茨城県常陸大宮市(旧御前山村)



伊勢畑要害城(常陸大宮市下伊勢畑) 



綱河館(常陸大宮市野田)



長倉城(常陸大宮市長倉)

 05.1.9(日)、長倉城お図面描きツアーで久々にここに訪れた。茨城県でもこの辺りはけっこう寒く、図を描いていても手がかじかんでしまう。雪もたくさん残っていて凍結していた。冬はちゃんとした装備が必要そうだ。

 図面は制限時間2時間ほどでざっと描いたものであり、地形図とも合わせていないので、かなり大雑把である。郭の配置だけを見ていただきたい。

 「長倉追罰記」で有名な長倉城は蒼泉寺の東側の山に展開した山城で、大沢川からの比高は70mほどある。山上から麓にかけてたくさんの郭や腰曲輪、竪堀などが残されており、藪の少ない杉林で歩きやすいのであるが、城内全域に重機が動き回った跡がある。腰曲輪も重機の通った跡だらけである。これによって腰曲輪の構造などはかなり改変されているのであろう。また、この城には虎口らしい所がほとんどみられないが、これも重機によって破壊されてしまったのだろうか。

 山上にある1郭、2郭が城の中心であり、両方合わせると長軸100mはあり、かなり広い。1郭と2郭との間は2mほどの段差によって区分されているが、この段差がかなりぐちゃぐちゃになっている。これは重機によって踏みにじられてしまったからであろう。1郭の南側にだけ高さ2mほどの土塁が残っている。

 1,2郭の周囲下には3,4,5といった腰曲輪や曲輪が形成され、これらをあわせるとかなりの広さになる。この辺りが城の中枢部ということになるであろう。城を見回して特に目立つのが腰曲輪に入れられた巨大な竪堀である。1郭北東部に竪堀が入れられており、そこから西側に向かって横堀が続いている。その横堀は腰曲輪となって西側の3の郭まで続いているのであるが、その途中に3つの大きな竪堀が入れられて腰曲輪を完全に分断している。竪堀2〜3は幅が10m近くもある。このような大きな竪堀が連続しているのは茨城県内の城では非常にめずらしくとても印象に残る。またこちら側の腰曲輪から見た1,2郭の城塁は8mほどの高さがあって一直線に延びて見えるので、かなりの威圧感がある。いかにも城らしく見える部分であろう。腰曲輪の下は大沢川へと続く断崖となっているので、こちら側から攻め上るのはとても難しいと思う。

 大きな竪堀は2郭の南側にもある。5の郭の下辺りからこの竪堀を上がっていくと2郭の城塁に突き当たって行き止まる。つまり囮虎口のようなものである。以前栃木の皆川城に行った時、同様の構造を見て面白いものだと感じたのだが、同程度の規模のものが茨城県にもあるのに今まで気がつかなかった。

 さて、これだけの大規模な城だから虎口もしっかりとしていてよさそうなものであるが、それらしい部分が見当たらない。枡形や馬出しなどもない。おそらく重機によってかなり破壊されているためであると思われる。1郭東側下の4の腰曲輪には、1郭から突き出した3m×6mほどの方形の土壇があるが、これなどは虎口に関連した遺構の名残なのではないだろうか。4からここを通って1郭に上がるようになっていたとすると、ここは出枡形の一種であったものだろう。

 その他にもこの城には腰曲輪がたくさん築かれている。城の西側の斜面には2段の腰曲輪があるのだが、これらはきちんと2段になっているわけではない。上のほうにある腰曲輪は所々にぽつんと配置されている。これは尾根の緩やかな所に切岸を作成したことによる副産物として生じたもので、兵の駐屯を意識したものではないであろう。下側にある方の腰曲輪もぶつ切りされたようななっているが、こちらの方が比較的連続性が高い。しかし高さが一定しておらず実にばらばらの高さに配置されている。単に切岸製造の過程でこうなったのかもしれないが、敵の横移動を段差によって防ぎながら上から攻撃することを意識してこのように配置したのだとすれば、そこそこ技巧的な遺構ということになるだろう。

 腰曲輪はすべての斜面において形成されているが、東南部分はヤブがひどい上に間伐した木をたくさん捨ててあるためになんだかよく分からない。重機の通った部分は、道になって螺旋構造となっているが重機の通っていない部分は螺旋になっていないので、これは近年改変されているのであろう。1郭の東側は4の腰曲輪の下は20mほどの高さの切岸となっている。しかし麓が近づくと平場がいくつも形成されている。上のほうからは遠いので捨て曲輪のようなものかと思われるが、しかし平場は麓までたくさん続いており、麓辺りの平場もみな郭であると見るべきなのかどうか非常に迷う所である。しかし、この城の城域はかなり広範囲なのかも知れず、麓にも何らかの施設があったのかもしれない。

 城の遺構はざっと見た所、こんな感じであるが、実際には山の南側の台地、西側の蒼泉寺のある部分も、城域に取り込まれていた可能性がある。蒼泉寺との間の自然の沢も、一部加工されて、堀を形成していたと見ていい。しかし、山麓の台地には江戸時代を通じて水戸藩の陣屋も置かれていたというので、近世に取り込まれていった部分もあったかと思われる。この辺りは少し整理して考えねばならないのかもしれない。

 長倉城は、室町中期の長倉氏の居城、また山入の乱に関して長倉氏が反旗を翻し、鎌倉公方によって攻撃された城として知られているが、城の遺構はもっと新しいもののように思われる。戦国期に佐竹氏によって改修されながら用いられてきたのではないだろうか。

東南側から見た長倉城。下の水田からは比高80mほどある。かなり遠くからでも目立つ山である。 麓の陣屋跡辺りから見た長倉城。この辺りから山頂までの比高は40mほど。以前は案内板など何もなかったが、町村合併をする前に村の最後の意地で史跡案内板などを設置したのだろう。設置日は「平成15年9月」とある。
2郭から1郭を見る。城内は杉林で歩きやすいのだが、至る所、重機によって踏みにじられてしまっている。 竪堀2。幅は10m近くある大きなもので、腰曲輪を完全に分断している。竪堀3,4もこれと同程度の大規模なものである。
竪堀1。ここから北側の横堀が始まっている。この竪堀は麓まで一直線に延びている。 1郭北側下の横堀。ここからの城塁は8mほどの高さがある。この右側下の斜面に鉄塔が建っている。
北側の腰曲輪から見た2郭城塁。こちら側からだとかなり威圧感を持って迫って見えるのである。 竪堀5。下から上がっていくと、最後には1郭城塁に突き当たって行き止まりとなる。囮虎口のようなもので、栃木の皆川城などと構造が似ている。
(以前の記述・・・以前はネットで南側の台地が城であると聞き、地元でも同様の話を伺ったので、城の場所を勘違いしていた。今思うと、その場所は水戸藩の陣屋があった所であり、地元ではそこが城であると認識しておられる方もいるようである。以下の記述もそのために誤ってしまっている)

 長倉城は県道164号線の脇から入っていったところにある蒼泉寺の付近にあったという。城主は佐竹一族の長倉氏であった。

 長倉氏は、佐竹氏の相続問題から発生した山入一揆では、山入氏、額田氏らと共に本家と対立した。しかし鎌倉公方方に攻められ、降伏している。

 しかし山入一揆の影響はその後も続き、永享7年には、「長倉追罰記」のような軍記に記載されている合戦が起こった。この書の記述によると、長倉城は「四方切て東西南北に対すべき山もなし。前は深谷、後はまた岳峨々と聳えたり。東に山河漲流。西には渓水をたたへたり。これを用水に用いる。日本無双の城とみへたり」とある。城址の脇には比高50mほどの山が1つあるが、「対すべき山もなし」とあるからにはこの山も城域で、詰の城として用いられたものであろうか。城の遺構は蒼泉寺周辺に多く見られる。蒼泉寺に行くまでの道や蒼泉寺の前は切り通しのような道になっているが、これはかつての空堀の跡と見てよいだろう。また蒼泉寺の南側は、やや窪んで空堀のようになっている。その奥にも、深さ2mほどの空堀が見える。この辺りは2重空堀になっていたのかもしれない。その南側の台地が城址の中心部であったらしい。周囲からの比高はそれほどはないが、削り落としの斜面によって囲まれている。写真の畑の辺りが主郭部であると思われる。この周囲に土塁や空堀が点々と見られる。

 長倉城は、岩松右馬頭持国率いる鎌倉公方の6000の兵を迎え撃ったが、4ヵ月後、城は開城した。しかしこの戦いにより長倉遠江守の武名は高まったという。






長倉陣屋(常陸大宮市長倉)

 長倉城には近世水戸藩の陣屋もあった。その場所は「城の麓」ということであるが、それはこの図のある部分一帯であったと見てよいものと思われる。ただし、全体に畑地化が進んでおり、そのため土地はあちこち削られており、往時の状況に比べるとかなり改変されているのではないかと思われる。

 そんな中で城の遺構らしき部分がはっきりと見られるのは、図の4の枡形とその南側にあるAの櫓台、そしてその櫓台Aの南側の横堀(実際には横堀ではなく矢場であったらしい)や周囲の城塁といったことになるであろうか。こうした一連の遺構の配列を見ると、大手口はBの虎口であったかのように思われる。下からBに上がってくると、Aの櫓台の下を通り、櫓台をぐるりと回りこむようにして4の枡形内部に進入することとなる。Aの西側下の辺りも枡形状の小空間となっており、またAの南側には堀が入り込んできており、このAを中心にして仕掛けが配置されている様子が伺える。4の枡形の東側の部分も方形の区画があり、これにも櫓のような建造物が載っていた可能性があると思う。古い記録によると「馬出し、櫓台、矢場が残る」とあるそうで(オカ殿の指摘による)、これは、この枡形周辺の地形のことを言っているのではないだろうか。つまり「馬出し」=「枡形」、櫓台は、そのまま櫓台、櫓台の南側の横堀部分が矢場に当たるのかもしれない。
(後で聞いた話だが、Bは後世の改変によるものであり、実際の大手口は南側の斜面の辺りにあったということである。)

 さて、こうした一連の仕掛けを通り抜けると再び方角を変えて2の郭に向かうこととなるのであるが、2の郭との間の3の部分も、内枡形状の区画となっている。このように東側下の虎口から1郭を目指す間には、いくつもの仕掛けがあり、何度も進行方向を変えて、それらをぐるりと回りこむようにしないと先には進めないような構造であったようだ。

 そして2郭の西側に一段高く1郭がある。郭全体の配置を見ると、この1郭とした部分が最も高い位置にあり、ここが中心部であったと見てよいかと思われる。蒼泉寺との間には長倉城に続く尾根道があるが、それに沿って、土塁と堀とがある。以前はこれらは長倉城に付属した施設であると思っていたのだが、こうして陣屋部分の構造を見てみると、むしろ、これらは陣屋に関連して設けられた遺構であるようにも見える。この1郭部分は、長軸50mほどで、以前来た時にはただの一段高い平坦部であったが、畑が放置されて何年も経ってしまったせいか、現在では猛烈な笹薮になってしまっている。

 長倉陣屋の構造はざっと見た所、こんな感じなのであるが、何しろ、畑地化によってかなり地形がいじられているように見えるので、遺構として見た部分のうちにも、後世の改変によるものが含まれてしまっているかもしれない。しかし、Aの櫓台を中心として、複数の枡形状部分を通り抜けて主郭に接近するという構造は、城そのもののものであったと見てよいのではないだろうか。 

1郭西側の堀切。笹薮でなんだか分からなくなってしまっている。 東側先端の城塁。いかにも切岸らしく見える。
Cの虎口を下から見た所。 Aの櫓台の西側下にある横堀。「矢場の跡」というのはここのことなのかもしれない。上に祭られているのは金比羅社と稲荷社であるという。
4の枡形。どうみても、枡形だよなあ。 枡形内部から見たAの櫓台。これもいかにも櫓台という感じである。
Bの虎口。大手口のようにも見えるが、後世のものらしい。実際の大手口は、南側の斜面にあったという。 3の枡形的な地形を下から見た所。




長倉遊替城(常陸大宮市長倉字遊替)



那須陣(常陸大宮市長倉字那須陣)



野口城(川野辺城・常陸大宮市野口平字御城・館)

 県道21号線を野口方向に向かっていくと、緒川に架かる緒川橋を渡ってすぐに、右手の台地方向に入っていく道がある。これを曲がったところが図の戸張であり、城の大手口があった所であると思われる。城のある台地は比高15mほどで、この部分を上がって道路を進んでいくと、道路脇に「野口城跡」の案内板があり、その示す方向を見ると、高さ6mほどの土手の上に案内板が立っているのが見える。この案内板は以前来た時にはなかったのだが、平成15年、合併前の最後の意地として、旧御前山村が立てたものである。

 案内板のある所が虎口のように見える。ここから上の部分が「御城」と呼ばれている所で、城の中枢部分といっていいだろう。御城内部は90m×150mほどの規模があり、一面の畑となっている。微妙な段差で何段かに分けられているのだが、畑の造成でかなりいじられているようにも見えるために、本来どういう構造になっていたのかよく分からない。しかし、もともとこれに近い構造であったのかもしれない。図の1とある部分が主郭ではなかったかと思われるのだが、この部分の構造はちょっと複雑で、1郭の南側は1郭部分の方が2郭部分よりも高いのだが、中央辺りでは両者の高さはほぼ同じとなり、中央部分は土塁となっている。しかし北寄りでは1郭内部の方が2郭よりも低くなっている。このような変則的な構造は、おそらく畑地化の際に生じたもので、本来1郭は土塁や堀でしっかりと区画されていたものであろう。図の2郭の方が主郭ではなかったかという可能性もあるが、現在郭の周囲に土塁が良好に残っているのは1郭の東側だけであるので、こちらが主郭であったと一応見てよいだろうと思う。(ウモ殿が現地で聞いた話だと、昔、ここに屋敷を建てるために均したということで、ここが変則的な地形になっているのはそのせいらしい。)

 中世城郭では「御城」=主郭、「中城」=2郭となるのが普通であるが、野口城の場合、なぜか、大手口辺り(戸張の隣)に「中城」の地名が存在している。中城が2郭を示す名称だとするとこれは不自然な感じがする。そこで想像なのだが、おそらく御城のある台地上にはかつて中城という地名が存在していたのではないだろうか。そこにかつて民家があったのだが、その民家がある時期に台地下に移っていってしまったとする。その際に「中城」という地名も屋号ごと下に移ってしまったのではないかと想像してみるのである。しかし、このことはきちんと確認したわけではない。現地の方にそんなことも伺ってみたのだが、はっきりとはしなかった。

 御城の台地はかなり守りが堅く、台地基部に当たる北側には、地元で「一の堀」「二の堀」と呼ぶ二重の堀切によって区画されている。一の堀は、深さ5mほどで、1郭に付属した感じの構造であるが、その外側の二の堀は深さ8mほどで、かなり下まで深く掘り下げている。上端幅も20m近くはあるであろう。また御城の北側には土塁が配置されている。土塁の高さは2mほどであるが、東側の土塁が幅広であるのに対して、西半分は幅が1mほどの狭いものとなっている。西側の土塁の内側は緩やかな斜面の地形があり、そこに椎茸の栽培木がたくさん置かれている。おそらく、西側も本来は大きな土塁であったものを、椎茸の栽培のために半分以上崩して、傾斜地にしてしまったものであろう。

 御城の東側下は10m以上の切岸面となっている。その下には7の腰曲輪がある。

 御城の西側下は横堀となっている。堀底から見る御城の城塁はとても高く、堅固そうに見える。この横堀の外側の土塁は、郭内側は非常に傾斜が緩やかになっているのが特徴的である。

 御城には西側にも虎口がある。図のBからAへと続いていく道である。Bの虎口を通ると横堀の脇に出る。この時、正面は御城の城塁であり、敵はここで攻撃にさらされることとなる。進もうとすると前にはAの虎口があってこれが関所となっている。

 さて、以上が城の主要部分であるが、案内板の下の現在、民家が建て込んでいる部分(図の5や6のあたり一帯)も、台地上であり、城内であったと見てよいであろう。この部分は全体に「館」という字名で呼ばれている。この辺りに城主の居館があったと思われるのだが、それだけでは広すぎるので、家臣団屋敷なども存在していたのかもしれない。この広い「館」部分にも城郭遺構が存在していたものと推定できる。だが、宅地化によってかなり改変が進んでおり、館部分では、特にこれといった遺構をみつけることはできなかった。城の構造からして、案内板のある虎口の下も、本来は堀だったのではないかと思われるが、現在では分からなくなってしまっている。

 このように野口城は佐竹氏の中規模クラスの家臣の城としては、まさにふさわしい規模の城であったと思われる。二重堀や切り立った城塁など、なかなか見ごたえのある遺構を残しているといっていいだろう。

東側下の大手口方向。この辺りに「中城」「戸張」といった地名がある。 城内の案内板に上がる道。ここも虎口だったであろう。
Aの虎口。切り通しの道となっている。 Aの虎口の外側は、両側が堀になっている。その先にBの虎口がある。
御城西側下の横堀から、御城の城塁を見た所。雄大な眺めである。高さ8mほどはある。 2の部分の段差。「重要遺跡報告書」の図面ではここを「櫓台」としているが、何を根拠としたのか分からない。
御城北側の1の堀。深さは5mほどである。 御城西側下の横堀から見た御城の城塁。見事な切岸となっている。
1の堀の外側にある2の堀。深さは最大で8mほどある。上端幅も20m近くある巨大なものである。 Bの虎口から御城方向を見た所。
 野口城の歴史は古く、正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫通直が築いたのに始まるという。もちろん、その頃は現在のような城ではなかったであろう。彼は那珂・川野辺両郡を支配したので川野辺太夫と呼ばれたという。「川野辺城」という別称はそれにちなんだものである。その後川野辺氏代々の居城となる。

 応永元年(1394)、大田城から佐竹景義がこの城に移り、野口但馬守を称した。その後、山入の乱で、野口氏がどのような行動をとったのか分からないが、あるいは山入氏に加担したのであろうか、天文9年(1540)、佐竹義篤は、反乱した野口直之允を殺害、ついで野口城を攻撃したため、野口四天王も降伏、城は廃城になったと言われる。 
 この野口氏は佐竹氏の一族であったが、後には現在の桂村に移り高久氏の祖先ともなったという。


 「烏山の番衆として、初番として野口東野高部小舟の者共を、次番として小瀬檜沢の衆を差し向ける」(佐竹義篤書状)

 すでにあちこちで何度も取り上げた天文期の佐竹義篤の書状である。烏山に対する兵を動員するための佐竹義篤の指令を示したものであり、この地名の箇所にはそれぞれ呼応するかのように戦国期のものと思われる城館が存在しているため、この文書は、佐竹氏の軍勢集結ポイントを示しているものであると想定できる。


 野口小学校の南側に向かい合う比高20mほどの台地が城址である。この台地の南北の登り口は、虎口状になっており、向かい側の台地との間は、自然地形を利用した深い空堀となっている。台地に上がり、火の見櫓がある所を上に登っていくと、写真のような虎口が見える。下の郭とは6mくらいの比高があり、削り落としの斜面となっている。この虎口の奥が主郭部と思われるが、現在では畑地となっている。主郭部の奥には空堀なども残っているが、こちらはすっかり藪の中である。

 野口小学校のある台地も城址のような土手の上にあるが、こちらは城ではなく、近世、水戸藩の郷校があったところだということであった。




野口城北郭(常陸大宮市野口)

 野口城については、御城背後の巨大堀切の存在から、この大堀切までが城内であると思っていた。その北側も歩いてみたのだが、地勢が平坦ではなく、墓地になって改変されていたりすることから、こちらは城域外としてよいものと思い込んでいたのである。ところが、この北側にも二重堀が存在しているという情報を聞いて、2012年7月22日(日)、ヤブレンジャー隊で、この城の北側の部分を歩いてきた。

 以前来た時にも、Bの墓地の辺りまでは歩いたのだが、その背後がかなりヤブのようだったので、確認していなかった。しかし、このヤブの背後に二重堀が存在していることを今回確認できた。

 Bの背後の堀切は深さ5mほどの薬研堀である。これを越えるとさらに深さ1,5mほどの堀がもう1本あった。外側の堀はわりと浅いもので、防御的には心もとない。防御というよりも城の区画を示すものなのであろう。この構造からすると、ここから先が正真正銘、城外ということになるのだと思われる。

 この二重堀のうち、内側の堀は東側では竪堀となって落ちて行き、さらにこの竪堀は、南側に向かって横堀となって接続していた。横堀となっている区間はそれほど長くはなく、その先はすぐに腰曲輪となって続いていく。また、その東側の下にはもう1段の腰曲輪が造成されている。

 この横堀の脇を通る道は南側に上がってAの虎口と接続している。ここが城内への入口ということになるのであろう。Aの部分の東側は地形的に横矢が架かるように折れており、見方によっては、この部分が御城地区に対する馬出しのようにも見えなくはない。この虎口については、以前描いた図にも描かれていたのだが、この先を通っていくと横堀や堀切に出会えるということが前回は分からなかったのである。うかつであった。

 このように北郭の部分には明確な城郭的区画が見られ、野口城の城域内部であったことは間違いない。野口城の史跡指定範囲は南側の御城部分だけのようだが、北側の墓地も、本来史跡指定の範囲とすべき場所である。

 2011年現在、この城の内部に道路を建設しようという話が持ち上がっているという。この計画が今後どうなっていくのか気になるところであるが、これだけの規模の城郭が破壊されるというのは残念なことであり、なんとか遺跡保護の措置がとられるようになってほしいものであると願ってやまない。
















Bの背後にある堀切。深さ5mほどの薬研堀である。東側は竪堀となって落ちて行き、さらに横堀と化す。 その外側にある二重目の堀。幅は5mほどあるが、深さは現状では1.5mほどしかない。ここまでが城域ということであろう。



檜山要害城(常陸大宮市檜山字古館、要害)



細内要害(常陸大宮市下伊勢畑字細内ユウガイ)



*以上の他、「茨城県遺跡地図」に載ってはいないが「城郭体系」には次の城が掲載されている。

野田城(常陸大宮市野田字城山)

 稲葉三郎の城で、城山の地名、古井戸、調馬場が残る。

野口平館(常陸大宮市野口)

 佐竹氏の家臣小野崎左近の城で、陣場の地名、空堀が残る。

大館城(御前山村大畠)

 南北朝時代、南朝に味方した大館次郎の城で、佐竹氏に敗れる。
 
 御前山中学校の背後の山稜全体が「大館」という字であるということで、背後の山稜を歩き回ってみた。しかし、あるのは自然地形ばかりで(一部に切通しの旧道は見られたが)、城郭遺構はまったく見られない。みんなで検討した結果、「館跡というのは御前山中学校の建っている平場ではないか」ということになった。確かに、ここはかなりの広さがあるし、周囲は切り立った斜面になるので、城館を形成するにはもってこいの場所である。

古屋場城(常陸大宮市大畠字古屋場)

 南北朝時代、南朝方の平沢但馬守の城で、古屋場の地名が残る。

大沢館(常陸大宮市長倉字大沢)

 長倉義尚の城で、南北両館があり、南館に遺構が残る。

中丸城(常陸大宮市野口字中丸城)

 市役所支所の下部200mほどの所にある台地の地名を「中丸城」といい、城館があったところだと伝承されている。しかし、現在は、宅地化が進み、遺構らしきものは見られない。

 この付近には皆川姓が多く見られるのだが、これは栃木の皆川氏の一族であるという。









































大竹屋旅館