漫画家あおきてつおが見た古代史観


INDEX (クリックすればその回のページが現れます)
第1回   欠落した147年
第2回   邪馬台国への検証(1)
第3回    邪馬台国への検証(2)
第4回   邪馬台国への検証(3)
第5回  古代史が見えて来た



 
第1回 <欠落した147年>

人類学で、ミッシングリンク(失われた環)という言葉がある。
サルからヒトへとの進化の過程で、どうしてもある時期だけ欠けてる部分があり、
そこを埋めなければ、ヒトの進化は解明できない。
 
ミッシングリンク、じつはこの日本史にも存在する。
出土する副葬品古文書

このふたつは、当時の人々が我々に語りかけてくれる、貴重な手がかりである。
とりわけ文書は、歴史上の動きを探るのに不可欠だが、実は
西暦にすると、壱与が晋に朝貢した
266年から、倭王・讃が朝貢を開始した413年まで、
実に
147年もの間、中国の文献から倭の文字が消える。(もとより、当時の倭に書物はない)

つまり、その間、倭は中国へ正式な朝貢がなかった、と考えられる。

これはどういうことかというと、”中国への朝貢”とは、単に国交を意味する言葉ではなく、
倭国王としての王号と地位を、中国より印綬を授かることによって、
内外に権限を公認させると言う、いわば御墨付きの意味があった。
だからそれがなかったのは、この間倭は国王として、内外に知らしめる者(国)がおらず、
国内は混乱期にあったと、予想できる。

しかし西暦391〜407年、有名な高句麗の広開土王の碑文
”倭は何度も朝鮮半島に援軍を送り、高句麗5万の兵と戦った”とある。
つまり、147年の間に倭国は、一介の小国ではなく、他国へ兵を送り、5万の兵を相手に戦える力を貯えたことを、物語っているわけだ。

それだけではない。
4〜5世紀、世界的にもあまり類を見ない巨大古墳群が、倭に誕生する。
この古墳に眠る王は、もはや部落国家のような、小国の王ではないだろう。

となると、これらからどう考えても、この欠落した147年間には、
なにか重要な歴史的事実があって、我が国初の統一国家が成立したと、考えるのが自然だ。


それはまさに、天皇家出現の時期であり、
御存じ邪馬台国の名が消失した時期とも重なる。
この欠史時代は、日本古代史上最大のミッシングリンクといえるだろう。

では、、この147年の間に、なにがあったのだろうか?
3世紀にあった邪馬台国は、その後どこへ行ったのか?
そして、大和に根付いた天皇家は、何処より出現したのだろうか?


答えは、意外にも当時の世界情勢と、日本神話に、その痕跡を残していた。
                            (2回へつづく)




第2回 邪馬台国への検証(1)

 誰もが知ってる卑弥呼・そして邪馬台国
でも、どうしてもぼくには不思議でならない事がある。
それは、日本の古い歴史を語っているはずの「古事記」「日本書紀」には、
それらしい名が、なぜか、一度も登場しないことだ。
 なぜなんだろう・・・?

 BC1世紀〜AD2世紀。 日本では弥生時代(中期)と呼ばれていた頃、
大きく言えば、北九州を中心に<銅剣・銅矛>が広く分布し、ひとつの文化圏をつくり、
一方、近畿を中心に<銅鐸>が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。
 
 この分布から考えれば、邪馬台国が成立する直前の2世紀の西日本では、
北九州文化圏と、近畿文化圏という、ふたつの先進文化圏が並立してたことになる。
 そして、両者の文化に融合が見られない事から、このふたつは交流をもたない異民族国家
にあったと、推測できる。(図をみてね)


 さらに推測すれば、銅鐸を用いる近畿文化圏は、呪術的性格を帯び、
銅剣・銅矛を多く出土する北九州文化圏は、戦闘的性格を帯びていたことが、わかる。

 そこで、「3世紀の邪馬台国は、近畿にあったのか、北九州にあったのか」、
いまもって解決されない古代の大きな謎だが、この問題は実は、単に場所争いだけでなく、
歴史上大きな意味を持つ。
 なぜなら、
もし邪馬台国が北九州にあったなら、卑弥呼は北九州を支配下に置く
地方の女王にすぎない。

 しかし、
もし邪馬台国が近畿にあったなら、卑弥呼は、九州から近畿を制圧した、
西日本一帯の女王ということ
になり、日本は3世紀、すでに部落国家ではなく、
統一国家として成立していたことになるからだ。

 つい最近、奈良県巻向遺跡の「ホケノ山古墳」が、我が国最古の前方後円墳として発見され、
3世紀中ば、つまり卑弥呼の時代と、同時期の古墳である事が、判明した。
                   
(下の記事は「読売新聞」平成12年3月28日朝刊トップ)


 そこでにわかに、「この古墳こそ卑弥呼の墓では!?」という声が、高まってきているが、
そう単純にわりきって、いいものなのだろうか?


 あえてぼくは、この大発見によって、
邪馬台国近畿説は遠のいた、と言っておきたい。
 では、なぜそんなことが言えるのか、検証してみよう。


◆邪馬台国って大和朝廷なの?

もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるはずだ。
では、「邪馬台国=大和朝廷の前身」と考えていいんだろうか・・・?

 たとえば、大和朝廷のつくる記録のなかで、邪馬台国のそれとわかる記述や伝承が、
あるだろうか・・。
 古代天皇の公式記録書である「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年)は、
日本を古くからの由緒ある国家にしたてようと、万世一系を強調し、
架空の天皇までつくって歴史を水増しし、”粉飾”を計っている。

 であるなら、中国から金印まで賜った邪馬台国・卑弥呼の栄誉は、
古代の我が国において、最大のトピックスであり、
中国と対等な関係に保ちたいとする、朝廷の意図があったにせよ、
なんらかの形で、卑弥呼の偉業を残すベきであろう。
にもかかわらず、この文の冒頭で言ったように、
「古事記」「日本書紀」はこの事実を無視し、何も語ってはいない。

では、「古事記」「日本書紀」の編者は、
「魏志倭人伝」や卑弥呼のことを知らなかったのだろうか?

「古事記」「日本書紀」を編纂するよう詔を発したのは、天武天皇である。
天武天皇は中国の文化・政治を手本として、我が国初の律令制をしいたり、
長安の都にならって、飛鳥京を開都したりした。
すなわち、当時の日本は、中国のすべてを見習い、吸収する事が国づくりの基本だった。


であれば、当然当時の知識人は、「魏志倭人伝」を知らないわけがなかった。
なのに邪馬台国に関し、なにも触れてはいない。・・これは、どう考えてもおかしい。




つぎに、前方後円墳の問題。

 もし邪馬台国が近畿にあったのなら、時期的には先に言った「ホケノ山古墳」か、
古くから言われ続けている「箸墓古墳」あたりが、卑弥呼の墓に比定できる。
 そして、その後、ぞくぞくと前方後円墳がつくられ続け、
4〜5世紀、近畿を中心に、日本は華やかな古墳時代をむかえる。
その中には、仁徳天皇陵や応神天皇陵など、世界的にも類を見ない、
大規模な前方後円墳が出現した。

一見それは、なんの疑問もないように見える。
しかし実はここに、大きな矛盾がはらんでいることを、お気づきだろうか。

 なぜなら、もし”邪馬台国王朝の墓=前方後円墳”だとしたら、
明らかに前方後円墳は、どんどん発展しているぶん、
邪馬台国も、どんどん発展していなければならない。
大事な外交戦略である朝貢貿易も、活発におこなわれたはずだ。

 ところが、第1回で述べたように、
邪馬台国からの中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王・壱与でもって、消えてしまう。
正確には、AD266年、壱与が数回 朝貢船を送ったのを最後に、
朝貢貿易は、早々に途切れてしまうのである
 それは、邪馬台国の国力を低下させる、なんらかの異変があった事を、
物語っている。

 つまり、「ホケノ山」から続く初期前方後円墳を、邪馬台国の王朝の墓と解釈したら、
その後の古墳の発展と、邪馬台国の動きは、どうしても一致しない。
前方後円墳と邪馬台国とは、関係がうすいと考えていいと思う。

文献、そして古墳など、これらから考えて、
やはり、大和朝廷と邪馬台国は、別系統の王朝であったようだ。

とすれば、3世紀・・・・
邪馬台国は、
近畿内でのちの天皇家となる国と
たがいに敵国同士、または友好国として、存在してたのだろうか?

それとも、邪馬台国はやはり、
近畿以外のどこかに存在していたのだろうか?!
その手がかりは、魏の歴史書「魏志倭人伝」の一文の中に、あった!
 
次回 「邪馬台国への検証(2)」掲載予定は6月末です。
(ごめんなさい〜!遅れております。第3回はしばしお待ちを!)




第3回  邪馬台国への検証(2)

◆邪馬台国はどこに?

邪馬台国がどこにあるんだろ?
なぜそれが、学者間でも結論をみない、長いに論争になってるのかというと、
邪馬台国の道順について書かれた「魏志倭人伝」の記述に、原因がある。

「魏志倭人伝」には、邪馬台国までの道順がくわしく書かれている。
が、それをそのとおりに読み進んでいくと、日本列島を通り抜け、
はるか大平洋の海上(南大東島あたり)に行き着いてしまう。

そこで仮に、方角の記述はあやまりで、「南」ではなく「東」なんだと解釈すると、
近畿あたりに邪馬台国があったことになるが、
逆に、方角は正しく、距離の記述があやまりだとすると、
邪馬台国は北九州にあったことになる。
どっちもどっちで、どちらに軍配があがるかは、いまもって見当がつかない。

そこで、邪馬台国への道順にこだわらず、 「魏志倭人伝」のなかに書かれた
別の記載に注目してみよう。

まずは、出土品の手がかりから・・


◆銅鐸王国・近畿

(銅鐸)         

  近畿を中心に分布する銅鐸
  この銅鐸、いったい何に使われたんだろう。

  最近の研究によると、銅鐸は豊作を祈る、
  祭りの楽器ということが、わかってきた。

  さらに銅鐸は、物部氏の氏神をまつる神社のすぐ近くから、
  まとまって出土することが、多い。
  物部氏は、もともと神託をうかがう神官の出なので、
  銅鐸とは、大和に土着した物部氏が、人心をおさめるため、
  豊穣の祭器・神器として用いたものではないか、というのが僕の考えだ。

 ところでこの銅鐸、大和独特のもので、中国には存在しない。
 だとすれば、その特異な形ゆえに、倭の様子を記述する「倭人伝」で、
 一言触れてもよさそうなものだ。
 ところが、銅鐸らしき記載はない。
 大和からは、あんなにたくさん銅鐸が出土してるというのに・・。

一方、女王国の様子を描いた「倭人伝」の記載に、次のような一文がある。
  『(倭には)牛・馬・虎・豹・羊無し。兵には
・楯・木弓を用う。』

お気づきでしょうか。
太文字でしるしたところ、ここにはっきりと、兵はを用いたとある。
当時、銅製は一般的だったため、あえて銅の文字はないが、
これは銅矛のことにまちがいない。

つまり、銅鐸がなく、銅矛を有した場所、
邪馬台国は銅矛文化圏に位置していた、
と解釈できるんだ。


銅矛文化圏。それは北九州ってことになる。


◆邪馬台国は、倭国30余国のリーダー

 次に、広く領土としての邪馬台国を考えてみる。

 邪馬台国は、「魏志倭人伝」の書かれた当時、

 30余国と連合を組んで、
 倭を統治していた。
 倭が混乱してしまい、おさまりがつかないので、

 各国が”擁立(ようりつ)”して
 倭国王をたてた。それが、卑弥呼だった。
(魏志倭人伝の写し)

ところで、この”擁立”とは、どのようなものだったんだろう。
もちろん当時、文書による規約などなかった時代だ。
直接、各国の王たちが集まり、”和議”をした。

卑弥呼が女王に選ばれた理由は、卑弥呼が文字どおり巫女だったからで、
当時の国の支配体制は、神の神託を受けた巫女が、口うつしで民に伝え、
政(まつりごと)としていた。
卑弥呼が直接伝えるのではなく、側近の”弟”が、その内容を伝えていたと、
「倭人伝」には書かれている。

そう考えると、30余国の倭国の領域は、神託の口うつしが及ぶ範囲に限られるため、
意外と狭かったんじゃないだろうか。

奴国・伊都国・末羅国など、邪馬台国以外の有力な倭の国々は、
それぞれ北九州の玄界灘に面し、10〜20キロ離れた直線距離に、すぐ隣国があり、
ひしめきあっている。


10〜20キロというと、今ではひと山こえた隣村といった感じ。
国とは言っても、部落国家ってことだ。
(吉野ヶ里遺跡の規模が、おそらく最大級の国家だろう)

もし邪馬台国が大和にあったなら、末羅国から大和まで一直線にむすんでも、
400キロはあるわけ
で、その間、まだ場所が解明されないほかの北九州の国々や、
四国、中国地方の国々、近畿内の国々・・を合わせると、
とても30余国ではすまない。

だから、こう考えると、「倭人伝」に書かれた倭国とは、
部落国家の連合体で、
少なくとも奴国・伊都国・末羅国などが、北九州沿岸にあったと わかっている以上、
北九州を中心とする比較的狭い範囲をさして、書かれたものであると思うんだが、
いかがでしょうか?

つまり邪馬台国は、そこからそう遠くない場所にあったはず。

(三角縁神獣鏡)

ひとつ付け加えておくと、
魏が卑弥呼に送ったとされる、銅鏡100枚


卑弥呼と同時代の「三角縁神獣鏡」が、近畿地方に大量に出土するので、
 「この鏡こそ卑弥呼に送られたものであり、
 従って近畿地方こそ、邪馬台国である」
 とするのが、大和=邪馬台国の大きな根拠だ。

でも、この「三角縁神獣鏡」は、中国から1枚も出ていないんだ。
しかも、銘記された年号に誤りもあって、やはり中国で作られたものと
考えるのは、無理があり、この鏡をもって大和説を唱えるのは、ん〜むずかしい。

それじゃ、いったい邪馬台国は、北九州のどこにあったんだろうか?
卑弥呼の墓は、どこにあるんだろ?

それは、「倭人伝」に書かれた道順にとらわれず、
当時の倭の情勢と、日本人の特性を考えると、ある候補地が浮かび上がってくる。
そこは・・!?

次回最終回は、一気に卑弥呼の墓まで、行き着いてみよう!(次回は8月中旬予定)



第4回 邪馬台国への検証(3)

さて、いよいよ邪馬台国はどこにあるのか?
答えを出してみよう!
前回では、北九州のどこかだって話したし、
「魏志倭人伝」に記載されている邪馬台国への道のりは
あてにならない、とも話した。

では、なにを手がかりにするか・・。

大和朝廷の残した日本神話。「古事記」「日本書紀」。
ここに秘密が隠されている。

かつて、古墳時代の頃、大和朝廷は出雲国を攻めた。
邪馬台国と関係ないと思うかもしれないが、ちょっと聞いてほしい。

 (出雲大社)


とにかく、大和は出雲国を併合してしまった。
日本神話をかじった人なら、おわかりだろうが、
その件は『国譲り』の神話に書かれてある。

高天原にすむ天つ神が、国つ神であるオオクニヌシのおさめる国に行って、
「この土地が気に入ったから、私達にくれ」という。
するとオオクニヌシは
「あい、わかった。土地をあげるから、そのかわり自分を
 とても大きな、天にもそびえる社に祭ってくれ」と言った。
それで双方合意ができ、天つ神はその地を手に入れ、
オオクニヌシは神として、出雲大社に祭られることとなった。
・・・と言うものだ。

たいへんおかしな話だ。オオクニヌシにわりが合わない。
土地を明け渡すので、自分はただ祭ってくれればいい、とは・・。
つまりこの話は、大和朝廷が出雲国を、支配下におさめたときの記録と解釈すると、合点がいく。
要は、大和側が勝って、出雲側が負けたのだ。

でも、なんで負けた側が「神」となるんだろう・・。

実は、ここが最も日本的な考え方だと言える。
怨霊信仰とも言うべきかな。
勝者は、負けた者に対して、
「私達はあなたたちを大切にしますから、化けて出ないでくださいよ〜」とし、
敗者を神としてあがめ、社をつくる。

たとえば、菅原道真が非業に死を遂げたので、
”化けてでないように”、学問の神「天神さま」として祭っているのは、有名な話。

ここでも同じ。
その証拠に、出雲大社では、お賽銭を投げる時の、おじぎの仕方が変なのだ。
四礼四拍手」(4回おじぎ、4回手をうつ)
そして、社のしめ縄のしめ方が、普通の神社と反対にしめる。

四=死に通じる。


昔のひとは(科学のない時代)、言葉の響きを極端に大切にしてた。
言葉には力があって、その言葉を言うと、現実もそのようになっちゃう、と
昔人は真剣に考えていた。
そんな、非現実的な、と思うかもしれないが、今もそのなごりがある。
たとえば結婚式に
「きれる」とか「わかれて・・」なんていう言葉は、タブーだし、
受験生に、「落ちる」「すべる」もタブーだ。
”現実にそうなってしまう”からだ。

そんな時代である。
神がいる神社に、「死」を暗示させる儀礼は、どう考えても異常だ

つまりこれは、死を暗示させることで、
征服されたオオクニヌシの怨念を、この社にとどめさせる、
封印する
、といった意味があった。
しめ縄も同じく、生なるものへ巻いていくのではなく、
死に向かって巻いていく、そんな暗示がこめられている。

で、この「四礼四拍手」の儀礼を持つ神社は、
日本広しと言えど、出雲大社と、あともうひとつしかない。
そこはどこかというと、
大分県にある宇佐神宮だ。

(宇佐神宮)

ここにも謎は多い。
だいたいその主神が、だれだかよくわからない。
3人いて、1人は応神天皇(第13代)、次に神宮皇后(架空の人物)、
そして最も主格に祭られてるのが、「比売大神」。

「比売大神」って、誰だろう。
日本神話にも、歴史書にも出て来ない、この人物。
しかも、奇妙なことに、8世紀、称徳天皇の時代に、
僧侶の身でありながら、次期天皇の座をねらった男(道鏡)がいて、
このままだと、この男が天皇になってしまう瀬戸際、
それを阻止しようと、大和朝廷の使者が、なんとこの宇佐神宮へわざわざ行き、
比売大神のご神託を 伺ってきているのだ。

天皇の座が危うい時、「この男を天皇にしてよいのでしょうか?」などと、
ご神託など聞きに行くほどの神とは、どんなものか。
これは、単なる無名の神ではない。

この比売大神にも、四礼四拍手で祭られる
考えてみれば、参拝者は毎年、数十万人〜数百万人やってくる。
それが、千年以上も続いているのだ。
「四=死」の儀礼は、とてつもなく大きな呪文となるだろう。

宇佐神宮・比売大神への儀礼は、出雲大社のオオクニヌシと同じく、
怨念を封じ込めるものに、ちがいないと思う。
つまり、この人物は、かつて大和政権に敗れた国の支配者だった、
と言えるんじゃないか。

で、その敗れた国こそ、邪馬台国だったのではないか。

そう考えた時、謎は解ける。

地方の強力な政権であった出雲国。
そして、かつて倭国の勢力を、二分してた邪馬台国。
このふたつの強国を、大和政権は、併合していったのだ。
そのとき大和政権は、敗者に対し、あがめ、祭り、神としての社を築く。
しかし、「化けて祟らないように」と、その神を封印する呪文をかけておく。
そうすることで、大和の王は、安心して国づくりができたのではないか。

ちなみに、
「比売大神」の「比売」という文字を、古代中国語でなんと発音するか、
中国の言語学者に聞いてみたそうだ。

すると、かつて、こう発音していたのだという。

ヒミカ』もしくは『フィミカ』・・・

3世紀半ば、たしかに倭に君臨していた卑弥呼。
そして邪馬台国。
「倭人伝」に書かれた道のりは、謎のままだが、
こうして、いろんな角度でひも解いていくと、
おぼろげながら、古代が見えてくる。

邪馬台国は、北九州の宇佐付近にあった。
これが、いま最も妥当な結論だと、ぼくは思う。

(「邪馬台国への検証」は、これで終わります。
なお、第4回の論証に関しては、主に伊沢元彦さんの説を採用しました。)




第5回  古代史が見えて来た!  

いままで、邪馬台国の検証をしてきたけど、
邪馬台国の場所を推定することが、最終目的じゃない。
邪馬台国の場所の推定は、単なるワンステップなんだ。

さて、邪馬台国は九州にあった。
そのことをふまえて、古代史をひも解く。
すると、実におもしろいように謎は解けていく。
では当時、どんなことがあって、今の日本の原形ができたのか、
ぼくの考えをここに話しておこう!


>北九州の倭国は、外交上手
 
 紀元前108年のことだった。
 前漢が朝鮮半島へ進出する足掛かりにと、
 今の北朝鮮・平壌あたりに楽浪郡を設置した。


 それによって、北九州周辺の倭の国々は、大きな影響を受けて、
 当時、最先端だった中国や朝鮮からの銅器、漆器、玉類、さらに鉄器などが、
 大量に流入することになった。
 それまで農耕を中心とする、牧歌的な倭の国にも、”文化”が芽生え始めたのだ。
 考古学的にみても、この頃の出土品は、圧倒的に北九州が有利だ。

 で、伝統的に北九州の倭は、その経験と地理的条件から、外交政策を重視し、
 朝貢貿易を進めた。

 西暦57年、奴国が金印を授受される。
 歴史の授業で必ず習う、例の『漢の倭の奴の国王の印』というヤツだが、
 これは奴国が、倭の中で一番強い国という意味よりも、
 奴国が外交を重視した結果、中国・漢から
 「おまえはたくさん貢ぎ物をくれるので、倭のリーダーとして認めてやる。
 もしもおまえの国が危機に至ったら、助けてやっても良いゾ」として、
 公的に金印を授かった、という意味の方が近い。
 (漢から授かった奴国の国王の金印)


 それから150年後、
 邪馬台国の卑弥呼は、同じく外交的手腕を使って、盛んに魏ヘ朝貢をおこなった。
 そうして、金印を授かったり、鏡をもらったりして、魏と正式な国交を開き、
 自国の優位性を保たせてきたんだ。
 そういう外交手腕って、やっぱり北九州的な特徴だと言える。
 

 それに対し、大和地方の倭は、さほど外交に重きを置いてなかったらしく、
 ようやく西暦413年になって、倭王・讃が中国へ使いを送った。
 それが、大和の倭国が中国の記録書に出てくる、初めての記録だ。

 余談になるが、聖徳太子が 隋の煬帝に書を送る際、
 『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。』
 という、あの有名な一節を書き添えた。
 これを読んだ煬帝は、真っ赤になって怒って、倭の外交事務官に会わず、
 追い返してしまった。
 聖徳太子にどのような意図があったかは、わからないけど、
 少なくとも外交戦略上では、大失敗をしでかしたと、言えるんじゃないかな。
 これも外交に弱かった大和の地の、なせるものなのか、なんて思ってしまう。


>シャーマニズム国家がこわれた〜!

 紀元3世紀半ばのこと、卑弥呼はその外交手腕を使って、
 『敵国(狗奴国)が手強いので、なんとかしてほしい』
 と援軍を要請している。
 
 その直後の247年、卑弥呼が死んでしまい、混乱の後
 同じく女王として、まだ13歳だった壱与が擁立される。
 で、壱与もすかさず、西晋へ朝貢を送っている。
 でも、266年の朝貢を最後に、邪馬台国は、中国の記録から
 いっさい途絶えちゃうんだ。
 つまり、前にも言ってるけど、
 
それって、邪馬台国に何か異変がおこったことを、物語ってる。

 ある学者が、コンピューターで解析した結果、
 卑弥呼が死んだ年と、日本列島で皆既日食があった年とが、
 奇妙に一致することがわかった。 
 皆既日食
は、邪馬台国の人々にとって、
 「日輪をつかさどる卑弥呼が、世の中を真っ暗にした〜!」として、
 その大いなる力は失われた、と思ったにちがいない。
 
 伊沢元彦さんは、それによって、卑弥呼が殺されたのだ、という説を唱えている。
 なるほど昔のひとにとって、太陽が隠れるなんて、それこそこの世の終わりと思ったろう。
 だから、日輪の巫女を死に追いやっても、なんの不思議はない。
 (この事件が、のちにつくられた天の岩戸神話につながってるとも、言われてる)
 
 なんにしても、この年に国内で混乱が起き、なんらかの政変がおきたのは、
 間違いないことだ。

 その背景には、当時の政情不安があった。
 敵国・狗奴国の脅威は衰えない。頼みの魏の援軍もこない。
 それどころか、魏そのものが滅亡してしまった。
 ぼくが思うに、おそらく邪馬台国は、
 シャーマニズム的な原始国家制度の、限界を露呈したんじゃないかな。

 さらにもうひとつ、人臣の不安と脅威をあおっていたのは、
 天候の寒冷化だ。

 天候って、政変がおこるための、むちゃくちゃ大きな要素だ。

 中国の古記録や日本の土壌調査では、3世紀初頭(西暦200年あたり)から、
 ちょうど古墳寒冷期に突入する。
 作物は思うように実らず、餓死する者もたくさん出た。
 
 必然として、人はより豊かな土地を求め、他国の領地を侵入する。
 そして争い。混乱。
 北九州では、弥生時代末期に戦闘的な埋蔵品が(頭蓋骨に矢じりなど)、
 たくさん出てるけど、それって、こんな事情によるものだろう。
(戦闘によって首を切られた人骨。北九州独特の瓶棺墓に埋葬されている)


>シャーマニズムから、現実的な雇用国家へ
 
 一方、大和地方も、大きく時代が動いていく。

 それまで全盛を誇っていた銅鐸政権が、2〜3世紀を境に、いっせいに消えていった。
 考古学的には、銅鐸はまとまって土の中に埋められ、中には意図的に粉々にくだいて
 埋めた形跡のある例もあるんだ。

 ところで、銅鐸をあやつっていた人物って、誰だったのだろうか? 
 銅鐸がまとまって出土する場所は、物部氏の氏神をまつる社の位置と、不思議と一致する。
 物部氏とは、”もののべ”つまり”神の言葉を聞いて、口うつしでものを述べる”氏族で、
 卑弥呼と同じく、シャーマンだった。
 たぶん、物部氏が銅鐸を祭り(=政治)の道具として使って、
 近畿周辺の農耕民族をおさめていた、
 と考えられるんじゃないかな。

 でも、それが消えてゆく。
 天候不順が、彼等にも襲ったのだ。
 もはや、シャーマニズム的支配では、人臣の心は掌握できなかった。
 そうして、それに代わり、台頭していった国があった。

 三輪山周辺の扇状地に位置する、大和政権だ。

 このへんでは、ちょうど3世紀半ばより、大規模な前方後円墳が作られ始めている。
 (奈良県・ホケノ山古墳や箸墓古墳など)
 おそらく古墳造営は、はじめ、部族的な国家プロジェクトにより、計画されたんだろうけど、
 後々の古墳の全盛期を思うにつけ、大和国は国力をここで、一気に貯えていった感が強い。
 凶作で餓死者が多数出る、というマイナーなイメージは、ここにはない。

 大和は、古代エジプトがピラミッド造営で、人臣に仕事を与えたように、
 あるいは世界恐慌で喘いでいたアメリカが、
 ニューディール政策の国家的プロジェクトで、不況を脱したように、
 前方後円墳の建設によって、不況を克服し、
 人臣の心をたばねていったんじゃないか。
 
 古墳造営は、言ってみれば第2次産業の発生だ。
 それまでは、農耕・漁業・栽培といった第1次産業が中心で、
 やや例外的に、鏡や祭器・武器などをつくる職人がいたぐらいだった。

 ところが、古墳をつくってその報酬に食料をもらう、という使役システムが成立することにより、
 民に”雇用”という概念が生まれる。

 そして、専門にコメをつくる人、専門に古墳をつくる人といった、
 一般の民衆から成る第2次産業が発生した。
 それだけではない。
 その民衆を雇い続けるため、中央(支配者)は、食料の備蓄、流通などを
 コントロールし、確保して、
人々を食わさなくちゃいけなくなった。

 たとえば、余剰に備蓄された地域のコメを、国家レベルで管理し、不足がちな地域にまわす。
 また、使役として、その者がどれだけ古墳建設に貢献したかを記録し、報酬の量を決める・・。

 そうやって、徐々にだけど、国家はその経済基盤を整えてゆき、
 また人臣は、国家に労働を提供することで、生命の安全を確保することを覚えた。
 こうして、単なる部族社会から、国家としての成長を遂げたんだろう。
 
 さらに、重要な祭器のひとつである三角縁神獣鏡をつくり、それを地方各国の王へ
 配ることによって、大和との同盟関係を強化していった。
 そんなふうに、ぼくはこの国をとらえている。



 

>西と東の逆転劇

 大和においては、こんなふうに、
 占い・神託に頼らず、古墳建設という実質的な政策をもつ王朝が、
 新しい倭のリーダーとして、次第に席巻していった。

 それが、のちの天皇政権だった!
 
 そして、このような動きが、
 ほぼ同じ時期の3世紀中盤に、東と西でおこなわれていたんだ・・・!
 
 そうすると必然的に、北九州の勢力は弱まり、
 大和は中央集権化がすすんで、国力が強化される。

 その結果、周知の通り、3世紀から4世紀にかけて、考古学的出土品は、一変する。
 北九州のそれより、大和での出土品が多彩で優位になってくるんだ。
 

 こうして、壱与が朝貢した266年のすぐあと、
 北九州の、シャーマニックな邪馬台国政権は急速に衰え、
 また大和の、シャーマニックな銅鐸政権も消え、
 替わって、使役制度をもつ新大和政権が、いまの三輪山周辺から台頭。
 古墳造営を中心に、新産業をおこし、国力の基盤をしっかりさせながら、勢力を拡大。
 
 3世紀半ば〜4世紀にかけ、新大和政権は、つぎつぎと地方政権を駆逐し、
 ついに北九州政権を併合して、西日本一帯を支配下におさめた、
 と想像するに難しくない。

 
 つまりこの一連の流れが、
 弥生時代の完全なる終焉であり、古墳時代の幕開けなんだ。


>倭と和

 ちなみにここで、倭国の名称について、僕の考えを書いちゃおう。

 ””とは、あくまで中国の文献に書かれた文字。

 日本風になおすと、””は同じ音の””のことであり、
 (今も日本的なことを、「和風」と呼んでいる)
 ””となると、がぜん意味をもってくる。
 すなわち、和とは、和議・和睦・平和・共和・・など、
 複数の者が、ともに手をむすぶことであり、
 和国”とは、国と国がむすびついて、大きな連合をつくる、
 その”連合体”を意味している。

 
 たとえば複数の国が、ひとつの国として機能してた「ソビエト連邦」の
 「連邦」と同じ意味だ。
 ということは、”倭国”とは、”部落国家が連合してできた国”という意味であり、
 北九州の邪馬台国連合は、まさに30余国が手を組んで出来た”和国”なんだ。
 
 また、近畿地方でおこった”大和”とは、 
 そのままズバリ、”大きな連合国”という意味だろう。
 北九州連合に対抗して、あるいは北九州政権を併合して、大連合となり、
 大連合国=大和国と呼んだんじゃないだろうか。

 それにしても、なぜ大和をダイワと言わずに、ヤマトと発音するのか?
 それは・・
 ヤマトは山門であり、山の門、つまり山の出入り口に相当する扇状地を
 かつて”山門(ヤマト)”と呼んでいた。
 つまり山門とは、固有名詞ではなく、一般名詞だった。
 
 それに対し、水門(ミナト)は港であり、こっちは今も一般名詞として使われている。

(三輪山に広がる扇状地。ここに大和政権は生まれた)

 ところが、ある時期、三輪山周辺の山門(ヤマト)よりでた国が
 周辺の国々をとりこみ、近畿地方に連合国を築き、さらに北九州政権を駆逐し、
 ”和国”、それも”大・和国”をつくった。
 
 その後いつのまにか、国の中心部の奈良県ヤマト国を、そのまま国全体の名称で使うようになり、
 大和をヤマトと発音するようになったんじゃないか。
 
 今でも、「大和(ヤマト)」と書けば、奈良県大和地方をさしたり、
 大和魂という言葉のように、日本国全体の名称として使われることもある。

 こんなふうに、一般名詞が固有名詞へ転訛したわけで、
 もし大和政権が、海ぎわの国より発してたなら、「大和朝廷」と書いて「ミナト朝廷」と
 発音し、「大和魂」と書いて「ミナト魂」と読んでたことだろう。



 

>大和政権のルーツ 

 さて、さっきぼくは、東が西を駆逐して、大和政権が北九州政権を併合し、
 倭を統一した、って言った。
 けれど、ここにものすごい矛盾にぶつかる。
 
 どういうことか、といえば、
 日本の歴史を記録する「古事記」「日本書紀」。
 ここに書かれた日本神話では、東の政権が西を破った話など
 意外や意外、一度も出てこないのだ。

 逆に、すべて西の政権が東を、やっつけている。

 たとえば、初代・神武天皇は、九州の日向の地から、大和に攻め入って、
 倭国を統一したし(あの有名な”神武東征”)
 または、筑紫で生まれた13代応神天皇が、大和にいる12代仲哀天皇の
 息子たちを破って倭国王になった、とある。(これってクーデター?)

 とにかく全部が全部、九州勢が、東の大和政権を撃ち破ってる話ばかりなのだ。
 「じゃあ、そういうことじゃん。
 西が強いんで、邪馬台国だって、九州から東征して大和へ移ったんだよ。」
 ・・となれば都合はいいけど、やっぱりそううまくはいかない。

 なぜなら、もし九州勢が大和を併合し、倭を統一したなら、
 大和地方に、九州勢の独特な風習が伝わるはずなんだ。
 たとえば、北九州独特の埋葬方式である”瓶棺墓(かめかんぼ)”や”支石墓”。
 佐賀県・吉野ヶ里遺跡は、みなこの瓶棺墓で埋葬されているけど、
 大和地方には、そういった墓はない。
 
 それどころか、この時期、大和では、前方後円墳が作られ始めており、
 次第に、この古墳が日本中に広がり、ついに九州にも前方後円墳で、墓がつくられてしまった。
 
 つまり、神話的には、西が東を攻めて、日本統一を完了させてるけど、
 考古学的には、まったく逆で、東が西を駆逐していった様子が、見て取れるってこと。
 これは、どう説明したらいいんだろう??

 

 実はその答え、用意してある。
 次の地図をみてほしい。
 そこには、偶然とはいいきれない、とんでもない事実が隠されているんだ。

 
 おわかりかりだろうか?
 左は、あの大和新政権が生まれた奈良県三輪地方
 右は、福岡県夜須地方(甘木市周辺)
 1つや2つの地名が、同じだとしたら、それは偶然ですむだろう。
 でも、これだけほぼ同じ地名が並び、しかもその地名の配置がすっごく似ている。
 いや、似すぎている。

 これは、もはや偶然ではない。
 じゃあ、なにかというと
 国から国へ、人が移住した跡、とみるべきだ。
 集団移住した結果、新天地にも以前と同じような地名をつけたのだ。
 実はこの事実は、僕が発見したものではないんだけど、
 いまだに学者の間でも、結論がつかず謎のままになっている。

 要は、どちらからどちらに、誰が移住したのか?ってこと・・。

 ぼくは、これこそプレ大和政権の民が、
 西(夜須地方)から東(大和地方)へ、移住した痕跡だ
と思っている!

 なぜなら夜須地方の方が、地名が古く、神話の地名とも一致するところが、いくつもあるからだ。
 たとえば、アマテラスとスサノオが、高天原で川を隔て、対峙したときの場所は、
 「安河(ヤスカワ)」というところだが、
 これって、ここの「夜須川(ヤスカワ)」に通じるし、
 天孫降臨で、ニニギのミコトが降り立った最初の場所は、高千穂の「クシフルの峰」だが、
 これも夜須郡のすぐ近くに、クシフル岳がある。

 こうしてみると、やっぱり西の方が古い。
 つまり、日本を統一した大和政権は、
 たしかに、奈良県の三輪山(の山門)より出たんだけど、
 彼らのルーツは、実は北九州の夜須郡甘木市(の山門)にあって
 邪馬台国が全盛期にならない頃の2〜3世紀初頭、
 天候不順をいちはやく察知して、九州を離れ、大和へ集団移住したのではないか。

 で、卑弥呼が死ぬ3世紀半ばには、すでに移住してた彼らは、大和で勢力をつくり、
 前方後円墳を開発して、日本統一の第一歩を、踏みだしていたのではないか、と想像できる。

 そう考えたら、古代天皇家にとって、九州は故郷にあたるので、
 自分のルーツを書く時、やはり九州から始めてしまうだろうし、
 その遠い記憶が、”高天原”となって、
 たとえば、卑弥呼の暗殺と日食の関係を、”天の岩戸”の神話に模したり、
 東へ向かって移住した記憶が、”神武東征”などのようなエピソードに転写されて、
 今に伝わっているんじゃないだろうか。

 では、彼らに集団移住をかりたてたものは、ナンだったのか?
 果たして、天候不順によるものだけだったのか?

 その謎を解くカギは、当時の視点を日本列島以外のところにあるんだけど、
 そのことはまた、いづれお話するとして・・・。
 ひとまずこれで、古代史ののぞき窓』は、終了します。
 
読んでいただいて、ありがとう! 
 
ぜひ、ご意見・ご感想をお寄せ下さい。

                      
<おわり>

 



このコーナーでは、古代史に関するご意見・情報などお待ちしています。

もちろんぼくも、意見や雑感など書き連ねていきますが、
ただ、なにぶんにも不勉強なので、
みなさんの意見をどんどん紹介、採用して、このコーナーを作っていきたい、
と考えています。
メール・掲示板にどんどんお寄せください。よろしく!



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