茨城県日立市

*参考資料 『日本城郭体系』  

相賀(あいが)城(日立市相賀町)

 相賀城は、会瀬漁港を見下ろす比高40mほどの海岸段丘上にあった。国道245号線のすぐ東側で、「会瀬町1」の交差点付近から、台地上に上がっていく道がある。しかし台地上はすっかり宅地化が進んでいて、遺構は湮滅している。

 そこで戦後直後の航空写真を見てみると、上のラフのような構造が見て取れる。枡形構造の虎口を持った城館であったように見受けられる。

 また、北側の台地基部にあたるAの部分は堀切の名残であるかもしれない。

 台地の先端近くに土塁状の盛り上がりがあって、写真の小さな神社がある。城址に関係のあるものなのかどうか。「水府史料」によると、東西54間、南北42間あったという。

 相賀城も、小野崎氏の城の1つで、天文14年(1545)頃には小野崎直道が一時、居城としていたという。











 北側にあるAの切り通し。かつての堀切の名残かと思われる。




















小豆洗城(日立市多賀町)

 小豆洗城は「城郭体系」等には採用されているのだが、なぜか「茨城県遺跡地図」には収録されていない。というわけで、場所がよく分からない。
 この城は佐藤(近藤?)右馬之介の居城であったという。




会瀬(おうせ)館(日立市会瀬町)

 会瀬館も「城郭体系」に収録されているのに「茨城県遺跡地図」には掲載されておらず、場所が分からない。

 佐竹氏の家臣小野崎新左衛門の居館であったという。とすると、ひょっとしてこれは相賀館と混同しているのかもしれないが、一応取り上げておくこととする。




大窪城(日立市大窪町) 

 大窪城の跡は、天保年間、水戸藩の郷校、暇修館となった。したがって、これを探していけばすぐに分かる。途中、ちょっと道が狭くなるが、碑もあるので何とか探せるであろう。

 現状では居館的な単純な構造の城館であったように思われる。暇修館を囲むようにして土塁が2本延びているが、これは暇修館の建設に伴うものではないだろうか。オリジナルの土塁は、6の堀に面した所に残る部分であろう。この土塁は郭内からでも高さ3mあまりあり、とても大きなものである。
 暇修館を囲む土塁を除いてみれば、1,2,3の3つの郭はつながり、長軸80mほどの単郭となる。これを巨大な土塁と堀で囲んでいたのが原型であったように想像できる。

 城の周囲は二重の堀で囲まれていたというが、現在では内堀の一部が残っているだけである。しかし、この堀は大きい。6の部分は旧状通りと見てよいと思われるが、深さ6m、幅10mほどはあり、この規模の城館のものとしては出色のものと言っていい。堀の外側にある土塁も幅が大きくとても重厚なものである。この6の堀は郭の周囲を全周していたものと思われるが、後世埋められてしまったと見られる部分が多くなってしまっているため、他の部分で雄大な遺構を見ることはできない。
 ちなみに、大手虎口は、右の図の2つの「堀跡」というところであったように現地の案内板には書いている。しかし、現状から見ると6の堀の南側の虎口と土橋の方がそれらしく見える。

 6の堀の方向は、台地続きになるようで、その外側にさらに7の堀を入れて分断を図っている。また6の堀北側土塁のさらに北側下の部分は一部地勢が微妙に窪んでいるようでもあり、ここに外堀があったのであろう。外側の郭は北側では5の部分をも取り込んでいたようで、この辺りに一部土塁が残っているようである。そのさらに外側に水堀が取りまいていたのであろう。

 大窪城は、奥州の石川氏が佐竹家臣となってこの地に移り住んで築いたものであるという。石川氏はその後、大久保氏を名乗るようになった。この石川氏についてはあまりよく調べていないのではっきりとしたことはいえないのであるが、確か南郷近辺の豪族であったと思う。彼が常陸国内に移動してきたことは佐竹氏による南郷支配とそれに伴う豪族の配置換えと密接に関係しているのであろう。

暇修館入口にある、大窪城と暇修館の碑。大窪城関連にはこういう立派な碑がちゃんと建っていたりする。ここは図の4の郭の脇辺りだが、実際の大手口は南側だったらしい。 暇修館の脇にある1の土塁。これは城のものではなく暇修館関連の遺構であろう。正面奥の土塁は削られてなぜか茶畑になっている。
暇修館と2の郭との間にある土塁。 1郭西側の6の堀。これはすばらしく大きなものだ。深さ6m、幅10mはある。本来はこの堀が周囲を取り巻いていたのであろう。
上の堀の外側にはさらに7の堀切がある。これが城域を画するものであったろうか。深さは2mと、こちらは小規模である。 6の堀の外側の土塁。なかなか重厚なものである。
(以前の記述)大窪城跡には近世に水戸藩の郷校である暇修館が置かれ、現在、その建物が復元されている。したがって暇修館を目指して行けば、城址にたどり着くことができる。この辺りには案内の標柱もたくさんあるので、迷うことはないだろう。
 城址は比高6mほどであまり高くはない。暇修館のある主郭部は、60m四方ほどの広さである。周囲には土塁が残る。下は削り落としの崖になっており、堀があったようだ。暇修館の奥の藪になっている辺りにも何か遺構がありそうだったが、藪なのでやめた。

 大窪城は永承元年(1177)に大掾宗幹が、愛宕山に築いたのに始まる。後に、天神山城や、この大窪城も築かれ、3つの連携した城郭網が完成した。応永年間に奥州から石川茂光がきて、佐竹氏に仕え大久保氏を名乗るようになったが、この大窪城は大窪氏が、天正年間に築いたものという。

 石川氏は、関ヶ原後、佐竹氏の国替えに反対して、車丹波守や馬場泉守らと水戸城占拠を図ったが、失敗して捕らえられ、処刑されたという。







 

  

 

大窪愛宕山城(日立市大久保町字愛宕山) 

 アオ殿の図面を基にして城内を歩いて鳥瞰図を作成してみた。比高20mほどの東西に長い尾根上を利用した城郭で、浄水場の西側、梅が丘病院の東側、が城域に当たる。浄水場のある平場も郭であったと思う。

 大久保氏の居城と言えば暇修館になっている大窪城があるが、この愛宕山城、天神山城も詰めの城のようなもので、三位一体の構造をしていたと考えられる。ただ、今回ざっと歩いてみた印象では、ここは簡素な砦といったものであろうと感じた。防御遺構も急造した程度のものしかないし、郭内の削平もきちんとされてはいない。いざと言うときに利用する簡素な出城と言うように理解しておくのがよいかもしれない。

 それよりも城内を歩いてみて気がつくのは、古墳の多さである。もともとこの台地上には古墳がたくさんあったのであろう。城はそれをうまく取り込んでいる。殊に1郭と2郭との間の堀の横矢部分は、並んだ2つの古墳を利用して横矢の張り出し部分を形成している。しかし、この2つの古墳、並んでいるさまは、なんというかお○ぱいを連想してしまう。まさにそんな感じなのである。梅が丘病院に近い所にも、古墳が2つ並んでいる所があるが、これもまた形がいいのである。なんというか、これはこれで見所ではある。

 1郭にはその他にも3つの古墳がある。それも周溝墓であったらしく、周囲には堀の痕跡も見える。こういう痕跡も残っていることから、もともと郭内をきちんと削平しようという意思はさらさらなかったのであろう。とりあえず立て篭もることができればいい、という見切りが見え見えである。

 2郭の西側の堀は規模も小さく、深さ2mほどしかない。郭内側は微妙に高くなっているが、土塁と言えるほどしっかり高くなっているものでもない。

 1郭の下の浄水場の先には切岸土手と、一部堀跡らしき部分があり、この3の郭までが城域であったと考えられる。つまり直線3連郭の城であったということになる。(その下の貯水池も郭であったのかもしれないが、改変著しくてなんとも言えない) 

 このように愛宕山城は最初に述べた通りに、簡素な出城であったと見てよいだろう。(そのさらに以前は簡素な居館だったのかもしれないが)

 ところで、この城を最初に築いたのは大掾氏であったという。永承元年(1177)に大掾宗幹が築いたのに始まるという。その頃はただの居館であったのだろうが、府中の大掾氏が、その頃はこんな所にいたというのはなんだか意外な感じがする。

南側の先端部分から見た愛宕山城。この先を右手に進むとすぐに浄水場への登り口がある。「梅が丘病院」への案内を目印にするとよい。 梅が丘病院の駐車場の脇から山林に入り込むとすぐに2つの古墳が並んでいる。これはどう見ても、おっ○い・・・・。
病院の方から山道を歩いていくと、最初に見えてくる堀切。深さ2m程度で直線的なものである。 次に見えてくる1郭の堀と土塁。高さ3mほどある。横矢の部分は古墳を2つつなげたものである。これもどう見ても、○っぱいだ・・・・。
1郭内部にはこのような古墳が3つ残っている。よく見ると周囲には堀もあったようで痕跡が分かる。 浄水場へ行くへ行く道の途中にある城塁と腰曲輪。
(以前の記述)大窪愛宕山城は、一連の大窪城の中で最初に築かれた城である。暇修館の脇から西に道を上がっていくと「愛宕山城480m」といった標柱があるので、それを参考にしていけばよい。進んでいくと、道の右手に山の登り口がある。市の配水場への入口で車止めされているが、この配水場のある辺りやその上が城址である。

 というわけで配水場の建設で、かなり遺構は破壊されていると思う。「山頂から見ると、二重の空堀や土塁がよく見える」とあるが、よく分からない。しかし、配水場に向かう途中に写真の、空堀のような部分を発見することはできた。

 配水場には「立入禁止。許可なく入った者は金10万円の罰金に処す」とかなんとか書いてあったので、興ざめして調査してみる気も失せた。






 

大窪天神山城(日立市大久保町字天神山)

 天神山城は大窪城の西300mほどの所にある比高40mほどの山上にあった。愛宕山城よりもよりしっかりとした造りをしており、「居館の大窪城」「詰めの城の天神山城」「出城の愛宕山城」という関係がすぐに浮かんでくる。愛宕山城はすぐ南側に向かい合った尾根にある。

 この城もアオ殿の図があったおかげで、効率よく回ることができた。アオ殿、ありがとう! さて、城にアクセスするには正伝寺を目指すのがいいのだが、この寺は分かりにくい上に(墓地の上の方まで行かないとどこにあるのかが見えない)途中の道が細いので、なかなかしんどい。私のオープンカーでやっと通れるといった狭さである。大きな車の場合はどこか広い所にとめて歩いていく方がよいかもしれない。寺院は分かりにくいが墓地は広大なのですぐに分かる。

 城は山上に2つの郭を配置したものである。1郭、2郭ともに堀の土塁には横矢を掛けており、土橋から通じる通路も曲げられている。特に1郭の土橋は堀に対して斜めに接続しており、横矢部分からできるだけ長い時間、射撃できるように工夫している。なかなか技巧的である。 

 2郭の横堀は深さ3mほど。北側中央辺りにも土橋が一本あるが、これは虎口関連と言うよりも畝とでも見た方がよさそうである。2郭の外側の土塁の外はかなりきちんとした切岸になっている。そしてその下に段々に墓地が並んでいるのであるが、ここはもともとどういう地形であったものだろう。緩やかな傾斜地であったものかもしれないが、段々畑のように墓地が形成されている所を見ると、腰曲輪が何段もあった可能性もある。

 さて、この城を見ていて感じることは、郭内の削平の甘さである。堀や虎口などは技巧的にしっかりと造っているのに、内部は傾斜している部分が多いのである。特に2郭は郭全体の地勢が傾斜していると言っていい。そのために北側の台地基部とを区画する堀に面している土塁は、竪土塁となっているくらいである。また1郭、2郭ともに南側の縁部などは切岸整形されていない自然地形面が多い。こちら側には菩提沢川もあり、防御に気を遣わなくともよかったのであろう。

 郭内の削平の甘さはどうみるべきであろうか。これでは居住性が乏しくなってしまうが、もともと居住性を意識していなかったと言う風に考える方が正しいかもしれない。天神山城はあくまでもいざという時に立て篭もるための逃げ場であり、通常ここに住むことは想定していなかったのであろう。そのため、防御に必要な堀や土塁はきちんと整形しても、とりあえず面倒な削平はパスしてもいいと考えたのではなかろうか。この城の築城者はなかなかおおざっぱな考え方の人であったようで、私とは気が合いそうな気がする。

 郭の規模は1郭が40m×80mほど、2郭が50m×90mほどある。なお、今回確認しなかったが、2郭堀の南側部分はかなり横に折れているらしい。また2郭には2つの古墳がある。下の方の方墳は櫓台として使用されていたようである。

 というわけで、天神山城はそこそこよくできた山城ではあるが、普段は城主が住むことのない緊急用の詰めの城であったと考えられる。

2郭の横堀の下にはたくさんの墓地が形成されている。ここまで上がってくれば、もう遺構は近い。すぐに横矢張り出しのある虎口の所に出ることができる。墓地の背後の土手が、2郭横堀の外側の土塁である。 2郭の堀。土橋脇の横矢張り出しの部分なのだが、ちょっと分かりにくいかなあ。
2郭の横堀を塁上から見たところ。深さ3mほどである。 2郭北側の土塁。地勢が傾斜しているために、竪土塁となって、下の横堀まで連なっている。この右側下が台地基部とを区画する横堀である。
1郭と2郭との間の堀が交差する部分。正面奥が1郭の城塁で、高さ5mほどある。 1郭の堀の横矢折れの部分。
1郭堀にかかる土橋。斜めに接続しているのがめずらしい。この脇には横矢の張り出しがあり、土橋部分を長く取ることによって攻撃しやすくしたものであろう。 2郭内部にある方墳。愛宕山城もそうだが、この城にももともと古墳があったものだろう。
(以前の記述)天神山城は写真の正伝寺のある背後の山である。愛宕山城の項で書いた「愛宕山城480m」の標柱の脇には「天神山城350m」とも書いてある。しかし、この正伝寺を探すのがとてもわかりにくい。

 先の標柱の所から、水路と塀の続く家の前を通って、次の通りに出ると、台地に登る道がある。ここを進んでいくと墓地に出るのだが、正伝寺が見つからない。あちこち歩き回ってみたがやはり見つからない。あきらめかけたのだが、なんと寺院はこの墓地の中腹のまっただ中にあったのである。こりゃ、わからんはずだ。この寺院の前に天神山城の案内板もある。

 天神山城の創建は明らかではないが、一説によると、奥州から来た石川茂光が愛宕山から、この天神山に居を移したのが始まりであるという。天神山は標高126mの山で、現在でも二重の堀が残っている。土塁、郭なども残り、正伝寺の下には大窪氏の一族・家臣のものと思われる居館の遺構も見られると言う。戦国時代には、大窪城、愛宕城、天神山城の3つが有機的に連結し、大窪支配の拠点となっていたと思われる。






荻津城(小木津城・日立市折笠町東連津)

 荻津城は「茨木県遺跡地図」では折笠町の、海に面した台地先端部にあったとしている。しかし「城郭体系」では小木津町にあったとしている。今回、遺跡地図の示す地点に行ってみた。

 海に面した先端部近くには神社が祭られている。神社に上がる道の途中には写真のような切通しがあるが、これは堀切のようにも見える。
 ここを上がると、また切通しがあり、その左側から神社に上がる道がある。この切通しの両側は石垣になっているようにも見える。
 神社のある地点が一番高い所にあるが(比高15mほど)あまり広くはなく、その背後の山林化している平坦地あたりが郭であったのであろう。

 収穫した昆布の整理をしていた地元の方々に伺ってみたが、城なんて聞いたことがないと口々に言われてしまった。中には「小木津の城のことかい?」という人もいたが、よくよく聞いてみると、花車城のことであった。というわけで、城についての詳細は未詳。


 その後、遺構を探してみるために再訪してみた。たまたま地主の方に話を伺うことができたのだが、やはり山上には城館だといった伝承も遺構も何もないという。地主の方も知らないうちに茨城県遺跡地図に登録されてしまっているわけである。

「実際に登って確認してみたら」と言われたので、神社のところから山林に分け入ってみた.。ところが、やはり遺構らしきものはないのであった。

 神社の西側は大きく削られている。そのさらに西側に古墳のような円形に近いピークがあるが、あとはまったくの自然地形のままである。削平も切岸も見られない。

 どうしてここが城館として登録されているのかよく分からない。地主の方さえご存じないと言うことからすると、遺跡地図が間違っているのかもしれない。




小幡館(日立市滑川町)

 小幡館は『新編常陸国誌』によると方2町ほどで、延徳年間に小野崎直道が居城としていたという。小野崎直道は天文14年(1545)頃に、額田城主と石神城主との所領境目争論に関わり、その時に相賀館に移ったという。小幡館にはその後一族の小野崎左衛門という者が居住していたが、天正13年(1585)岩城氏が何侵してきた際に敗れ去り、落城した。

 『茨城県遺跡地図』に掲載されておらず、場所が分からない。








金沢館(日立市金沢町2丁目)

 金沢館は、塙山小学校の南600m、火葬場のある平地にあったという。大窪城からも近く、南に900mほどの所である。当地の土豪であった金沢長介の居館の跡であるという。

 『茨城県遺跡地図』によれば、自動車教習所の北側辺りが館の跡のようであるが、この辺りは宅地化が進んでいて、あるのは宅地と道路だけである。湮滅してしまったと思われる。



久慈城(日立市久慈町4丁目)

 久慈城は、国道293号線と245号線とが合流する交差点の北東600mほどの所にある。比高20mほどの台地先端部を利用した城である。南には茂宮川が流れ、すぐ東南下には日立港がある。かつてはこの台地そのものが港に面していたのかも知れず、海と川の水運の両方を掌握できる交通上の要衝でもあったと考えられる。墓地に「舟戸山」という名称がついているのも、下に舟戸(港)があったからであろう。

 城に訪れるにはこの舟戸山墓地を目指していけばよい。しかし知らないとどこから上がれるのかがさっぱり分からない。私も迷った口である。しかし、素直に国道から台地下の道を西側に入っていけば(茂宮川沿いの北側)登り口はすぐに見えてくる。国道の交通量が多いので反対側から接近しようとしたのが間違いであった。墓地へ上がる途中に、城のある台地上に登る未舗装の道も見えるが、これは腰曲輪に建っているお宅に行くためのものである。

 城は基本的には単郭構造で、長軸100mほどある。周囲には横堀が巡らされていたものと思われるが、現在、北と西を除いてかなり改変が進んでいる。西側の堀は上のお宅に行くための道によってかなり埋められている。、また、東側下の腰曲輪も本来は横堀であったと思われるのだが(一部に痕跡が残っている)、宅地化や畑地化によって埋め戻されてしまったようである。

 また郭内は倒木によってかなり荒れている。郭内の南側半分は切り倒した木がそのまま放置されていて歩くのが非常に難しい。しかし北側半分はわりと歩きやすく、虎口もはっきりと確認できる。この下には土橋もあるが、堀の規模は深さ5m、幅7mほどであり、横矢の折れも確認できる。

 郭の北側も横堀が現存しており、この堀は北東側で竪堀のように下に向かっている。また、外側の土塁は西側に向かうと途中からなくなって行き、ただの腰曲輪状になっていくが、その代わり途中から、北側の台地基部との間の天然の沢が入り込んで堀状を成している。「天然の」と書いたが人工の手も入っているように見えるものである。この辺りの部分と、墓地のある台地基部との間の区画が不鮮明であるが、もともとは二重堀のようにしてきっちりと分断していたはずである。

 城の遺構はざっとこのような感じであるが、墓地部分も郭であった可能性はある。この墓地部分はかなり広く、しかも1郭と同じだけの高さがある。ここにも郭を置きたくなるところであるが、残念ながら大規模墓地となってしまっているために遺構は確認できない。

 久慈城はその立地から見て、水陸の交通を押さえる番所的な城であったと思われる。 

西側の常磐線脇の橋から見た久慈城。正面に老人ホームが見えるが、この奥の比高20mほどの台地上である。 1郭の虎口。この下には土橋もある・・・。しかし、ヤブでうまく写らない。
北西側の横堀。 北側の横堀。郭内からの深さ5m、幅7mほどである。外側の土塁は高さ2mほど。
(以前の記述)久慈といえば久慈郡の山の中を連想してしまうのであるが、日立市にもなぜか久慈町がある。久慈城は、茂宮川に臨む比高10mほどの台地上にあった。方100mほどの広さの台地で台地上は宅地となっている。この台地は基部がくびれており、独立台地に近い形状をしている。このくびれた先の台地は舟戸山共同墓地となっている。
 宇佐美三九郎が築城した城であるという。本丸には塚があるというが、これは確認していない。







鯨岡城(日立市諏訪町)

  鯨岡城も、「城郭体系」に収録されているのに「茨城県遺跡地図」には掲載されておらず、場所が分からない。

 南北朝初期、鯨岡忠幹の居城で、居館の一部に羽黒神社があるというが、昭文社の地図ではこの神社も載っておらず、詳細は不明である。



沢館(日立市諏訪町)

 沢館も「城郭体系」に収録されているのに「茨城県遺跡地図」には掲載されておらず、場所が分からない。

 室町時代、佐竹氏の家臣黒沢義親の居館で、館跡、墓碑が残るという。



下孫根館(日立市川原子町)

 下孫根館も「城郭体系」に収録されているのに「茨城県遺跡地図」には掲載されておらず、場所が分からない。

 戦国時代に孫沢氏が築き、土塁が残るという。



新城館(日立市相賀町)

 日製保健センターの南側の、比高20mほどの海に突き出した台地先端部にはかつて、新城館と呼ばれる館があったという。現在この地はすっかり宅地化が進んでいいるが、先端部付近には山林が残っており、その内部に土塁が見られる。ただし見られるのは土塁だけであり、堀は埋められてしまったのか見受けられない。

 土塁はかなり幅広のもので、中世城館のものにしては規模が大きい。あるいは後世の砲台造成による改変なのであろうか。また郭内部を斜めに横断する低い土塁も、後世の改変かもしれない。

 相賀城の北東600mと、近い位置にあるので、相賀城の出城的な施設であったと思われる。

 江戸時代後期になると、この地に初崎砲台が置かれた。こちらの遺構も分からないが、この砲台は幕末まで海防施設として用いられていたらしい。











 新城の土塁。わりと重厚なものである。



助川海防城・蓼沼館(日立市助川町五丁目)




   

 

館山神社館(日立市川尻町2丁目)

 豊浦中学校の南西に館山神社があるが、ここが館山神社館の跡であるという。館山にある神社なので、館山神社というのであろうが、そこにあった館であるといって、このネーミングはちょっと安易過ぎるのではないかと思う。この辺りの地名を取って豊浦館であるとか川尻館であるとかいった具合にした方がよいと思う。

 神社は比高20mほどの台地上にある。現在は国道6号線が削ってしまっているが、かつては海に突き出した台地であったのであろう。

 神社のあるスペースは15m四方ほどとあまり広くはない。神社の背後はそのまま豊浦中学校につながっているが、この辺りにも郭はあったのであろう。しかし中学校の側はもはや遺構を残していない。

 城主等歴史は未詳。












天号山砦(日立市下深荻町)

丸山砦(日立市下深荻町)

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 この2つの砦は、国道349号線沿いにある。現在の国道は、丸山の下を通るトンネルによって接続されているが、本来は現在の中里小学校や中里中学校の辺りを通るようになっていたはずである。この部分は、両方の砦の山が迫ってきており、中央部は隘路となっていて、関所を置くのにちょうどよい場所となっている。

 また、この隘路には入四間川も流れており、これも防御に活かすことができる。佐竹氏の本拠に攻め込んでくる敵を、北方で迎え撃つ地点としては絶好の場所である。

 アオ殿も書いているが、そうした地形的要因から、この両側にそびえる2つの砦は、そこそこ充実した遺構を備えたものではないだろうか、と以前から思っていた。


 しかし、以前はどちらも登り口が分からなかった。前回、天号山には、中里中学校の方から接近したので、川の断崖に阻まれて、斜面に取り付くことすらかなわなかった。丸山砦も、かなり高く見えたので、登るのはやめておいたのである。

 ところが、近年、Googlemapを見ていて、どちらの山も、ほぼ山頂まで車で行けそうなことに気が付いた。天号山には山頂近くに中里共同霊園が造成されているし、丸山砦は、北側から山頂近くの尾根を経由する林道が通っている。以前は、そういうこともよく分からなかったのであるが、Googlemapのおかげで、アクセス方法を楽々と知ることができた。この所、よく知らない山城を登る際にGooglemapが非常に役立っている。とてもありがたいことである。そんなわけで、近くまで来たついでに、ざっと歩いてみることにした。

 まずは天号山砦に登ってみた。国道沿いのセブンイレブンの西100mほどの所から、南側に入っていく道をそのまま上がっていけば、山頂近くの霊園まであっという間に到着する。ただし、この道はちょっと細い上にかjなり傾斜が急である。現在の愛車は軽自動車なので、急な坂はちょっと苦手である。

 上がってみると、霊園の南側に、1郭の土手が見えている。ここからの比高は10mもない。すぐに登れた。

 ところが、山頂はまったく自然地形のままであった。とても城と呼べるようなものでない。南側の斜面を少し降ったところに、小規模な腰曲輪が二段(Aの所)があるが、遺構のように見えるものと言えばそれくらいである。Aにしても本当に城郭遺構なのかどうかわからない。ただし、地形図を見ると、中腹のCの辺りに平場があるように見える。あるいはここに何かあるのかもしれないが、今回は確認していない。

 南側にはまともな遺構はなかった。だが、霊園の北側も地勢がやや高くなっている。というわけで、そちらにも登ってみたが、そちらもまったく自然地形のままであった。このような状態であり、ここがどうして城館とされているのか理解に苦しむ。

 もし、城館があった可能性があるとすれば、現在、墓地になっている部分であろうか。ここは20m×40mほどの鞍部となっており、そこそこの広さが確保できる。しかし、ここが城館であったとしても、すでに遺構は隠滅したといったところである。


 一方の丸山砦には、林道からアクセスできる。上坪三公民館の辺りから県道38号線を北上していくと、約500mほどで、右側の山中に回り込むようにして上がっていく道が見えてくる。ここまで来る途中から、山の中腹にガードレールがあるのが見えているが、そこを通る道である。この道を通って、林道が南端でカーブする辺りが、1郭に最も近い部分で、ここからなら、、1郭までの比高は20mほどである。

 上がってみると、幅2〜3mほどの小規模な帯曲輪が3段ほどある。規模は小さいが、一応、城址であるという感じはする。そこを経由すると、山頂の1郭内部に到達する。

 ところが、1郭内部は、ほとんど自然地形のままであった。1郭の先端周囲はまったく切岸加工されていない。まったく天然の砦といった趣である。どうやら城郭遺構が見られるのは、北方の尾根続き方向だけらしい。

 ただし、後で地形図を見てみたら、中腹のDにけっこう大きな平場があることに気が付いた。あるいはここに何かあるのかもしれない。

 1郭北側と林道との間は鞍部になっており、その東側に虎口状の切通しがあり、そこから山下から登ってくる道が付けられている。どうやらこれが本来の大手道であったのではないだろうか。尾根側に回り込むように登城するために、尾根側にだけ防御構造を構築したといったところであろう。

 このように丸山砦も、それほどたいしたものではない。『茨城県遺跡地図』がこの2つの城館を「城」ではなく「砦」としているのは、このようなあいまいな遺構しかなかったからであろう。この場所は常陸太田防衛のためには重要な拠点となりうる場所であるが、佐竹氏は、ここまで敵に攻め込まれることなど、まったく想定していなかったかのようである。

セブンイレブンから見た天号山砦。下からの比高は60mほどある。 Aの部分の小規模な腰曲輪。遺構なのかどうか、よく分からない。
天号山にある中里共同霊園から遠望した丸山。下からの比高は80mほどである。 丸山砦の腰曲輪と1郭の城塁。城塁の高さは2mほどで、それほど堅固なものではない。
(以前の記述)
天号山砦は、中里小学校のすぐ西側の台地上にあった。丸山砦と西に向かい合っている、比高60mほどの山の上にあったらしい。しかし、登る道はなさそうで、遺構等は不明である。
 この砦は街道を押さえるためのものであったらしく、砦の東側には市の指定史跡になっている、写真の「入四間道標」の標柱が建っている。この辺りはかつては交通の要衝であったのかもしれない。この道標の背後の山が砦跡である。
 城主等歴史は未詳。


丸山砦は、中里小学校のすぐ東北側の山にあった。天号山砦と北に向かい合っている。国道349号線は、この場所でトンネルをくぐるが、このトンネルの上から東に続いている比高100mほどの山の上に砦があったらしい、しかし、山林化しているようで、遺構等は不明である。
 天号山砦とともに、この街道を押さえるための砦であったと思われる。



滑川浜館(日立市東滑川町)

 滑川浜館は、東滑川町2丁目22番地辺りの、比高10mほどの独立台地にあった。ここには土塁や堀を伴った館があったというが、海沿いを走る国道6号線のバイパス工事で一部削られてしまっている。

 館跡はだいたい残されたようなのであるが、地元の方のお話によると、工事で余った土を空堀に入れて埋めてしまったために、堀はなくなり、その上に持った土が畑となって、現在そこで野菜を栽培していいるということであった。

 台地上には確かにあちこちに段差が認められ、何段かの郭があったと思われるが、現状から復元するのは難しい。しかし、南側に下りる写真の切通しの道は旧状を伝えているようだ。

 滑川浜館の城主は小野崎氏の一族であったという。相賀城の出城の1つとして用いられていたものであろう。
















南高野(みなみこうや)館(日立市南高野町2丁目) 

 南高野館は、茂宮川の左岸の比高40mほどの台地上にあった。北に坂本小学校とオリオン化成の工場、南に南高野保育園、東に南高野幼稚園がある。佐竹氏の家臣赤須雅楽ノ介が築城し、居城としていたという。城の内という地名があり、かつては幅15間の内堀、幅8間の外堀と、二重の堀があったという。(「水府史料」による。)

 しかし、その辺りを回ってみたが、それらしき遺構は見えない。比高40mほどの切り立った台地の突端部なので立地的には間違いないところだと思うのだが、宅地化が進んでいるためか、湮滅してしまったのかもしれない。地元の方に伺ったところ「この辺りで城跡なんて聞いたことがない。城址といえば、ここから南に500mほどのところの「貝塚公園」が城だったということだよ」という情報を得たので、その貝塚公園に向かってみる。

 日立電鉄の「南高野駅」の辺りに「貝塚公園入口」の標柱があり、そこからやはり比高40mほどの台地に上がっていたところが写真の「南高野史跡公園」である。しかし、貝塚公園などと呼ばれている割には、貝塚が見当たらない。土手の高まりもあちこちにあり、展望台などもあるのだが、中世の城館跡と思われるような遺構も見当たらない。本当にここが城跡なのだろうか? ここがもし城跡だとしたら、台地上の古代の集落のことを言っているのではないかと思う。どこかこの奥の方に何かあるのかもしれないが、とりあえずこの史跡公園は南高野館跡ではないと言う気がする。




 

宮田館(日立市宮田町) 

 宮田館も「城郭体系」に収録されているのに「茨城県遺跡地図」には掲載されておらず、場所が分からない。

 戦国時代、宮田通好の居館で、空堀・土塁が残るという。



要害城(日立市国分町)

 要害城は、桜川が海に注ぐ地点に築かれている。この辺り、海岸段丘となっているのだが、海と川による侵食のために断崖絶壁という地形である。その断崖部分を取り込んだまさに要害であった。

 1郭内部は日立製作所の保養所となっているのだが、なんとその名はそのまま「要害クラブ」。要害に建てられているのだから正当なネーミングとも言えるのだが、しかし「要害クラブ」といった名前では、なんとも落ち着かず、これで保養ができるのであろうか、と余計な心配をしてしまう。

 要害城の図を描こうと思って、ここを通るたびに中に入ろうと思うのだが、なぜかいつもゲートが閉まっている。だいぶ以前に来たときにはゲートが開いていて中に自由に入ることができたのであるが、最近はいつも閉じているようなのだ。見ると鍵はかかっていないので、ゲートを開けば入ることはできるのであるが、不法侵入に問われるのもいやなので、結局入れずじまい。仕方がないので、以前の記憶や「重要遺跡報告書」の図面などを参考にしてラフスケッチを描いてみることにした。

 遺構の残る1郭は90m×60m程の規模で、海と川に面した部分は比高20m近い断崖。北西側も谷津が入り込んでいてかなり深い堀となっている。北側だけは完全に人工的な堀なので、他の部分からするとやや貧弱な感じもするが、それでも深さ5mはある堀である。

 現存するのは1郭だけになってしまっているが、かつては2郭と北の郭があり3郭構造の城であった。おそらく日立製作所がある部分が2郭、多賀総合病院のある所が北の郭であったのだと思われる。「重要遺跡報告書」の図面には、2郭の堀が描かれているが、ここも日立製作所の工場となっているので現在では隠滅してしまっているようである。多賀総合病院になってしまった北の郭も遺構は隠滅している。

 要害城は、岩城相馬氏に永禄年間に攻め込まれ、自分の居館を焼かれてしまった孫沢樺太夫頼茂が、この要害の地を頼んで築いたものだと言われる。永禄年間と言えば、佐竹義昭が領域拡大政策を行っていた頃で、こんな所まで他国の勢力に攻め込まれてしまったと言うのがとても意外な気がする。この事件は本当に永禄年間頃のことなのであろうか。ちょっと疑問である。

 ところで、この話からすると孫沢氏は、相馬氏に攻め込まれる以前には孫沢館にいたということなのであるが、これがどこなのかよく分からない。「茨城県遺跡地図」には孫沢館と言う名の居館は登録されていない。日立市内にたくさんある由来不明の居館のうちの1つがそれにあたるのであろうか。

 (以前の記述)要害城は常陸電鉄「桜川駅」のすぐ南側の海岸段丘上にある。市街地の中なのでたいして何も残っていないだろうと思っていったのだが、見事な遺構が残っている。日立市の城郭では最も見応えがあるといっていい。城址は多賀総合病院の南で、現在多賀テクノロジー(株)の保養施設である「要害クラブ」の敷地内となっている。城址に入る所には虎口があり、ここは土橋になっている。両脇の堀は幅10m深さ7mほどの深さがある。虎口は2カ所ある。要害クラブのある主郭部は50m×150mほどの広さがある。西側の台地続きには先の空堀があるが、南側には、入り江をそのまま堀として利用している。写真がそれだが、深さは20mほど、切り立っていてとても這い上がれるようなものではない。実に要害堅固である。

 多賀病院の敷地には二郭、北の郭があったらしいが、こちらは病院の建設に伴って失われてしまったようだ。「水府史料」」によると、二の丸は東西30間、南北50間、北の郭は東西35間、南北20間、堀も二重になっていたという。

 要害城は天正年間、佐竹氏の家臣孫沢権大夫頼茂という者によって築かれたという。孫沢氏の居城は最初は、桜川の右岸にあったと言うが、永禄5年(1562)8月、佐竹義昭と相馬中村城主相馬盛胤が近所の孫沢原で合戦したときに、そのあおりをくらって焼失してしまったという。後に築きなおしたのが、現在の城址である。




 

*日立市内の台場・番所

大沼異国船御番陣屋(日立市東金沢町)
 日立電鉄大沼駅の東側にある山に置かれた番所であるという。

川尻異国船遠見番所・砲台(日立市川尻町)
 川尻港の南端の御番山に置かれたという。小木津城の北東600mほどの所であった。

川原子台場(日立町川原子町) 
 川原子海水浴場の南側に烏帽子岩と呼ばれる岩があるが、その付近の公衆トイレの辺りにあったという。要害城の南900mほどの所である。

久慈台場(日立市久慈町)
 国道245号線を望む行戸公園の辺りに置かれたという。

初崎台場(日立市相賀町)
 新城館があったという相賀町伊勢崎の高台の中腹辺りに幕末の砲台が置かれたという。

水木異国船遠見番所
 水木海水浴場の崖上にある田楽鼻公園という公園の辺りにあったという。記念碑もあるらしい。

*参考サイト 助川海防城跡保全会


























大竹屋旅館