孫家鼐

1827〜1909。字は燮臣・蟄生。晩号は淡静老人。安徽寿州の人。


咸豊元年(1851)挙人に、咸豊9年一甲一名進士(状元)となり、翰林院修撰を授けられ、侍読を経て、光緒4年(1878)翁同龢と共に帝師となった。同5年3月少・事から内閣学士に進み、同6年8月工部左侍郎、同9年6月戸部右侍郎、同13年正月兵部右侍郎、同15年正月吏部右侍郎を歴任して、同16年11月左都御史に進んだ。その後同18年8月工部尚書、同22年10月礼部尚書、同23年7月吏部尚書を経て、同24年5月協弁大学士を兼任したが、翌25年11月病気で辞職した。同26年八ヶ国連合軍が北京に侵攻するや、西太后と共に西安に逃れ、10月にそこで礼部尚書兼翰林院掌院学士に任ぜられ、同27年3月吏部尚書に転じ、帰京後12月には体仁閣大学士に進んだ。以後同29年8月東閣大学士、同31年6月文淵閣大学士、同33年6月武英殿大学士を歴任しながら、同29年9月に政務大臣に、11月に学務大臣に、同32年7月に編纂官制総司覈定大臣に、同33年8月には資政院総裁に任ぜられた。同34年2月太子太傅を加えられ、宣統元年(1909)10月亡くなった。太傅に追贈され、謚は文正。