西鉄天神大牟田線のあゆみ

〜はじめに〜
 福岡都市圏に高速鉄道を敷き、福岡県内を中心に路線バス、高速バス網を形成している西日本鉄道。資本金は261億5,729万円(1998年8月1日現在)、鉄軌道事業(電車局)、バス事業(自動車局)以外にも不動産や航空貨物、観光、流通、製造・修理関連で現在では関連会社は80社以上にものぼり、福岡市、北九州市をはじめとする福岡県内全域を支えてきた1企業ともいえるだろう。ただ鉄軌道部門よりも自動車部門の方がウエイトが高く(1997年度営業収益では前者がグループ全体の16.7%であるのに対し、後者が44.2%)、地域住民にとっては鉄道会社というよりもバス会社というイメージが強い。またほかの大手私鉄にはない特徴として、1948年11月15日に開始した航空貨物部門(航空運送代理店業、利用者運送業など)の事業ウエイトが高い(1996年度営業収益では関連事業収入36.0%のうち、航空貨物部門が44.6%、不動産が36.0%である)ことも挙げられる。
ここでは鉄軌道事業の柱である大牟田線(太宰府線、甘木線を含む)のみを扱っているので、そのあゆみをここで述べていくことにしたい。

1:序論

 西日本鉄道のおこりは1908年12月17日創業の「九州電気軌道会社」(北九州線系)にさかのぼる。今ではほんの一部分しか残っていない西鉄北九州線を敷設して開業した鉄道会社で、同社が1942年9月22日に、以下4社を合併し創業したのが西日本鉄道である。

九州鉄道(大牟田線系)
博多湾鉄道汽船(宮地岳線系)
福博電車(福岡市内線系)
筑前参宮鉄道(旧国鉄勝田線、バス部門系)

 ここでは大牟田線系のルーツである「九州鉄道」について簡単に述べる(北九州線については「鉄路14号」特集を、福岡市内線については「鉄路15号」特集をそれぞれ参照されたい)。九州鉄道は九州鉄道、太宰府軌道、三井(みい)電気軌道、大川鉄道、大牟田電気軌道の各社に分かれていた(後2社の路線はすでに廃止)。九州鉄道は大牟田線の、太宰府軌道は太宰府線の、三井電気軌道は甘木線のルーツである。

2:九州鉄道、三井電気軌道、太宰府電気軌道−西日本鉄道合併まで

1.太宰府電気軌道

「太宰府馬車鉄道」は1905年5月13日、二日市〜太宰府間2.75kmが最初に開業し、「太宰府軌道」に改称されてからは1913年1月20日、動力を馬車から機関車に、そして1927年9月24日には電車に変更し、同時に軌間を914oから1,435o(標準軌)に改軌した。
これは後に開業した九州鉄道福岡〜久留米間とリンクして、福岡から太宰府天満宮への参拝客輸送のために、太宰府電気軌道区間を相互直通運転させるためのものであった。

2.三井電気軌道

 筑紫平野の北東部に位置し、二日市と日田盆地を結ぶ朝倉街道(現在の「朝倉街道駅」の由来はここに端を発する)の宿場町、市場町であり、朝倉郡最大の集落であった甘木町。筑紫平野北半分で広い商圏を持ち、城下町の秋月や白坂峠を越えて遠賀川上流の嘉穂郡との間にも交易があった。また筑紫平野の南西部で矢部川流域にあった福島町(現在の八女市)も、市場町として八女郡全体の農産物集散地となっていた。これらの地域と福岡県南部最大の都市、久留米市と直結する鉄道を敷設しようと考えたのが、1912年4月23日設立の「三井電気軌道」である。
1911年に甘木〜北野〜久留米〜福島間に軌間1,435oの電気軌道の特許を得て、筑後川北岸の宮の陣と最南端の福島とから独立した区間で着工し、

1913年7月18日 久留米〜福島間
1915年10月15日 宮の陣〜北野間
1916年9月27日 日吉町〜筑後川間
1921年12月8日 北野〜甘木間
1924年4月1日 宮の陣〜櫛原間

を開業している(筑後川駅は現在の櫛原駅に相当)。現在の甘木線は宮の陣〜甘木間であるが、それ以外の久留米〜福島間は1958年11月26日までに廃止(というよりバス転換)された。廃止の理由は戦前にくらべると乗客が減少していること、人件費が増大したこと、戦時中の酷使により設備が老朽化し、更新のために巨額の投資が必要とされたことなどが挙げられる。同様の理由で、大牟田電気軌道大牟田市内線が1954年3月15日までに、大川鉄道大川線(大善寺〜大川間で、西鉄系列唯一の非電化路線)が1966年5月6日までに廃止しバス転換が行われている(廃止前の両社の九州鉄道への合併は後述)。

3.九州鉄道

 福岡の市内電車を運転していた九州電灯軌道の社長伊丹弥太郎と、同社常務取締役の松永安左衛門らにより1915年9月30日に設立されたのが始まりの鉄道会社で、設立時は「筑紫電気軌道」と称していた。九州電力が第一次世界大戦後に東邦電力になるとともにその系列会社となった。

 現在の大牟田線の計画は1914年4月6日に福岡〜二日市間の軌道特許を得たのが始まりである。このときの軌道敷設の目的は、既設の太宰府軌道と結んで福岡から太宰府天満宮参拝客を輸送することにあったが、用地買収の難航と第一次世界大戦に伴う資材の高騰で計画は棚上げにされていた。しかし第一次世界大戦後の1922年6月15日、筑紫電気軌道から「九州鉄道」に社名を変更したが、その際に計画を一変させ、路線をさらに南下させて久留米と福岡を結ぶ高速電車として計画するに至った。そのため架線電圧も計画当初は600Vだったのを1,500Vに変更した。1920年5月26日に二日市〜久留米間で、同年11月21日に久留米〜津福間の特許が得られ、1922年9月に福岡〜久留米間の全線にわたって着工、1924年4月12日に福岡〜久留米間が開通した。

 「九州鉄道」という名称は過去にも使われているが、それは国鉄のルーツであり意味は全く異なる。1889年12月11日に九州最初の鉄道として博多〜千歳川(筑後川北岸)間を開業し、後に帝国鉄道庁→九州帝国鉄道管理局、そして後に国有化されて国鉄、そしてJR九州に至っている。現在の大牟田線よりも大川鉄道大川線や鹿児島本線、筑肥線などの方が開業が早かったので、その名残だろうか、それらの路線と駅名が重複する場合、大牟田線の駅名は現在「西鉄二日市」「西鉄久留米」というように駅名の頭に「西鉄〜」を冠するケースもある(このほか福岡、平尾、五条、小郡、柳川、中島、渡瀬、銀水も同様)。なお本ページでは「西鉄〜」とも呼ばれる駅名は原則として「西鉄」をはずして表記することにする。

 福岡〜久留米間開業当時は普通のみの運転で、同区間は所要時間55分・15分間隔(二日市以北は8分間隔)で運転されていた。しかしこの所要時間には無理があったらしく、翌1923年3月には60分運転とされた。当時の国鉄非電化の普通列車が鳥栖での機関車取り替えのために博多〜久留米間で1時間20〜30分を要していたことから、「汽車よりも速い九鉄」ともてはやされたものであった。車両は木造車の1系(1924年に16両新造で、3扉)の単行が使用されたが、1927年にその1系の制御車(動力装置のない先頭車のこと。以下同じ。)が4両新造されたので、その頃から2連運転が始まっているものと思われる。

 同区間開業に伴い1924年6月30日に三井電気軌道が合併された。また太宰府電気軌道については、先述した通り福岡からの直通運転に合わせてルート変更および1,435o軌間変更を行った。なお、太宰府電気軌道が九州鉄道に合併されたのは1934年8月23日である。このほか大川鉄道は1937年6月22日に、大牟田電気軌道(大牟田市内線)は1941年3月31日にぞれぞれ合併されている。

 一方久留米開業の後は、石炭産業を基盤として発展し、急成長を遂げつつある大牟田市、また鹿児島本線から離れており文化の発展から取り残されていた柳河町へ連絡するべく、さらなる延伸が計画された。不況の影響を受けてその計画はいったん中断されたものの、1931年の満州事変、1937年の日華事変以降大陸進出政策を反映し、また沿線の交流が活発化していく情勢へ対応すべく延長工事は進められた。久留米以南の開業月日は以下の通りである。

1932年12月28日 久留米〜津福間
1937年10月1日  津福〜柳河間
1938年9月1日  柳河〜中島間
1938年10月1日  中島〜栄町間
1939年7月1日 栄町〜大牟田間(全通)

 開業当時は久留米以南は全線が単線であった。なお「柳河」は1971年3月1日に「柳川」に改称され、「栄町」は1970年4月28日に221m北へ移転し、「新栄町」に改称されている(同時に駅ビル完成)。

 久留米以南開業前の1930年11月20日より福岡〜久留米間で快速運転を開始したが、栄町開業の1938年10月1日改正で「準急」が設定され、停車駅は福岡〜春日原間と久留米〜大牟田(設定当時は栄町までだが)間の各駅と二日市で、所要時間は福岡〜大牟田間は1時間50分、福岡〜久留米間は45分であった。福岡〜久留米間の普通とともにそれぞれ25分間隔で運転された(福岡〜久留米間は10〜25分間隔運転)。この間、1936年には半鋼製車の10系4両が、1937年には軽量車の20系10両が造られ、1938年12月1日には福岡〜太宰府・津福間を軌道から地方鉄道に変更している。

 全通した1939年11月1日改正で久留米以南も快速運転する「急行」が設定され、1日3往復(朝・昼・夕各1往復)が運転された。停車駅は福岡から二日市、久留米、大善寺、柳河、栄町、大牟田で、所要時間は1時間18分(普通は2時間)であった。当時の国鉄普通列車の博多〜大牟田間所要時間は2〜2.5時間であったのとは対照的である。このときに初の2連固定編成である301系が2連2本新製された。2扉で車内は転換クロスシートのロマンスカーで、やはり急行に就いた。「300系」にはこの301系のほか、303系、308系、313系が後に登場するが、それらを一括する場合は「300系」と表記する。

 この頃から大牟田線の軍事需要の増大に応じて、1941年には100系17両(セミクロスシート仕様だが、戦時中にうち15両がロングシート化)、200系16両(ロングシート仕様)がそれぞれ新製された。大牟田線の列車が原則として2連で運転されるようになったのはこの頃からで、1系・10系も2連化の改造が行われている(100系は全17両中16両が2連固定編成)。なお1937年に製造された20系はこのときに200系に改番され、1941年製造のこの200系と同系列となった。

3:西日本鉄道誕生

 1940年頃から陸上交通事業調整法による統合の準備を進めてきた九州電気軌道、福博電車、九州鉄道、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道の5社は、第二次世界大戦突入後の1942年になると、合同のための具体的な話し合いを進めるようになった。そして1942年5月9日、九州電気軌道が他社を吸収合併する形態で合併契約が行われ、同年9月22日に新会社「西日本鉄道」が設立登記された。

 そんな中、戦争初期までは軍関係を中心に旅客増加の傾向にあったので、大牟田線のダイヤは質量ともに最高水準に達した。1943年4月改正では急行の所要時間が福岡〜久留米間で36分、福岡〜大牟田間が75分に短縮された。運転本数については1942年に福岡〜大牟田間で急行が8往復・105分間隔運転となり、急行:準急=1:3の割合で運行した。車両面では急行増発用として、全国初の高速対応・大型の連接車である500系(転換クロスシート仕様)2連2本が登場し(1948年8月10日に3連化・オールロングシート化)、急行は原則としてこの500系と301系が充当されていた。

 しかし戦争の長期化により物資や要因が不足しはじめ、徐々にダイヤの維持が困難になっていった。1944年9月19日改正では電力節約のために所要時間は延び、急行については福岡〜久留米間43分、福岡〜大牟田間88分、準急については朝夕のみの運転となり、福岡〜久留米間53分となった。また同年では1列車あたりの輸送力の増加をはかり福岡〜久留米間で初の3連運転を実施し、工業都市である大牟田市の近郊輸送強化や柳河車庫の新設(1944年8月10日)を行った。

4:西鉄の大戦被害―1945年8月8日の筑紫駅列車空襲

 1945年6月19日には栄町〜大牟田間が空襲により壊滅した。これにより同区間は不通となり(1946年3月1日復旧、1951年3月に駅舎新築竣工)、急行は運休した。同日には福岡市空襲により本社が焼失し、福岡市内線も被害を受けた。

 最大の惨事は同年8月8日の筑紫駅付近での運転中の列車(3本)そのものが空襲を受け、死傷者150名以上となったことである。これは西鉄の人的損害史上で過去最大のものであった。被害を受けた3本の内訳は筑紫駅付近の上り(@)下り(A)両列車、宮の陣付近での上り列車(B)である(@Bは200系、Aは100系)。Bは負傷者2名で済んだが、Bは乗客20数名で死者8名、Aは乗客200名以上の超満員で死者56名、負傷者100名以上である。Aは井尻駅を通っている間に空襲警報が入ったが(停車し、乗客は全員車外へ避難)、1時間後に解除された。しかし筑紫駅周辺の田園地帯を通過しているとき、北九州の空襲の帰りの戦爆連合がちょうど通りかかった。その直前に空襲警報が出たのだが、運転士は聞いておらず、筑紫駅まで走り続けた。しかし停車寸前にBを銃撃中のグラマン数機が通りかかり機銃掃射を受けた。車外へ逃げようにも、架線が切れていたのでドアを開けられず、乗客は車内に閉じ込められたままだった。

 1945年の終戦後も、資材不足による車両及び諸施設の整備不良や電力不足のため、ダイヤの維持が困難な状況がまだ続いた。急行は運休のまま。準急は朝夕のみの運行で確保されたが、その所要時間は福岡〜久留米間57分と戦前の普通より遅くなった。しかし戦後の輸送需要の増加に対応すべく、車両及び諸施設の復旧を急ぎ1946年7月17日改正では昼間の準急が、同年10月1日改正では福岡〜大牟田間で急行がそれぞれ運行を再開した。しかし急行は朝・昼・夕各1往復のみの設定で、1946年12月1日改正での所要時間は福岡〜久留米間48分(準急60分)、福岡〜大牟田間100分と史上最低となった。車両面では1939年の301系に続いて、1948年には3扉車である303系と308系(ともにオールロングシート)を2連5本ずつ新造されている。また1934年に博多湾鉄道汽船で導入され、国鉄香椎線でも使用された60系4両が1944年に大川線に転入したが、1947年と1950年に2両ずつ、大牟田線に移ってきた。60系はもとガソリンカー(気動車)だが、電車と併結して走らせるために制御車化改造が行われた。

 1948年11月9日には甘木線の1,500V昇圧が行われ、同年11月23日からは200系・60系による甘木〜久留米間の直通運転を開始している。1969年3月1日改正からは100系などの小型車が引退してから、1989年4月25日で新600系に置き換えられるまでは200系・60系に統一されていた。200系・60系が甘木線に封じ込められる形で運転されていたのは、小型車であり線形の厳しい同線に適しているからである。よって後述する全金属製化改造も受けず、廃車まで原形をとどめたまま運転されていた。

 大牟田線では1951年11月1日改正で急行が7.5往復に増強され、急行:準急=1:3の割合で運行することになり、運転本数では戦前の水準に戻ったものの、所要時間は福岡〜久留米間42分、福岡〜大牟田間88分と依然低水準のままであった。

 この改正を前後に(主に1951年から1952年にかけて)大がかりな車両の変動があった。@1系の3・4連化、A100系2連の3連化(1959年まで)、B200系・60系の2連・3連化(1977年には4連化も)、C2扉で前面が流線形である「旧600系」3連2本の登場、D313系2連4本(2扉・ロングシート仕様)の登場である。@は組み換えられた後急行に就いた。急行は各駅停車の普通とは異なり、停車・発車を頻繁に行わないですみ旧性能車でも対応できるという背景から急行に充当されたのだが、乗客から不評を買ったので、1系は後に急行から撤退した。そしてその後車体を取り替えた鋼体化改造が行われた際に3連単位になった。Cについては3連2本が新造されたが、西鉄が車両を受け取る前はセミクロスシート仕様で、受け取った後はロングシートに改造された。しかし先述の理由で1系が急行から撤退したので、(旧600系は)1954年に再びセミクロスシートに再改造され、301系とともに急行に就いた。

 1954年12月1日改正では福岡〜大牟田間の急行が倍増し1時間間隔運転になるとともに、急行:準急=1:1に変更された。最高速度は従来より10km/h高い85km/hに引き上げられ、福岡〜久留米間40分、福岡〜大牟田間82分に短縮した。

 その一方で準急は1956年12月1日改正より早朝と夜間を除き廃止し、久留米以南各駅停車の「ローカル急行」に格上げされ、福岡〜二日市間は区間運転の普通を別途増発した。ローカル急行は15.5往復設定されて福岡〜久留米間の所要時間は42分と、準急にくらべ13分短縮されている。運転間隔も急行、ローカル急行とも1時間間隔で、両者あわせて30分間隔の運転となった。

5:1953年の筑後川大水害と筑後川橋梁架替え工事

話は前後するが、1953年6月25日から九州北部・中部地方は記録的な集中豪雨に見舞われ、各河川は増水し堤防の決壊などが相次いだ。それは大牟田線と交差する筑後川でも同様で、翌26日までの雨量が上流の熊本県小国で1,000ミリ、下流の日田・久留米地方で500ミリに達するというわが国未曾有の、記録的な豪雨であった。

 筑後川橋梁付近では25日昼過ぎに警戒水位を超え、26日朝には橋梁の下を洗うほどにもなった。上中流の山間部での土砂崩れ・がけ崩れなどにより川に流れてきた流木が橋梁に蓄積し、その圧力によって橋梁のトラス自体が揺れ始めた。社員をはじめ応援の業者人夫もこの流木の除去作業を試みたが、流水圧がものすごく高く、また転落の危険もあるので断念せざるをえなかった。そして26日夕方、増大する流木の浮力によって80トンのトラスが持ち上げられ、流水水圧もあって煉瓦積み橋脚上部もろともに下流側へ押し流されてしまった。

 27日以降も梅雨全線の停滞で時々大雨が降り、久留米市をはじめとする福岡県内全域で被害を受けインフラもズタズタになり、資材の運搬もままならなかった。総じて会社創業以来最大の被害となった。当然、筑後川を境にして大牟田線が南北に分断されたことはいうまでもない。

 この大水害を受けて、筑後川の川幅を広げ流過能力を大きくする河川改修工事が建設省で行われることになった。その一環として、大牟田線の筑後川橋梁を23m下流側(西側)に移設し、同時に全長373.4mの橋梁を取り替える工事が策定された。工事延長は2.4kmで、1971年8月に基本協定を締結し、1981年3月27日改正で新線に付け替えられた。

6:高度経済成長と初の新性能車1000系の登場

 第二次世界大戦の復興は1950年頃まで一応の目処がつき、朝鮮戦争の勃発を契機として日本経済の成長が始まった。

 そんな中、大牟田線の沿線は大きく変容した。福岡市は大戦前は福岡県の中心であるにとどまったが、大戦後は九州全体の中心都市としての役割を持つようになった。特に1950年代後半からその傾向が顕著になり、1970年代後半になると当時経済的にも停滞気味の北九州市の人口を抜いて九州最大の都市となるにいたった。また1972年4月1日に福岡市は政令指定都市となったが、福岡市の南方に連なり、大牟田線の沿線に位置する春日市、大野城市、筑紫野市も同日に市制を施行している(太宰府市の市制施行は1982年4月1日)。
1960年代後半から九州各地の炭鉱の衰退が著しく、福岡県南部の大牟田市でも同様であった(そんな中、三池炭田は長らく操業していたが、それも1997年3月に閉山した)。このため大牟田市の経済活動は停滞し、この地域に立地する石炭化学コンビナート群にも大きな影響を及ぼした。このことはこれらの産業を基礎として発展してきた大牟田市の人口減につながった。その一方で、久留米市は筑紫平野全域の中心都市として活性化し、1970年以降、人口では大牟田市を抜いている。

 これまで西鉄の鉄軌道事業の収入の大半は軌道である北九州線、福岡市内線が柱で(北九州線の輸送人員は福岡市内線のおおむね1.5倍である)、大牟田線は第三義的存在であった。しかし市内電車の走る両市ではモータリゼーションにより自家用車の普及が著しく、市内電車の輸送人員は1960年代後半から急速に下降の一途をたどっていった。そして軌道部分でも多くの乗用車が行き交うようになったために市内電車はしばしば立ち往生を繰り返し、スピード低下や団子運転を余儀なくさせられるようになった。そのため乗客からの不評を買うようになり、それが自家用車の増大を招くという悪循環を繰り返していったのである。そんな中で躍進していったのがバス部門(自動車局)で、その輸送人員は1961年度から鉄軌道部門を上回ったが、これについても筑豊・筑後地方のモータリゼーションや炭田の衰退による人口減などを理由に、1964年度をピークに下降の一途をたどり、1988年度以降は赤字基調で推移している。平成に入ってから高速バスの台頭により収益は増大したが、それもJR九州との競争激化により現在では下降気味である。

 一方で大牟田線では福岡と久留米、大牟田という都市間輸送を維持するとともに、福岡近郊の通勤通学輸送の強化を図る使命を持つようになったことから輸送人員は年々伸び続け、1967年度には福岡市内線を、1972年度には北九州線を追い抜くに至った(福岡市内線は1979年2月11日までに廃止、北九州線は黒崎〜折尾間を除き1992年10月24日までに廃止)。よって市内電車よりも、今後大量交通機関の役割を果たすことになるだろう大牟田線に鉄軌道部門の投資が進んでいった。また1961年6月1日の国鉄鹿児島本線門司港〜久留米間電化にも対抗する必要が生じ、1957年度を初めとする輸送力増強5ヵ年計画、続いて1961年度、1964年度を初めとする第1次輸送力増強3ヵ年計画、同第2次を策定していった。

 まず1957年2月11日には福岡〜太宰府間の直通列車の運行を開始した。そして1957年5月1日改正で初の全鋼製・新性能車・4連固定編成・2扉固定クロスシートの1000系が営業運転を開始した。当時は4連2本だったが、1958年12月25日改正で3本追加されて5本になり、昼間の急行は全て1000系で運転されるようになった。

 1959年5月1日改正で1000系はその本領を発揮。「特急」が新設されたが、これは単に急行を格上げしただけのものである。しかし最高速度は従来よりも5km/h高い90km/hに引き上げられ、福岡〜久留米間37分、福岡〜大牟田間75分に短縮、運転間隔も従来の60分間隔から45分間隔に短縮され、運転本数も19往復に増発された。また従来の久留米以南各駅停車の急行も従来の急行に名称変更し、運転間隔も特急同様45分としている。この結果福岡〜久留米間では特急・急行合わせて20〜25分間隔で運転されるようになった。1000系は登場当初急行に充当されていたが、特急が新設されてからは特急専用となり、急行には旧600系が充当された。

 1960年5月1日改正では1000系はさらに1本追加されて4連6本24両となったほか、特急の最高速度は95km/hに引き上げられ、福岡〜久留米間35分、福岡〜大牟田間70分に短縮された。急行も最高速度90km/hに引き上げられ、福岡〜久留米間39分に短縮したが、従来久留米以南各駅停車として延長されていた(ローカル)急行は全て久留米折り返しとなった。また貨物営業はこの改正で休止となった。
この間、久留米以南の複線化も次のようにして行われた。これは特急の交換をなるべく複線区間で行えるようにしてスピードアップをねらうのが大きな背景である。

1951年11月1日 久留米〜試験場前間
1961年4月    倉永〜栄町間
1961年6月21日 栄町〜大牟田間
1965年11月20日 開〜倉永間
1967年2月    大善寺〜三潴間
〃 大溝〜蒲池間
1997年1月15日 三潴〜大溝間

 なお、1960年8月1日には甘木線は大牟田線として地方鉄道に編入されている。

 車両面では、1000系に合わせ半鋼製車(1系・100系・300系・500系)の鋼体化改造が行われていった(200系・60系除く)。まず1958年から1960年までの間に木製の1系が改造されたが、車体は鋼製車体に取り替えられ、1960年に20系に改番されている(戦前に製造された20系はすでに200系に改番されている)。1964年以降は、300系・100系・500系の全金属製化改造が行われるようになった。施設面では、1958年度より50kg/mレールが採用され、以後この50kg/mレールへの取替えが進んでいった。

 この頃よりラッシュ時の線路容量は限界に近づいていたので、1961年度からの輸送力増強3ヵ年計画、1964年度からの同第2次では増発よりも増結を主体に考えるようになった。栄町〜大牟田間の複線化がなされた1961年6月21日改正では、3連の旧600系の先頭車2両を改造したうえで、新造の中間電動車2両を組み込んで4連固定とした1300系が4連2本登場した。その結果昼間の特急・急行は1000系か1300系に限定された。なお旧600系の中間電動車2両は303系2連2本の3連化に流用された。303系は全2連5本中4本が3連化されたが、残り2本には新製車2両(足回りは流用の2扉車)を1両ずつ組み込むことでまかなった。もっとも303系は3扉だが、その中間車として組みこまれた旧600系は2扉なので、編成としては違和感を覚えたのだが…

 一方、福岡駅の高架化も行われた(福岡駅は1936年3月29日に百貨店である岩田屋を誘致するため、南へ1度移動しているので、開業後2度目の移動となる)。福岡駅周辺638mの連続立体交差化工事が1960年9月1日に着工し、1961年11月1日に完成した。同時に行われたダイヤ改正では、3連化された303系と併結できるための工事がほかの300系に対して行われ、その結果朝上りの特急の5連化がなされた。それまでの最大連結両数は4両だったので、5連運転は初めてとなる(現在のダイヤでは平日朝上りには特急は運転されていないが、1971年5月15日改正と1974年4月20日改正で急行に置き換わるまでは平日朝上りの混雑時間帯にも特急が運転されていた)。なお福岡駅は2階に移ったが、1961年12月23日には1階にバスセンターができた。電車とバスの有機的結合はこの駅が全国初となる。

 そしてクロスシート仕様の1000系に続き、1962年9月には3扉・オールロングシート仕様の新性能車として「新600系」(以下「600系」とする)が登場した。在来車より車体が1m長く(19.5mで、後の車両も同寸法)、ドアは両開き(幅は1,300o)である。また2連・3連が基本編成だが、先頭車同士の連結がもともと可能であることも300系とは異なり、2連・3連が互いに併結して4連以上の編成が自由に組める。登場以来ほぼ毎年新製し、11年間で2連21本・3連5本の57両を投入した。600系という形式は先述の通り1300系に改造された旧600系があるが、その改造と同時に廃形式となったので、改めてその新造車が600系と命名された経緯である。

 この結果、1961年11月1日改正の303系・308系重連による特急の一部5連化、1962年9月24日改正の同系による急行の一部5連化に続き、1964年9月1日には303系・308系のほか600系重連による5連が設定され、5連は増発された。1965年11月20日改正では600系による特急の一部6連化を開始し、以後の改正でも増結による輸送力増強が行われるようになった。確かに600系は重連運転で編成の長大化に対応してきたが、ここまで先頭車・運転台とも増えるのは不経済なので、600系最新型タイプの700系4連固定編成1本が1972年12月11日に登場した。パンタグラフが初の下枠交差形で、列車無線も標準装備である。冷房は準備工事であったが、新製後約1ヵ月ほどして冷房化された(以上、700系新製と同時に600系最終編成2連1本も増備されたが、それについても700系と同様)。性能的には後に登場した5000系とほぼ同等で、5000系の試作の感が強い。なお在来600系でも1986年から1987年にかけて16両が4連固定編成化された。

 1965年11月20日改正の開〜倉永間の複線化により、1966年10月1日改正では特急、急行とも従来の45分間隔から30分間隔になり、福岡〜久留米間では特急もしくは急行が15分間隔で運転され利便性が向上した。運転間隔の短縮は運用本数の増加になったので、昼間の特急・急行では従来からの1000系・1300系に加え、オールロングシートの600系も加わっている。また後述の久留米駅付近立体交差化に備えて、1967年4月20日改正では昼間の久留米発着の急行が津福まで、久留米発着の甘木線普通が花畑までそれぞれ延長されている。

 1967年度には第3次輸送力増強5ヵ年計画が策定されたが、主な柱は7連化と久留米駅の高架化である。櫛原〜花畑間1.5kmの連続立体交差化で(この過程で初めてPC枕木導入)、1969年3月1日に久留米駅の西鉄名店街(後に「エマックス」としてリニューアルされる)とともに完成した(駅ビル全体の完成は同年11月1日)。

 これと同時に行われた1969年3月1日改正では最高速度が100km/hに引き上げられ、特急は福岡〜久留米間32分(急行35分)、福岡〜大牟田間65分に短縮された。同時に急行は特急の補完を果たしてきたこともあり、新たに朝倉街道に停車している。なお同年4月1日より600系による初の7連運転が登場した。当時は特急のみであったが、同年12月10日からは急行も一部7連化された。

 保安面では、1968年4月10日に大橋〜春日原間でATSが初めて導入された。以後同年9月に福岡〜大橋間、1969年3月1日に春日原〜二日市間、同年12月20日には二日市〜宮の陣間、1971年8月に宮の陣〜試験場前間、1972年3月に試験場前〜柳川間、同年12月26日には柳川〜大牟田間でそれぞれ導入された。全線導入と同時に「磁気飽和型高周波多情報式の点制御による連続速度照査方式」の新方式に切り替わった(詳細は「施設概要・運賃制度」を参照)。その後1978年11月には太宰府線で、1982年3月25日には甘木線でもATSが導入された。また1972年12月13日より列車無線の導入が完了している。1974年4月には列車運行管理システムTTCが、同年6月10日には全線でCTCが導入されている。

 1971年3月1日には朝倉街道〜筑紫間で桜台駅が開業した。

7:2000系の登場

 福岡市の人口は1975年に100万人を突破し、九州を代表する中枢管理都市となった。大牟田線は商業及び流通機能を有する久留米市、そして県南部の交通接点でもある鉱工業都市大牟田市を1時間行動圏として効率的に結び、かつ地域の動脈交通機関として位置づけられた。1972年度からの第4次輸送力増強5ヵ年計画、1977年度からの同第5次、1982年度からの同第6次はいずれもスピードアップのほかに保安度の向上、混雑緩和のための車両の増備や低性能車の代替、車両冷房化の促進による快適性の向上を主な内容とした。

 1973年5月10日改正ではそれまで特急で活躍していた1000系の代替車である2000系6連4本24両が登場した。1000系では4連の固定クロスシートであるのに対し、2000系は6連固定編成の転換クロスシートで、しかも冷房装備である。

 従来昼間の特急・急行とも4連で運転されていたが、この改正で特急は原則として6連化された。充当車両は2000系のほかに600系が使用された。クロスシートの1000系・1300系ではなくオールロングシートの600系が充当されるのは、同系が1972年度後半から冷房改造がすすめられてきたからである。これまで大牟田線の車両には冷房車はなかったが、1972年度の600系最終増備車2連1本・700系以降の新製車が全て冷房車となり、既存の非冷房車についても1973年度からまず600系の冷房化がすすめられた(1972年度に新製された冷房準備工事車600系2連1本、700系4連1本を除く)。したがって冷房化という快適性向上のために、オールロングシート車でありながらも、また1974年5月20日改正で2000系の残り6連2本12両が新造されてからも、600系が昼間でも特急に充当されるようになったのである(1000系・1300系が4連固定で6連化が難しいという事情もあるだろうが)。

 一方特急から引退した非冷房の1000系・1300系は1973年5月10日改正で特急より引退し急行に就いていたが、次の1974年5月20日改正で2000系が増強されたことから、600系とともに昼間の急行全列車をもカバーできたので(この改正の昼間では特急は2000系6本と600系6連1本、急行は600系4連を使用)、昼間の急行からも引退した。西鉄は当時、特急・急行に冷房車かクロスシート車かどちらを充当するのか迷ったことだと思うが、結局前者が選ばれたことになる。この考え方は以後も続き、現在でも特急・急行だからといって昼間でもクロスシート車が充当されるとは限らないことも同じことがいえるのではないだろうか。

 一方1000系は3扉化・オールロングシート化・冷房化・方向幕取り付け(冷房化、方向幕取り付けは600系でも)などの改造を受けて現在でも普通運用に就いている。1300系は制御車のもと旧600系が半鋼製であることが災いして1000系のような改造が困難だったために、クロスシートのまま普通運用に就いていたが、オール電動車の1000系に対し、1300系は先頭車が付随車で編成全体の出力が3分の2であり、また非冷房車であることが災いして1986年に廃車になった。

 2000系に引き続き、1975年10月10日改正では600系に続く通勤車5000系が登場した。600系は2連、3連が基本編成であったのに対し、5000系は3連、4連を基本編成としている(4連は1977年に登場)。1991年度までに合わせて136両が投入された(現在では3連24本・4連16本の陣容)。車体はアイスグリーン(水色)に朱帯が入り、これが西鉄通勤車の標準塗装となり、600系、1000系、1300系、6000系にもこの塗装が及んだ。なお1960年からこの頃まで、1000系、1300系は特急専用として青色に黄色の帯の塗装であった。600系を含め、それ以外の車両は上半身がクリーム、下半身が茶の塗装であったが、600系以外は5000系登場以降もその塗装のままである。

 5000系が増備されていく中で、500系は1974年に大牟田線から引退し、同じ吊り掛け車である301系・313系は1976年に、20系は1981年に、100系は1983年に、303系・308系は1986年までにそれぞれ引退し、廃車もしくは宮地岳線へ転属となった。なお大牟田線は標準軌、宮地岳線は狭軌なので、宮地岳線転属に際しては台車の取り替えもなされたが、同時に車体塗装も2000系と同様の黄色に赤帯となった。ちなみに200系・60系は1989年4月24日までは甘木線で活躍していた。また5000系は登場時から特急にも就いていたが、その結果600系は1982年3月25日改正より特急運用から引退した(しかし、以後夕方以降を中心に特急運用が復活したが)。

 1969年の久留米駅に引き続き周辺道路の渋滞を解消するため、福岡〜大橋間の高架化も行われることになった。しかし福岡〜平尾間は薬院で福岡市内線(城南線)との平面交差があったのか、平尾〜大橋間3.24kmが先に着工され(1971年11月2日)、1978年3月3日に完成した。大橋は12連対応のホームを持つ2面4線となった。なお同じく高架駅になった高宮駅ビルの完成は同年11月8日である。両駅とも「西鉄名店街」が入居しているが、先に開業した久留米(1969年11月1日開業)と新栄町(1970年4月28日開業)のように「エマックス」としてリニューアルされていない。

 これと同時にダイヤ改正が行われ、朝上りを除く全ての急行が大橋に停車し、同駅では駅を中心とするバス路線の再編成が行われ、バス&ライド方式で地域密着の輸送体制が敷かれた。

 1983年3月26日には福岡駅のホーム改良工事が完成した(駅自体の改良工事の完成は同年11月26日)。これは従来の5面5線から3面3線に変更し、ホーム幅が拡充されるとともに全てのホームで7連列車の停車が可能になったものである。同時にダイヤ改正も行われ、最高速度が従来の100km/hから105km/hとなり、特急は福岡〜大牟田間60分に、急行も福岡〜久留米間35分に短縮された。昼間の特急運用は従来6本であったが、この改正で5本に減らすことができた。この結果5000系が昼間の特急でも必ず使用されていたのが、原則として全列車2000系で運転されるようになったのである。また平日朝上りを除く全ての急行が春日原に停車するようになった。

 この過程の中で車両増加に対応すべく、大牟田線の車両基地として半世紀以上も使用されてきた二日市車庫・工場は車両増加に対応して施設の拡張、増強を幾度と行ってきたが、1970年頃になると周辺に民家が増えて拡張の余地がなくなり、将来の車両増備、長連化に備え、車両留置能力アップと研修の効率化・近代化を図るため筑紫駅付近に移設することになった。1976年7月に着工し、1978年2月には留置線の一部使用開始、1981年9月25日には車庫が竣工し、同時に筑紫駅も橋上駅舎として改築された。1982年3月25日改正では二日市から車庫・検車機能を完全に移し、1986年には工場が竣工、1987年1月1日から筑紫車庫・工場として全面的に稼動を始めた。なお現在の柳川車庫も1967年3月15日に移転したものである。

 この筑紫車庫・工場が完成した1987年3月25日改正では、朝上りから筑紫車庫への回送の間合いを旅客列車化した「直行」という新種別を平日朝下りに設定した。営業列車としては二日市行きだが、筑紫車庫への回送の意味合いであるのはいうまでもない。

8:新型特急8000系の登場

 1989年3月10日改正では2000系に代わる新型特急車である8000系が登場した。登場の背景には2000系が登場時から15年が経過していること、国鉄が分割民営化されたことによるさらなる競争激化、また同年3月17日〜9月3日に福岡市早良区の百道浜で開催された「アジア太平洋博覧会"よかトピア"」が開催されたことなどである。2000系と異なるところは前面展望性が格段に向上したこと、西鉄初のワンハンドルマスコンが導入されたことなどが挙げられる(ワンハンドルマスコンは6000系にも受け継がれている)。

 改正当時8000系は6連3本しか営業運転に就いていなかったが、残り3本についても4月中に運用に就いた。これにともない甘木線で使用されていた非冷房車200系・60系2〜4連は1989年4月25日に600系(2連10本で、中間扉締め切り)に置き換えられ(同年4月29日にはさよなら運転が行われたが)、また同年10月1日よりワンマン運転が始まった。これにより、大牟田線系の100%冷房化・新性能車化が達成された。余剰になった200系・60系は3両を除き全車廃車になった。残り3両はしばらくイベント用(秋の甘木線コスモス号など)に使われたが、それも1994年2月に廃車となった。

 2000系は特急運用のほとんどから引退し急行主体の運用となったが、3扉化改造は8000系が登場する前の1988年9月20日から順次行われ、1990年3月19日までに全車にその改造が及んだ。

 ダイヤ面では、1989年9月1日改正では急行が平日朝上りを除き下大利に終日停車するようになり、1991年3月27日改正では昼間の津福発着急行が原則として大善寺まで延長されるようになった。また1988年3月29日改正、1989年3月10改正、同年9月1日改正、1991年3月27日改正では深夜時間帯の充実および特急・急行の最終時刻繰り下げ、始発列車の繰り上げが行われている。

 この間、「小郡・筑紫野ニュータウン事業」の一環として、「三沢土地区画整理事業」が1985年7月21日より着手され、筑紫〜小郡間で宅地造成が進んでいった。それに合わせて1992年3月25日に津古〜三沢間で三国が丘駅が開業した(小郡高校が駅前に立地していることも開設の要因だろう)。同時にダイヤ改正が行われ、初めて8連運転が開始された。1969年4月1日以来の最大連結両数の変更である。8連運転は平日朝上りの朝の急行のみで、このため福岡や二日市などの急行停車駅のホーム延伸工事が1990年度以降施工された。

9:西鉄福岡ターミナルプロジェクトと福岡市内連続立体交差化完成

 福岡駅のリニューアルを含めた、福岡地区再開発事業「西鉄福岡ターミナルプロジェクト」(天神ソラリア計画)が計画され、1985年7月15日にそのプロジェクトチームが発足した。まず福岡駅西側にホテルや商業施設を含めた「ソラリアプラザビル」(福岡スポーツセンター跡地)が1989年3月24日に完成した(その中のソラリア西鉄ホテルは同年5月27日より営業)。

 当時の福岡駅は1961年に造られた建物で老朽化が否めず、1983年3月26日改正以来3面3線であり、そのうち1線は乗降ホームが共用で、そこに特急が到着すると降りる客と乗る客が入り乱れ乗車マナーが守れない有様であった。そこで、福岡駅の位置を100mほど南へ移動したうえで3面3線から4面3線に増強し完全な乗降分離をはかるとともに、10連対応ホームにする。そして従来の福岡駅の位置に仮称"ABビル"の「ソラリアステージビル」として"味の街"で知られる西鉄名店街(再開発前の名称で、名称が変わるかもしれない)などを含めた商業施設を造る。また当時高速バスは福岡駅真下の1階のバスセンターから発車していたのを3階に移し(、その真下の2階に新しい福岡駅を移設し)、そのほかのスペースは百貨店の「福岡三越」とするのが仮称"Cビル"の「ソラリアターミナルビル」である。「ソラリアターミナルビル」は1992年7月8日に、「ソラリアステージビル」は1996年6月24日にそれぞれ着工された。

 福岡駅改良工事にともなって1993年8月28日にダイヤ改正が行われた。仮といえども、従来は3面3線であった福岡駅に配線に大幅な改良が加えられ、新しい福岡駅が完成する1997年9月27日改正までは2線のままで使用されることになった。同改正から1993年12月3日までは2線のうち1線が乗降共用となったが、同年12月4日からは3面2線となった。1995年3月25日改正からは2線のうち1線が、同年5月27日からはもう1線が100mほど南寄りに移動している。これにともない1995年5月27日に福岡駅は営業キロで100m南へ移転し、福岡市交通局天神駅から遠ざかることになった。しかし営業キロが短くなったので、福岡駅への運賃が50円も安くなった駅も出てきた。

 この福岡駅の2線化に先立ち、1993年5月17日に4扉通勤車6000系が営業運転を開始した。なぜ4扉なのかといえば、福岡駅での乗降の便を図り折り返し時間を短縮させるためだという。しかし、現在では朝は上り急行に、昼間以降は普通に使われるなど運用が固定化してきているのだが…4扉車の登場で、主要駅のホーム上で2、3、4扉の乗車口が一目で分かるように整備された。

 一方で1987年1月から福岡市内で残る福岡〜平尾間1.62km(うち1,099mは大牟田線で初のスラブ軌道である)の連続立体交差化工事が本格化した。先に行われた平尾〜大橋間とは異なり、現行の線路の真上に高架橋を建設するという「直上高架方式」が九州で初めて採用され、1995年3月25日に完成した。薬院駅のホームは高架化され(しかし駅舎の完成は1996年3月)、この日に行われたダイヤ改正ではそれまで朝上りのみであった薬院の特急・急行(・直行)の停車が終日に拡大されたほか、平日朝上りの普通が全て7連で運転されている。なおこれに先立ち1995年2月23日には初のVVVFインバータ制御車である6050系(車体は6000系と同じ)が営業運転を開始している。

 1995年4月25日からは大牟田線の駅構内は喫煙スペースを除き終日禁煙となった。

 1997年1月1日には社内にVI(ビジュアル・アイデンティティ)が導入され、電車、バス各車両に「Nishitetsu」の文字をあしらった新しいロゴマークが付されるようになった。そのため動輪型の旧社紋(2000系やバス車体の前面などにあった)は順次取り外されていった。

 「ソラリアターミナルビル」は1997年に完成した。2月27日には西鉄天神バスセンター(乗りばのみ)が、9月27日には新しい福岡駅が、10月1日にはデパートの福岡三越がそれぞれオープンした。なお1998年4月23日にはバスセンターの降車場がオープンし、同時にバスセンター内に折り返し場が設けられた。

 福岡駅改良工事が完成した1997年9月27日改正では従来の3面3線から4面3線に、駅構内総面積は約2倍に増強されたため、完全乗降分離と大幅な輸送力増強が可能になった。また旧駅は曲線ホームでホームと車両の中に転落する危険があったのが、ほぼ直線化されている。出入口も従来の北口、中央口(移転前は南口だったが、南へ移転したことにより中央口に改称)に加え、三越口(福岡三越オープンの10月1日から。出口専用。)と南口(国体道路に接する)、ソラリアプラザ連絡口(1998年4月25日より北口が南側に移動したために、北口に統合)が新設された。

 これに合わせ、従来の昼間の1時間2本の急行に加え、新たに小郡発着の急行(筑紫以南各駅停車)が2本新設され、急行は1時間4本となった。平日昼間の普通は従来、太宰府、小郡、大牟田発着が各1時間2本ずつ運転されており、休日はこれに春日原発着が2本加わる形であったが、この改正で春日原発着の普通は廃止されて普通は毎日1時間6本となったほか、小郡発着の急行が筑紫以南各駅停車なので同駅発着の普通は原則として筑紫折り返しとなった。また急行は終日筑紫に停車している。このほか土曜も休日ダイヤで運転されるようになり、土曜も朝上りの急行が下大利、春日原、大橋に停車するようになった。ダイヤ改正といえば1997年1月15日に時刻修正が行われているが、これは三潴〜大溝間の複線化によるものである。

 なお残る「ソラリアステージビル」は1999年4月24日改正で開業した。地上6階・地下2階で、地下2〜地上1階は専門店街で、地下1・2階は食品、1階・中2階はファッション雑貨のテナントが入居する(以上、4月3日開業)。2階は福岡駅への出入口である。中3〜5階は大型雑貨専門店街"インキューブ"が、5・6階にはビアエストラン"じゃんくう"が、6階には多目的ホールの"西鉄ホール"(500u、460席)がそれぞれ入居する(以上、4月24日開業)。これに先立ち、「ソラリアステージビル」2階からの駅出入口が1998年11月7日に完成した。

 こうして大規模なプロジェクト推進と、今後の設備投資(車両増備や各駅のエレベーター、エスカレーター、別出口設置など。)などを理由に1997年7月1日に運賃改定がなされた。


10:ストアードフェアシステム”よかネットカード”導入と平日朝上りの停車駅増加

 1999年4月24日はソラリアステージCビル開業により、福岡駅ビルの当時の計画は終了し、それに合わせ1999年4月1日からストアードフェアシステム”よかネットカード”がデビューした。他のストアードフェアシステムと異なるところは、鉄道で割引があることである。従来西鉄では1992年9月という早い時期でバスで導入済み。1,000円券で1,100円分、3,000円券で3,300円分、5,000円券で5,750円分が使え、カードにしても回数券並みの割引率は画期的であった。バスカードでは西鉄電車に乗ることはできないが、よかネットカードではバスに乗れる。なお、福岡市地下鉄では1995.5.8よりのf(えふ)カードを導入し、こちらも2,000円で2,100円分、10,000円券で11,200円分使えるカードがすでに登場している。関西圏ではすでに割引はないがカードは共通化されている風潮がすでにあり、西鉄電車では福岡市地下鉄とカードを共通化、割引率は3,000円券で3,200円、5,000円券で5,500円割引と異なっている。なお、JR九州は遅れながら1999.12.4よりワイワイカードを導入するものの、こちらは割引率はない。

 1999年4月24日改正では、1997年9月27日改正当時2連は常に4連として普通に就くのみだった6000系・6050系2連に中間車を新造し3連化され4+3の7連で急行や一部午前の特急運用にも就くようになった(1995年3月25日改正などでは、4+2連で特急運用もあったが…)。平日朝上りは12本の急行が下大利、春日原、大橋を通過としていたが、停車の要望が強いため、最ピーク時、8連の走る時間帯を外した4本を停車、また普通1本を急行に格上げ、6000形を活用し混雑緩和を図っている。

 2001年1月20日改正では全区間急行は快速急行となり、前後が踏切に挟まれるネックのない大橋は快速急行が全て停車する。

11:7000形の登場と本線久留米以南2連ワンマン化

 2001年2月17日、6050形に代わる新形式車両7000形が営業運転を開始した。6050形でも2連運転があるが、1999年4月24日改正で3連化されたばかりである。この7000形登場に合わせ、4連3本あった1000形は2001年2月25日で引退した。

 当時、7000系は2+2の4連で本線普通に就くのみであったが、7ヵ月後の2001年11月10日改正ではすでに2連ワンマン運転の甘木線と久留米以南で分断する普通を統合する形で、昼間の久留米〜大牟田間の普通は2連のワンマン運転となった。当時は1989年から甘木線に就いている600系と7000系(2連11本新製)ほぼ半々の割合だったが、2003年2月に3扉の7050系2連9本新造され、甘木線・久留米〜大牟田間の2連ワンマン車は全て7000・7050形に置き換わった。なお、600形はその後も本線に就いていたが、後述する3000形により2006年には全廃または宮地岳線へ転用している。

12:新形式急行車両3000形の登場と2000形の引退

 わずかに残った600形と、画期的といえども依然残っていた元特急車・急行車両2000形を置き換えるべく3000系をデビューさせた。車体幅は5cm拡大、足回りは先に登場した7050系を踏襲した。車内は…3扉転換クロスシート仕様という、やはりJRや阪急(9300系)、京阪(9000系、新3000系)の流れを受けて汎用性と快適性を兼ね備えた3ドア転換クロスシート車両である。ドア間はドア脇も含め転換クロスシートだが、妻寄りはロングシートである。

 3000形は2006年3月25日に営業運転を開始、3連と2連を製造、営業運転開始当時は3+3連を急行に、2+2連を普通に就いていたが、後に2+3の5連で急行に就くようになった。2008年には5連固定も登場し、昼間の急行は3000形が主体となり、2000形は順次廃車が進められていった。

 2000形は1989年春の特急引退後も急行主体のフル稼働で、それまでは1時間2本しかない昼間の急行をまかなっていたが、1997年9月27日改正で1時間2本の小郡発着も加わったため、5000形も参戦した。2001年には1編成が廃車となった。その後、2連が3連化された6000系も6連で急行への充当が日常的に見られるようになった。しかし3000形は現在42両が在籍し、2000形、5000形、6000形を置き換えていき、昼間の急行の主力に成長していく。

 2000形は2000年代、特急への充当もわずかに見られたが、4編成が3000形の置き換えにより次々に廃車、2010年には2000形は1編成だけとなり、9月13日〜10月16日は前面は西鉄の社紋をあしらった登場当時のヘッドマークを装備し、かつ限定運用に就いた。10月17日は筑紫工場一般開放でお披露目となったが、その日でもってさよなら運転となった。

 車両面以外では、1999年4月までの福岡駅改良工事の後は、花畑〜津福間付近立体交差化工事が佳境を迎えていた。花畑付近だけでなく、試験場前も高架化されたが、それならいっそのこと花畑〜試験場前間も複線化すればよいのにと思える。それはともかく、高架化が完成したのは2004年10月17日。ここで花畑は特急、快速急行も全て停車するようになった。またこの改正では急行が大幅に減る平日福岡発21時台を2本から4本に倍増、土休日も19時台も急行は4本運転となった。しかし、このときはまだ夜下りの急行は二日市や久留米以南各駅停車が主体であった。

 2005年11月13日改正では早朝の上り筑紫発急行、下り小郡行き急行が増発、花畑発着の一部試験場前延伸が行われた。

 そして2008年3月22日改正では、最高110km/h運転を開始、特急だけでなく急行もスピードアップが図られる。特急は1995年3月25日改正で薬院、2001年11月10日改正で大善寺に、2004年10月17日改正で花畑と停車駅が増えたが、それでも福岡〜大牟田間は62分と2分延びただけであった。この改正で4分短縮され、最速58分となった。なお、急行も1、2分短縮している。

 この頃より久留米以南の輸送量減が顕著になり、1999年4月24日改正では8本が下大利、春日原、大橋通過であったが、「全区間急行」たる快速急行は4本に減り、12連対応ホームの大橋は2001年1月20日改正で全列車停車。この改正ではすでに大牟田始発と柳川始発が1本あるのみであった。

 それが二日市〜朝倉街道間に紫駅が開業した2010年3月27日改正では、全列車3駅停車となり、8連運転の快速急行は廃止、7連が最大となった。久留米以南は大きく不便になり、柳川でも座れないのが当たり前のようになった。一方久留米付近では平日朝上りは急行が10分間隔となった。ただし、夜下りは2004年10月17日改正で増発したものの二日市や久留米以南各駅停車の急行が全区間通過運転となり、久留米以南でも利便性が向上しているのに、なぜ朝だけ不便に?と首をかしげる。

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