茨城県江戸崎町

*関連サイト 美浦村お散歩団 

姥神狼煙台(稲敷市佐倉字姥神) 

 姥神狼煙台は、国道125号線と県道49号線とが合流する姥神の信号の南南東400mほどの所にある。県道49号線のすぐ西側に並行して走っている道があるが、その脇である。この先は何かの作業所になっているようで、内部に入れなさそうであったが、古墳のような土手があるのが見える。

 (この狼煙台の名称は仮称。お散歩団が正式名称を付けたら、それにならいます)

















江戸崎城(稲敷市江戸崎)



佐倉城関連遺跡群

1.佐倉城(稲敷市佐倉字城ノ内)

 南北朝時代の「別府幸実軍忠状」によると別府氏は幕府方に従って「佐倉兇徒」を討ったという。その佐倉兇徒が立てこもったのがこの佐倉城であろう。幕府側から見て兇徒というのであるから、佐倉城は、南朝方(北畠親房方)の「城であった。しかし、佐倉城はその後、戦国時代までの間に改修されながら用いられたらしく、近辺には4つの城館遺構がある。どれがいつの城だったのかはっきりしないが、漠然と佐倉城と呼ぶ場合は、これらの複合体として捉えられているようだ。しかし、実際には4つの遺跡である。

 この写真は、県道49号線脇の、佐倉神社(県道の西側の小さい方)の裏にある土塁。神社遺構かとも思われるが、しかし、この立派さは、やはり城館のものであると見ておきたい。残存状況は一部だけで、堀もないが、ここが1つの郭であったのであろう。













 佐倉神社からさらに東に進むと、その辺りが「城ノ内」である。この地名の示すとおり、ここには城があったと思われるが、どうも遺構がはっきりしない。ところどころ、土塁かと思われる部分もあるが、全体の構造がよく分からない。それでもこの写真の部分は空堀、土塁の跡かなと思われる地形である。
 この手前の道の真ん中に祠がある。松姫大明神の祠ということであるが、なぜ道の真ん中にあるのか? 何かいわくがありそうだ。

















2.佐倉殿屋敷(稲敷市佐倉字殿屋敷)

 城ノ内地区から北東に300mほど進んだ所が、「殿屋敷」と呼ばれているところである。この辺りの何件かのお宅が屋敷跡らしいのであるが、みな宅地の裏なので、中に入れない。写真の稲荷は土塁上に置かれたものであるが、これを見ると、やはり土岐氏関連の城館なのかなと思える。
 北側のゴルフクラブとの間には空堀らしき痕跡が奥に続いているのが見える。しかし、ゴルフ場と民家のフェンスが張り巡らされていて、確認はできない。
 比高6mほどの緩やかな台地先端部を利用した屋敷だったのであろう。











3.佐倉楯の台(稲敷市佐倉字楯の台)

 美浦村お散歩団によると、ホギメディカル配送センターの東400mほどの台地を楯の台と呼び、ここにも佐倉城関連の施設が置かれていたということらしい。しかし、この台地はほとんど削られ、東端の稲荷神社を除いてほぼ湮滅状態にある。


4.松葉様遺跡(稲敷市佐倉字松葉様)

 松葉様遺跡は、円光寺の南200m、つぶれてしまったらしいディスカウントショップジャンボの周辺にある。ジャンボの南側は深い沢になっていて、これは自然の地形なのかもしれないが、堀として用いられていたものなのかもしれない。また県道を挟んでジャンボの西側には所々、低い壇のようになっている畑地がある。この辺りが屋敷跡なのかもしれない。
 江戸崎土岐氏の家臣で松葉氏というのがいるが(木原城大手門の辺りにも松葉家がある)、この松葉氏の屋敷があったところであると思われる。


椎塚城(稲敷市椎塚)

 椎塚城は、方100mほどの単郭の城館であるが、その場所が非常に分かりにくい。かつて何度も探しに来ていたが、そのたびに探し当てられず、がっくりと帰ってきていた。
 しかし、近年はGooglemapという便利なもののおかげでマイナーな城館の位置や登り口を探すのがだいぶ楽になった。
 椎塚城も、Googlemapの衛星画像で見たところ、森の中に方形の区画があるのがはっきりと確認できる。この衛星画像のおかげでやっとこの城址に到達することができたというわけである。

 位置は三宝ゴムという会社の南西200mほどのところである。三宝ゴムの南50mほどのところで、道が東側にカーブするあたりから、未舗装の山道を歩いていけば、やがて城の北東側の虎口につながっていく。

 城は台地の縁に位置しているわけではなく、やや内部に入り込んだところにある。城というにはちょっと不自然な地取りである。三宝は平地であり、とても要害の地であるとはいえない。防御の為の城であるとは考えがたい。
 そして周囲が森林によって囲まれているために、どこに城があるのか、非常に分かりにくくなっていたのである。かつては、東側の畑のあたりを探し回ったりしていたので、ずいぶんニアミスしてしまっていたのであった。こりゃ、しらなきゃ分からないはずである。

 城の周囲の土塁と堀は、だいぶ崩されて埋められてしまったものらしく、特に堀はほとんど痕跡状態になっているが、本来は、この土塁と堀が四周にめぐらされていたのだろうと思う。しかし、防御性が高いとは思われない。

 曲輪内部の中央に小さな土壇があり、そこに祠が1つ建っている。城主の氏神さまであったものだろう。


 結局の所、これを「城」といってしまっていいのかどうかためらってしまう。その位置取りや規模・形状からして、「城」というよりも「屋敷」に近いもののようであるといった印象を持ってしまう。その歴史なども不明であるといったことなども勘案すると、中世城館というよりは、近世の名主屋敷の跡である可能性もあるのではないだろうか。







郭内部の様子。北東側と北西側には土塁が残っている。 城塁の北側の角部分。高さ4mほどあり、もっとも規模の大きな部分である。
(以前の記述)椎塚城は、県道103号線沿いの徳昌寺の東南250m、山陽工業という工場のすぐ東南辺りにあったらしい。「茨城県遺跡地図」を頼りに、探してみたのだが、遺構らしきものは見当たらなかった。写真の左側のお宅は1,5mほどの土壇の上にあるが、あるいはこれのことか? 地元の複数の方に伺ったが、みな城など聞いたことがないと言われてしまった。歴史等も未詳でよく分からない。



高田須城(稲敷市高田字須賀御城) 



 

東条高田城(稲敷市高田)

 『茨城県遺跡地図』では、高田神社の境内を高田城としている。しかし、どうもここには明確な城郭遺構は見られない。果たして本当にここが城址なのであろうか。
 南北朝時代の騒乱期に、この神社の神主千田内蔵助義信が、軍勢を率いて南朝方に加勢したという伝承が残っているようなのだが、南北朝時代に、ちょっとした籠城戦に用いられた城、ということであるのなら、、それほど明確な城郭遺構がなくても不思議はない、ということなのかもしれない。

 もっとも、神社のある台地は周囲が切岸のような急峻な地形となっており、そのままでも天然の要害となりうる場所ではあったようだ。

 神社の背後にはAの巨大な土塁状地形がある。しかし、土塁にしてはやたらと大きすぎ、傾斜も緩やか、しかも、その東側にも平場が続いていることなどからして、いわゆる城の土塁でないことは明らかである。おそらく古墳なのだろうと思う。


 高田神社は、平安時代の承平の乱の際に、平将門追討を祈念して、紀州熊野神社を分社して建立されたものであるという。その後は東条庄の総鎮守となり、鎌倉時代初期には、奥州平定を祈願して、源頼朝が500町歩の土地を寄進したという。
 南北朝時代に神主が、一勢力を率いて南朝方に加勢したということから、その頃にはちょっとした勢力になっていたようだ。
 戦国期になると、当地の新興勢力となった土岐氏に信仰されていたようだ。元亀元年(1570)11月には「守護(土岐)大膳大夫治英」が「東条庄高田住岡沢九郎兵衛英定作」の長刀を高田神社に奉納している。

*高田神社の記述についてはEdosaki 49ers' pageを参考にした。










東側から見た高田神社のある台地。比高10mほどの台地である。 神社奥に大きな土塁状のものが見られるが、土塁にしてはあまりにも巨大すぎる。おそらく古墳なのだろう。
神社本殿。この西側の土手は、切岸のような急峻な地形となっている。また、背後にも一見、土手のように見える地形があるが、これは神社の造成に伴うものであると思われる。
(以前の記述)県道107号線の、土浦カントリー倶楽部の西側600mほどの所に高田神社がある。この辺りが東条高田城の跡であるという。鳥居をくぐり境内に入ると、土塁が虎口状になっている。さらに神社の裏手には写真のような土塁がある。神社の西側の斜面は削り落としの急崖になっている。崖の深さは15mほどはありそうである。城主等詳細は未詳。
 東側の台地にも遺構があるらしい。



 

東条高田城U(稲敷市高田)

*この城址は高田神社神主さんのお宅の敷地内になっています。ここを見学なさりたい方は、かならずこのお宅の許可を得てからにしてください。


 高田城とされている場所は高田神社の境内である。実際、『茨城県遺跡地図』はそうしているし、高田神社の神主さんもそう言っておられた。
 しかし美浦村お散歩団によると、高田神社と東に向かい合う台地にも城があり、しかも土塁や堀などを残しているということで、以前から気になっていた。そこで、神主さんを訪ねて、高田城について伺ってみることにした。

 上記の通り、神主さんは「高田城というのは高田神社のことである。ここにも確かに城のような地形はあるが、こちらは出城のようなものだったのではないか」と言っておられた。
 しかし、高田神社とは異なり、こちらには明確な城郭遺構が存在している。しかも、それは単なる出城といったレベルのものではなく、規模・城域ともにかなりしっかりとした城である。そういうわけで、ここにある城には高田城とは別の名称を付けるのがふさわしいと思うのだが、適当な名称が思いつかなかった。仕方がないので、仮にこちらを高田城Uとしておく。

 神主さんのお宅となっている1郭は、100m×60mほどの長方形に近い区画となっている。この東側には土塁と堀が残っている。特にCの辺りから北側に向って傾斜しながら延びている堀には、外側に土塁が盛られていて、比高二重土塁の形状を成している。その北側には腰曲輪も見られる。

 郭の北側にはやや低く突き出した尾根状の地形がある。その部分を切り離すために、北側にはBの堀切が存在している。ここにもやはり外側に土塁が盛られている。

 1郭の西側下には腰曲輪が造成されている。目立つのは、その途中にFの切れ込みが存在していることである。腰曲輪の横移動を防ぐための構造かとも見えるが、形状からして虎口の可能性もあると思う。そのさらに下にもう1段の腰曲輪があり、そこからの導入路があったのかもしれない。

 1郭の南西の角にはAの櫓台が存在している。物見櫓を置くのにふさわしい場所である。その下にはDの方形の広場があり、その南側に大規模な切り通しの道がある。この切り通し道は、後世のもののようにも見られなくもないが、上記の櫓台やDの空間と合わせて考えると、本来の登城道であったとみてよいのではないだろうか。切り通しを上がってDに出てくるような登城道が形成されていたとすると、Dは敵を迎撃するための内枡形のような場所と想定できるし、その際にはAの櫓台が威力を発揮することになる。

 1郭の南側には、切り通しの通路を挟んで2郭がある。2郭は基本的に東西に細長い平場であるが、中央南側に虎口状の切れEがある。Eの先は下の腰曲輪と接続しており、南側下から、この腰曲輪に上がって来る道もある。となると、これも本来あった登城道の1つであったと見てよいだろう。

 こうやって見てくると、この城は南北に並ぶ2つの郭によって構成された城というようにみることが可能である。ただし、1郭と2郭との間の切り通し道路は、深さが2m未満であり、堀切であったとするには、かなり浅すぎる印象がある。ここは車道を建設する際に切り通された部分にすぎないのかもしれない。となると、これは堀切ではなく、本来は単郭の城であった、ということになる。


 さて、この城の性質について、どのように考えるべきであろうか。「高田神社が本城、こちらが出城」あるいは「こちらが本城、高田神社が出城」んなどといった言い伝えもあるようだが、私はその説は取らない。なぜなら、本城・出城といった位置系列で括るにしては、高田城(神社)とこちらの城との形状があまりにも違いすぎているのである。両者を同時代の城と考えることはとてもできない。
 高田神社は確かに、伝承の通りに南北朝時代に城として使用されたことのある場所なのかもしれない。その時代の城であれば、それほど明確な遺構がなかったとしても納得がいく。
 しかし、こちらの城は、とても南北朝時代のものとは思われないものである。南北朝時代の城は、大規模で単純な構造の堀や土塁を備えたものであるか、あるいはほとんど明瞭な城郭遺構を残していないものであるか、そのいずれかである場合が多い。それに対してこちらの城は、構造がわりと細かく区分されており、やや技巧的な印象を受けるものである。こちらの城に関しては、戦国期の構築物である可能性が高いと思う。
 それを確かめるため、「要害」などといった時代を推し量ることのできる関連地名が存在していないかどうかも尋ねてみたのだが、残念ながらそうした情報を得ることはできなかった。

 確証はないが、現地を歩いてみた印象と伝承とを勘案してみると、次のようなことが想像できるのではないかと思う。
(1)南北朝時代に、神主が率いて籠城戦を行った場所は高田神社の境内である。もっとも城といっても籠城の為の臨時築城といった色合いが強いものであり、城郭遺構はほとんど残されていない、というか、もともと構築されてもいなかった可能性が高い。
(2)高田城Uは、戦国時代の頃に築かれた、高田城(神社)とはまったく別の城である。築城主体ははっきりしないが、地域的な面から考えると、土岐氏との関連性で見ていくのがよいだろう。もっとも、現在もこちらに神主さんのお宅があることを考えると、土岐氏に庇護されていた高田神社の神主一族が、自己防衛の為に築いた城、というように見るのが自然なのかもしれない。いずれにせよ、高田神社には土岐氏の奉納した太刀もあり(元亀元年)、土岐氏との関係は強かったものと思われる。

Cの下辺りの横堀。堀の外側にも土塁を置き、比高二重土塁にしているのが特徴的である。深さ5mほど。 北側の横堀。北側に延びた部分との間を掘り切っている。やはり深さ5mほどで、堀の外側にも土塁を配置している。
Dの下の切り通し道。近代の所産かとも思われるが、かなり立派な虎口に見える。 Dの腰曲輪からAの櫓台を見たところ。櫓台の上には小さな神社が祭られている。
Eの虎口から、下の腰曲輪を見たところ。その下は民家である。 1郭と2郭との間の通路。堀切にしては浅く、自動車道を通す際に切られたものである可能性もある。



中峰城(稲敷市村田字中峰)

 中峰城は、県道49号線の「村田中央」というバス停の辺りから村田地区に300mほど入ったところにある鹿島神社の付近にあった。あったといっても伝承だけで、実態は不明である。「茨城県遺跡地図」では、この鹿島神社の西側一帯の辺りが城址ということになっているのだが、歩き回ってみてもそれらしい遺構は見えない。神社の西側には何かのお堂(廃寺か)と墓地があり、お堂の脇には土塁のような高まりがあるのだが、これが遺構の一部なのかどうかは分からない。だいたい、中峰と言いながら、この辺りには峰のような地形はないのである。ひょっとすると城自体が存在していないのかもしれないが、詳しいことは不明。


新山城(稲敷市江戸崎字新山甲)

 新山城は県合同庁舎の南西300mほどのところにある、比高10mほどの台地上にあった。台地は北に向かって突き出したもので、先端部の先は沼沢地になっていたようだ。確かに城を置くにはふさわしい場所ではある。郭内は畑地となっている。

 内部の畑には南側からアクセスできる道が付けられている。したがって、南側から台地に入り込んでいけば、ヤブ漕ぎ直登せずとも内部に入っていくことが可能である。

 そんなわけで、台地に入り込んでみたが、辺りは一面の畑であり、城郭遺構らしきものは見受けられない。耕作化によって失われてしまったものだろうか。そこで、戦後直後の航空写真を見てみたが、やはり明確な城郭区画は発見できなかった。しかし、現状の地形からでもなんとなく城郭的な部分を想定することはできそうだ。台地縁部分も歩いてみたが、結局、城郭遺構を発見することはできなかった。


 この遺跡は「茨城県遺跡地図」では「新山遺跡」としかなっていないが、美浦村お散歩団で城館として取り上げていたので、ここでも取り上げておく。














二条城(森戸城・稲敷市下君山森戸字二条城)



 

沼田城(稲敷市沼田字上沼田)

 下の以前の記述にも書いてある通り、沼田の常晃寺の東側の、比高15mほどの台地上に遺構がある。地元では「二重堀」と呼ばれており、城というよりも、堀として認識されている。簡単に言うと、台地上に上がる東西の道は切り通し状になり、それを繋ぐようにして台地を東西に掘り切るような堀が台地上に展開しているという形態。二重堀といわれる所以である。

 さて、近くを通りかかったので、ここも描いておこうと思ったのだが、この城に着いたのが11月下旬の4時半。台地上の山林に登ってすぐに暗くなってしまった。それでもなんとか台地上の堀だけは描いておこうと思って慌てて堀底を歩いたのだが、慌てすぎて、図の1の部分の上を確認するのを忘れてしまった。というようなわけで、周囲の堀や道を歩いて図にしていたら、1の部分がまるで郭のようになってしまったのだが、1の部分は実際にはほとんど郭らしいスペースがないような状況であるのかもしれない。以前訪れた際の記憶では、台地には堀しかなかったような気がしたのである。

 1の部分の南西側には2と3の間の堀がある。この堀は1と接続する部分に土橋も持っている。この台地の先端部分は削り取られており、堀も削られた部分に行き当たって終わってしまう。実際にはもっと先まで堀は延びていたはずであるが。

 かといって、5の削られた部分に主郭があったとは思われない。堀の南側の2の部分では地勢がすでに低くなっており、この先に台地が延びていたとしても、先端に主郭を築けるだけのスペースがあったとはとうてい思われない。2の北側の堀は、3の側の深さが4m、2の側は2mほどである。こう、考えてみると、2の方が優位な郭であったとは思えない。とはいえ、堀の形状から見て、3の部分が主要な郭であったとも思われない。結局の所、この城は、山の下の部分がメインであったのではないかと思う。5の辺りの山麓に居館があり、その背後の台地上に防衛ラインとして堀を築いたというのが、台地上の遺構の正体ではないかと思うのである。谷戸式の居館というやつである。

 2の北側の堀は、1の北西側のもう1本の堀と接続している。ただし、同じ高さで接続されているのではなく、接続部分の堀底は、2の郭北側の堀の方が1.5mほど深くなっている。1郭南西側の堀は深さ3mほど。北側でカクッと折れて、4の部分で竪堀となって下の道と接続している。台地の西側から上がっていく切り通しの道と合わせて、これらの堀が台地下の部分を囲むようになっていたのではないかと想像する。

 ところで、「茨城県遺跡地図」によると、この城は沼田城と呼ばれている。南北朝時代の史料を見ると、南朝方の「馴馬の沼田城」という記述が見られるのに気がつく。これは龍ヶ崎市の馴馬城のことだと思われるが、この城の沼田城という名称もちょっと気になるのである。この近くには南朝方の東条城、神宮寺城などもあり、南朝方の城であった可能性はなきにしもあらず、ということであろうか。

南西から見た沼田城。この台地の上に堀がある。 常晃寺の東側の民家の脇から台地上に上がる道。切り通し状になっている。暗くなってきたので、カメラがぶれること!
台地を分断する堀。台地基部側の深さは4m、先端側は2mほどである。もう山の中は真っ暗だ。 東側は竪堀となって台地下の道と接続している。
(以前の記述)県道25号線の「沼田坂下」というバス停の辺りから沼田地区に入っていく。道は細くくねくねしているのだが、集落の奥に常晃寺という寺院を見つけることができるであろう。この常晃寺の東側の比高15mほどの山中に、通称「二重堀」と呼ばれている遺構がある。これが沼田遺跡と呼ばれているものである。常晃寺と東の鹿島神社との間の山に掘られた二重の堀がその実体である。深さは3mほどのものであるが、これが何のためのものか、ちょっと謎だ。

 江戸崎地区には「戦国土塁」と呼ばれる、土岐氏によって築かれたと思われる土塁遺構が多数存在しているが、それらはみな街道を押さえるためのものである。ところがこの二重堀は山の中に穿たれているのである。いったいなぜ、このようなところに・・・・・。

 よく分からない遺構であるが、これはやはり、城郭遺構であると一応見ておきたい。それ以外にこの山中に空堀を彫る理由が思いつかないのだ。二重の堀の先端部は宅地のスペースを広げたためか、かなり削られている。現在、先端部には郭と呼べるほどのスペースはないが、削られる以前にはここに郭が存在していたのではないだろうか。この山中を城址の中心部としてみれば、南端が崖、東西は切通しの空堀道、北側には一段低く沼沢地となる。沼田地区の集落を見下ろす位置にあり、旧沼田村の土豪か、村落の城ではなかったかと思われる。この遺構の東側には鹿島神社があるが、ここも郭のような地形をしている。二重堀の辺りを主郭部とすれば、ここら辺が2郭ということになろう。しかし、地元には城があったという伝承はない。城を思わせる地名もないということであった。地元の人、何人かに話を伺ったのであるが、真下に住んでいても二重堀の存在すら知らない人もいた。というわけで、はなはだ謎の多い遺構ではある。

 さて、後日、阿見町の塙城を訪れて、ふと、この城のことも思い当たった。塙城の北側台地には見事な三重堀があるが、こちらの台地上には居住性のある郭はなく、堀だけが存在している。意味不明な遺構だが、これは背後の台地を防衛ラインとして捉え、そこの堀をうがつことで、背後から接近を許さないようにするためのものであると一応考えられる。玉里村の飯塚城にも似た様な構造がある。沼田城のこの堀も、同様のものと考えるべきなのかもしれない。すると、台地下の谷戸式の居館が城主の居住地ということになろう。



羽賀城(稲敷市羽賀字根古屋)と亀谷城(稲敷市羽賀字堀ノ内)

 羽賀城は東耀寺から南西に延びている比高20mほどの台地の先端部を利用して築かれている。05.1.2、ひづめさんの案内で、ワカ殿、オカ殿、大竹先生らと羽賀城周辺を回った。05年のお城始めである。というわけで、ざっと一時間ほど歩いた範囲を図にしてみた。実際には城域はもっと広いものと思われるが、後世の改変で地形がかなり変更されていて分かりにくくなっている。1郭、2郭とその周囲の堀はよく分かるのだが、そのさらに周囲も地形が不自然に凸凹している。この辺りも後にいじられているのかもしれない。

 台地先端近くにある1郭が主郭であると思われる。方30mほどの方形に近い郭である。虎口は2郭側と北側の6の部分との間に開かれている。しかし6の部分は後世、軽トラでも入れるために切り開いたもののようにも見える。1郭の南側に土塁がぐるりと巡っているのが構造上目立つものであるが、この下の11の部分は宅地化のためにだいぶ台地を削ったようで、1郭は実際にはもっと南側に延びていた可能性もある。しかし2郭側の横堀の外側の土塁が南西に曲がっているので、もともとは11との間には横堀が入っていたのではないだろうか。

 2郭も方30mほどの郭である。1郭との間は土橋で接合されているが、この土橋は幅が2m近くあり、実にしっかりとしたものである。3の郭側にはいったん4の部分を通るようにしてから土橋を渡って行くようになっている。この4の部分はもともとは馬出しであったのかもしれない。14の堀底には塚のようなものがあるが、これも何かの仕掛けの名残であろうか。

 2郭の周囲には13の堀が取りまいているが、深さは最大で6m、幅8mほどのもので、13の辺りが最も堀底の幅が広くなっている。この堀底は1郭周囲の堀まで続いて、1郭の堀とは土橋となって接している。堀底のこのような結合の仕方はとてもめずらしいと言っていい。この土橋の南側にも土の高まりがあり、どうやらこの堀には畝が存在していたもののようである。6,7,8の辺りはかなり改変されているのように見える。1郭周囲の堀は北側から西側にかけてかなり変則的に幅や深さが変わっているが、本来は7の脇辺りまで普通につながっていたのであろう。この堀底は8の腰曲輪につながっていく。さらにここから切り通しの道を通って10の堀跡までつながっている。10の堀底方面から1郭に接近するためには、8,7,6yといった腰曲輪部分を通り抜けねばならず、その間、1郭塁上と、西側の3の細長い郭との両側から攻撃できるように工夫されていたものと思われる。

 5の辺りから北側には緩い斜面に竪堀のような沢がいくつも入り込んでいるが、どこまで人口のものなのかはっきりとはしない。3の部分にも地形の凸凹はかなりあるのだが、どこまでを城に伴うものとしてみるのか、よく分からない。しかし、3の部分は地勢も必ずしも平坦ではなく、東耀寺からもちょっと低い位置にあるのが気になるところである。

 羽賀城の中心部はざっとこんな感じであるが、かなり改変されてしまっているようである。本来はもう少し、単純で分かりやすい構造であったものではないだろうか。中心部分は規模もさほどではない。ただし、堀底を両側から攻撃するような構造、横矢の掛けられた城塁、馬出しらしき構造の名残、などなどと言った部分から、そこそこ技巧的であり、戦国期の城であることには間違いないといえる。

 この周囲は耕地整理でさらに改変が進んでいるが、おそらく城域はもっと広かったのだろうと思う。大竹先生からは、「城の北東の台地にも出城があった」と言うお話を伺った。
 羽賀城の城主は、江戸崎土岐氏の重臣であった臼田氏である。臼田氏は臼田文書を残しており、これによって、戦国期の土岐氏の動静を垣間見ることができる。天正18年の臼田文書によって、江戸崎城が神野角助によって接収された様子も分かるのである。

羽賀神社と誠諦寺との間の切通し辺りから城址のある台地先端部方向を見た所。東耀寺よりもやや低い所にある。 14の横堀の中にある塚状の高まり。高さ2m、直径4mほどのものである。
2郭の虎口。この右側には横矢の張り出しがある。 1郭入り口の土橋。幅は2m近くあり、かなり広いものとなっている。虎口の両脇には高さ50cm程度の低い土塁がある。
1郭から南に向かって11の郭のある民家を囲むようにして延びている土塁。11には民家があり、この部分は後世、かなり削られているようである。 2郭の堀が1郭の堀と合流するところ。2郭の堀はそのまま畝のようになって1郭堀内部と結合している。
7の辺りから8の広い腰曲輪を見た所。幅25mほどもある。 10の堀跡。
 (以下は以前の記述・以前は台地の南西端に遺構が残っていることに気がつかず、羽賀神社や東耀寺周辺だけを見て、城はこれだけかと思っていた。そのため記述内容もちぐはぐである。遺構のある部分がちょっと分かりにくいゆえであるが、とにかく東耀寺の裏の竹やぶを、南西に進んでいったところである)

 羽賀城は県道49号線の「羽賀」のバス停のすぐ北側の比高20mほどの台地上にあった。亀のような形をした台地なのでこのように呼ばれたものであろう。城址には羽賀神社、東耀寺、誠諦寺が建っている。羽賀地区にあるので羽賀城とも言われる。近くには根古屋や堀之内と言った関連地名が残っている。

 羽賀城は、南北朝時代の歴史に出てくる、亀谷城の比定地の1つである。亀谷城は南朝方の城であった。佐竹義春というものが居城としていたと伝えられる。彼は、阿波崎城、神宮寺城、東条城などと連携しながら、南朝方の一員として戦ったという。しかし、南朝が劣勢になると、南朝方の城は次々と落とされていき、亀谷城も廃城となったのではないかといわれる。 

 県道49号線の「羽賀」のバス停の所から東の羽賀の集落に入る。すると目の前に台地上の誠諦寺が見えてくる。あとは台地上を目指していけば、台地上まで車で上がっていくことができる。台地の登り口が虎口のように見えるが、他にははっきりとした遺構は見受けられない。特に斜面が緩やかで、とても要害とは見えない。阿波崎城と同様、陣屋的な構えで、それほど人工的な構造物を持たない城だったのかもしれない。南北朝時代の城にはありがちなことだ。しかし、根古屋の地名からすると戦国期まで使用された城郭であったのかもしれない。ただし、戦国期の城郭としては、はっきりとした遺構に欠けるのが気になる。 「臼田文書」には臼田氏が7代に渡って羽賀城に居住したが、小田原の役の際に江戸崎城が開城したのに従って、羽賀城も開城した旨記されている。戦国期には臼田氏歴代の城であったということなのだろう。


 その後「美浦村お散歩団」の亀谷城のページで亀谷城の所在については他に、東町釜井説、新利根町説があることを知った。今後検討してみたいと思う。
 その後さらに「竜ヶ崎市の中世城館跡」付録の「中世龍ヶ崎地方の城郭分布図」をみると、亀谷城は、羽賀城から500m東側の「荒地」という地名近くの台地東南端部に印を付けられていた。確かに「根古屋」は戦国期の地名であるので、南北朝期の亀谷城としては、東の堀ノ内地区のほうが都合がよいのであろう。しかし、ここもあくまでも比定地の1つであるに過ぎない。



 

山後土塁(稲敷市村田字山後)


 山後土塁は、羽賀城の北東1.5kmほどの所にある。県道49号線の「小羽賀台」というバス停のそばの台地がくびれている部分にあったようである。村田と小羽賀の境目辺りである。街道をこの台地のくびれ部分で扼していたのであろう。

 地元ではその名も「空堀」と呼ばれているそうで、比高二重土塁のような形態をしているために、自然、その間の部分が空堀となっているのであると思われる。













鳩崎狼煙台(稲敷市鳩崎)

 鳩崎狼煙台は、高橋川に臨む比高12mほどの鷲神社のある高台にある。北側の石段から登ってもすぐであるが(その場合車は下の道の路肩に停めておく)、南側からだと車道が付いているので、これを進んでいけば神社まで車で上がれ、境内に駐車しておくことも可能である。

 この台地上は20m×50mほどの平坦地で、周囲は切り立ったような土手であり、いかにも物見台や狼煙台を置くにはふさわしい場所である。戦後直後の航空写真を見ると、このすぐ北側には霞ヶ浦が入り込んでいたようである。霞ヶ浦をはさんだすぐ対岸には間野狼煙台があり、西側の岸辺には余郷狼煙台がある。

 霞ヶ浦に面した大山地区と江戸崎との間の連絡用の狼煙台の1つであろう。










































大竹屋旅館