茨城県常陸太田市

*参考・関連サイト  埋もれた古城  北緯36度付近の中世城郭  房総の城郭

*参考資料  『図説 茨城の城郭』」

赤須館(常陸太田市茅根町)

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 赤須館は、場所が分かりにくい。いや、正確にいうと、どの山かはすぐに分かるのであるが、山の下まで到達するのが難しいのである。

 国道349号線の「柳下」というバス停辺りから、里川を越えてすぐ東側に見える比高50mほどの台地が赤須館の跡である。館跡には鉄塔が建っている。ところで、国道349号線から見ると、鉄塔の建っている台地が2つ見える。このうち、北側の鉄塔の建っているところが城址である。以前は間違えて南側の鉄塔の周辺を探索してしまった。台地上を一生懸命に歩いたのだが、遺構が見当たらず焦った記憶がある。
 
 館跡の台地の南端脇には龍山不動院がある。したがってこれを目指せばよいのであるが、先にも述べたように、ここまで到達するのが非常に難しい。龍山不動院はgooglemapにも掲載されており、その場所はすぐに分かるが、そこへ行くまでの道が未舗装で非常に狭い道(しかも脇は土手)なのである。ちょっと大きめの車の場合は、赤須集落のどこかに車を停めて、ひたすら歩いて行った方が無難であろう。
 
 里川沿いの道を進んでいくとやがて、龍山不動院が見えてくる。その西側脇には「鉄塔常陸太田線18号」の登り口が見えてくる。この台地は非常に急峻であり、登り口には段も付けられなかったようで、最初は梯子を登ることになる。

 鉄塔メンテナンス用の段をどんどん登って行くと、やがて堀切が見えてきた。深さ2mほどの小規模なものであるが、ちゃんとした堀切である。これを進んで7m程行くと、さらにもう1本の堀切が見えてくる。多少距離は置いているが、二重堀切に近い構造である。
 
 この堀切を越えると、台地上部であり、後は平坦な道が続いて行く。しかし、鉄塔用の道の脇はすべて笹藪に覆われてしまっているので、先を見通すことは困難で、全体の構造は分かりにくい。

 3の郭を50mほど歩いて行くと、高さ1mほどの土手が見えてくる。その右脇は土塁状になっている。ここから先が1郭である。1郭に入って15mほど進むと、また土塁が見えてくる。ここで1郭は終わり、その先が2郭となる。

 さらに20mほど進むと、虎口と堀状の部分があり、その先に鉄塔が建っている。鉄塔の建つ部分は方15mほどの人工的な土壇となっている。

 鉄塔から先にも平場が続いているが、その脇に山道が続いており、北側の山麓に降りられるようになっている。80mほど進むと、山道は東西に延びており、切通しの通路となっている。そのため、この部分が城域の北端を示す堀切のように見えてしまうのであるが、ここまで城域であったのかどうかは何ともいえない。

 鉄塔メンテナンス用の道に従って歩いて行っただけでは、これだけのことしか分からない。城の全体構造を知るためにはやはり堀に沿って笹藪の中を歩いて行くしかない。

 というわけで、堀と土塁の形状を知ろうと思って歩いてみたのだが、その結果が右の図である。鉄塔との間は二重の堀になっていたようだが、かなり浅くなってしまっている上に、途中からすっかり埋められてしまっている。鉄塔建設の際か、あるいはもっと古い時代の耕作化などによって改変されてしまったものらしい。

 1郭の土塁は通路から東側に延びてから南北に折れており、15m×30mほどの小規模な区画を成している。これを1郭としたのは、北西の土塁の北側に堀状の窪みがあったからだが、小規模な空間であり、枡形と言ってもいい程度の規模のものであるにすぎない。

 2郭北側の堀は弧を描いて東南側の台地縁までかつては続いていたものと思われる。現状から見る土塁の規模からすると、2郭の二重堀をもって城域は終わるような気がする。ささやかなl規模の城館である。
 おそらくは、城主の居館は山麓のどこかにあったのであろう。山上の遺構は、詰めの城といったものではなかったろうか。










南側の赤須の集落から見た赤須館。鉄塔のある山が2つ見えるが、奥の方(北側)が館跡である。比高40mほどある。南端下には龍山不動院がある。以前は間違えて南側の鉄塔のある台地に登ってしまった。 先端から鉄塔メンテナンス用の道路を登って行くと、比高差のある堀切が2つ見えてくる。深さは2m程度と、ささやかなものである。
1郭南側の土塁。 2郭から鉄塔を見たところ。鉄塔の建つ部分との間に堀が残っている。
台地南側の切り通しの通路。後世のものと思われるので、ここまで城域としてよいかどうか分からない。 龍山不動院。手前を清水が流れている。ここまでお参りに来る人がいるのだろうか。
(以前の記述)赤須館は、茅根城の北800mほどの所にある。国道349号線の「赤須入口」というバス停の辺りから、里川を渡って赤須地区に入っていく道がある。川を渡って北に曲がった所の突き当りの比高50mほどの山が、館跡らしい。山の南端下には龍山不動院がある。
 小野崎氏の一族であった赤須通頼の館であったという。



 

今宮館(常陸太田市瑞龍町) 



薄井館(大森館・常陸太田市大森町)



大門(おおかど)北城(常陸太田市上大門町字堀之内)

大門南城(常陸太田市下大門町字天神馬場)

 大門北城は、西山荘カントリークラブのすぐ西側、「堀の内」というバス停のすぐ東側にそびえている比高60mほどの山上にあった。この城は北側から延びてきた尾根が広くなっている部分を利用したもので、南側は比較的緩やかな地形だったらしく、ここを切岸整形することによって、南側には数段の郭をひな壇形式に配置している。下の方はかなりちまちましているのだが、郭数はけっこう多く、そこそこ大規模な城である。
 北側が尾根続きになるため、この方向の防備は重要であり、1郭は北側に土塁を盛り、さらに堀切1、堀切2と、2つの堀切によって分断を図っている。

 1郭は1mほどの段差をもって2郭と接続しているが、実際にはこれは1つの郭と言っていいだろう。この1,2郭が主郭ということになる。この下には4の郭があるのだが、面白いのは、2の郭に上がるためには、3の郭のような中段の郭を経由しなければならないようになっていると言うことである。3は馬出しの原初的な機能を持った部分であると言っていいかもしれない。

 さらに技巧的なのは、Aの方形の窪み部分である。おそらく登城道は10の郭から9の郭の下を通ってAの窪みに出ると言うコースであったかと思われるが、途中に郭が段々に配置されているので、登城道は常に上からの攻撃にさらされるようになっている。さらに9の郭と8の郭との間にも窪みがあり、そこを上がると今度はAで4の郭の城塁に突き当たる。しかも両脇には5,6の郭がある。実際に城門がどのように配置されていたのかは明らかではないが、所々に関門を設けるという防御思想に基づいた配置がなされていたのであろう。Aの部分は枡形のような空間として機能していたのではないだろうか。

 このように大門北城は、そこそこの規模もあり、堀切などのメリハリの利いた遺構もあり、ある程度技巧的な城郭であった。一時的とはいえ、佐竹氏の当主が居城としたという伝承にふさわしい城館であるといっていいと思う。主郭部から裾を広げたように段々と郭を配置すると言う構造は山入城ともよく似ているといえるだろう。
 

 大門南城は大門北城のすぐ南側の尾根の先端近くを利用して築かれたものである。基本的には単郭といっていい小規模な城館で、1郭は長軸40mほどの楕円形の郭である。全体を横堀が巡らされているのが特徴的である。土塁も高くはないが、きちんとめぐらされている。すぐ北の大門北城と密接な関係にあった城であることに間違いないと思うのだが、大門北城では土塁の使用が少なく、また北城でまったく使用されていない横堀がベースになっていることなど構造のポリシーが違っているのも興味が引かれる所である。
 横堀は尾根続きの方向にある2郭との間の部分が最も大きくなっている。2の部分は基本的には尾根を少し削平しただけのものであるが、尾根方向に切岸も一応認められ、外郭的な機能を果たしていたのであろう。
 1郭の東南側には土塁も横堀もない。また城塁がえぐられているような部分もあり、後世改変を受けているのかもしれない。
 土塁の切れは合計4ヶ所ほど見えるが、この規模の城で4つの虎口は多すぎる。このうちAの虎口はもともとのものであるという。Aのすぐ南側にも虎口状の部分があるが、これは近年のものであるらしい。Aの虎口の外側には土橋があり、その外の横堀にも切れがあって、切り通し状の道が下に延びているのが見える。これが大手道であったろうか。2郭方向の虎口も旧来のものかもしれないので、結局虎口は2つと見るのがよいであろう。
 さて、この城をどのように見るべきであろうか。位置から考えて、北城の出城といったように解釈するのが一番自然なのであるが、構造的に北城と南城はあまり似ているとは言えない。あるいは築城時期にかなりのずれがあるのかもしれない。佐竹氏の家臣の小野崎氏の一族であった根本氏の居城と言われているようだから、ある時期に根本氏が築いた城なのであろう。

まずは大門北城へ。

西側山麓から見た大門北城。麓からの比高は60mほどである。 登城道を上がって行くとAの部分に出る。正面に見えるのは4の郭の城塁。この構造から見て枡形の一種と見てよいであろう。
4の郭には西側から坂虎口を通って上がるようになっている。何の工夫もない虎口である。 よく見るとこの坂道。木橋を架けて人が通れるようになっている。蜀の桟道みたい。これって復元?・・・なわけないよなあ・・・・。
4の郭から2の郭に上がる途中には、中段3の郭(正面)を通らなければならない。ということはこの3の郭は馬出しに近い機能を持っていたのかもしれない。この城にはこんな構造が他にもある。 1郭北側の土塁と祠。この背後が堀切1である。
堀切1の西側は道となって堀切2の方向へ延びているのだが、その西側にも小さな堀切がある。これによって分断された部分は自然と土塁のようになっている。 堀切1。深さは8mほどある。堀底には段がある。また堀底の東側はちょっとした平場になっている。
堀切2。深さ5mほど。この2本の堀切によって尾根続きは分断されている。この西側下には腰曲輪がある。 堀切3。岩盤をくり抜いたらしく、岩肌が露出している。
(以前の記述・以下に説明しているのは「平成2年度版茨城県遺跡地図で印をつけている場所のことであるが、その場所は実際の大門北城の場所とは違っている。したがって以下の記述は、大門北城のことではないので注意!) 

 大門北城は、「大福地」というバス停のすぐ東側にそびえている比高30mほどの台地上にあった。この辺り一帯を「堀ノ内」といい、かなり古い時代から居館があったところではないかと思われる。台地上には山道が付いていたが、途中で途切れてしまっていて山上まではいけなかった。よじ登れば行けないことはないのだが、最近ヘビによく遭遇するので(5月)やめておいた。
 助川里通が築き、佐竹義瞬が居城としたという。

続いて大門南城へ。

西側下の道路から見た大門南城。高さ20mほどの小さな山である。 南側の横堀。東西一直線に延びている。
南西側にある虎口。この方向に虎口の切れは2ヶ所あるが、南側のものは後世のものだそうで、こちらがオリジナル。横堀の土塁にも切れがあり間には土橋も認められる。この外は切り通しの道になって下まで続いていたようだが、現在は藪でトレースできない。 2の郭で休憩するレンジャー隊。時間はもう6時。ちょうど正面には沈んでいく夕日が見えていた。今日も武生城やら大子の荒蒔城やらたくさん歩いた。みんなお疲れさま!
2郭との間の横堀。深さ2m、幅4mほど。 墓に登る南側の道。ここから登るのが一番楽みたい。
(以前の記述・平成2年度版茨城県遺跡地図では南城の位置も違っている。以下はそれに基づいた記述なので注意!)
 大門南城は、「天神馬場」というバス停のすぐ北側の台地上にあった。比高30mほどの独立した台地で、上にあがる道は分からなかったが、その形状からそれ相応の平坦地がありそうに見える。

 この辺りには、「堀ノ内」「天神馬場」「竹之内(館ノ内の転)」といった城郭関連地名が見られる。
 室町時代に、小野崎氏の一族であった根本為義の居城であったという。



太田城(常陸太田市中城町)



大橋城(常陸太田市大森町)



岡田館(常陸太田市岡田町)
後の岡田館(常陸太田市岡田町)

 国道293号線の「岡田」の信号から、普門寺や熊野神社のある東側の道へ行かずに、真っ直ぐに細い道をすすむと、道は急に20mほど上がって、台地上に続いていく。この台地のあたりが岡田館の跡であるという。台地上は広い畑地になっていて、遺構がどの部分かはっきりしないが、写真の辺りは西側に下る道が空堀のように見え、ガサの中に土塁状の高まりもある。この台地の南側と西側は断崖で、要害の地となっている。

 岡田館の歴史は古く、平安時代の末期には岡田親義という者が居館としていたという。


 後の岡田館は、岡田館の北西150mほどの所にあった。この台地の西端部にあたるところだが、下の道を広げる際に大分削られてしまったようで、やはり遺構はよく分からない。後の岡田館というのであるから、岡田氏が後にこの地に居館を移したものか、あるいは新たに造営した場所だったのであろう。











岡部館(常陸太田市大森町)

 岡部館は、丹奈城の東北700m、薄井館の東南500mの所にあった。城址の中央部を常磐自動車道が貫いており、したがって遺構の大部分は湮滅している。『重要遺跡報告書』の図を元にラフを作成してみるとこんな感じ。方50mほどの城館で周囲を深さ2mほどの堀と土塁が取り巻いていたという。
 この辺りは細い道ばかりで、しかも北の山側に向かう道が分かりにくく、城址近くまでなかなか到達できない。
 岡部館は、この辺りに多い、佐竹一族の居館の1つである。一族の岡部氏が居館としていたという。


















小野館(常陸太田市瑞竜町小野)



小野崎城(常陸太田市瑞龍町)



小目(おめ)館(常陸太田市小目間町)



釜田館(常陸太田市下河合町)



河合城(常陸太田市上河合)



常福寺館(常陸太田市常福寺町)

 国道349号線沿いに「常福寺」というバス停があるが、この寺院がある所が、中世の城館の跡であったという。戦国時代に、修験道善正院の屋敷であったという。しかし、常福寺は現在地名のみ残り、肝心の寺院は、いつの時代か知れないが、瓜連町に移っていってしまったという。かつて常福寺のあった場所を探そうとしたのであるが、残念ながら、話を伺った方はみんなその場所を知らなかった。


瀬谷館(常陸太田市真弓町字世矢)

 日立電鉄の「川中子駅」から北に入った所の引く台地上に世矢小学校や世矢中学校があるが、この辺りに瀬谷館があったというがはっきりとした場所はよく分からない。瀬谷館は戦国時代に佐竹氏の家臣、人見筑後守が居城としていたところであるという。


高井館(常陸太田市小目町)



田渡城(常陸太田市田渡町)



丹奈(たんな)城(常陸太田市大森町字丹奈)

 丹奈城は、水田地帯を挟んで大橋城のある台地のすぐ北側に向かい合う、比高20mほどの台地の先端部にあった。この辺りは道がとても狭いので、車幅いっぱいの道をやっとこ走っていく。両脇は溝だ。この辺りの人は毎日こんな道を走っていてもう少し道をなんとかしようと思わないのだろうか。初めて来た人間には大変だ。

 やや切通しのようになっている所を左折して台地に上がるとそこが城址である。方100mほどの長方形の単郭の城であるようだ。写真の台地が城塁ということになる。手前の畑は下に落ち込んでいて堀の跡のように見える。

 「城郭体系」などでは「丹奈館」とあるが、地元の人が「丹奈城」と呼んでいるのでここでは丹奈城と呼んでおく。郭内には3軒ほどの民家が建っているのだが、宅地を建てる際にだいぶ改変されてしまったため、遺構は残っていないということだった。この城塁と、先ほどの切通しの道くらいが遺構と言えるかも知れない。奥にまだ遺構はあるのかもしれないが、完全に民家の敷地内になってしまっているとちょっと入りにくい。

 丹奈城は佐竹氏の家臣の小野高長の居城であったと伝えられる。










地徳館(常陸太田市町屋町字堀ノ内)

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 国道349号線の地徳地区に「堀ノ内」の地名がある。この東側にそびえる、比高70mほどの広大な山稜が地徳館の跡である。
 国道沿いにグループ7というコンビニがある(セブンイレブンではない)。この少し南側から、台地に上がっていく道が付いている。その気になればブドウ畑の奥まで車で上がることも可能なのであるが、ブドウ畑の収穫シーズンなどは、そこまで車で行かない方が無難であろう。

 台地上は非常に広大なブドウ畑となっている。「館」ということで、以前は、この広大なブドウ畑の一角が館跡なのではないかと思って、奥の方まで探索をしなかった。しかし、実際にはさらにここから30mほど登った山頂部に遺構が存在している。
 
 ブドウ畑の一番奥まで突き当たると、北側に進んでいく道と、その脇の墓地が見える。この墓地の脇まで行くと、さらにそこから山上に上がっていく道が見えてくる。というわけで、その道から山上を目指すことにした。
 ところで、「山上への道がある」のは確かなのだが、この道、途中から笹藪に覆われてしまっている。そのため比高30mほどを登るのにもちょっと難儀してしまう。笹藪をかき分けながら登っていかなければならないのである。先の見通せない笹藪というのはなんとも圧迫感がある。
 なんとかこの笹藪を通り抜けて尾根に出ると、藪が少なくなり、日の当たる地形となるので、ほっとする。やっぱり先が見通せない山は不安になってしまう。
 さて、この尾根を東側に向かって進んでいくと、やがて南側下から登ってくる道と合流した。どうやら山麓のどこかからここに登ってくる道があるらしい。ただし、登り口がどこであるのかは確認していない。

 この道を進んでいくと、すぐ脇が城塁となっているのが分かる。これが1郭である。1郭は10m×50mほどの細長い曲輪で、東西に堀切があるのが、下の道からでもよく見える。特に西側の堀切は、だいぶ埋まってはいるが、本来は二段構造になっていたようである。
 また、1郭の東側には土塁が盛られている。
 1郭南側下の道を進んでいくと、途中、切通し状になっている部分があり、その先を進んでいくと、1郭を越えて、その先の尾根に出る。後は尾根道として、山の奥の方まで続いているようだが、いったいどこまで続いているのかは確認していない。

 山上の遺構は、基本的には1郭だけの単郭構造であったようである。1郭北側下には、2段の帯曲輪のようなものが見られるが、これは後世の山道のようにも見え、城の構造物であるのかどうか、迷ってしまうところである。
 ところで。この城、タラの木があちこちに自生している。城塁を上り下りする際に不用意に手近な木につかまってしまうと、、グサリと棘にやられてしまったりするので注意が必要である。この城を歩く際には、タラの木に気をつけながら歩くようにしよう。私は城歩きの際に手袋をはめない人間なので(手袋をはめていると図面が描きにくい)、こういう城址では、手がすっかり傷ついてしまうのであった。

 このように地徳館は、単郭の城館であるが、城の本体はここだけなのであろうか。どうも、下の台地の広大なブドウ畑も城に関連する部分のように思えて仕方ないのである。台地上のこれだけの広大な空間をまったく利用しないということはないだろう。
 以下は想像であるが、山上の1郭は、詰めの城、あるいは物見の城といった意味合いのものではなかったろうか。館の本体は、下のブドウ畑のある部分に存在していたのではなったかという気がするのである。

広大なブドウ畑の奥にそびえて見える山の頂上部が地徳館の跡である。ここからの比高は30m程度だが、途中は笹藪だらけである。 1郭西側の城塁。高さ5mほど。浅いながらも二重の堀切が見られる。
1郭南側下を通っていく通路の切通し部分。 1郭東側の堀切。深さ4mほど。側面には竪堀が掘られている。
1郭北側に見られる虎口。しかし、切り方が新しいようにも見える。後世の改変なのかもしれない。 館跡の下に広がる広大なブドウ畑。この部分も館として利用されていたのであろうか。
(以前の記述)地徳館は、国道349号線沿いの「G(グループ)セブン」とかいうコンビニ(セブンイレブンではない)と食堂が合体したような店の向かい側の比高50mほどの山にあった。この食堂はトラックの運転手には評判の店らしく、何台もダンプが止まっている。

 店の向かい側に車でも上がっていけそうな道が見える。そこをまっすぐ上がっていくと平坦地があり、ここは太田市立の霊園となっている。霊園の手前の沢はまるで空堀のようになっており、虎口のようにも見えるが、それがそうかどうかは不明。そこで道は切り通しのようになり右に曲がって上がっていく。この上にも平坦地があり、ブドウ畑になっている。この辺りが郭なのだろうか。よくわからない。ブドウ畑はその上にも続いている。この山のどこかが館の跡であることは間違いなのだが、はっきりとしたことは分からなかった。

 地徳館は、南北朝時代に福地豊後という者の居館であったという。南北朝時代の居館では、遺構らしきものがあまりないのも無理ないのかもしれない。



茅根城(常陸太田市茅根町)

 北側から流れてくる里川は、佐都小学校の上の台地にぶつかり、西に向きを変えている。それによって形成された断崖上の台地部分が茅根城の跡である。台地上はかなり広大な畑地となって広がっているが、東側の台地基部側を掘り切ってしまえば、三方向は断崖であり、城域を形成することができる要害の地である。台地上には「中城」、麓の小学校の地に「根古屋」といった地名が残されており、城館があったことは間違いない。

 以前、佐都小学校を訪れた時、その玄関先に、額に入れられて飾られた「茅根城絵図」を見たことがあった。その時は写真撮影等を断られてしまったので、細かいところまで覚えてはいないのであるが、絵図によると、台地上に大きく2郭を並列させるような構造になっていたように思う。

 おそらくアオ殿の図にあるような(北緯36度付近の中世城郭)、周囲を土塁で囲んだ2郭並列の城郭だったのではないかと思う。しかし、現状では耕作化のための改変が徹底してしまったようで、右のラフ図にある程度の地形しか見ることができない。城内の中央を通っている道がかつてあった2つの郭の中央を分断する堀の名残ではないか、とも思われるのであるが、全域を発掘でもして見ない限り、本来の城郭の構造を知るすべはなさそうに見える。

 城址に明確な堀などは残存していないが、土塁は2ヶ所だけにかろうじて残されている。北側のものは、台地下に降りていく虎口の脇にあるもので、かなり大きく、櫓台といってもよさそうな規模である。南側の土塁は墓地の背後に残っているもので、ほとんど残欠といった程度のものであり、本来、この土塁がどのようにつながっていたのかはうかがい知ることはできない。
 台地基部に当たる東側に、台地を城とを区画する大規模な堀があったのではないかと想像されるのだが、現在この場所は宅地になってしまっており、こちらもまた旧状は不明であるとしかいいようがない。そこには「浄念坊」という屋号があるそうだが、これが城主などに関係するものなのかどうかも現時点では不明である。

 このような感じで、茅根城については、その本来の構造を現在の遺構から想像する事が難しい状況である。しかし、そこそこの面積を誇った城であった。伝承では鎌倉時代に茅根氏が居館としたところであるというが、「中城」「根古屋」といった地名から、戦国期の城郭であったと見てよいのではないかと思われる。しかし、その詳細についてはなんともいえない。

台地上の中城から下の佐都都小学校を見た所。中城とは10mほどの比高差がある。小学校部分が「根古屋」である。 中城の城塁の跡。城塁、堀、腰曲輪などの跡なのだろうが、改変が激しいようでよく分からない。
中城南側にわずかに残る土塁の残欠。 北側中央の虎口から下の里川に続く道。搦め手ということになろうか。
右上の虎口の脇に残る櫓台の土塁。 南側の虎口の跡であると思われるが、現状では小規模なものになってしまっている。
「山口」にはこのような石垣が見られる。しかし、城の遺構ではなさそうだ。 小学校から「山口」の畑に上がってくる切通しの道。これももとは堀であったろうか。
(以前の記述)現在、佐都小学校の建っているところは、里側沿いの河岸段丘上だが、ここに茅根城があったという。小学校のある所が、「根古屋」と呼ばれていた所で、ここは平素の城主の居館が建っていたところであろう。しかし小学校の敷地となってしまったせいか、遺構らしきものはなさそうだ。

 この小学校から一段上がった台地上が「中城」と呼ばれている。そうやらこの辺りが城の中心部分であったようだ。台地上は畑地となっているが、仕切りのない広い空間といった感じで、中世城郭のような郭の区画部分がどうなっているのかはっきりしないのであるが、写真中央の切り通しは、空堀の跡と見てよいかもしれない。その他にも、いくつかの段差があるのだが、確信がもてない。いづれにせよ、かなり広い館の跡といった様子である。

 佐都小学校の玄関を入った所には誰が書いたものかはわからないが「茅根城絵図」なるものが額縁に入って飾ってあった。「写真を撮らせてもらってもいいいですか」と聞いたのだが、校長先生に断られてしまった。残念。

 「城郭体系」には「鎌倉時代の築城で、小野崎通景の居城」とある。しかし、佐竹氏家臣の茅根氏ともなんらかの関係があったのではないかという気がする。



仲城(常陸太田市真弓町字仲城)

 仲城は県道156号線の「東真弓」と「世矢堺」というバス停の中間点くらいの北側にあったという。写真の辺りである。比高6mほどの低い台地に大きな屋敷が建っているが、ここのことだろうか。城に関する歴史は未詳である。仲城という字名からくる単なる伝承地なのかもしれない。また、「城郭体系」によると、この真弓町に釜田館という居館があったということになっている。とすると、これが実はその釜田館の場所であるのかもしれないのだが、「城郭体系」のこの辺りの記事は誤りが多いようでなんとも言えない。釜田館というのは、下川合町にもあるので、それと混同しているのかもしれない。














根本館(常陸太田市白羽町)



 

幡館(常陸太田市幡町)



馬場館(常陸太田市馬場町)



春友館(常陸太田市春友町字堀ノ内)

 春友館は、国道349号線の「春友」というバス停の北東に見える比高10mほどの台地上にあったという。現在、台地上は、宅地化や畑の造成で整備されてしまったようで、遺構らしきものはほとんどみられない。しかし、地元の方に伺っても、城館の跡などは知らないということであった。ただし、この台地一帯は「堀ノ内」という字名であるという。

 一帯どこが館跡であったのかよく分からないのだが、セオリー通りであるなら、台地北端の部分であったろうか。
 また、春友集会所の脇には2つの塚があり、それが虎口状を成している。これが館と関係があるのかどうか、ちょっと気になった。
 南西の薬師堂の脇には幅20m、深さ2mほど台地に食い込んだ部分がある。もしかすると、これが埋められた堀の名残であるのかもしれない。

 このように台地上にはまともな遺構が見られなくなってしまっているが、台地縁部は城塁状を成しており、下には腰曲輪が見られる。その下の水田地帯はかつての沼沢地であり、それほど高くないながらも、そこそこ要害の地であったものだろう。

 館と関係があるのかどうか分からないが、台地下北西側(鹿島神社の西側)一帯に、高さ2mほどの土手が「く」の字状に続いているのが目に付いた。もしかしたら、これも遺構と関係があるのだろうか。

 佐竹氏家臣武藤氏の居館であったという。








 台地西側の城塁。城塁形状をしており、腰曲輪もある。腰曲輪は直線的ではなく、微妙なラインを描いている。 薬師堂の裏手にある、台地に切れ込んだ部分。あるいは埋められた堀の残存部分なのであろうか。
(以前の記述)春友館は、国道349号線の「春友」というバス停の辺りから、すぐ東側に見える、比高15mほどの切り立った台地上にある。知らずに国道から見ても、館かなにかがあったであろうと思いたくなるような台地である。台地のほうへ上がっていくと、道はまず突き当たって左に曲がる。左に上がっていくと、今度は右に曲がる。この屈曲した道路を台地の上から狙撃できるようになっている。さらに道を上がり左に曲がった辺りが切り通しになっている。ここが虎口ということだろう。台地上は宅地や畑地となっているが、20mほど進んだ所の右側が深い谷になっている。写真がそれだが、天然の空堀といった趣である。深さは30m以上あり、切り立っている。里川に面した台地の表部分よりも高さがある。その向かい側には10mほど低く腰曲輪のような平坦地もある。ただし、腰曲輪にしては位置が半端な感じだ。斜面を削り落としたためにできてしまった空間とすべきかもしれない。ここも畑になっている。

 春友館は、戦国時代に武藤氏が居城としていたところであるという。



 

藤田館(常陸太田市藤田町)

 県道166号線と県道61号線とが交差する藤田町交差点から、県道166号線を北西に400mほど進んでいくと、西側の水田中に林が見えてくる。これが藤田館の跡である。

 図の1の部分が館の中心部であったと思われる。ここには2軒のお宅がある。藤田氏の子孫であろうか。

 1の周囲には水堀の名残かと思われる地形が散見されるのだが、このうち最も遺構らしく見えるのは、図のAの辺りであろう。城塁に折れが見られ、水もけっこう溜まっている。かつての堀の規模が推し量られる。

 他にも堀跡らしき地形があちこちに見られるが、圃場整備が行われているようで、かなり改変もされているらしい。規模からすると複郭の館であったと思われるが、本来の形状と規模はよく分からない。

 佐竹家臣藤田氏の居館であった。















 県道166号線から見た藤田館の跡。周囲は圃場整備で改変されているが、館跡の一部には旧状が残されている。 Aの部分の折れを伴った水堀跡。
(以前の記述)県道166号線を「藤田町」の交差点の所から北上していくと、400mほど進んで、左手の水田地帯にこんもりとした森が見えてくる。これが藤田館の跡である。館跡には現在2軒の民家が入っているが、その周囲には堀の跡がくっきりと残っている。部分的に破壊されてはいるが、方100mほどの方形の居館の跡であるようだ。堀の幅は2mほどで、土塁もない。ということでおそらく中世前期の武士の館の跡であろうと推測される。ただし、堀には横矢が掛けられている部分もある。堀には笹の葉がたくさんたまっていて、かなり浅くなっている。堀の形状を知ろうとして堀底を歩いていたら、ずぼっと靴がはまり、水で濡れてしまった。だいぶ埋まっていても、やはり水堀は侮ってはいけない。冷たいのう・・・・。

 藤田館は、佐竹氏の一族であった藤田氏の居館であったという。また館跡のすぐ南側に墓地があるが、けっこう古そうな墓もある。藤田氏の墓などもあったかもしれない。



馬坂城(常陸太田市天神林町)

 *鳥瞰図作成にあたっては、ウモ殿、アオ殿の図面を参考にした。

 常陸太田市の市外の西側にある山地帯が南側の平野部に突き出している部分の先端部に位置している。比高20mほどの台地である。北総辺りの洪積台地と違って、低いながらも西側には何本もの尾根が派生している。それらの尾根を堀切で分断するという構造をしているので、一見、尾根切断方式の山城のようにも見える部分もある。

 基本的にはこの台地に堀切を入れ、直線連郭式に郭を配列した城郭である。ただし主郭は先端ではなく、台地基部に寄った「御城」部分であった。先端を主郭にしなかったのは、先端部はかなり尾根が細くなっており、それほどの居住空間がなかったことと、先端に近づくにつれ、地勢がしだいに低くなっているからであると思われる。さて、現在の御城は一面の畑となっている。ここで農作業をしていたおばあさんがいらっしゃったので、「このお城を見に来る人はいますか?」とお尋ねしたら、「けっこういるよ」という返事が返ってきた。それなりに認知された城址であるらしい。「姉妹都市の秋田からバス2台で見学に来た人もいた」とも言っていたが、そんなにたくさんの人が訪れるということがあったのだろうか。

 御城の西側と東側はそれぞれ堀切によって分断されている。東よりの堀7は、深さ3m、幅10mほどの堀である。幅に比べて深さがそれほどでもないが、堀底が民家の敷地になっていることなどからして、ここはかなり埋められているようである。また御城の西側は深さ4m、幅8mほどの堀1によって分断されている。さらに御城からは北西に向かって二本の尾根が派生しており、そのそれぞれを掘り切っている。特に堀5は、御城からの深さ10mほどの部分まで掘り切っており、実に堅固な印象を受ける。それに比して堀切の外側の高さは2m程度である。御城の、この堀5に向かって延びている部分は、かなりの藪になっていて、堀5も城塁の上からでは、堀切になっているのかどうかさえも判然としない。先行図がなければ、あえて探索したくもないような場所である。

 堀1の西側一帯が「西城」と呼ばれている。西城は地勢が一定しておらず、その中央付近に源氏塚と呼ばれる古墳がある。この古墳は櫓台か何かとして利用されていたものであろう。これは高さ6mほどもあるかなり大きな塚で、城内ではやたらと目立っている。ちなみに、源氏塚の上部分には方形の窪みがあった。窪みの大きさからして、狼煙台であった可能性がある。

 西城の南側は畑地となっているが、北側の下は薄暗い墓地になっている。西城自体もヤブになっているので、その先の薄暗い部分にある墓地というのはちょっと心寒くなるような光景である。ただし、この墓地にはそうとう古い墓もあるので、城のあったころから墓域として存在していた可能性もある。
 西城から北西側にかけては二本の尾根が張り出している。二本とも幅広であり、郭として使用されていた可能性が高いが、いずれも自然地形の部分が多く、削平はいまいちである。ただし、堀1に近い側の尾根は先端が切岸加工されており、そこまで城域に取り込もうとしていた意図は明白である。また、堀4の先の尾根も、先端が物見台状になるなど、人工の跡が見られる。
 堀2の先には3郭がある。この郭の周囲には横堀状の地形が見られるが、外側の土塁の高さも低く、それほど明確な横堀ではない。それでも、こういう遺構をみると、やはり戦国期の佐竹の城であるのだ、という気分になるから不思議なものである。
 堀7の先が4郭で、ここは宅地化されており、かなり広い郭となっている。この4郭の先に堀8がある。この堀8は、深さは現状では2mほどしかないが、幅は15mほどもある。もともとはもっと深い堀であったのだと思う。あるいは、水堀だったのかもしれないが。
 このように馬坂城にはかなりの規模の堀が残されており、城の面積そのものもけっこう大きい。戦国期の佐竹氏の重要城郭であった、とするのが一番もっともらしい解釈であろう。

 さて、この城は佐竹氏発祥の城であるといわれている。しかしよくよく調べてみると、この城の起源は佐竹氏によるものでもなさそうである。これまで知られている、佐竹氏と馬坂城との関係を整理してみると・・・・。
@平安時代の末期に藤原氏系の天神林氏がこの地に居館を設けていたが、長承2年(1133)、新羅三郎義光の孫、佐竹昌義が奪取して、自分の居城とした。
Aその後、佐竹氏が現在の常陸太田に移ると、この城には稲木氏が入城した。
B応永年間の山入の乱に際して、稲木義信は稲木城に篭って抵抗したので、佐竹義憲が稲木城を攻めて落城させているが、その稲木城というのが、この馬坂城のことだといわれている。
C佐竹氏14代義俊の子、義成が永享年間にこの地に居住し、天神林氏を名乗り、山入一揆に加担して、佐竹本家にそむいた。しかし、佐竹義舜が大田城を回復すると、天神林氏は、義瞬に攻められて没落した。
Dその後、馬坂城が維持されていたかどうかは明らかではない。

 といったことになるが、上の@〜Dの項目すべてが、この城に関連していたものかどうか、実際のところは不明である。平安時代末期の天神林氏の居館や稲木城がこの城であったということについて、伝承以上に明確な根拠はない。ようするに天神林地区や稲木地区で、城らしい城というのがここくらいしかなかったので、すべてが馬坂城と関連して説明付けられているように感じられるのである。確かに、平安時代末期から、この地に居館があり、それが時代の変遷とともにしだいに整備されて現在の城址のようになったと見ることも可能である。しかし、平安時代の居館が馬坂城のようなしっかりとした城であったはということはありえないし、そもそもその時代の居館がこのような台地上に存在していたのかどうかも不明なのである。

 応永年間の稲木城攻めについては、史料の上でも何度もはっきりと出てくるが、その時代の城が、現在の馬坂城のような規模であったとも思われず、「稲木近くで城の遺構が残っている城」=「稲木城は馬坂城であった」と結び付けていいのかどうかにも疑問が残る。稲木地区は隣接しているとはいえ、隣の地区であり、実際には稲木地区のどこかに古い城址が埋もれている可能性も否定しきれない。

 といったように考えてくると、上記の@〜Cの事件が、すべてこの城にまつわるものであったのかどうかについては、よく分からないといった結論にならざるを得ない。稲木氏の稲木城であったのに、その名称が失われ、馬坂城になってしまったというのも、なんとなく不自然である。

 少なくとも遺構面から見るこの城は、それほど古い城とはいえないと思う。Dの記述にもかかわらず、戦国末期に構築され、大田城の南西を守る重要な城郭であった、といったものだったのではないだろうか。

南側から見た馬坂城。比高20mほどの台地上にある。 一番台地基部側にある堀8。かなり埋められて浅くなってしまっているが、幅15mほどもある大きな堀であった。
御城の北東側にある堀7。これも幅10mほどもある。堀底に家が建ち、だいぶ改変されているようだ。 御城は一面の畑地であり、その中央に城址碑と案内板が建っている。
堀1から御城の城塁を見た所。深さ4m、幅8mほどの堀である。 西城にある源氏塚。古墳を利用した櫓台であったようで、頂上部には8m四方ほどの空間がある。中央部が窪んでいるのは、狼煙台として利用されていた跡であろうか。
西城の西側下には墓地がある。こんな人の来ないような寂しい所にある墓地というのもかなり不気味である。墓地の中にはこのような古い墓もある。もしかして佐竹氏関連のものであろうか。 3郭との間の堀2。切通しの通路として使用されているようだ。
堀3が竪堀となって落ちている部分。もっとも竪堀というよりも、通路と見た方がよさそうな気もする。 堀3は横堀である。といっても、それほど明瞭なものではないが、この写真の部分などはそれなりに横堀らしく見える。
堀切5。城内最大の深さの堀切で、御城側は高さ10mほどの切岸状になっている。ヤブもひどく、かなり注意してみないと気がつかない堀切である。 堀切6の底部分から御城の城塁を見上げた所。高さ7mほどはあろうか。
馬坂城のすぐ東側にある佐竹寺。馬坂城にはまったく人が居なかったが、ここには参拝者が何人かいた。藁葺きの瀟洒な本堂である。境内の大銀杏の紅葉がきれいであった。 本堂には実にたくさんの御札が貼られている。由緒ある寺院ならでは、という感じだ。
〈以前の記述)馬坂城は佐竹城とも天神林城とも言われているが、太田城に移る前の佐竹氏の本城であったという。太田城の西南3kmほどの比高20mほどの台地上にあるが、さほど険しい台地ではなく、要害性はそれほどでもなかったらしい。台地の南側の脇道から上がっていくと、馬坂城入口の案内板があり、ここの石段を登っていくと写真の本丸に到達する。この郭の他に東西に一郭ずつ、合計三郭を横に配列した構造であった。この郭の奥に行くと削り落としたような斜面が残っているが、台地の大部分は宅地化されているので、遺構は必ずしも明確ではない。




馬渕館(常陸太田市馬場町)



峯山館(常陸太田市磯部町字峯山)

 峰山館は国道349号線のバイパスのすぐ右手にある。磯部の交差点の東側に見える独立台地で、すぐにそれと知ることができる。標高は32mあり、その山頂には五十部神社がある。神社の入口には写真のような標柱が立っている。

 裏側の解説によると「柳橋屋敷とも呼ばれるとある。館主ははっきりしないが、「正長元年(1428)山崎出羽守、峰山城を討つ」との記録があるという」とある。何の記録に残っているのかは書いていないので、根拠のある話かどうか分からない。


 この峰山は、東西にかなり細長いので、石段を少し上がり、平らになった道を進み、また石段をあがり、道を進み、というのを5段階ほど繰り返して進む。右側は土手が高くなっているが、いわゆる土塁とは違うようだ。最後に8mほどの高さの土手を上がると神社の建物がある平坦地に出る。50m四方くらいか。周囲に土塁はないが、周辺は削り落としの崖になっている。しかし、削り落としの部分はそんなに高くなく、削り方も甘い。戦国以前の館といった感じがする。


 神社の奥に平坦地は続き、道もついている。ここを50mほど進むと低い土塁Aがある。高さ50cm、幅も1.5mほどしかないが、中央部が切れており、平虎口の形状をしている。なんとなく外側がくぼんでおり、空堀の痕跡とも見られなくはない。脇も竪堀のようにも見える。虎口にしても小さなもので、土塁によって防御するというよりも、この上に柵か何かを立てていたのであろう。

 その先にBの切り通しがある。これは堀切というよりは、あくまでも切り通しの通路なのであるが、ここから先は自然地形のままのようで郭外といっていい。となると、この切り通しが、実質的には城域を区画する堀切であった可能性もある。


 『城郭体系』には「戦国時代の創建で、土塁等が残っている。」とあるが、その土塁とはここのことか。しかし、規模の小ささから考えると、少なくとも戦国後期まで使われていたとは思われない。やはり中世前期の居館跡といった趣である。この平虎口の先は台地が下っているようである。城域はここまでであろう。








八百岐館(常陸太田市瑞龍町)



 

天神林の稲村神社(常陸太田市天神林) 

 馬坂城の所で、「天神林氏や稲木氏の古い城が馬坂城のことであるかどうかははっきりせず、他に城館跡がどこかに埋もれている可能性がある」といったことを書いた。実は以前アオ殿に「天神林の稲村神社は城館跡のような雰囲気がある」と聞いていた。さらに、地形図でこの神社を見ると、かなり細長く突き出した枝状台地の先端部に位置しており、地形から見てもいかにも城館を置きそうなところであり、いつか見に行ってきたいと思っていた。というわけで、馬坂城を再訪したついでに寄ってみたというわけである。

 神社のある尾根が台地と接続している部分は、地勢が急に低くなっており、堀切を入れたくなるような場所である。現在は埋め立てられて駐車場などもあるが、その辺りに鳥居が建っている。

 その先、切り通しの道が奥に続いているが、進んでいくと一軒の廃屋があり、そこから先が、Dの土橋状になった部分と接続している。Dは両側を削って土橋状にしたのではないかと思われる部分であるが、さらに堀切をちょっと入れれば簡単に台地基部と分断を図ることのできる場所である。

 その先が稲村神社の境内Cである。神社境内は長軸30mほどの平坦地で、先端近くであるのに地勢が高くなっているのは、人工的に土を盛ったからであると思われる。

 さらにCの先には、3mほど低くなってBの平場がある。その先端はAの塚状の高まりとなり、そこに甲子の祠が祭られている。

 Cの部分もBの部分も、周囲は切り立った斜面になっているのだが、Bの北東側だけは、すり鉢状の緩やかな斜面になっている。よく見るとすり鉢状のくぼんだ部分には道が付けられており、裏参道のようになっている。つまり、この部分は虎口であった、というようにも見られる。

 このように見てくると、稲村神社は、確かに城のような雰囲気を持った地形に存在している、といっていい。ただし、上記のものはすべて、神社造成にまつわる加工というように見ても矛盾はしないものばかりである。したがって、本当にここが城館であったのかどうかについては、確かに言えることはないのだが、アオ殿がいうように城館的な雰囲気を持つ場所であるのだけは確かであるといえる。古い時代の天神林氏の城館がこの地にあった可能性について、いろいろと考えてみたいところでもあるが、以上のことについてはきちんとした証拠はなにもない。

 稲村神社はかなり古い神社である。「延喜式」「続日本後記」「日本三代実録」などにも載っている神社であり、古く、ヤマトタケルが東方征討にやって来た際に、天神7代他の神々を間坂等六箇所に祭ったのがその始まりだという。しかし、この話はどうもうさんくさい。ヤマトタケルの時代に天神社があったものだろうか。その後、はるかに時代は降って、江戸時代の元禄年間、徳川光圀がそれらを合祀して、稲村神社を建立したという。したがって、現在の稲村神社の創設は、近世に入ってからのことということになる。つまり、中世においては、合祀される前の神社がこの地にあったかどうかも定かではなく、当時は神社ではなく城館であったという想像も、あながちありえないことではない、といえそうだ。

神社入口の駐車場辺り。台地側からすると一段低くなっていて、堀切を入れたくなる場所である。 Dの土橋状の部分。先端の6mほど高くなっている部分が、稲村神社の境内である。
神社背後の平場Bにある虎口。 平場Bから見た神社。

 




 

西河内(にしごうと)館(常陸太田市西河内上町)

 

 ラフ図の作成に際しては、Pの遺跡侵攻記を参考にした。

 西河内地区は国道からかなり入り込んだところにある隠れ里のような場所であるが、この西河内の集落の一番奥にそびえている比高50mほどの山稜上に西河内館が築かれていたという。集落奥の道に入り込んで行った先の、墓地への入口のコンクリートの道が付けられているところの上の山である。

 登っていくと、山頂部には、予想以上に大きな空間が広がっていてちょっと驚く。これが城郭であるとしたら、核となる部分は2か所に分かれる。1つは山頂部分の削平地1であり、周囲にはさほど堅固ではないながら、切岸加工を行ったような跡が見られる。ただし、城郭遺構としては規模が物足りない。あまりねんごろに築城工事を行っていないという印象である。それでも1郭の北側の尾根続き方向には腰曲輪と切岸とが見られ、小規模な加工ながらも城郭らしい雰囲気を醸し出している。

 もう1つは1郭から南西側に延びている2本の尾根の間部分2である。この内部の谷戸状部分は、自然地形のままであるならかなりの傾斜地形となっているはずであるが、しっかりと削平されて、2段の平場となっている。ここが城内最大の郭ということになる。

 ただし、内部には杉が植林されているので、植林作業の際の改変が多少はあるのかもしれない。

 これだけの城館である。堀切も土塁もなく、実に古態を感じさせる城館であるが、それなりの人数が籠城できるだけの規模はある。この地域の集落の人々が、緊急時に立てこもるために築いたものであったろうか。








南側から遠望する西河内館のある山。ここからの比高は50mほどである。 南側の道路沿いにある墓地への入口。これをそのまま登っていけば、城内に到達する。
1郭北側下の尾根から1郭の城塁を見たところ。ちょっとした切岸になってはいるが、加工はかなり甘い。 2の平場の両端には尾根があり、天然の土塁となっている。内部には結構な広さがあるが、植林されていることもあり、その際の改変も考えられる。




白羽(しらわ)要害(常陸太田市白羽町字要害)

 ラフ図の作成に際しては、Pの遺跡侵攻記を参考にした。

 白羽要害は白羽町にある天良波神社の東側にそびえる比高200mほどの独立山稜に築かれていた。遠くからでも目立つ山なので、どこが要害なのかはすぐに見当が付く。道があるのかどうかは分からないが、天良波神社のところから尾根伝いに登っていけば、やがて城内に到達できるとのことである。地図を見ると、城まで比高130mほどの辺りに林道が通っている。車で通行できる道かどうか確認していないのだが、これを利用できれば、かなり比高差を稼ぐことができそうだ。

 ただし、この日、雨上がりで山中がまだひどく濡れていたために、上まで登っていくことができなかった。したがって、ラフ図はPの遺跡侵攻記に頼ったものである。再訪する機会があったら、ちゃんと描き直してみたいと思う。

 山頂部はそれほど広いものではないが、それでも削平することによって2つの郭とそれに伴うテラス状の郭をいくつか配置している。ごくごく単純な構造であり、比較的古い時代に築かれた城郭であったものと思われる。

 ただ、眺望がよく利いてそうで、逆に言えば、この山に旗指物などを建ち並べておけば、どこから見てもそこに1勢力が立てこもっていることが一目瞭然に理解できる。そういう象徴的な使用のされ方をした要害であるのかもしれない。


















  













 

 





















大竹屋旅館