仙北街道栗駒越え

≪古道シリーズ1≫

◎仙北街道とは、奥州(岩手.宮城)から奥羽山脈を越えて羽州(秋田)仙北地方に通じる街道で、盛岡より雫石越え、北上から仙人越え、水沢より手倉越え、そして栗駒越えの4街道があった。

◎栗駒越えの歴史は古く、前九年の役の源義家の栗駒越え、横手清原氏の軍一万五千騎の栗駒越えなどがあり、1893年の平鹿、和賀間の平和街道開通まで太平洋側と日本海側との物流の幹線街道であった。栗駒越えは、標高600m〜900mの街道なので、天候に左右されなく、通行ができ、冬期間も背負子(強力)達が利用した記録もある。

◎世界谷地から、渡し沢までは、現存する古道で、1876年湯浜温泉開湯1882年下道(湯浜街道)が開通後、渡し沢から国境(県境)までは、利用が少なくなり、現在は廃道となり、湯浜温泉開湯後、渡し沢から湯浜までの連絡道ができた。

今回は11月16日調査取材の時の「落葉の古道」を世界谷地より湯浜温泉まで、紹介します。


一 世界谷地駐車場

標高630m.開拓地と国有林の境で世界谷地入り口になるが駐車場が狭いので6月の花見の頃は超満車となる。遠く台形の山は櫃ケ森、三角の山は中ノ森、どこから見てもこの風景ですので、一目で栗駒山がわかります。地元の子供達はお弁当山とオッパイ山と呼 んでいます。 

二 第一世界谷地分岐点

駐車場より5分、両脇にイチゴと大根畑を見ながら、急な坂を上りつめると、平らになり、ブナの二次林を5分程度歩く、世界谷地への連絡道だ。古道は世界谷地を水源とする冷沢の対岸通っているが、未確認。分岐点、左は第1世界谷地へ(2000年9 月18日参照)、右は第2世界谷地、湯浜方面。この分岐点から1000年の歴史の古道に入る。

古に役行者も行き往かむ木枯らし凍みる世界谷地かな

   *冬の第一世界谷地
   
 古道の分岐付近から第一世界谷地を樹林越しに望む。積雪2m

古の背負子思ほゆ深雪踏みぎしりぎしりと雄勝の里へ


三 第二世界谷地入口分岐点

第一世界谷地分岐よりなだらかな坂道を10分程で第二世界谷地入り口に着く。途中、ブナ、ナラの混成林に、明治時代植林したといわれるカラマツが目立ち、古道もカラマツの落ち葉が敷かれてる。第一世界谷地は揚石山の水を集めて一迫川、三迫川に分水。第二世界谷地は大地森と秣森の水を集めて一迫川にそそいでいる。古道は第一世界谷地の東端を横切り秣森のなだらかな南斜面を等高線に沿って通っている.秣は馬草、馬牧場に通じ、動物の生活環境に最高の空間だ。(軍馬の牧場伝承)

野分けして獣の道を分け入れば雉も啼くなり道ふたつ







四 秣森お助け小屋跡か!?

第二世界谷地入分岐より右側が古道の幹線、左側は第二世界谷地経由で古道幹線にでる。分岐点より両道の間の奥に3本の杉の大木がみえる。古来、道標の杉と呼ばれている。今回の旅の目的は、この周辺の調査で、横20m幅10 mの整地跡と清水が確認された。位置関係からして、大地森お助け小屋と冷しお助け小屋の中間であり、居住空間としても良好であること、営林署の小屋設置のないことからして、ほぼ「秣森お助け小屋」でしょう。秣森お助け小屋は戊辰戦争のとき利用され、また、揚石山(あぐろすやま)は荷物の「上下山(あげおろす)」が語源と言われてることから、湯浜下道が開通(1882年)するまでは、文字尾根街道(深山、揚石山経由)でかなりの背負子達がこの小屋を利用したと思われる。来春再調査をしてから結論を出します。 

背負子(しょいっこ)の汗をふきふき荷を運ぶ姿今なし秣(まぐさ)の森に

 *冬の秣森

第1世界谷地分岐から街道沿いに5分も歩くと、左の沢は一迫川と三迫川に分かれる分水点になり、カラマツ林をすぎると、三本杉がみえてくる。 街道の上のほうにも数本の杉があるが若木で小さいので、見分けることができる。この付近の積雪は250cmぐらいで、吹き溜まりもなくお助け小屋跡の整地跡も解るくらい風が少ないようだ。

山里の春を待ちかね山鳥も弥々(いよよ)と啼けり秣の森に

冬の第二世界谷地

背負子(強力)の冬道は三本杉(秣森お助け小屋跡)から第二世界谷地を南北に横切るルートが近道で、谷地そのものが大きな目標になるようだ。


五 第二世界谷地経由出口の分岐点

三本杉よりなだらかな坂道を10分程登りつめると、下り坂になり、すぐ第二世界谷地出口の分岐に出る。右側は秣森の山頂(779M)に一番近く、その肩にクロベの大木が一本見える。

うれしやなお助け小屋の近くれば酒も飲みたや仮眠もしたや

六 ブナの広場

第二世界谷地出口分岐から坂を下ると平らな広いブナ林が続く。10分程すると休みの石が道路わきにある。通称ブナの広場といい、自然観察の際、このあたりまで来る。この広場にも三本の杉がある。

あしひきの栗駒山のぶなの木の君が面影指もて触れむ


冬のブナ原生林

第二世界谷地を右寄りに進むと、ブナの原生林に入る。
更に、北に向かってあるくと街道沿いのブナの広場にでる。
ここのブナ原生林は栗駒一番の規模をなす貴重な森林である。

ブナの木は若木に見えて幾十の冬を越したり栗駒山に
カモシカの休み場か?

世界谷地からブナ林を10分位歩いた所に自然にできた雪洞があり、その周りにはカモシカの足跡が多数ついていた。

かも鹿は雪の寝座(ねくら)に親子して木の芽食みつつ来る春を待つ
カモシカの溜め糞
雪洞から2mはなれたところにカモシカの糞があった。だいたい同じ所に糞をするので溜め糞とよんでいる。どうやら、カモシカを驚かせたらしい。新しい足跡が私たちの行く方向についている。

栗駒の冬を越す術教えつつ鹿は我が子に生命(いのち)をつなぐ

街道ブナの広場付近

第2世界谷地から30分位北に歩くと、夏の街道、ブナの広場にでる。ブナ林の中にナラの古木と3本のカラマツが目印になる。北の方向は、なお平らなブナ林が続くが、夏の街道は左前方の前坂をのぼる。

雪被り長き手足を伸ばしいて阿修羅の如くブナの木坐(いま)


七 役小角(えんのおずぬ)石塔像跡

枯葉に埋もれる石組みブナの広場から5分程すると、なだらかな坂道を登る、さらに広々としたブナ林を10分程歩くと、大地森御前の変則十字路に出る(バックナンバー7月23日参照)。十字路には疑木のテーブルがあり、ナラの大木を右折すると、大地森経由で栗駒山へ。直進すると、湯浜温泉へ。左折すると、温湯温泉へそれぞれ標識が完備している。ナラの木の右に杉の大木があり、その杉の右から御沢に通じる、かっては主要な登山道があったが、今は廃道となり、鳥居の基礎石と修験道の祖「役小角の石塔像」があった、1メートル四方の石組み台座の痕跡のみとなった。この石塔像は現在湯浜温泉に移動されたが、北限の石塔像といわれ、明治以前の民俗信仰の研究上、大変貴重なものです。

修験なる道を求めし求道者が心尽くせる小角の社(やしろ)
見つけたり枯葉の森に埋もれたる小角の社此間(ここ)に出(いで)き

の大地森御前

ブナの広場から緩い坂道、前坂を登りさらに、緩い尾根筋をすすみ、また緩い坂道、阿戸坂がある。そこををのぼると大地森御前の森がひろがり、変則十字路はまもなくである。 冬の目印はナラの大木と1本杉であるが、積雪が3mもあるので、夏より小さく見える。その後方はカラマツ林があるのでわかりやすい。 大地森は大神森に通じ、かっては鳥居、行者堂、修験者の宿坊(お助け小屋)があったが、今は何もなく大自然のみである。 

 冬の秋田越え古道(世界谷地〜大地森)はスキー、カジキなどで初心者でも楽しめますが、冬の標識がありませんので、初めての方はガイドが必要です。 

山神は大神森に鎮座してナラの大木鳥居とぞする



八 大地沢 標高770m

大地森御前から800mの等高線に沿ってブナ林を歩く。途中、5分位急斜面を横切るが、若干登り気味、ブナと朴の木の樹肌がよくにているのできずかなかったが、足元には朴の実が目立つようになる。古歌はこの辺りで読まれたのか!十字路から30分位歩くと、この街道筋にはめくずらしく赤松の古木が10数本みかける。カラマツの林にはいる、10分程坂を下ると大地沢の沢鳴りが聞こえてくる。大地沢は街道一高低差がある難所である。この沢は緑色の平らな石が多く、岩滑りの状態が多いようだ。

人麿の「君が手枕」くちずさみ朴の木繁き大地沢行く

九 一本杉のマサカリ山神 標高820m

大地沢から滑りの滝沿いに3分程急斜面をよじ登り、さらに5分程登ると杉の大木が見えてくる。杉の根元に30cm位のマサカリを持った山神が祀られている。この街道のお助け小屋には、必ず石仏があったと聞くが、現在確認できるのはマサカリ山神を含めて三体のみとなった。移動されたのか、埋もれたのかは定かではない。急斜面の中段にあるので、冬期間、背負子達には重要な目標になったと思われる。

ありがたや苔を衣に山神は杉葉埋もれてお山の守り
山神は童の如き面差しで道行く人を和まし居りぬ

十 小檜沢 標高910m

マサカリ山神を参拝してから、15分程急な坂道を1歩1歩枯葉を踏みしめながら歩く。足元にはブナの殻と実が目立つ。ブナの実は5,6年周期で実をつけるが、今年は豊作の年か、上を見ると、枝には、まだ実が一杯ついている。森の住民(動物)達には、あたたかい冬になるようだ。なだらかな坂道をさらに10分程ブナの実を食べながら歩くと、左に獣道のような道がある。笹を分けて進むと、奥に車道がある。この車道は温湯温泉から入り大地森のブナを伐採するための車道であったが、ブナを守る運動で、ブナの伐採は中止され、車道延長も中止された。この車道を200mくだった所に、幹周り9m50cm推定樹齢1000年以上のクロベがある。幹は落雷にあい空洞化しているが、樹勢がよく、おそらく、世界一(確認中)のクロベになるでしょう。車道に通じる分岐より5分で小桧沢に着く。 クロベの紹介は後ほど。

冬浅き奥山行けばブナの実を熊に戴く小檜の沢

十一 ワタシ沢 標高890m

マサカリ山神の坂を登りつめると、麝香熊沢まで標高900m前後に広大なブナ原生林の高原が続き、街道左谷側 斜面にはクロベの原生林が続いている。 小檜沢より4分ぐらいすると、幅1mもない小沢が6,70m間隔で8ツの沢が続く、通称八沢(やさわ)という。この八沢は渇水期でも涸れることなく流れている。その8ツ目の沢を過ぎてすぐに三方(本)ブナがある。三方とは三方向の分岐点を意味し、ブナは目印であろう。駒の湯の菅原孝氏(77才)は若い頃、父親から教えてもらい、そのブナに鉈目をしたというが、今は解らない程、回復をしている。この三方ブナから右カーブしながら相ノ沢、雪つばきの森、孫小屋峠、麝香熊沢、赤沢、国境、秋田領田代沼お助け小屋と古道が続いていたが、1876年(明治10年)湯浜開湯、1882年(明治16年)三浦留吉氏が湯浜街道(下道)開削後、利用者の激減により自然に戻った。また、この三方ブナから湯浜までの現存街道は湯浜温泉が定着してからマタギ又は官林管理者が利用しやすいように開削したのであろう。
三本ブナから4分ほど歩くとワタシ沢がある。そこに、かってはワタシ小屋があり、仙台、秋田の交易最盛期、背負子達がこの小屋で物資の引渡し、交換をした場所といわれている。

この道は誰が開きし渡し沢小道曲がればマタギが住処









十二 湯浜の分岐点 標高860m

ワタシ沢から6分ほどするどすると、左側ブナの木に赤のスプレーで三方ブナとかいてあった。さらに、そこから4分ほどで、名前なしの小さな沢(とりあえず名無沢と名付ける)がある。No11の三方ブナとワタシ沢に類似している。こちらの三方ブナは湯浜温泉三浦正一氏が記憶のブナであるが、いずれ古道の位置が確定できればブナの位置も解る事なので、今回は、現状のみをしるす。名無沢より11分ほどで相ノ沢である。

雨が降り出したので、雨具を着るが、沢の中にカメラを落としてしまった。カメラは作動しなくなってしまった。フイルムは大丈夫だろうか。相ノ沢より12分で湯浜分岐である。ここには鉄骨の小屋があるが、今は中に何もない。

平成10年まで修験道の祖、役小角の石塔像が鎮座していた。そして、2回目の移動(ご巡行)で今度は湯浜温泉の墓地の脇に鎮座していた。宝暦10年より平成10ねんまで、そして、大地(神)森御前から湯浜温泉まで、高下駄をはいて歩いた石塔像を《めぐりの行者》と呼ぶことにする。分岐は三方で、右山頂、左湯浜。

修験者は石になりてもそちこちと山野翔るや巡りの行者










十三 白桧沢 標高730m

湯浜分岐から白桧沢まで17分、一気に下る。沢には丸木橋がかけられ、道も小石が敷かれて歩きやすくなる。湯浜が近くなったことをかんじる。この辺は栃の木が多いので、実をさがすが、見当たらない。動物達が運んだのだろうか、不作だったのか気にかかる。また、今回は、熊だなが見当たらなかったことも気になる。そういえば、ドングリも見当たらなかった。

沢架かる橋の袂に誰彫らむ石の弁慶黙坐の修行

十四 湯浜の山神

白桧沢より5分。ゆるやかに登った尾根に小さな山の神がまつられている。裏側に道の標示がある。湯浜開湯時、この山神様の後方の尾根を登り、 孫小屋峠の上の道に通じていたという。その時代には、この山神様は、 孫小屋峠の分岐にあり、湯浜への道標の役割をしていた。その後、湯浜街道(下ば道)の開通により、上ば道の交通量が少なくなり、新しい取付道(湯浜,三方ブナ間)が出来た後、現在の所に移動されたと言われている。そんな事から、「湯浜の山神様」と呼ばれている。ただ山神の前で少し悲しかった。供物の中に、ビニールに包まれたクッキーややワンアップのフタが散乱していたからだ。このような供物は山の常識とは反する行為であり、是非とも謹んでもらいたい。

山神は怒りにけりなおそらくは土に戻らぬ供物の散らかり

十五 行者堂

湯浜山神の尾根から15分下ると、広い草地が見えて来る。草地の奥端にお堂ができている。平成12年7月、石巻市羽黒町吉祥山、文殊院住職 遠藤賢学氏が建立したもので、御本尊は修験道の祖、役小角石塔像である。この「巡りの石塔像」は1760年(宝暦10年)に建立され、明治に入って修験道は禁止され、世間から忘れられた。昭和35年頃から石巻市の遠藤氏が修験道を復活、その後、湯浜分岐に石塔像を移動、平成10年には更に、湯浜三浦家墓地まで移動、平成12年、行者堂を建立され、1760年以来、旅人、信者より親しまれてきた石塔像は堂内に祭られた。

小角の徒修験の道を復(ふたた)びと奥山建てし白木の御堂

十六 湯浜温泉 三浦夫妻

行者堂より下り坂を2曲がりすると5分で湯浜温泉につく。番犬が来客が来たことを告げ、三浦治夫妻が出迎えてくれた。記念写真をというと番犬もポーズをとり、若夫婦と並びパチリ。 

番犬の迎え嬉しき奥山に秘湯ありけり湯浜温泉

十七 湯浜の上滝

浜温泉で熱いコーヒーをご馳走になり、迎えの車が待つ車道まで15分程歩く、途中硫黄の香る露天風呂と上滝がある。
枯葉の古道を歩くシリーズはNo17をもって終了いたします。これからブナ街道を歩いてみたい人の道しるべになれば幸いです。森の中に入り、森と遊んだ。そして、森からたくさんのお土産をもらった。今度森に行くとき、何にしようか?僕の土産!

うは滝の底に見えしは山女かも散りし紅葉の衣羽織りて


番外編1 湯道の草刈山神

駒の湯元湯の玄関先山側に、右は湯神さまが、左は鎌を持った山神さまが祀られている。湯神さまは駒の湯当主菅原孝氏が駒の湯の守護神として祀たものですが、左の鎌を持ったの山神さまは湯道の山神さまと呼ばれ、開拓者のM(故人)が湯道から背負って運んだと、開拓の古老は言う。湯道と言う所は町道馬場・駒の湯線高平牧場跡の入り口にある1本杉の場所で、現在も一体の山神さまが祀られている。この町道は古道上に開設されているが、以前は十文字で、山に向かって左は文字、右は駒の湯に通じる道があったことから、湯道と言われたのであろう。 

 くりこまの雪に埋もれ凛として草無き道に草刈山神

番外編2  役行者石塔像
 
 
 

役小角(行者)については、No7,No12,No15で紹介したので、今回は、行者堂に北限の役行者秘像として納められた石塔像を紹介します。写真は4年前に撮ったものを、デジカメで写し変えたもので、見ずらいと思います。石塔像の頭は髪を頭上で結び、布を頭上から背中までかけて髷と一緒にむすんでいる。体は膝まで衣をまとい、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に巻物を持ち、足は素足で高下駄をはき、何かに腰掛けている。奈良県吉野山・桜本坊の重要文化財、役行者像と同じ姿である。また、白旗に奉納者が「神変大菩薩」と書いているのは、1799年聖護院の「役行者」が光格天皇より「神変大菩薩」の称号勅書を賜ったもので、役行者を神格化したものです。

奈良吉野行者大峯飛び越えて辿りつきたり奥の栗駒
(ならよしの ぎょうじゃおおみねとびこえて たどりつきたり おくのくりこま)



一口メモ

お助け小屋
炭焼き小屋の少し大きめの建物で、旅人、商人、背負子等が一夜の宿とした。そこには番人が居て、宿泊客の世話をしていた。小屋には20人位が宿泊可能で、鍋、釜を貸し、お客の自炊であった。宿賃は1人20文(明治初年)で、当時、お米一升位の値段であった。小屋では、どぶろくと、飴を売っているところもあり、また商人や背負子達の荷替えや品物の交換などをする場でもあった。
お助け小屋利用のきまり
この小屋は、誰様が着ても、風呂敷の荷を置いた場所が、その人の居場所と決まっており、勝手に場所替えはできないきまりになっている。後から来た人は段々小屋の奥のほうになり、長い炉の奥に火を炊くのである。したがって、小屋の長さだけ、炉が長くなっている。炉の両側が板になっていて、敷物は下馬筵一枚だけで、木銭は相談して払う。持参したものを下馬筵の上に敷き、後に風呂敷荷を置く。小屋の中の通行は炉縁渡りで行い、人の間を歩いたり、人渡しして用を頼んだりは出来ない。またどんな身分の人が入室しても、居場所を明け渡したりすることはしない。

古文書に出てくるお助け小屋
*木立お助け小屋(一番里に近い)。*前坂(冷し)お助け小屋(通行人、参拝登山の基地、昭和初期まで利
用され、及川安富氏旧宅)
*秣(馬草)お助け小屋(揚石山経由者の利用、第二世界谷地入口)。*大地お助け小屋(宗教、交通の要所
で街道一の規模)
*渡し小屋(仙台、秋田の背負子達の物資交換場所、渡し沢)。*孫小屋(仙台藩最後の小屋、湯浜開湯当
初はここより湯浜に通じた)
*田代お助け小屋(秋田のお助け小屋で県(国)境塚に最も近く、源義家公のお手植えの杉等もある。

<<背負子(しょいこ)>>
仙台と秋田の交易を支えていたのは、たくさんの背負子達であった。背負子は仙台、秋田双方にいて、沼倉衆、文字
衆、小安衆などと呼ばれていた。当時、街道沿いの山村の人にとっては重要な職業であり、各集落には係りがいて背負
子人足の出番を指示していた。
背負子達の出で立ちは、夏は頭に雨傘、冬は「馬のつら」というものを被り冬袴をはいていた。また、板に縄をまいた荷当
てを背負っていた。3尺5寸(75cm)位の桐の棒が必需品で、棒の先が二枝に分かれており、立ったままで荷にこの棒を
当てて、どこでも休めるようになっていた。荷棒を巧く使いこなせるようになると一人前の背負子になったと言われた。達者
な人は80歳まで働いていた。山道は危険がともなうので、背負子の一人歩きはしなかった。必ず四,五人連れで歩き、多
い時は、十,二十人と揃って荷を越していた。冬でも背負子の仕事が続き、冬は、雪漕ぎ案内を立てていた。雪漕ぎ人
は、熟練と人一倍の体力を必要としたので、手間賃も高かった。
江戸時代は、途中、狼、熊などの危険があったらしいが、明治になってからは、そんな危険はなく、春先は兎、秋は猿に
会うぐらいであった。荷物の運賃は当時天保銭35枚であった。

<<雪つばき>>
古老からの伝承によると、雪つばきは秋田側だけのもので、宮城にはなかったが、相の沢左岸だけにあり、旅人が目印の
ためにうえたのだという。確認のため、標高900m相の沢左岸の森に入ると、かなりの数の雪つばきが地面をはうように群
生していたいたので、花見のたのしみができました。

<<熊だな>>
秋の紅葉前、木の実がなったころ、熊が木によじのぼって、枝を寄せて実を殻ごと口でこくように食べる。食べ終わった枝
は自分の尻に敷く。その動作を繰り返す。葉のついた枝なので、出来立ては大変大きく見え、熊のベットのように見える。
この行為は食べる手段だけでなく、なわばりの主張でもあるようだ。主にナラの木に作るような気がする。


熊だな

<<役行者>>
役行者(役小角 えんのおずぬ)
「生没年不詳、奈良時代の呪術者、半島系の呪術者韓国広足の師、文武3年(699年)世を惑わす妖言をなしたの理由で、伊豆に流されたとあるだけである。後世いろいろな伝説がつくられ修験道の開祖と仰がれた」と、正史にあるだけです。日本の仏教、神道は、この修験道に垂って、日本独自の宗教発展をしてきました。修験道は「人の一生の通過儀礼や年中行事と深くかかわりあいもってきた」ことから、江戸時代まで、民衆と密接なつながりを持ってきたが、明治に入ってから禁止され、忘れられてしまった。江戸時代までの、民俗学を研究する上で、避けては通れない重要な宗教であります。巡りの行者石塔像は北限の石塔像といわれ、建立月日、位置など後世の研究者のために、正確に残したいものです。

<<湯浜温泉之由来>>三浦家所蔵
文政七年三月下旬ノ事ナルニ当村字水無シ居住三浦新蔵ナル者金田庄照井川ナル川上ノ深山ニ入り 熊狩りニ来リケ
ルカ 熊ヲ見カケ 追来ルニ 其ノ里程五里ナリニ而 温泉ノ所々ニ有ルヲ見出シケル 夫レヨリ当所ヲ開カント思ヒケルカ
風雨ノ砌ハ深山ニ人居ル故ニ風雨ツツクナト山里ノ人々ニツカエ開ク事叶ワス而中絶シテ有りケルカ 今ヤ大政御一新
ニ相成リ 明治九年ヨリ官許ヲ受テ左ニ印ス四名ニテ開キケルカ日々月ニ開ケ 年々四方八方ノ御客様方多ク相成候事
花山村字水無 三浦新蔵長男金澤三浦五郎右エ門養子成  三浦卯三郎
同  村 入澤田                           佐藤 利作
同村   天狗森                           佐々木幸十郎
同村   金澤                             三浦 卯内
明治九年  右印ス月日ハ二十一年旧四月二十五日

クロベ
黒檜  檜科、日本固有種なので日本一は世界一ともいえる。同じ仲間で北アメリカにニオイヒバがあり、中国には4種類あるそうだが、なぜか日本の名前がついているそうだ。氷河期の生き残りと言われ、岩場の斜面に多く、20年で人指し指ぐらいの太さしかのびないと言われている。No10で世界一のクロベではないかと問い合わせた所、山形に幹周り10mのクロベがあり、残念ながらNO2となりました。No2の樹丈20m、東西枝長16m、南北枝長19m、地上140cmの幹周り9m50cm、直径3m、推定樹齢1000年、空洞化した木肌に落雷の跡あり、落雷が伐採から守ってくれたのかも・・・・。写真は残念ながらカメラごと沢に落としてしまい、失敗しました。 


 


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2001.03.08