開論を主張してから、弾劾を受けて、全羅道寶城に流配されてから、1890年特赦で解かれ、出てきて再び成均館に戻った。
1894年議政府詮考課主事になり普通文官試験委員として勤務した。この年義親王の随行員として日本に行ってきた後外務衙門の参議になった。
1895年4月外部交渉局長に補任されながら、同時に各港の居留地の調査・整理委員を兼任した。
その後仁川府使・金溝郡守(全羅)を順に除叙されたが赴任せず、8月には法部刑事局長になった。
この時法律調査改定委員に任命されることと同時に特別法院の判事になり法官としての職務を遂行した。
1898年金弘集内閣が崩壊するや職責を奪われて国事犯関係で日本に亡命した。そこで農業技術の実験と理論の両面で詳しく日本人技術者から伝授されて、政治と法律学を受講した後1906年8月特赦で帰国した。
1906年10月に統監府嘱託に任命され、農事問題を担当してから1907年5月親日李完用内閣の法部大臣に任命されながら、刑法改定総裁も歴任した。その年8月には勲二等太極章を受けながら、正二品資憲大夫に昇任した。
これより前には1906年11月には梁在蹇・李人稙・李海朝と共に最初の少年雑誌《少年韓半島》を創刊して文学運動を広げることもしながら、1909年には《法政新聞》を創刊し、1910年まで親日的なことを広げていった。
1908年5月農商工部大臣になって從一品崇政大夫と宮中警衛の監督職責も受け持った。
1910年8月李花大綬章を受けながら、日韓併合条約のとき条約に賛成し、開国七逆臣として糾弾を受けた。
1910年日本政府より子爵の爵位を受け、朝鮮総督府中枢院の顧問を務めた。

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閔丙奭

1858(哲宗9)〜1940。朝鮮末期の文臣・書道家。本貫は驪興。字は景召、号は詩南・毅齋。泳緯の孫で、敬植の子供である。
1880年(高宗 17) 文科に及第した後、1883年承旨、1884年参議軍国事務に登用された。
1884年の甲申政変以後都承旨として閔應植と相談、張殷奎を日本に密かに派遣し亡命中である金玉均を暗殺しようとしたが失敗した。
1886年から協弁内務府事・漢城府左尹・礼曹参判・育英公院弁理・江華留守などを務めた。
1889年平安道観察使に任命され、1894年まで平壌に滞在した。
この時當五銭を発行し趙秉世の弾劾を受けた。
1894年日清戦争中、大院君の密書を受け、清将と内通、日本勢力を放逐しようとしたが失敗して、1895年初め原州に流配された。
1895年閔氏戚族勢力の復活と共に赦免された後、軍部大臣・学部大臣・宮内府大臣・鉄道院総裁などの要職を務めた。官職外で大韓天一銀行・織造緞布株式会社・農業会社などの組織と経営に参与する一方、1905年と1909年2度にわたり日本を視察した。
1910年日韓併合以後、日本から子爵の爵位と恩賜金を受けて、李王職長官と中枢院議官を務めた。
民族抗日期には朝鮮人大地主の一人として権勢を振るい、書道家としても名をあげたのだが特に行書に長けていた。
作品では光化門にある高宗皇帝寶齡六旬御極四十年稱慶紀念碑と平安南道中和郡にある高句麗東明王陵碑がある。

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李容稙

1852(哲宗3)〜1932。朝鮮末期の文臣。本貫は韓山。字は稚萬、号は剛庵。司果承祖の子供で、乙巳条約のとき憤死した趙秉世の婿である。
1875年(高宗12)別試文科に乙科で及第し、説書・検閲・正言・応教を経て司諫・承旨を務めた後、1890年吏曹参議に昇進した。
1892年吏曹参判に続き大司成に補任されて、1894年内務協弁に転任してから松都(開城)留守についた。
翌年春川府使に転任してから1897年学部協弁の内職に転補されて、次の年参賛に昇任された。
1900年賛政を経て1902年秘書卿に補任されてから続いて黄海道観察使につきながら、翌年全羅北道観察使に転任された。
1904年と1909年学部大臣を歴任した。
1910年日韓併合後、日本政府から子爵の爵位を受けたが、1919年3・1運動のとき経学院(成均館の別称)副提学に在職しており大提学金允植と共に朝鮮独立請願事件で爵位を剥奪された。

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金允植

1835〜1922。享年88歳。韓末の文臣・学者。本貫清風。字洵卿。号雲養。ソウル出身。高宗11年(1874)文科に及第し81年領選使として清国天津に派遣されてから、翌年壬午軍乱が起こるや、清軍を引導して帰国、軍乱が平定された後に新設された軍国事務衙門と通商交渉事務衙門の協弁になって江華府留守を兼ねて江華に鎮撫営を設置、新式軍隊800名余りを養成した。1884年甲申政変が起こるや、袁世凱の援軍で金玉均一派を除去、兵曹判書になって朝露修好通商条約が締結されるや、1885年巨文島事件を処理した。1887年明成皇后の親露政策に反対、閔泳翊と共に大院君の集権を謀議してから明成皇后の憎しみを買って沔川に流配された。1894年日清戦争が起こって、甲午改革が始まった翌年、明成皇后が殺害された後金弘集内閣ができるや、外務大臣になった。1896年俄館播遷で親露派内閣が成立するや、先に明成皇后殺害の陰謀を事前に知っても傍観したという弾劾を受けて親日派に集まり、翌年済州島に流配されてから10年後である1907年特赦で解放された。1910年大提学に抜擢されて韓日併合調印に加担し日本から子爵の爵位を受けたが、興士団・大東学会・畿湖学会を組織して大倧ヘ創始者羅浮元祖、その教導になり民族運動に参与した。3・1運動の時には李容稙と共に韓国独立の請願書を日本政府と朝鮮総督に提出し爵位を剥奪されて3年執行猶予を宣告された。韓末の名高い碩学であると同時に文章家で日本学士院の会員でありながら、多くの著書を残したのだが、文集に《雲養集》、《天津談草》、《陰晴史》、《壬甲零稿》などがある。

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權重顯

1854(哲宗5)〜1934。朝鮮末期の親日派、官吏。本貫は安東。初名は在衡、号は經農。忠清北道永同出身。
早くから日本語を習得し日本政界の事情に精通したのだが、このような能力が認められ、1883年釜山監理署書記官に任命された。
1888年には朝廷の命を受けて日本を直接見学して各種文物を視察して帰国した。
1891年から駐日公使として東京に在任中、オーストリアと修好通商・航海等に関した条約を締結した。
1894年漢城府尹、1895年に内閣總書、1896年には法部協弁、翌年には農商工部協弁を歴任した。
つづいて同年勅命でまた日本に渡って陸軍大演習を参観しながら、そのうえ高宗の皇帝位号上疏者の一人になりその功労で正二品に昇格した。
1898年議政府の参賛・賛政を経て、農商工部大臣に昇進して、1899年には法部・農商工部大臣の兼任、そして1904年陸軍副将に任命され、当時日露戦争中である日本軍の慰問使になり、遼陽・旅順を歴訪した。
その功労で日本から勲一等瑞宝章を受け、また勲一等八卦章を受けた。
1905年8月に軍部大臣、つづく9月には農商工部大臣になって、1906年また軍部大臣を歴任してから1907年5月朴齊純親日内閣の総辞職で共に退いた。
その後すぐに中枢院顧問に任命されながら、勅命で日本博覧会を視察して、そこで同年12月に勲一等太極章を受けて、1908年にはまた勲一等旭日大綬章を受けた。
多くの勲章と共に積極的な親日活動を一人として自他が公認する人物である。
特に1905年農商工部大臣であるとき、乙巳条約締結に賛成し、乙巳五賊の一人として糾弾を受けながら、1907年乙巳五賊暗殺団である羅寅永などにソウル・サドン(사동)入り口で真昼に狙撃を受けたが運良く災いをのがれた。
のちに日本政府から子爵の爵位を受けて、朝鮮総督府中枢院と朝鮮史編修会議顧問などを務めた。
《太師權公實記》・《菊齋先生實記》などの編書がある。

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李夏榮

1858(哲宗9)〜1929。朝鮮末期の文臣。本貫は慶州。字は致行、号はクム山。
1886年(高宗23)外衙門主事、翌年試験部監察・典圜局委員になった。この年9月朴定陽公使の一行として米国に渡り、兼任駐箚米国公使館書記官になり、また駐箚米国署理全権大臣として米国に駐在した。
1889年帰国するときは朝鮮の鉄道建設に関心をみせた米国政府から鉄道の模型を得てくることもした。つづいて機器局司事、熊川・興徳の県監、外衙門参議等を経て1895年宮内府会計院長になった。
翌年漢城府観察使になってから駐箚日本国特命全権公使、1897年駐箚日本国特命全権大使として日本に駐在中日本政府から勲一等旭日大綬章を受けた。
その後中枢院副議長・貴族院卿・中枢院議長などを歴任して、1899年には議政府賛政・駐箚日本国特命全権公使兼議政府賛政になった。
翌年勲二等太極章を受けた。
1904年に外部大臣になったのだが、在任期間中、日本に忠清・黄海・平安道の漁業権付与、日本の荒地開拓権要求、第1次韓日協約、目賀田種太郎の財政顧問就任、日本憲兵隊の京城治安権掌握、丸山重俊の警務顧問就任、通信院移譲、領海河川の航海貿易権付与など各種利権を日本に譲り渡した。
1905年には勲一等八卦章を受けて、法部大臣・刑法校正総裁になり乙巳条約では反対の意志を表したが、政治的には引き続き親日の立場に立った。
1907年中枢院顧問になって、日韓併合後には日本政府より子爵の爵位を受けて朝鮮総督府中枢院顧問を務めた。

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李根澤

1865(高宗2)〜1919。朝鮮末期の大臣。乙巳五賊の一人。親日派。本貫は全州。初名は根ヨン。忠清北道 忠州出身。
1882年(高宗19)閔妃が難を逃れて忠州に逃亡したとき、新鮮な魚を閔妃に進上することで閔妃と関わるようになった。しばらくの後、興宣大院君が清国天津に護送されて済物浦条約が締結されると、閔妃が還宮し、1883年南行宣伝官に任命された。
1884年武科に及第した後1885年宣伝官になり、その後1886〜1895年まで端川府使・熙川郡守・堂上宣伝官・吉州牧使・忠清水使・全羅兵使・総禦営使・漢城府右尹・兵曹参判・禁軍別将・富平府使・左副承旨および親衛隊第3大隊長を歴任した。
1896年陸軍参領に任命され、露館播遷の際には李彰烈などと通謀し脅駕還御の計画を立てたが、李容泰の告発で済州島に流配され、1897年閔泳綺の努力で釈放された。
1898年独立協会に反対して、その会議解散に功があったとして11月漢城府判尹に昇進し、すぐに警務使に任命された。
翌年咸鏡北道観察使・中枢院議官、1901年警部協弁・警部大臣署理を経て陸軍参将として憲兵司令官を兼任した。
1902年平理院裁判長署理,議政府賛政、警衛院総官を経て、元帥府検査局総長として警務使を兼任した。その翌年に陸軍副将・軍部大臣・元帥府会計局総長・特命全権公使などを経て、1904年扈衛隊総管・宮内府特進官を歴任した。
1905年主殿院卿・侍従武官長・農商工部大臣・法部大臣になり、ついで日本から勲一等旭日大綬章を受け、9月軍部大臣になり、その年11月乙巳条約の締結に賛同し五賊臣の一人に指弾を受け、民衆に襲われることもあった。
1906年4月勲一等太極章を授与され、その年の11月中枢院議長に、1907年中枢院顧問に転任した。
1910年8月日韓併合の際には、これに協調したことで日本から子爵を授爵され、その年10月朝鮮総督府中枢院顧問になった。

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