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ペルジーナのバーチと言うチョコレートは、ナッツをひとつづ
包んだ山型のチョコレート。開けると、愛情、恋愛に関する古今東西のフレーズが印刷された薄い紙が入っている。
昨日食べたバーチにあった紙にはこんな事が書いてあった。
「真の愛をみつけるのは真の友情を見つけるより難しい。」
真の友情を見つけるのが難しいって言う事はみんな知ってる。真の愛を見つけるのはさらに難しいっていうわけ。
ここで言う「愛」は狭い意味での愛、恋愛をさすものと考える。
つまり、友情は「セックス」抜きの、愛はそれを含んだ関係(実際に肉を交えるか否かはあまり問題ではない)、とも定義できる。
一理あるかも知れない。でも何故なんだろう?
誰でも真の友情と真の愛を求めているものではないの?
みんなが求めていながら、なかなか得られないのはなぜ?
腕組みして眉間にシワよせて考えてみる。
それは要するに、自分以外との関係だからだろうな、と結論して腕組みを解く。
他との関係は、すべて自己愛の投影と考える事ができるからだ。
「あいつに好意をもっている」「あの人を愛してる」っていうのは、「あいつに好意を持つ自分が好き」「あの人を愛してる私が好き」って言う事に過ぎないのかも知れない。
「私」が好きな「あいつ」や「あの人」は、だからそれに値する人間でなくてはならない。「この私」が気に入る人は素晴らしい人でなければならない。その素晴らしい人に気に入られる「私」は素晴らしいことになるわけだ。
だから、恋の始まりなどは特に相手に装飾をつけたがる。
あばたもエクボって言うやつだ。
「恋愛」というのは一種の精神病状態だと聞いた事がある。
それも障害のある恋だとなおさら。
障害のある悲恋、悲しみ、苦しみは麻薬のように脳みそを興奮させ、それはある種の快感になる。だからなかなかやめられない。
行方に障害のある恋人同志がやっと逢瀬の時を持って「幸せ」とのたまう時、それは興奮状態の快感であって「幸せ」ではない。
「幸せ」と言うのは波のない穏やかな状態の事だとも言う。
だから「幸せ」な状態に気が着かないことだって多々あるわけだ。
多くの障害を乗り越えて一緒になったカップルが、あるいは激しい片思いが晴れて双方向になるや、いとも簡単に別れてしまう時、育てていたのは、相手に求めていたのは自分が味わう「快感」だった、ということになる。
「私」にその「快感」を与えなくなった「あの人」のエクボはあばたになる。相手に去られて残された方は、「悲恋」の興奮状態を味わい続けてしまう事もあるだろう。
興奮状態のまま、自分の中にある相手への思い、自分の中にある相手から自分への思い、「妄想」ばかりが大きくなる。現実の相手はもういないのだから。
相手への思い、自分が空想する相手の自分への思い、どちらが大きくなっても、噴出する先は受け入れてくれないのだから、その心の痛みやストレスは相当大きい。
では「幸せ」な状態になれる関係って言うのはどう言う事だろう?
つまり、「波のない穏やかな状態」を享受できる関係って言うのはどういうことだろう?
好意や愛情は双向性を望むのが普通だろう。
自分が思うのと同じ量だけ相手も思って欲しい。
実際にはその量や「心理的距離感」(心理学者山根一郎定義:クリックするとその論文に飛びます。"BACK"で戻ってきてね))に差がある方が普通だ。だから恋路はスムーズに行かない。友情では妥協できる距離感や量の差も恋愛では苦痛のもとになる。
だから、差がある時は幸せな状態になれない。
付き合って、共通の体験を重ね、差を縮めるか、友情のように妥協する心境になること。つまり、恋愛のドキドキ感をなくした時に出てくる。
恋愛のドキドキ感をなくしても、まだなお相手を求めて「幸せ」な状態を認識するためには、おそらく、相手への敬愛の念を持ち、尊重し、互いの自由を認める、うまくいったフリージャズ演奏のような「自分勝手じゃない自由(日刊デジクリに書いたコラム:クリックするとコラムに飛びます。"BACK"で戻ってきてね)」な精神を、互いに持つ事、なんだろうと思う。
恋愛のドキドキ感がなくなると相手に興味がなくなる、というのは、結局のところ自分の「快感」を求めるだけの閉じた関係だった、という事になる。相手の人間性との関わりに喜びを見い出す開いた関係ではなくて。
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